死。
シオンはリインドの森に生息している魔物は、全て把握していた。奥地に居る遭遇した事のない強力な魔物に関しても、他の冒険者から聞いている。仕事場所の前情報は立派な武器だ。
しかし、このような異様な魔物は聞いた事がない。それどころか、森に限らず今までに聞いた知識のなかにこのような外見に該当する魔物は一切いなかった。新種の魔物か。そう考えるのが妥当だろう。
「ボーゥ……ボーゥ……」
現れた魔物は、声と言っていいのかもわからない不気味な音をあげながら近付いて来る。
こいつが新種の魔物だとしたら、危険過ぎる。何の前情報も無しに未知の魔物に挑むのは、余程腕に自信がなければ自殺行為だ。現にこの魔物は、シオン一人では苦戦する魔狼を、恐らく逃げた三匹全て一瞬にして殺害している。かなり強力な魔物と見て間違いない。ならば、打つ手はひとつ。
「エリス! 逃げ……」
退却をエリスに伝えようとした時、魔物が動いた。近付きつつあるがまだ距離がある、と思っていたのだが、魔物が巨大な右腕を振りかざし、勢いよく振るう。その右腕は、離れていたシオンの位置にまで伸びる。
「!?」
咄嗟に身体を逸らし、迫ってきていた爪を避ける。標的を捉えられなかった黒爪は、すぐに縮み魔物の元へと戻る。腕を伸縮させる事ができるのか。危うく致命傷を負うところだった。
「大丈夫シオン君!?」
「ああ、平気だ。けど、厄介な奴だな」
心配するエリスは、いつでも魔法を唱えれるよう構えている。
伸縮する腕。下手に背後を見せたら危険だ。あの攻撃に対応できないかもしれない。
「逃げるの?」
「そうしたいが、あの腕を避けながらってなると……とにかく応戦しよう。逃げられる隙ができたら退却だ」
喋りながら後退する二人に、一歩一歩歩み寄る魔物。巨体故にその一歩の幅が大きく、二人との距離は確実に近付きつつある。
意を決してシオンが魔物に向かって駆け出す。魔物はすぐに反応し、右腕を振り下ろす。シオンが横に逸れ爪を避けると、魔物もシオンを追って顔を向ける。目があるようには見えないが、とにかくシオンに意識を向けている事は確かなようだ。
その作り出した隙を汲み取り、エリスの手から光が放たれる。
「『聖光矢』!」
打ち出された閃光が魔物の頭部に当たる。だが、先程の魔狼のように貫く事はなく、魔物の皮膚に傷をつけるに止まった。この魔物、相当硬いらしい。
「……ボーゥ」
自らに傷を与えた存在を、エリスを注視する魔物。今度はシオンへの意識が疎かになった。その隙を逃さず、シオンは体重を乗せ魔物の腹のあたりに短剣を突き立てる。しかし、その刃は魔物の肌に傷をつけることすらできずに弾かれてしまう。刃物すら通さない程硬いのか。それどころか、刃自体が欠けてしまった。驚愕しつつも、すぐにシオンは反撃を警戒して魔物から離れる。だが、魔物の意識はエリスから移る様子がなかった。エリスに向かって歩き出しながら、右腕を振り上げる。
「『防壁呪文』!」
エリスに右腕が伸ばされると同時に、エリスが防壁を張る。黒爪は防壁に阻まれ衝撃音を上げる。防壁が壊される事はなかったが、凄まじい威力だった事はこちらからも確認できた。
右腕が魔物の身体に縮み戻ると、魔物は再びエリスに向かい歩みを進める。先程までよりも若干早足だ。すぐに右腕を伸ばさずとも防壁に届く距離にまで近付いた。そして魔物は再度右腕を振り上げ、力任せに防壁に叩きつけた。先の伸ばした右腕による攻撃よりも明らかに威力が高い。大きい衝撃音とともに、防壁に亀裂が走る。もう防壁が持たない。
再び右腕を高く掲げる魔物。急ぎ魔物の元へ駆けるシオン……だが、エリスの表情に焦りは見られない。
防壁を砕かんと振り下ろされる右腕。が、その爪が防壁に到達する直前、防壁自体が空気に溶け霧散した。エリスが自ら防壁呪文を解いたのだ。エリス自身も爪を避けるようにその場を離れる。空振りした爪が地面の木の根に食い込む。魔物が爪を引き抜く隙に、エリスの手のひらに新たな魔術の光が満ちる。
「『断罪十字』!」
新たに発動した魔術は、魔狼を肉塊に変えてしまう程の威力を出した近距離用の攻撃魔法、パニッシュメント。巨大な十字架状の光の魔力の塊が、目の前の魔物に叩きつけられる。
「ボーゥッ!?」
十字架は魔物の胴体を抉りながら後方へと弾き飛ばした。刃物をも受け付けなかった魔物の肉体に、確かな損傷を与えられた。
飛ばされた魔物は血や肉片を撒き散らしながら地に倒れ臥す。
「よーっし! さすが私! エリスちゃん無双待ったなし!」
魔物を吹き飛ばしたエリスが呑気に人差し指と中指でVの字を作りこちらに向けて見せて笑顔を作る。やれやれ、とんでもない魔物だったのは確かだが、こちらの異界人さんはさらにその上を行っていたらしい。
シオンが文字通り刃が立たなかった魔物を難なく倒してみせたエリスに安堵しながら歩み寄る……が、そこで倒れていた魔物が再び動き出した事に気付く。地に伏したまま、右腕だけを持ち上げ始める。エリスはまだその事に気付いていない。
「エリスッ! 危ない!!」
シオンが駆け出すのと魔物の腕が伸びるのは同時だった。その時になってやっとエリスも事態に気付くが、防壁呪文を張るのも避けるのも間に合わない程に黒爪が迫っていた。このままではっ……
「きゃっ……」
爪がエリスに到達するよりも早く、シオンがエリスの身体を突き飛ばす。黒爪がエリスを捉える事はなかった。エリス、には。
「っ…………」
背に伝わる、衝撃。そして、身体の中に何かが入り込んで来る感触。その感触が、胸から抜ける。遅れて、感じる、背と胸の熱……いや、痛み。
シオンの胸元から、異物が。黒く鋭いそれが、突き出している。
思考が事態を理解するよりも早く、後ろに引っ張られる感覚。その感覚は、胸の中で何かが蠢くような感覚に変わり、突き出ていた異物が体の中へと消えて行く。
シオンの背から黒爪が引き抜かれ、胸元に空いた穴から、どろりと勢い良く赤い液体が噴き出し流れ始める。喉の奥から、苦い液体が口に込み上げて来る。
後ろに引かれた勢いのまま、仰向けに倒れる。抵抗する気力が湧かなかった。全身から、力が抜けていったような。
「ーーシオン君っ!?」
エリスの悲痛な叫びが聞こえる。近くにいたはずなのに、その声はやけに遠くに感じた。
「このっ……『断罪十字』!!」
遠くから聞こえる、怒声混じりの呪文。目に入る、光。轟音。それら全てが、まるで現実味を感じられなかった。
「シオン君! 今度こそあいつ倒したから! 待ってて! すぐに治してあげる! 『治癒呪文』!」
暖かく、身体を包む、何か。感じ始めていた寒さを、取り払ってくれるかのような。
けれど、寒さも暖かさも、どこか遠くへ行ってしまう。
声が聞こえる、気がする。
見えているものは、ものは……。
何も……何も。
ああ……暗い……。
何も、見えない……。
何も……。
…………。