剣術テスト
まだ夜が明けきらない空の下、孤児院の一室で一人、目を覚ました男が一人…フィルだ。彼は長年の習慣で、この時間に完全に目が覚めるようになっていた。窓の外はまだ暗く、世界は青みがかった闇に包まれている。フィルはゆっくりとベッドから起き上がる。
寝巻きを脱ぎ、前日に準備しておいた普段着に着替える。シンプルな作りの上着とズボン、そして丈夫な革靴。全て動きやすさを重視して選んだものだ。服の上からベルトを締め、剣を背負えるよう調整する。
「よし」
小さく呟き、フィルは体を動かし始める。まず首を左右にゆっくりと回し、続いて肩を大きく回転させる。腕を伸ばし、手首から指先まで入念にほぐしていく。
上半身が終われば次は腰。片足ずつ膝を曲げ、足首も念入りにストレッチする。急な動きは避け、体を目覚めさせるように、そして後の激しい動きに備えるように丁寧に行う。
体操を終えると、フィルは机の上に置いてある鞄に向かう。中には既に何枚もの観察記録が綴じられているノートが入っている。新しい紙を数枚足し、ペンを確認する。
これまでの記録を少し読み返し、特に注意すべき点を頭に入れる。準備が整うと、フィルは部屋の壁に立て掛けられたロングソードに手を伸ばす。柄に触れた瞬間、剣から伝わる冷たい感触が彼の意識を更に研ぎ澄ます…背中に剣を固定し、鞄を肩にかける。
誰も起こさない様に外へ出るとフィルは一度深く息を吸う。外の空気は冷たく、肺の中まで澄んでいく感覚がある。彼は山の方向を見据え、まずはゆっくりとしたペースで走り始める。体を温めながら徐々にスピードを上げていく。
(まだこの時間帯だと案外寒いなぁ、もうちょっと着込んでもいいかも)
山道に差し掛かると、フィルの動きは更に慎重になる。足音を最小限に抑え、周囲の気配に神経を研ぎ澄ます。彼が向かうのは、これまでの観察で魔物の出現が確認されている数カ所のポイントだ。
「今日も異常なしかな…」
呟きながらも、フィルの目は真剣に辺りを観察している。魔物の足跡、植物の損傷状況、獣道の使用頻度…全てが重要な情報となる。彼は手帳を取り出し、観察したことを細かく記録していく。
時には茂みの向こうで動く影を見つけ、その動きを注意深く観察する。普段と変わらない魔物の行動なのか、それとも何か異変の兆候があるのか。フィルは一つ一つの動きを見逃さないよう、集中力を保ちながら観察を続ける。
空が徐々に明るさを増し始める頃、フィルは最後の観察ポイントでのメモを終える。今日も特に危険な兆候は見られなかった。数は平常範囲内、行動パターンも通常通りだ。
フィルがこんな事をするのは魔物の“変異種”の対策の為だ、変異種とは稀に出て来る突然変異の魔物であり普通の個体の何倍も強い。そんな変異種が出れば普段来ることもない場所に魔物は逃げて来るので、最悪家族に何かあるかも知れないとフィルは危惧して対策しているのだ。
帰り道にもフィルは観察記録を書き記す。日付、時間、場所、観察された魔物の種類と数、その行動パターン―全てを丁寧に記録に残していく。この記録が、いつか家族を守ることに繋がるかもしれない。そう信じて、フィルは毎日の観察を続けているのだ。
孤児院まで戻ると、持っていた剣を握って庭に出る。明るくなってきたとは言えまだまだ誰も起きてこない時間帯で、フィルしかいない庭はまだ薄暗く静寂に包まれていた。露が草花を潤し、かすかな風が木々の葉を揺らす。その中で、一人の青年が佇んでいた。
フィルは深く息を吐き、手にした抜き身の剣を構え直す。まだ誰も起きていないこの時間、彼はいつものように一人で修行に励んでいた。約90センチの刀身が、朝もやの中でかすかな輝きを放っている。
(今日はアスター流中級のテストだ…いつもより気合いを入れよう)
彼は目を閉じ、再び呼吸を整える。そして、一瞬の静寂の後、鋭い気配が走った。
アスター流「紫閃」
その言葉は囁きのように小さく、しかし確かな意志を持って放たれた。フィルの姿が一瞬にして消え、次の瞬間には空を切り裂く一閃が放たれた。
汗が一滴、頬を伝い落ちる。フィルは深く息を吸い、今度は別の型へと意識を向けた。
アスター流「垂香」
初動の切り上げの動作は余りにも速く、常人の目では捉えることができない。見えるのは、切り下ろされた刀が空気を切り裂く閃光の軌跡だけ。
庭の片隅に咲く紫苑の花が、かすかな風に揺れる。フィルはその動きに呼応するように、新たな型へと移行していく。
アスター流「豊扇華」
剣が空気を切り裂く音が、静寂を破る。まるで扇を広げるように、フィルの剣が円を描き始めた。上段から放たれた一撃に続いて、腰の高さからの水平な一閃、そして斜め下からの切り上げ―それぞれの斬撃が、異なる角度から繰り出される。
技は更に加速していく。剣を振るう度に紫苑の花びらのような光が散り、その軌跡が空間に幾重もの円弧を描いていく。
それは確かに扇のように美しく、そして致命的な死角を作り出していた。上段、中段、下段―それぞれの高さから放たれる斬撃が、あらゆる防御の隙を突き、回避の余地を消していく攻撃のその一つ一つが死角からの一撃を表していた。
フィルは今できる型の最後まで丁寧に動作を続ける。扇のように広がった斬撃の軌跡が、朝もやの中でゆっくりと溶けていく。技の余韻が残る中、彼は静かにロングソードを下ろす。
(このくらいでいいか…もう明るくなってきたな)
周囲の空気が少しずつ明るさを増していく。みんなが起きる時間が近づいているのを感じ、フィルは最後の整理運動を始める。汗で湿った前髪を押さえながら、彼は今朝の修行を振り返る。まだまだ改善の余地はある。特に垂香の切り上げの速度は、もう少し上げられるはずだ。
庭の隅から小鳥のさえずりが聞こえ始める。
新しい一日の始まりを告げる音に、フィルは小さく微笑む。
フィルは最後にもう一度深く息を吐き、"今日も一日、頑張ろう"と心の中で誓う。そして、静かに屋敷への帰路につくのだった。
朝日が完全に昇りきる前、庭には再び静寂が戻っていた。
▲▽▲▽▲▽▲
(流石にこの時間なら誰も起きてないよな)
そう思ったフィルがドアを開けるとレイラが立っていた。
「おかえりなさい」
「あれ?起こしちゃった?」
「いや、勝手に起きただけよ。それと返事が聞こえないわよ」
「返事…?あー、ただいま、レイラ」
「それでよし。今日も朝からお疲れ様、お風呂入れたから入ってきて良いわよ?その間にご飯作っちゃうから」
「いや俺も手伝うよ、大変だろ」
「今日は週1のダグ爺の訓練があるでしょ?いいからお風呂入って休んで来なさい」
「…はーい」
(確かに今日はダグ爺との訓練日だけど、始まるまで時間あるのに…レイラと一緒にご飯作るの楽しいんだけどなぁ…)
「風呂…入るか」
(やっぱりお風呂っていいなぁ…ちょっと残念な気持ちぐらい直ぐに吹き飛ばしてくれるし、そして気持ちいい)
「んー最高」
ちゃぽん。と身体を湯の中に沈めるフィルが魂の抜けそうな声と共に訓練と山の往復でいじめた肉体を一気に解放させる。溶けていくような気の緩んだ表情を浮かべる彼は、湯船から顔だけ出してリラックスしていた。
(最近“変異種”が出てこないなぁ…いつもなら半年に一回が出るんだけど、嵐の前の静けさじゃないといいんだが。今日の訓練はアスター流中級の合格テストだしこんな考え事してる場合じゃないんだけどなぁ)
「おはよぉ〜、フィル兄」
そんな考え事をしてると若干眠そうなライが入ってきた。
「おはようライ、まだ眠いか?」
「なんなら目を覚ます為に入りにきたみたいな感じだなぁ」
「夜まで魔法の訓練してるからだよ、しっかり休めてるか?」
ライはここに来てからずっと“家系魔法”の訓練をしていた。ライは親から勘当されているせいでもう家系魔法の習得が難しい。
家系魔法は基本的に代々伝わる魔導書を読んで習得する魔法だ。それなのにライは昔読んだ家系魔法の魔導書の記憶を頼りに習得しようとしてる、それにライの家の家系魔法はかなり特殊なものである為更に難航している。
(家系魔法かぁ、俺は使えないしなぁ。レトスとルーチェにはいつもお世話になってるし」
「やっと習得出来そうなんだよ、このじゃじゃ馬を…だから止めるわけにはいかねぇ。それでよぉフィル兄に頼みがあるんだ」
「何?余程のことじゃない限り聞くけど」
「今日のダグ爺とのテストさ、俺にも見せてくれよ」
「ん?そんなことか?なら全然いいよ」
(テストを見たいのか…ライはあんまり剣術が得意じゃないから興味はないと思ってたんだけど。ってかいつも勝手に見てきてない?なんか視線感じるんだよなぁ)
「ありがとよフィル兄…」
「ん、じゃあ先出るから早めに出なよ」
「いや、俺も出るぜ」
「じゃあ一緒に行こっか」
▲▽▲▽▲▽▲
食堂に着くと既にご飯が並べられていていた。
「おはようフィル!それにライも」
「おはよう」「俺はおまけか?ルーチェ」
「さぁさぁみんな食べるわよ!頂きます」
「「「頂きます」」」
食事が始まり団欒の時間が始まる話題はフィルのテストについてだ。
「フィルさんは今日テストなんですよね?自信は?」
「フィルなら受かるよ!当然でしょお兄ちゃん」
「うーん…実はあんまり自信ないんだよね」
(毎日練習してるけど上達してるかあんまりわかんないんだよなぁ、ダグ爺は才能あるって言うけど…どこまで信じていいのやら)
「おいおい…大丈夫かよフィル兄、かっこいいとこ見せてくれよ?」
「まぁフィルでも無理な時はあるわ、みんなあんまりプレッシャーかけちゃダメよ?」
興奮するルーチェを始め他のみんながフィルに緊張させすぎない様に宥めるレイラ。この家族は殆どがフィルを尊敬していたり憧れを抱いている、その為フィルと対等に話して助けられるのはレイラしかいない。
「まぁまぁ、頑張るよ」
「でもこれだけは言わせてフィル」
「何?」
気になって席一つ空いた所に座るレイラの方を見た、そして優しくも心配が入った声でレイラは言った。
「頑張って、…帰ったら美味しい料理作って待ってるから」
「レイr」
“ドンっ”
レイラの名を呼ぼうとした時、玄関が叩かれた音がした。
「ん?ダグ爺か?にしては早えけど」
「とりあえず万が一のためレトスとルーチェは一応裏に隠れてなさい…フィルと私が出るわ」
「行こうかルーチェ」 「うん…」
レトスがルーチェの手を握り裏の方へ…
「俺はフィル兄達の方いくぜ」
「分かった、三人で行こう」
▲▽▲▽▲▽▲
(ドクトリン家の追手の可能性もある…。勝てるか?)
考えてる間に玄関前、後ろを振り向きライとレイラに目配りする。
「開けるぞ?」
フィルの手が扉に伸びる。その一瞬、時間が止まったように感じた。背後にいるレイラとライの呼吸が、自分の鼓動と共に耳に響く。
(いや…。勝てるかじゃなくて勝つんだろ、この5年間で学んだ全てを使って守る。レイラ、ライ、レトス、ルーチェ…みんなの笑顔は絶対に守ってみせる)
扉を開ける手に力を込めながら、フィルは心の中で唱える。今までの修行、全ての経験が、この瞬間のためにあったのかもしれないと。
(朝からの魔物調査での疲れは取れた…戦える。最悪でも、みんなを逃がす時間稼ぎはしてやる…)
背後でレイラが小さく息を呑む音が聞こえる。彼女もきっと同じことを考えているはずだ。いつも明るく振る舞うレイラだが、この何年間、誰よりも重い責任を背負ってきた。
(レイラには、もう二度と悲しい思いはさせない)
ライの気配が僅かに左後方で動く。ライの魔法の練習の成果が、この場で試されることになるかもしれない。でも、それは最後の手段だ。ライの存在を悟られてはいけない。
「フィル…」
レイラの囁きが背中に届く。その声には不安と、同時に強い信頼が込められていた。フィルは小さく頷き、扉に手をかける。喉が乾く。冷や汗が背中を伝う。
ゆっくりと、しかし迷いなく、フィルは扉を開く。
そこには…
見知った老人の姿があった。緊張が一気に解けるのを感じながら、フィルは安堵の息を漏らす。後ろを振り返るとレイラとライも安堵の表情を見せている。
「ん?こんな朝っぱらから何をそんなに緊張しておる」
白髪交じりの髪を後ろで束ねた老人―ダグ爺は、その鋭い眼光でフィルを見据えていた。傷だらけの手には、幾多の戦いを経てきた一振りの大剣が握られている。
「ダグ爺かよ!ドクトリン家の追手かわからなくて変に緊張したじゃねぇか…」
「次から早く来る時は事前に言ってね?ダグ爺?」
ライとレイラはちょっぴり怒ってる様子だ…いやだいぶかも。
「ふむ、悪いことをしたな…今日はお前の中級試験…。しっかりと準備運動もして、万全の状態で臨んで欲しかったんだ…」
「いいよラグ爺…でもお陰様で準備バッチリだよ。早くやろう」
「そうか…では出ろ」
「私は裏に隠れているレトスとルーチェに教えてくるから、昼ご飯も作らなきゃだし…」
「俺は見させてもらうぜ」
▲▽▲▽▲▽▲
庭に出たフィルとダグ爺。露に濡れた草が、二人の足元でしっとりと光っている。木々の間を吹き抜ける風が、これから始まる戦いを予感させるかのように、二人の間を駆け抜けていく。見学に来たライとレイラは木陰から、息を潜めて様子を見守っていた。
「フィル、中級の試験は実戦形式で行う。これはあくまで剣術のテストだ…魔法はいつも通り使用禁止。お前が今まで学んできた技の全てを使って、私と戦え」
ダグ爺の声が響き渡る。その声には、弟子を試す師匠としての威厳が満ちていた。
「はい!それにしても今日は斧じゃなくて剣なんですね」」
「あぁ…安心しろ…ただの鉄塊の様なものだ。これでは切れん。お前はそのままでいい…どうせ切れんからな。ではいくぞ」
フィルは構えを低くし、全神経を集中させてダグ爺の動きを観察する。
(初動…此処でやられる訳にはいかない、絶対対応して見せる)
次の瞬間、地面を蹴るダグ爺の姿が消えた。老人とは思えない速度で間合いを詰め、一瞬で懐に入り込んでくる。
「ふんっ!」
ダグ爺の剣が、稲妻のような横一文字で振られる。フィルは剣で弾き流れを変えようとするが、その一撃には想像以上の重みがあった。剣と剣が激突する衝撃で、フィルの体が大きく崩れる。
(っ!強いな...!でも、)
崩れた体勢を必死に立て直しながら、フィルは下段から放たれる高速の剣を繰り出す、それをダグ爺は眉一つ動かさず受け止め切った。剣戟の響きが、庭園に鋭く響き渡った。
「その程度か…?この程度の攻撃では、中級どころか初級にも及第点をやれん」
ダグ爺の冷ややかな声が突き刺さる。しかし、フィルの目に迷いはなかった。
「まだまだ!」
フィルは更に間合いを詰め、流れる様に連続で技を繰り出していく。
「豊扇華」―その名の通り、扇を広げるように剣を振るう技。複数の角度から繰り出される斬撃の連なりは、相手の死角を確実に突く。フィルの剣が空を切り裂く度に描かれる銀色の軌跡は、まるで舞い散る花びらのように美しく、そして致命的な輝きを放っていた。
(豊扇華でも…!やっぱりダグ爺に勝つには連撃で隙を作るしか無いか)
「ほう…!なかなか…」
ダグ爺の表情が僅かに緩む。二人の剣が描く軌跡は、太陽に照らされて幾重もの光の帯となって輝いていた。
木陰で見守るライの目が輝きを増す。フィルの剣術の進歩を誰よりも近くで見てきた彼には、今の攻防が持つ意味が痛いほど分かっていた。これは単なる試験ではない…フィルの、そしてこの家族を守ってきた歴史が織りなす技だ。
「だが…」
ダグ爺の剣が閃き、フィルの渾身の一撃を受け流す。その瞬間、フィルの体が大きく前のめりになる。
(このタイミングで…!)
「甘い」
ダグ爺の剣が、まるで大地を震わせるような重みと共に振り下ろされる。フィルは咄嗟に後ろに跳び、受け流そうとするが…
「この距離、この体勢…終わりだ」
フィルの目が見開かれる。今の体勢では防ぎようがない。しかし
(まだ!)
フィルは咄嗟に剣を横に構えた刹那、剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。
「その判断、よし…!だが…」
ダグ爺の攻撃は止まらない。一撃、また一撃。全てが致命傷になりえる威力の連撃がフィルを襲う。
「くっ…!」
(本当に強い!一発一発が俺の全力以上だ!)
フィルは必死に防戦を続ける。「紫閃」で弾き、「垂香」で反撃、そして「豊扇華」で死角を作る。しかし、ダグ爺の攻撃は常に一手先を行っていた。
「ハァ…ハァ…!」
汗が滝のように流れる。両腕は震え、呼吸は乱れ始めている。朝の調査と此処までの疲労が、じわじわと体に効いてきていた。
(ふぅー落ち着け…落ち着け。ダグ爺に本気を出させるならあ“あの技”を打ち込むしかない、今使える最強の技を)
フィルは残った力を振り絞り剣を握り直し「豊扇華」の連撃を繰り出す。八方向からの斬撃が、まるで花びらのように舞い散る。
「それは見たぞ…」「本当ですか…?」
(この技は…みんなを守る為に作った技)
『豊扇華・極」
大気が震えた、剣を振るう度に銀色の軌跡を描く。本来八方向に広がるはずの斬撃が、まるで光の糸を束ねるように一点に収束していく。今のフィルに使える最強の剣技。ダグ爺といえど当たれば傷を負わざるを得ない一撃!
(どうだ!これなら!)
「お前の全てを見せてもらった…驚いたぞ…フィル」
ダグ爺の体から、これまでとは次元の違う気迫が放たれる。それは獅子の咆哮のような、フィルの気迫を遥かに凌駕する存在感だった。
戦いの熱気など物ともしない、寒気すら感じさせる威圧感。
「だから使うぞ…“技”を…『紫閃』!」
一瞬、世界が静止したかのような感覚。次の瞬間、ダグ爺の姿が消えた。
「なっ…!」
消えたのではない…老人の動きが、フィルの目が追随できないほどの速度に達していたのだ。フィルの渾身の一撃「豊扇華・極」と、ダグ爺の極限まで昇華された基礎技「紫閃」が激突する。
衝撃波が四方八方に広がった。地面に生える草が一瞬で平らに薙ぎ倒され、近くの木々の葉が一斉に舞い散る。
木陰で見守っていたライは思わず腕で顔を覆った。
「ぐあッ…!」
フィルの両腕を激しい震えが、此処までの激闘が更なる負担を強いる。額から流れ落ちる汗が目に入り、視界が歪む。ダグ爺の一撃には、想像を絶する重みがあった。それは単なる物理的な重さではない…何十年もの修練と、数え切れない修羅が生み出した、歴戦の重みだった。
「まだだ…!」
必死に踏みとどまろうとする。しかし、ダグ爺の剣に込められた力は、既にフィルの限界を超えていた。
ダグ爺の剣が銀色の軌跡を描き、フィルごとわざ技を粉砕する。衝撃と共にフィルの体が宙を舞う。握っていた剣が手から離れ、地面を転がっていく。
「ふぅ…終わりだ」
ダグ爺の声が響く中、フィルはゆっくりと立ち上がる。体中が痛みを訴えているが、その目は輝いていた。
「凄い…なぁ…これが“本当の技”…」
「うむ。基礎を極めれば、それは最強の技となる。今のお前には、まだその域には及ばんがな」
ダグ爺は懐から手ぬぐいを取り出し、汗を拭う。
「だがこの年齢では十分、及第点はやろう。中級、合格だ」
「フィル兄!」
ライが木陰から飛び出してきた。普段は大人びた態度を取る彼も、今は年相応の心配そうな表情を浮かべている。フィルの傍まで駆け寄ると、すぐさま体の状態を確認し始めた。
「大丈夫か?怪我は…?」
「大丈夫だよ、ライ。ちょっと折れたくらいで…」
「ちょっとどころじゃねぇだろ!あんなに吹っ飛ばされて…でも最後のダグ爺の技、マジでやばかったな…」
「ああ、心配かけてごめんな。でも合格出来て嬉しいよ」
フィルが立ち上がろうとすると、ライが支えに入る。
「もう…無理すんな。ダグ爺!早く直してやってくれ」
「落ち着け…その程度では死なん」
ダグ爺はそう言うと静かに微笑んでいた。