第56話 致命のことば
「――二人だけ、というのは危なくありませんか?」
不安げにルビアが問い返すのに、ハルは即答を以って応じた。
「アルが居れば大丈夫ですよ。むしろ人数が多くなると護衛対象が増えて、アルの負担が大きくなるだけです」
「じゃオマエは何で?」と、これは緑翡翠。
「私は理由です。アルが抱えている悩みを呑み込んで、今其処に在る脅威に相対するための。あー、」とハルは僅かに天を仰ぎ「あまり言いたく無いたとえですが、騎士に護られるお姫様役ですね」
「似合うな」と、よりによってアルから言われたのは、裏切られたような気にならないでもなかったが。
「そう言われるから言いたく無かったんです。でもこのたとえが一番わかりやすかったんで。親しさからいっても、私が適任でしょう?」
能力的にも、とは言わなかったが、一度『魔法』を見ているアルには伝わったようである。
無彩色であるウィルムハルト=ブラウニングは、精霊の類が相手であれば文字通りの鬼札である。ハルの理由には、アルがなるので問題は無い。二人だけで向かうのは、いざという時にこの切り札を切れるようにする、という意味合いもあった。
――だから。それは本当に想定外だったのだ。
その時教会に避難して来たのは、良くも悪くも見知った顔だった。
深紫菫とその父が、身重の女性を二人がかりで支えて歩いて来る。
三人、特に唯一の男性を目にしたアルの顔が不快気に歪み……火が、灯った。
寄り添って歩く三人のすぐ傍らに、虚空から湧き出すように炎が現出、瞬く間に、言葉のまま、瞬きをするほどの時間で膨れ上がり、無数の色彩に揺らめく炎は、巨躯の四足獣の姿に変じた。
……狼の、姿に。
――侍獣は、主の許へなら無制限に転移できる。
か細く残ったアルと紅蓮との繋がりが、このような事態を招くとは、ハルにも想像できなかった。
ごうっ! と、音を叩きつけるような咆哮は、燃え盛る炎の上げる鳴き声、か。赤ん坊くらいならひと呑みにできそうな大きな口を開け、三人に跳びかかろうとするのを、
「やめろっ! 紅蓮!!」
アルの、悲鳴じみた叫びがかろうじて圧し止めた。
深紫菫の一家は、悲鳴を上げることすらできないでいた。
巨躯の魔狼と、仔犬……いや、仔狼の侍獣の姿が明滅するように切り替わる。
「教会へ! 早く!」
硬直して動けない三人をルビアが促す。
――それは。今夜、彼女が初めて打った悪手であった。
魔獣が、動くものに反応する。大きく口を開けて……
「やめろおおおおおおおおおっ!!」
アルの叫びは、本体である紅蓮には有効であった。
口を閉じ、耐えるようにうずくまる。強引に閉じた口の端からは、お世辞にも綺麗とは言えない、濁った色の炎が漏れた。
けれど。アルが抑えられるのは、赤の色彩だけである。
魔獣の炎の体躯が無数の色彩に輝いた。水の滄、風の蒼、氷の藍、土の橙、光明の黄、閃光の白、樹木の緑、眠りの紫、悪夢の黒、鉄塊の鈍色。ほんの数呼吸で解き放たれるであろうそれは、暴力の嵐だ。戦う者でない、ただの村人には、どれかひとつだけでも致命となり得ることだろう。
ハルたちが心から軽蔑した男は、それでも夫であり、父であったということか、魔獣に背を向け、身を挺して妻と子を庇った。魔獣の攻撃が放たれたなら、無駄なあがきでしかない行為は、けれど、とても、美しかった。
アルの顔が泣きそうに歪み、やめろ、やめてくれ、と繰り返すが、紅蓮も必死に抑えようとしているのがわかるが、それでも威は開放されるべく、徐々に高まって……決断の時が、来る。
――それをすれば、此処には居られなくなるとわかっていた。此処、というのが単にこの村というだけでなく、場合によっては『この世』という意味も含むであろうことも、経験として知っている。知って、理解して、その上で……
ハルは、いつものように微笑んで。
「――やめろ」
致命の言葉を、口にした。
一言。
ただそれだけで、解き放たれる寸前にまで高まっていた威は、跡形も無く霧散した。ハルの髪を覆っていた低級の魂喰いもまた、負荷に耐えかねて蒸発していた。
ゆっくりと、歩み寄る。無彩色の怪物を恐れるように、極彩色の魔獣はじりじりと後ずさる。ハルは途中でめんどくさくなって歩みを止め、まっすぐにその魔獣を視て、天を指差した。
不服を示すように、不入の森の精霊たちは、ばちばちと炎が爆ぜるような音を立てて、ささやかな抵抗をしてみせる、けれど。
「散れ」
明確な言葉で命じると、精霊である以上は抗うことなどできない。無数の色彩が天へと昇り、遥か上空で爆音を伴って大きく散った。黒く染まった雪のような精霊の遺骸は、風に儚く散らされて、地上まで届くことは無く。夜空に咲く大輪の花のようなそれは、ただただ美しいだけのものとして在った。
それは何の役にも立たない、精霊の浪費であった。
このような形を得てしまった以上、元の状態に戻すことは不可能だったので、無意味に消費することを選んだのだ。有効活用するには攻撃性を帯びすぎていたので、何でも良いのでとりあえず使ってしまうことにしたわけである。
結晶化させたところで、タチの悪い魔石がいくつも出来上がって、今度はその処分に頭を悩ませることになるのだから。
夜空を彩る極彩色の花が、いったいいくつ咲いたことだろうか。時間にすればさほどではない、幻想の刻はやがて終わり、地上には、元の仔狼に戻った紅蓮と……恐怖に怯える村人たちが残された。
仔犬だと思っていた動物が実は狼だった、という程度の話ではない。隣人が実は人に化けた人喰い龍だった、というくらいの事態である。
いつかのような歓声は、当然上がるはずもない。真冬に戻ったかのような寒々とした空気だけが其処には在った。
眼が良すぎるのも考えものだ。必死に表情に出すまいとしている、怯えの感情すら、はっきりと視えてしまうのだから。
いつかのそれと比べれば、戸惑いの色彩も多分に見受けられたけれど。恐怖の色彩は、それを塗りつぶすほどであった。
と、それとは異なる感情の色彩が二つ、目に留まった。それはどちらも、恐怖ではなく後悔の色彩で。アルの後悔は、ハルに『魔法』を使わせたことだろう。
――では、蒼緋衣は?
無彩色の怪物に懐いていたことが、それほどショックだったということだろうか。目を伏せ、悔恨に沈む蒼緋衣の様子に、ふとハルは、落胆している自分に気付いた。どうやら自分で思っていたよりも、ずっと彼女に期待していたらしいと、ハルは自分自身を嗤った。
――怪物が、何を勘違いしていたのだろうか。
「帰ります」誰にともなく、ハルは言う「村を出て行くにしても、父さんが帰ってこないことにはどうにもなりませんから」
返事は、誰からも返らない。
髪を覆っていた邪魔な精獣がなくなったというのに、少しも爽快感は無く、むしろ寒さのようなものをハルは感じていた。錯覚に違いないが。
「ハル?」自分の家に帰ろうとしたハルを、アルが怪訝そうに呼び止めた「オレんちはそっちじゃねぇぞ?」
「私の家はこっちですよ?」小首を傾げて当然の答えを返すが、
「は? いや、今日はウチに……」アルはわかっていない様子だ。
「アル。君はともかく、君の姉さんは、怪物と同じ屋根の下で眠りたくはないでしょうから。だから、これで合っていますよ」
未だ恐怖の色彩が消えない彼女に、ハルは視線を向けることはしなかった。わざわざ怯えさせることもない。
「そんなことっ……!」
「アル。君はとても正しくて、優しい。
けれど。誰しもが君のように考えられるわけでは無いんです」
「そんなの……」
言葉が途切れたのは、アルもわかっているからだろう。今、この場で、誰もが息をひそめるように押し黙っていること、それこそが答えだと。
「あぁ、そうそう。怪物退治はやめておくことをお勧めしますよ。どうあっても私には傷ひとつ負わせられない魔獣ならともかく、私を害そうとする人間を、父さんは決して見逃さないでしょうから」
振り返ることをしなかったのは、アルの顔を見たくなかったからだ。ハルが自分を怪物と呼ぶと、アルは決まって痛みに耐えるような顔をするから。
その痛みですら、嬉しく思ってしまうから。
誰も居ない家に帰り着いたハルは、深夜の来客を迎えることになる。
「コイツのことだって、姉さんは怖がるからな」
仔狼の紅蓮を抱いた、アルだった。姉のことは蒼緋衣に任せて来たらしい。もう遅いし、このまま泊まるぞ、と言うアルに対して。
ハルは、上手に笑えた自信がなかった。
色彩の無い怪物は、友のためにのみ威を揮う。
次回「その先に、死が待つのだとしても」お楽しみに。




