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透明の心臓【外典】  作者: 水瀬 悠里
Ⅴ【外典】終焉の環

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【外典スピンオフ】戦場の明星

あたしは、明けゆく空に、星を見ていた。夜と朝の境目で、あの星だけが、まだ迷っているみたいに残っている。


何も知らずに輝くあの星は、あたしたちの何を見ているんだろう。


足元の土は、濡れていた。霜でも雨でもない。冷えきらない夜の名残と、別のぬめりが混ざっている。踏みしめるたびに、靴底が、嫌な音を立てた。


血の匂いは、温度を失いかけている。鉄の匂い、焦げた布の匂い、薬草の匂い。昨日のまま、ここに置き去りにされたものたち。


隣で、ジャックが息をしている。浅く、乱れていて、それでも――確かに、生きている呼吸。


鎧は裂け、肩から腕にかけて血が乾ききらない。それでも彼は、立っていた。倒れることを、まだ自分に許していないみたいに。


「……見るなよ」


低い声。怒鳴るでもなく、命令でもなく、ただ、頼むみたいに落ちてきた。


あたしは首を振る。見ているのは、彼の傷じゃない。


「上」


短く言うと、ジャックは鼻を鳴らした。


「……あれが何だって?」


明星は、もう薄くなり始めている。夜に属していた光が、朝に追い越される、その直前。


あたしは答えない。答えは、どこにもない。


ジャックの肩が、わずかに上下する。痛みを飲み込む動きだ。大きな体が、ほんの少しだけ小さく見えた。


「……あいつさ」


ぽつりと、彼は言う。視線は地面に落ちたまま。


「ああいうとこ、最後まで変わらなかったよな」


何が、とも、誰、とも言わない。言わなくても、分かってしまう。


前に出る癖。背中を向けない目。誰かの代わりに、傷を引き受けるところ。


ジャックの拳が、ゆっくりと握られる。


「名前、呼んだらさ」


そこで、言葉が切れた。


呼んだら、崩れる。崩れてしまったら、立っていられない。立っていられなくなったら、この場所に残ったもの全部に呑まれる。


だから、続きを言わない。


あたしも、何も言わない。言わないことは、冷たさじゃない。今は、それが支えだった。


足元には、剣が落ちている。誰のものか分からない剣。柄に残る汗の跡も、握りの癖も、もう読み取れない。


盾もある。割れて、内側の木がむき出しになっている。そこに走る傷を見つけて、あたしは目を逸らせなかった。


そのときだった。


ジャックの目線が、何かを追っている。


「……あいつ?」


彼の口が、そう動いた。声にならない。声にしたら、崩れるから。


「え……まさか?」


粉塵の向こうに、明らかに“動きの違う影”が、見え隠れする。


走り方も、立ち方も、戦場に立つときの――間。


追い求めすぎて、幻覚が見えている。あたしはそう断じて、必死に地面を見る。


でも、ジャックは見続けている。


片頬を、わずかに上げて。唸るみたいに、息を吐いた。


笑いじゃない。怒りでもない。


——行くな。


胸の奥で、誰に向けたのか分からない言葉が浮かぶ。


影は次の瞬間、瓦礫の向こうに溶けるように消えた。


最初から、いなかったみたいに。


「……幻だ」


自分に言い聞かせるみたいに、ジャックは低く呟く。


その瞬間だった。


「……っ、ぁ……」


足元で、掠れた声がした。


倒れていた兵の胸が、かすかに上下している。唇が震え、言葉にならない音を漏らしていた。


「……ここだ」


あたしは膝をつく。


「生きてる」


確認でも宣言でもない。ただの事実。


ジャックの視線が、影から足元へ落ちる。現実へ。


「水」


短い命令。声が、少しだけ急いている。


水を含ませると、兵の喉がひくりと動いた。その小さな動きが、幻を完全に切り裂く。


「……生きてるやつは、置いてけねぇ」


誰に向けた言葉でもなく、自分に言い聞かせるみたいに。


あたしたちは動く。担いで、運んで、戻って。


夜は黒かった。焚き火の煙が低く漂い、風がそれを地面に押しつけていた。


「明日は来るのか?」


乾いた笑い声。すぐ咳に変わる。


ジャックは黙って刃を拭いていた。血は乾くと、落ちにくい。


「あいつ」


誰かがそう呼ぶ。名前じゃない。それでも、全員が同じ方向を見る。


そこには誰もいない。それでも、確かに“いる”みたいだった。


戦いは、勝ったからでも負けたからでもなく終わった。音が減り、叫びが減り、刃がぶつかる衝撃が消えた。


代わりに、鳥が鳴いた。


鳥は、何も知らずに鳴く。星と同じだと思った。


ジャックは最後まで倒れなかった。


血を流し、息を荒くしながら、それでも立ち続けた。


「……まだ、いる」


確認じゃない。決意だ。


最後の一人を引き渡して、ようやく、彼は立ち止まる。


一歩、踏み出そうとして――踏み出せない。


あたしは近づかない。支えない。


ここは、彼が辿り着く場所だから。


ジャックは長く息を吐いて、座り込んだ。


崩れずに。重たいものを、下ろすみたいに。


「……あいつさ」


空を見ないまま。


「俺より小さな体して、 遺したものは……デカすぎんだよ」


語尾が、わずかに掠れる。それでも、崩れない。


名は呼ばない。呼んだら、ここまで保ってきたものが、全部ほどける。


あたしは、何も言わない。


空を見る。


明星は、もうない。


それでも、あたしは見上げる。


見上げるだけ。


それで、今は十分だ。


あたしは、明けゆく空を見ていた。



Fin.

“あいつは、もう居ない。戦場が続いている、If。”


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