第1話 スポットライトの影で
国宝・犬山城を臨む城下町に、初夏の風が吹き抜けていた。
県立犬山北高校の旧校舎三階にある音楽室。そこが今年、新設された「舞台芸術部」の活動拠点だった。
西日が射し込む放課後の室内に、グランドピアノの澄んだ音が響く。鍵盤を叩くのは、今年度からこの学校に着任した音楽教師、益田塔子(29)だ。
「……はぁ」
一曲弾き終え、塔子は小さく息を吐いた。鍵盤に置いた自分の指先を見つめる。
十年前、彼女はこの指でマイクを握り、何万人の大歓声を浴びていた。国民的アイドルグループ『ルミナス・ガールズ』。そのメンバーとして駆け抜けた日々は、今ではどこか遠い夢のように思える。
(私はもう、あそこには立てない)
声を失い、逃げるように芸能界を去ったあの日の記憶が、胸の奥をチクリと刺す。教職を取り、落ち着いた日々を手に入れたはずだった。しかし校長に頼まれ、成り行きで引き受けてしまった「舞台芸術部」の顧問という立場が、途絶えていたはずの舞台への情熱を静かにくすぶらせていた。
ガラガラ、と音楽室の扉が開いた。
「先生、お疲れ様です!」
元気よく入ってきたのは、2年の大野隼人だ。運動神経抜群で、今日も汗を拭いながら独学のストリートダンスのステップを踏んでいる。
続いて、分厚いノートを抱えた2年の神谷悠真が「失礼します……」と控えめに入ってきた。彼は脚本担当で、すでにノート何冊分もの物語を書き溜めている文学少年だ。
さらに、元バレエダンサーで3年の白石玲奈が優雅な立ち姿で現れ、1年の安藤蒼は早くも音楽室の照明設備をまじまじと観察し始めている。
不揃いだが、どこか熱量を持ったメンバーたち。だが、塔子には一つだけ気がかりなことがあった。
音楽室の隅、譜面台の影に隠れるように立っている少女——1年の水瀬結衣だ。
「水瀬さん。今日のパート、少し歌ってみる?」
塔子が優しく声をかけると、結衣の肩が跳ねた。
結衣は中学時代、合唱部のコンクールで声が出なくなるという失敗を経験していた。それ以来、人前で声を出すことが恐怖になっていたのだ。
「あ、私……その、やっぱり声が……」
握りしめた結衣のスカートの裾が、細かく震えている。
「無理しなくていいよ」
隼人が明るく笑いかけた。「最初はみんな緊張するって! 俺だって、人前で踊ると最初は足ガクガクだもん」
「隼人くんのダンスはただの暴れ馬だけどね」と玲奈がクスリと笑う。
「ひどいな玲奈先輩! これでもソウルこもってるんすよ!」
仲間の軽妙なやり取りに、結衣の表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
塔子はピアノの前に座り直し、結衣を見つめた。
「水瀬さん。上手く歌おうとしなくていいの。あなたの声で、伝えたい言葉をひとつだけ乗せてみて」
塔子が静かにポーンと和音を鳴らす。
結衣は深く息を吸い込んだ。胸の奥で、閉じ込めていた感情が暴れる。歌いたい。本当は、ずっと歌いたかった。仲間たちが作るこの温かい空間で、自分の声を響かせたい。
「——♪〜〜」
小さく、けれど透き通った声が音楽室に響いた。
途中でかすれてしまったけれど、それは確実に「歌」だった。
「すごいじゃん、結衣ちゃん!」隼人が歓声をあげる。
「素晴らしい声線です。今の響きなら、物語のクライマックスの旋律にぴったりだ……!」悠真がノートに素早くペンを走らせる。
結衣は驚いたように自分の胸に手を当て、それから小さく、でもはっきりと微笑んだ。
「私……もっと、歌いたいです」
その瞳に宿った小さな光を見て、塔子は胸が熱くなるのを感じた。挫折を知る者だからこそ、誰かの「もう一度」に寄り添えるのかもしれない。
しかし、青春の道は甘くはない。
廊下から、コツコツと固い靴音が近づいてきた。
「失礼するよ、舞台芸術部」
ドアを開けて入ってきたのは、伝統ある演劇部の部長、3年の黒川慎之介だった。その背後には、生徒会長の朝倉蓮も立っている。
黒川は鋭い視線で部員たちを見回すと、不敵な笑みを浮かべた。
「益田先生。新設の部活が文化祭のメインステージを使いたいと言っているようですが……我が演劇部も黙っていられませんね。今年の文化祭の公演枠は一つ。どちらが立つにふさわしいか、生徒会立ち会いのもと『公開オーディション』で勝負してもらいましょう」
朝倉生徒会長が頷く。
「公平を期すためだ。2週間後、全校生徒の前でプレゼン公演を行ってもらう」
一瞬で緊張が走る音楽室。
バレエを諦めた玲奈、裏方に命を懸ける蒼、物語を紡ぐ悠真、踊る隼人、そして声を試される結衣。
「受けて立ちましょう」
塔子は真っ直ぐに黒川を見つめ返し、静かに答えた。
自分自身の過去から逃げるのは、もう終わりだ。この生徒たちと一緒に、最高の舞台を創る。
まだ見ぬ大歓声と、眩しいスポットライトの向こう側を目指して。
彼らの幕は、上がったばかりだった。




