【外典スピンオフ】戦場の明星
あたしは、明けゆく空に、星を見ていた。夜と朝の境目で、あの星だけが、まだ迷っているみたいに残っている。
何も知らずに輝くあの星は、あたしたちの何を見ているんだろう。
足元の土は、濡れていた。霜でも雨でもない。冷えきらない夜の名残と、別のぬめりが混ざっている。踏みしめるたびに、靴底が、嫌な音を立てた。
血の匂いは、温度を失いかけている。鉄の匂い、焦げた布の匂い、薬草の匂い。昨日のまま、ここに置き去りにされたものたち。
隣で、ジャックが息をしている。浅く、乱れていて、それでも――確かに、生きている呼吸。
鎧は裂け、肩から腕にかけて血が乾ききらない。それでも彼は、立っていた。倒れることを、まだ自分に許していないみたいに。
「……見るなよ」
低い声。怒鳴るでもなく、命令でもなく、ただ、頼むみたいに落ちてきた。
あたしは首を振る。見ているのは、彼の傷じゃない。
「上」
短く言うと、ジャックは鼻を鳴らした。
「……あれが何だって?」
明星は、もう薄くなり始めている。夜に属していた光が、朝に追い越される、その直前。
あたしは答えない。答えは、どこにもない。
ジャックの肩が、わずかに上下する。痛みを飲み込む動きだ。大きな体が、ほんの少しだけ小さく見えた。
「……あいつさ」
ぽつりと、彼は言う。視線は地面に落ちたまま。
「ああいうとこ、最後まで変わらなかったよな」
何が、とも、誰、とも言わない。言わなくても、分かってしまう。
前に出る癖。背中を向けない目。誰かの代わりに、傷を引き受けるところ。
ジャックの拳が、ゆっくりと握られる。
「名前、呼んだらさ」
そこで、言葉が切れた。
呼んだら、崩れる。崩れてしまったら、立っていられない。立っていられなくなったら、この場所に残ったもの全部に呑まれる。
だから、続きを言わない。
あたしも、何も言わない。言わないことは、冷たさじゃない。今は、それが支えだった。
足元には、剣が落ちている。誰のものか分からない剣。柄に残る汗の跡も、握りの癖も、もう読み取れない。
盾もある。割れて、内側の木がむき出しになっている。そこに走る傷を見つけて、あたしは目を逸らせなかった。
そのときだった。
ジャックの目線が、何かを追っている。
「……あいつ?」
彼の口が、そう動いた。声にならない。声にしたら、崩れるから。
「え……まさか?」
粉塵の向こうに、明らかに“動きの違う影”が、見え隠れする。
走り方も、立ち方も、戦場に立つときの――間。
追い求めすぎて、幻覚が見えている。あたしはそう断じて、必死に地面を見る。
でも、ジャックは見続けている。
片頬を、わずかに上げて。唸るみたいに、息を吐いた。
笑いじゃない。怒りでもない。
——行くな。
胸の奥で、誰に向けたのか分からない言葉が浮かぶ。
影は次の瞬間、瓦礫の向こうに溶けるように消えた。
最初から、いなかったみたいに。
「……幻だ」
自分に言い聞かせるみたいに、ジャックは低く呟く。
その瞬間だった。
「……っ、ぁ……」
足元で、掠れた声がした。
倒れていた兵の胸が、かすかに上下している。唇が震え、言葉にならない音を漏らしていた。
「……ここだ」
あたしは膝をつく。
「生きてる」
確認でも宣言でもない。ただの事実。
ジャックの視線が、影から足元へ落ちる。現実へ。
「水」
短い命令。声が、少しだけ急いている。
水を含ませると、兵の喉がひくりと動いた。その小さな動きが、幻を完全に切り裂く。
「……生きてるやつは、置いてけねぇ」
誰に向けた言葉でもなく、自分に言い聞かせるみたいに。
あたしたちは動く。担いで、運んで、戻って。
夜は黒かった。焚き火の煙が低く漂い、風がそれを地面に押しつけていた。
「明日は来るのか?」
乾いた笑い声。すぐ咳に変わる。
ジャックは黙って刃を拭いていた。血は乾くと、落ちにくい。
「あいつ」
誰かがそう呼ぶ。名前じゃない。それでも、全員が同じ方向を見る。
そこには誰もいない。それでも、確かに“いる”みたいだった。
戦いは、勝ったからでも負けたからでもなく終わった。音が減り、叫びが減り、刃がぶつかる衝撃が消えた。
代わりに、鳥が鳴いた。
鳥は、何も知らずに鳴く。星と同じだと思った。
ジャックは最後まで倒れなかった。
血を流し、息を荒くしながら、それでも立ち続けた。
「……まだ、いる」
確認じゃない。決意だ。
最後の一人を引き渡して、ようやく、彼は立ち止まる。
一歩、踏み出そうとして――踏み出せない。
あたしは近づかない。支えない。
ここは、彼が辿り着く場所だから。
ジャックは長く息を吐いて、座り込んだ。
崩れずに。重たいものを、下ろすみたいに。
「……あいつさ」
空を見ないまま。
「俺より小さな体して、 遺したものは……デカすぎんだよ」
語尾が、わずかに掠れる。それでも、崩れない。
名は呼ばない。呼んだら、ここまで保ってきたものが、全部ほどける。
あたしは、何も言わない。
空を見る。
明星は、もうない。
それでも、あたしは見上げる。
見上げるだけ。
それで、今は十分だ。
あたしは、明けゆく空を見ていた。
Fin.
“あいつは、もう居ない。戦場が続いている、If。”




