帝国の女神。
其処は、アーヴァタウタ大国国境砦。
アーヴァタウタ大国とヴァスキン帝国の国境には、それぞれ砦が設けられている。
徒歩で数時間はかかる距離を間に敷いているが、砦に待機している魔術師の遠見の魔術によって、その境に起きる異変、主に向こう側から接近する存在はすぐに察知できる。そして、如何なる事態にも対処できるよう、多くの兵が勤めている。
アーヴァタウタ大国とヴァスキン帝国の仲はよろしくない。というより、ヴァスキン帝国は他国への侵略に積極的なのだ。故にその国境は帝国からの進撃に備える為、より多く、有能な兵を砦に置いている。
今までにも帝国の兵が国境砦に攻め入って来た事は多々あった。しかしその度に堅牢な砦を盾に兵達は奮闘し、帝国の兵を撤退させてきた。
砦に配備された中隊の指揮を任されているラゴズは、今回も過去の小競り合い同様、そうなると思っていた。
「女神様の為に!」
「女神様の為に!」
「女神様の為に!」
「「「女神様の為に!!!」」」
だが、今回の帝国兵は今までとは違った。
初めて聞く掛け声とともに、信じられない程の士気の高さで突貫してくる兵達に、大国の兵達は恐れ圧され始めていた。
今回進撃してきた帝国兵達の技量は酷いものだった。剣を握ったのはこれが始めてなのではないかと思える程に稚拙。平民等から兵を募ったのだろうか、明らかに素人の集まりだ。
だが、それを補って余りある意志の強さ。味方の死を厭わず、自らの死をも顧みず、とにかく突撃。次々と飛び交う矢に射られ倒れゆく敵兵達。それでもその勢いは止まらない。これが、心ある人間の為せる所業なのか?
彼等が口々に叫ぶ言葉。女神、とは?
世界を創世したとされる七柱の神々の中には、女神とされる神もいる。女神信仰は確かに実在する。しかし帝国の主な信仰対象ではなかったはずだが。何より、戦を仕掛けるのが女神様の為とはどういう事か。
……洗脳。
今の状況の答は、帝国が兵達を死を恐れない駒にする為にそのような非人道的な手段に走ったのが原因ではないか。その考えに辿り着く。しかもそれが女神の名を使ってとは。何という卑劣な。
敵兵の考察はともかく、今はこの状況を打開せねば。砦の一部は既に崩され、内部に敵兵が雪崩れ込んで来てしまっている。ラゴズは自ら前線に立ち、敵兵を屠り自軍の士気を向上させようと試みた。いくら心を無くし死を恐れぬ兵となろうと、国内でも有数の実力者と名高い彼には束でかかろうと敵いはしない。
事実、彼の活躍は目覚ましく、砦に進入した敵兵は次々と彼の一太刀の前になす術なく倒れてゆく。その姿に鼓舞され、味方の兵達も闘志を取り戻し、迫る敵兵を押し戻し始めた。
この砦を落とされるわけにはいかない。ここが帝国の手に落ちれば、進軍の起点にされ取り返しのつかない事になってしまう。何としても死守せねば。
「……通して」
突如、よく通る幼い少女の声が、戦場に満ちる怒声の間を縫って響く。その声は、劇的な変化を齎した。休む事なく進撃を続けていた帝国兵達が一斉に動きを止め、道を開けたのだ。
「女神様……」
「ああ、女神様……」
「女神様……」
そして、開かれた兵達の間を、戦場にはあまりにも場違いな一人の少女が悠然と歩み砦の中へと向かって来る。
白い、少女だ。
髪から肌の色、身に纏うドレスまで、その全てが白に統一された、まだ十にも満たない歳なのではないかと思える程の、幼い少女。唯一こちらを見詰める真紅の瞳が、異様に映える少女だった。
そして、その……美しさ。
「何と……美しい……」
ラゴズは思わず溜息を漏らしていた。この世に此れ程までに美しい者が存在していたとは。神話に名高い、この世で最も美しいと言われている美と芸術を司る美神、イーヴィティア神様にも匹敵するのではなかろうか。
……そうか。帝国兵達が口々に叫んでいたのは、この少女の事だったのか。
女神。成る程、まさしく女神。そう呼ぶに相応しい少女だ。
「あなたがこの砦の兵達の指揮を任されているお方で間違いないかしら?」
少女はラゴズに向かい、にこやかに声を紡ぐ。発せられる声までもあまりにも美しい。
「は……中隊の指揮を任せられております、ラゴズめに御座います」
ラゴズはその場に膝をつき、こうべを垂れ少女に跪く。
……待て。自分は今、何をしている? 彼女は帝国の人間だ。敵国の者を相手に頭を下げるなど……。
自分の行いに疑問を抱くも、見上げた先にある少女の笑みに、その考えもすぐに溶け霧散する。
「この砦、私に譲って欲しいの。宜しいかしら?」
少女の美しすぎる笑みが、声が、心に侵食していく。
「……仰せのままに」
嗚呼、このお方の為ならば、大国への忠義等些細な事だ。
この美しさは、世界の真理だ。
彼女の望むものは、全て彼女のものにならなければならない。
彼女こそ、世界の全てだ。
ーー中隊長、ラゴズは、自身の思考の異常さに気付く事なく、彼女に絶対の忠誠を誓った。
アーヴァタウタ大国国境砦が帝国の手に落ちた事件は、すぐに大国じゅうに知れ渡った。