第十話『許されない罪』①
凛月と話して、ちょうど一週間が経った日の朝、早くに教室に来た凛月が、ちょっとついてきてと私の手を引いた。
連れて行かれたのは、この時間はあまり人通りの少ない、進路指導室や図書室のほうだった。教室からここの廊下は見えるんだけど、階段を挟んでいるためか人があまり通らない。
その廊下の、より教室から離れた場所まで連れてきて、凛月は立ち止まった。くるっと私のほうに振り返って、決心したようにぎゅっと手を握る。
「先生、あたしこの一週間使って、ちゃんと考えてきたよ」
ほんとっ、とじっと私の目を見据えて真剣に訴えかける凛月。疑われると思っているのか、その瞳には“嘘じゃありません”と書いてあるみたいだ。
「ほんとですか?」
私は、ちょっと驚いた様子で、でもちょっとだけ意地悪に笑った。凛月はむう、と頬を膨らまして、ますますじっと私を見つめた。
この一週間、気まずくて凛月に話しかけることはできなかった。凛月も同じなのか、あまり、というかほとんど話しかけてはこなかった。だから、声をかけられたときはちゃんと話せるか心配したけど、なんら変わりない凛月の様子に私は安心した。
……その真剣な目は、前よりもずっと真っ直ぐな気がするけれど。
「ほんとだよ。正解がわかんないから、ずーっと悩んでたの。でも、わかんなかった」
凛月の言葉に、私はふと首を傾げた。
てっきり、その話を出した時点で、凛月なりの正解を導き出していたのかと思った。だから、わからなかった、という言葉に疑問を抱いた。
「やっぱり、謝ることしかできない気がする。だから、許してもらえないのはわかってるけど、ちゃんと謝る」
それからまた考える、と、凛月はふわりと笑みを浮かべた。いつもの無邪気な笑みよりも、ちょっと大人びた笑顔。決意した表情。
「……じゃあ、六木さんに声をかけてみますね」
私がそう言うと、凛月は大きく頷いてまた笑った。でもすぐに、ちょっと複雑な顔をして下を向いた。
凛月がどんな気持ちでそんな顔をしたのか、正確には分からないけれど、多分この一週間悩んで思ったことがたくさんあるのだろう。ほんとに謝るだけでいいのかとか、他になにかできないのか、とか。
私も、考えてた。けど、分からなかった。誰に言うわけでもないから、分からないから進展がなかった。でも、そうやって悩み続けることが、抱え続けることが、きっと私にできること。
「教室に戻りますか?」
沈黙を破るように声をかけると、凛月ははっとして頷いて、教室へと歩き出す。私は凛月の隣、少しだけ後ろを、凛月を追いかけるようにして歩いた。
恵美が教室に来てから、恵美には放課後などに時間をもらいたいということを話した。
あらかじめ、凛月をはじめとしたイジメっ子たちと話した翌日には、恵美に一週間ほど後に彼女らと話す時間を設けるかもしれない、と伝えてあった。
はじて話したときは本当に緊張した顔をしてた恵美だけど、一週間まったく何もなかったみたいで、今日話したときにはわかりましたと笑っていた。
もしなにかされていたら言ってほしいと、嫌ならもう少し待つけどと聞いてみたけど、恵美はふるふると首を横に振った。
「この一週間、ほんとになにもなかったんです。だから、少しくらいなら、話も聞きます」
頑張って、と付け足した恵美に、私はなにも言えなくて、「お願いします」と軽く頭を下げることしかできなかった。
私も、謝る以外の選択肢は思いつかない。でも、それが恵美の負担になるかもしれない。謝ったところで、恵美が凛月にされたことは消えなくて、恐怖心だって完全にはなくならない。
わかってる、私は、わかってるけど。
話し合いの時間は私と白石先生で決定して、恵美と凛月、それからほか二人にも声をかけた。ただ、三人一緒に謝るのでは意味がないから、時間や日にちをずらして、一人ずつ恵美と話すことになった。
恵美には、申し訳ないことをする。三人一緒に謝れば一度で済む苦痛を、三度与えてしまうことになるから。
でも、どうだろう。三対一の状況もなかなかきついかもしれない。
凛月は翌日の放課後に時間を設けた。あとの二人はその翌日で、それぞれ昼放課と放課後に時間を設けることとなった。
恵美にそのことを伝えると、部活に入ってないから大丈夫ですと、ぎこちない笑みを浮かべていた。
凛月と恵美が話す日の当日、昼放課、教室の隅で学級文庫でも読もうとしていた私のもとに、恵美が来た。
「先生、今日の放課後はどこに行けば……」
こそっと耳打ちするように、恵美は耳元に囁くようにそう聞いてきた。
たしかにそういえば、凛月には話をする教室を伝えておいたけど、恵美にはまだ伝えていなかった。というのも、恵美は私と一緒に教室に向かう予定だったからだ。
「一応、相談室ですけど、凛月さんには先に待っててもらうので、六木さんは私と一緒に行くので大丈夫ですか?」
「あ、なるほど、わかりました」
了解です、と微笑む恵美の手がかすかに震えていた。
怯えているのだろう。無理もない。自分をイジメた人と面と向かって話さなければならないのだから。いくら謝罪されるだけだとわかっていても、目の前に自分を虐げていた人がいるというだけで苦しいものがあるのだ。
私だって、謝りたいと言われたって、彼らと面と向かって話せるか。
まだ昼放課。あと二時間も授業があるのに、恵美はもうすでに緊張からか不安からか手を震わせている。だけど、なにもかける言葉が出てこない。
「恵美ちゃんと先生、なに話してるの?」
ひょこりと顔をのぞかせて後ろから声をかけてきたのはのぞみだった。
恵美とは背の順ですぐ近くだった覚えはあるけど、隣に並ぶと、私と恵美の身長はほんとに大差なかった。むしろ、一緒に見える。
私のほうがほんの少しだけ低いなと、八センチほど高いところから見下ろしながらそんなことを思った。凛月が、私に比べて幾分も小さくて、背の順では前から一、二番目くらいだったのはよく覚えてたんだけどな。
嫌いな子のなにかしらほどよく覚えているものだ。
その理屈からいくと、そのうち凛月のあれこれも忘れていきそうだな。今はもう、凛月に対する感情は嫌いとは別のものになっていたから。
……そもそも私がこれからどうなるかすら、わかんないけど。このままずっとここにいるのか、いつかもとの世界に帰るのか、死ぬのか。
たまにふと、考えてしまう。
もう死んでる説強いよなと、最近はそう考えるだけで気持ちが沈む。きっと、先生として生きていることに、慣れてきてしまったから。こうして生きていくことが、いいなと思えてしまったから。
と、ついつい頭の中を巡らせた思考を隅に追いやって、私は苦笑いをした。私がなにかごまかそうと口を開く前に、恵美がのぞみにニコリと笑いかけた。
「先生との秘密」
ふふっ、と笑いかけた恵美に、のぞみはむっとした。そんなのぞみの後ろから、光と桜子がやってくる。
「えーわたしたちも混ぜてくれないのー?」
「光ちゃんと桜子ちゃん、混ざる?」
「え、わたしは?!」
「ごめんごめん、もちろんのぞみちゃんも」
ぶすっとした光の言葉に、恵美がくすくすと笑いながら声をかけると、はぶかれたのぞみが驚いた声を上げる。それに対して恵美が軽く謝る。
いつの間に、こんな冗談交わすような仲になったのだろう。いつの間に、下の名前をちゃん付けで呼んでいたのだろう。つい先日までは、名字にさん付け、だったのに。
恵美が笑っているのが嬉しくて、胸が苦しくなって、私はつられるように笑みを浮かべる。
……もしあのとき私に勇気があったなら、今も恵美はこんな笑顔を浮かべていたのかもしれない。笑顔で生きていたのかも。
せめて、今目の前にいる恵美が少しでも救われてよかったという気持ちと、取り返しのつかない自分の罪を再確認したことによる罪悪感で、もやもやとする。
いや、まだ良かったなんて思うのは早いな。まだ、終わってないんだから。
「と、冗談はおいといて」
わいわいと話していたのに、恵美が区切りをつける。
「山内さんとの話し合い、今日だから。それについて、聞きたいことがあっただけだよ」
大丈夫、と笑顔を浮かべる恵美。心配そうな表情ののぞみ。それでも、本当のことを言ってくれたことに、どこか嬉しさを隠しきれていないところが、私らしいと思ったりした。
恵美がごまかさずに本当のことを言ってくれた。全部は言えなくても、本当のことを。のぞみと恵美の関係が、良いほうへ進んでいってるのは目に見えていた。
放課後になって、凛月がさっさと教室を出ていったのを確認した。そのすぐあとに、荷物を持った恵美がわたしのほうに駆けてきた。
「山内さんは、もう行っちゃいましたか?」
キョロキョロと教室の中を見廻しながら、おそるおそるといった様子で問いかけてくる。
「はい。もう先に相談室に行ったと思います。多分鍵も開いているはずなので、中で待ってるかと」
放課後に職員室にいる小出先生に声をかけて、六時間目が終わったら相談室の鍵を開けてほしいと頼んでおいた。小出先生が忘れていなければ鍵は開いているから、中に入って待っているはずだ。凛月には中で待っててほしいと伝えたし。
そっか、とつぶやいた恵美はどこか不安そうで、緊張しているのか胸に手を当てて小さく深呼吸をしていた。
イジメっ子と対面する。それだけのことにどれだけの勇気が必要か。私の物差しでしか測れないけど、それでも安易に受けられるほどのものではなく、相当の勇気がいると思う。
私は、会社でイジメられていたとき、ただひたすらイジメっ子たちから逃げることばかりを考えていた。もし謝りたいと言ってきたらどうしたか。きっと、断っていたはずだ。
それなのに、恵美は向き合おうと決めた。凛月からの謝罪を受けると言った。すごい、偉い、なんて一言二言じゃ表せないくらいに立派だと思う。私には、真似できない。
「じゃあ、行きますか?」
心の準備ができているか確認するように、恵美にそっと問いかけた。
恵美は一度大きく深呼吸をしてから私を見上げて、大きく頷いてみせた。
「行き、ます」
自分の言葉ではっきりと、凛月のもとへ行くと告げた。その言葉を聞いて私が相談室に向かい歩き出すと、恵美はそのあとを追いかけるようにして歩いた。
相談室の前には凛月はいなかった。相談室の扉は完全に閉め切られていなかったため、鍵が開いていること、つまりは凛月が中にいることがわかる。
ほんの少しだけ開いていた扉に手をかけて、開ける直前、恵美がすぐ後ろで深呼吸したのに気づいた。
大丈夫かと問いかけようとしたけれど、恵美はそれを察してか強い瞳で私を見つめる。私はそれに答えるように小さく頷いてから、相談室の扉をゆっくりと開けた。
凛月は中央に置かれていた机に荷物をおいて椅子に座っていた。けれど、扉が開くと同時にはじかれるように立ち上がった。
どうぞ、と恵美を先に入れて、丁寧にしっかり扉を閉じる。恵美は凛月の姿に顔をこわばらせて唇を軽く噛んだ。それでも一歩、また一歩と凛月に近づく。
机から離れた凛月は、恵美にしっかりと向かい合う。机をはさむのはよくないと思ったらしく、机のすぐ隣に立っている。
恵美は少しして立ち止まった。凛月との距離は一メートル半くらい。私が両手を伸ばしてやっと二人の肩を叩けるくらいの距離だけど、そこまで自ら距離をつめた恵美を尊敬する。
本来ならできるだけ近寄りたくない相手。近寄れば自分が危害を加えられるかもしれない、危険人物。
それにも関わらず、恵美は必死に凛月と向き合いまっすぐ彼女を見つめている。緊張した表情と見えないように噛み締めた唇、握りしめた拳から、どれほどの勇気を振り絞っているのか想像できる。
凛月も凛月で、今までとは全く違う視線で恵美をまっすぐと見つめた。
「恵美ちゃん…、その、ごめんなさい」




