第191話 焦慮
武田家があっけなく滅び、信長の甲斐入りは視察旅行のような戦闘色の薄いものとなりました。
信長は旧武田領の戦後処理のかたわら、特定の家臣をねぎらう姿を見せました。
ただ、それが別の重臣に重大な迷いを与えることになろうとは、信長だけでなく誰もが想像もできないことでした。
「五郎左(丹羽長秀)、そちや久太郎に暇を許すゆえ、草津で湯治せよ。」
「ありがたき幸せ。」
「うむ。そちには近々大いに働いてもらわねばならぬ。英気を養ってくるが良い。」
「はっ?ははっ。」
躑躅ヶ崎館跡に急きょ造営された御座所において、織田信長は旧武田領の支配に向けて後始末を行っていた。
とは言え、1ヶ月近く先に甲斐入りしていた嫡男の信忠が勝頼一行の捜索のかたわら禁制の発給や投降してきた国衆らの応対を行っていたため、その残務処理の色合いが強かった。
それらを終えた後、信長は富士山を眺めつつ、これまた新たに織田の勢力圏に加わった駿河国の状況を見ることを表明していた。
すでに軍勢も解散していたが、進みやすい東海道を通って帰ることにしたのだ。
その一方で、信長は丹羽長秀らに休暇を与えて草津温泉に湯治に行かせた。
これまでの労をねぎらうためかと思われたが、必ずしもそうではなく次に控える大仕事を前に英気を養うようにとの心遣いだった。
(はて・・・次なる大仕事・・・!?)
その場にいた者はみな一様に疑問を抱いた。
丹羽長秀に与えられる新たな任務とは何なのか。
安土城の造営が終わり、長秀は現在所領である近江国佐和山領と若狭国の統治に専念している。
同格である他の重臣たちと比べれば、「遊んでいる」状態と言っても良かった。
長秀の現状を考えれば、長期にわたる新任務が与えられる可能性は高かった。
(四国攻めではないか・・・。)
満座の中で、そのような予想をする者があった。
丹波・丹後両国平定後、追放された佐久間信盛にかわって旧幕府奉公衆など畿内の諸勢力を寄騎とし、「近畿方面軍」の司令官の地位を占めつつあった惟任日向守光秀(明智光秀)だ。
ただ、光秀の予想はむしろ危惧と言うべきものだった。
昨年の末から織田家の対四国戦略は大きく変化しつつあり、光秀は不安をつのらせていたのだ。
その不安とは、ひとつはこれまで自分が担当していた四国の取次の役を失うのではないかということ、もうひとつは長年懇意にしてきた長宗我部家の待遇が悪化するのではないかということだ。
現在の織田家は相変わらず周囲に敵を抱えているが、元亀や天正の初期と異なり軍事上圧倒的な優位を築いている。
西は羽柴秀吉が毛利家を向こうに回し、優勢に戦いを進めていた。
鳥取城を攻略した後、同盟国である宇喜多家の領国を越えて備中への侵攻を準備しつつ、大阪湾や播磨灘の制海権を奪うべく昨年末には淡路国(現在の兵庫県淡路島)に派兵していた。
北では柴田勝家が上杉家の弱体に乗じて加賀・能登を制圧し、越中に地歩を築いていた。
勝家は上杉軍の頑強な抵抗や越中に根深く残る一向一揆に悩まされながらも、その支配域を確実に広めていて、武田家滅亡時に上杉軍が積極的な支援を行えなかったのは勝家の「北陸方面軍」の存在が大きかった。
東は新たに上野国を与えられた滝川一益、駿河国を与えられた徳川家康が主翼を担い、関東以東の諸勢力に対して睨みをきかせる体制が今回構築された。
もちろん、その総責任者というべき地位には織田家の現当主である織田信忠が就く。
この方面には旧武田領の安定化という優先事項があるため、すぐの軍事行動は想定されていないが、今後東国で織田家に敵対する勢力が出現すれば拡大した「信忠軍団」が対応することになる。
このように見ていくと、現在担当者が決まっていない戦域はひとつしかない。
四国がそれだった。
元々、四国と言えば長年最大の勢力を誇っていたのは四国東部(阿波・讃岐・淡路の各国)を支配する三好家であった。
織田政権誕生前に畿内で勢力を持っていたのが三好長慶の三好家であり、四国東部はその後背地として兵員や物資を供給する大事な地だった。
その重要性は三好家が京から追い出された後はさらに高まり、摂津へ上陸してくる三好軍は四国東部を策源として軍事行動を行っていたのだ。
ところが、三好家を支えた篠原長房の死後、三好家は衰微し始める。
讃岐における支配が緩み始め、ここ数年は阿波も土佐からの断続的な攻撃を受けるようになっていた。
目下のところ四国における台風の目となっているのが、その土佐国を統一し日の出の勢いの長宗我部家だった。
元々土佐の有力国衆ではあったものの特に国内において抜きん出た存在ではなかったが、現当主の長宗我部元親の代になって本山・安芸といった有力国衆を打倒して勢力をのばし、ついに主筋に当たる土佐随一の名門・一条家を追放して一国を支配下に置いた。
その後は衰退した三好家の領国である阿波・讃岐両国や河野家が守護を務めているものの西園寺家など有力国衆が割拠する状態にある伊予国へ攻め込み、今では四国の半ばを手中に収めたと言っても過言ではなかった。
この長宗我部家と織田家は良好な関係を維持してきた。
そして、その端緒から関係の維持に努力してきたのが、織田家における長宗我部家の取次(外交窓口)を担う光秀だった。
長宗我部元親の正室は旧幕府奉公衆の石谷家の出だが、石谷家は美濃土岐家の支族であった。
同じく土岐家の分家で奉公衆であった光秀と石谷家の関係は元々浅からぬものがあるうえに、現当主の石谷頼辰は婿養子であり、その実弟は光秀の重臣・斎藤利三だった。
このため、共通の敵である三好家に対抗すべく長宗我部家は光秀を頼りにしたし、光秀は自然四国方面の担当者のような扱いとなっていた。
だが、その様相が変化し始めたのが、昨年の秀吉による淡路攻めだった。
これまで四国への渡海など考慮すらできなかった織田軍が、四国へ指呼の間にある淡路国を制したのだ。
秀吉の主目的は制海権の奪取と海上輸送の円滑化にあったが、淡路が織田家の支配に帰したことは長宗我部家をはじめとする四国の諸勢力に緊張をもたらした。
また、信長の対四国戦略が変化し始めているのも気がかりだった。
それまで信長は三好家と対抗する長宗我部家に慈顔を向け、その勢力拡大を支持してきた。
ところが、三好家が決定的に衰退し、パワーバランスが大いに崩れると、長宗我部家の拡大を歓迎しなくなってきていた。
北条家に対してもそうだが、信長はすでに他の友好国を同格の存在とは見なさなくなってきていた。
徳川家のように従属させる存在として扱い始め、それらの家が現状以上に拡大することを望まなくなってきたのだ。
信長は衰えた三好家を阿波北部と讃岐を領する勢力として温存し、長宗我部家には土佐と阿波南部のみの領有を認める姿勢を打ち出していた。
これに照らせば、長宗我部家は伊予・阿波・讃岐で得た領土の多くを放棄せざるを得なくなる。
長宗我部元親は当然難色を示し、間に立つ光秀は両者の仲を取り持つべく奔走していたが、芳しい結果は得られていない。
このような状況下で、光秀は自分の地位が揺らぐ恐れを感じていたのだが、それが現実になるのではないかと考えたのだ。
実際、信長は光秀を四国担当から外し、三男の神戸信孝を主将に、丹羽長秀を副将にして四国遠征を行おうと考えていた。
光秀には佐久間信盛に代わる存在として畿内の安定という大仕事を任せるつもりでいたのだ。
なるほど、畿内を治める仕事は重要な任務ではある。
しかしながら、いまだ野心にあふれる光秀にとって、四国担当から外されることは耐え難いことだった。
「予備役」に入れられたかのような後方任務ではなく第一線で働き、さらなる功績を積み重ねることで、今以上に出世することを諦めていなかったからだ。
(四国の取次の役目、上様はわしからお取り上げになるであろうか・・・。もし取り上げられれば・・・わしの居場所は向後の織田家にあるのか・・・。)
物見遊山のような陣中の中で、ただ光秀だけが焦慮に駆られていた。
そしてそれは不幸にも実現し、光秀自身だけでなく主君の信長にも大きな影響を与えていくのだった。




