第52話 サルビア=バラスンの献花祭
献花祭の贈り物として、最も一般的なのは、左胸の花飾りだ。『こころ』に一番近い場所に飾るという意味で、男性服にはたいてい左胸にポケットがついている。
……のだが。どうにもあのウィルムハルトが装身具を身に着けるというのが想像できず、あれこれと悩んだ末に、ルビアが考えたのは栞に蒼い緋衣草を飾りとしてつけることだった。これならば日常的に使えるし、何より胸元の花飾りをいきなり贈られるよりはいくらか気軽だろう、と。
それでも献花祭までの日々は、ルビアにとってそわそわと落ち着かないものであった。
ちゃんと受け取ってもらえるだろうか。花の色を蒼にしたのはさすがにやり過ぎでは無かっただろうか。頑張ったので形はそれなりに綺麗にできたはず。深紫菫もきっと贈るだろうし……等々。
精霊術教室が冬期休暇に入り、本人と顔を合わせる機会が少なくなった日々の中、不安と期待、自信と、また不安――様々な想いがぐるぐると回り、混じりあって、夜もなかなか寝付けない。それでもその日が来るのにはやはり不安の方が強く、単純に早く来てほしいとは思えずにいた……そんな日々ですら幸せだったのだと、後に想うようになることを、ルビアはまだ知らない。
そして迎えた献花祭当日、教会前の広場にはほとんどの村人が集まり、その種々様々な色彩は、一足早く春が訪れたかのようだった。既婚女性は簡単な料理を、既婚男性は振る舞い酒を配り、新しく生まれた恋人たちを祝福していたが……ルビアは、未だ目的の相手を見つけられずにいた。
ひょっとして深紫菫、もしくはそれ以外の誰かから花飾りを受け取って、早々に帰ってしまったのではないか。そんな不安がふとよぎる。
別に献花は早い者勝ちということは無いが、意中の相手に花をもらって、猶この場に留まる者が居ないのも確かだ。
一度感じた不安は簡単に消えてはくれず、ぐるぐると篝火の周りを歩くルビアは、寒さを感じて半歩火に近づいた。
気合を入れて編み込んだ髪が滑稽で、少し泣きたい気分になってきた頃、「ルビア」と、彼女を呼ぶ声が聞こえた。弾かれたように振り向き、その途中で『彼』は自分をそうは呼ばないと気づき、落胆を顔に出しそうになって、慌てていつもの笑顔を取り繕う。
「――緑翡翠。ウィル君を見かけませんでしたか?」
「……いや。アルならあっちに居たけど」
「そうですか。じゃあアル君に訊いてみますね」
早々に踵を返したルビアは、緑翡翠の泣きそうな顔には気付かなかったが……それは、双方にとって幸福なことではあった。
「あ、居た。アル君!」
傍らで燃える篝火よりも、より純粋な火の色をした少年を見つけ、ルビアは少しばかり大きな声で呼びかけた。呼ばれた本人のみならず、周囲の視線も集めていたが、それにもまた、ルビアは気付かなかった。今日はそういう日だというのに……いや、だからこそか、彼女の目には唯一人しか映らない。
「ルビア?」
アルは串に刺した腸詰をちょうどほおばったところだったので、『ル』の音が『フ』に聞こえた。どうやらこの少年は、色気よりも食い気らしい。
実にらしい話だ。
「ウィル君、知りませんか?」
ルビアの問いに、アルは珍しく言いよどむ。
「あー……ハルなら来てねぇぞ?」
それは予想外ではあったが、考えてみれば納得できる話でもあった。言われてみれば、やんわりと他者を拒絶するウィルムハルトが、このようなお祭りに参加することの方に違和感がある。
ハルが言っていた、とアルから献花祭の本来の意味が求婚であると聞かされたルビアは、途端に持ってきた花飾りが恥ずかしくなって頬を赤くした。なんだって自分はよりにもよって、自分の色彩で花を作ったのか。それに良く考えたらアレは花言葉が……と、内心悶絶しながらも、表情は取り澄ました笑顔を維持した。
ウィルのあの笑顔を、作り笑いだなどと言い切ってしまう相手には、簡単に見透かされてしまうかもしれないが、体裁というものは大事である。
「で、どうする?」
何気ない問いかけが、たった一言で頭を冷やしてくれた。この人はこの人で凄いな、とルビアは改めて思う。端的に、一番大事なことを教えてくれる。
――どうするのか。そんなの、決まってる。
「行ってきます。ウィル君の家へ」
さすがにまだプロポーズをするつもりはないが、それでも決して軽い気持ちで花を編んだのではない。ルビアにとっては一大決心であり、今更引き返すなどあり得ない。最初からそんなもの、選択肢には無いのだ。
宣言に、アルは「そっか」とだけ言ってくれた。
広場を離れるルビアを、最後にもう一度呼び止めて、
「ルビア。頑張れ。」短く、心強い、激励を。
「――ありがとう、アル君。」
決断して、激励されて、歩き出して。だからと言って、不安は消えるものではないわけで。受け取ってもらえなかったら、もう他の誰かを受け入れていたら、そんな、もう何回考えたのかもわからない、飽きるほど頭の中でこねくり回した弱気を抱えて、初めての道を行く。決して軽い足取りではないが、一歩一歩を踏みしめて、不入の森の傍らににある、ブラウニング家へ。
扉をノックする前に、二度、三度、深呼吸して気持ちを落ち着ける。
……あまり落ち着かなかったが。
扉を開けて、顔を出したのがシディで安心したような、ちょっと残念なような。本当に今日は情緒不安定だ、と内心苦笑するルビアに、
「あぁ、ルビアさん。待ってましたよ?」
完全に想定外の言葉が投げかけられた。
「――はい? えっ……?」
「来てくれると思ってました。貴女は、あの子の代わりに怒ってくれるひとですから。期待しているんですよ?」
「期待、ですか?」
「えぇ。あの子はどうにも、ダメな部分が私に似てしまったようで、イロイロと諦めが良すぎるんですよね。アル君と友達になって、少しは改善されたようではあるんですけど……もうひと押し、してくれるのは貴女なんではないかと」
にこりと笑う、その顔は。やはり親子というべきか、とても良く似ていた。
「……想像を絶する期待値に気絶しそうなんですが」
むぅ、と頬を膨らませてルビアは文句を言う。
自分を受け入れてもらうことですら難しいと思っているのに、更に彼に影響を与えろとは。いや、最終的にそうなれば良いとは思うが、やはりいきなりそこまで期待されるのは難易度が……
「ウィルー、お客さんですよー」
「ちょっ……!」
――このヒト性格悪い!
言いたいことだけ言ってさっさと話しを進めるシディに、ルビアは内心絶叫する。それでも表情だけは取り繕おうと、取り、繕おう、と……
「蒼緋衣?」
きょとん、とルビアを見るウィルの視線が、いつもより長く自分の目を視ていて、自然と表情は緩んだ。どうかだらしない顔になっていませんようにと、ルビアは切に祈った。
シディに少し外してもらって、この場で渡すという手段も無くはなかったのだが、それではあまりに風情がない。というかこの父親もそういうつもりらしく、いつの間にか息子の外套を準備していたりした。
腹をくくったルビアが外へ誘うと、存外あっさりとウィルはそれに同意した。理由を訊かれた時にはどうしようかと思ったが、これまた意外にもウィルはあっさり問いを取り下げて外へ出た。
ウィルとどんな言葉を交わしたのか、ルビアはほとんど覚えていない。緊張やら不安やら期待やらで精神の容量はとっくに一杯だった。冷静に考えれば、彼と二人で歩くなど初めてのことで、もういっぱいいっぱいである。
覚えているのはただ、魂がひどく熱を持っていたこと。
教会前の篝火が、遠くに見えてたところでルビアは足を止めた。人が多く集まっている場所に行ってもしょうがない。
最後に一度深呼吸して、彼の名を呼ぶ。
差し出すのは、緋衣草を模して作った花飾りをつけた栞だ。献花の本来の意味を聞いた今では、ひどく気恥ずかしいけれど。
けれど。そんな羞恥は、ウィルムハルトの表情を見て吹き飛んだ。
それはいつもと同じ、とても綺麗な微笑みだった。綺麗で、綺麗な、ただそれだけの表情だった。冷めた、というよりも醒めた印象で。
自分が見ているモノはただの夢に過ぎなくて、唯一彼だけが現実を正しく視ているような、そんなふうに思わせる眼でウィルは言った。
「装身具が欲しいのなら、もっと別のモノにした方が良いですよ?」
何を言われたのか、最初は理解できなかった。続く言葉で、装身具という言葉が、彼自身を指していることまでは理解できた。彼が自分自身の価値を、外見にしか無いと思っているらしいこと、これが理解できない。
そもそもルビアは、その綺麗過ぎる外見を敬遠してすらいたのだ。
戸惑いを消化できずにいる内にウィルが帰ろうとして、ルビアは慌ててその手を摑んだ。これだけは、と叫ぶのは。
「装身具とか、そんなこと考えてません!」
人間は宝石ではない。価値が有るとか無いとか、そんなことに何の意味があるのか。もしも価値の有無で誰かを好きになるような人が居たならば、ルビアは心からの憐憫と嘲笑を贈るだろう。それはとても、とてもつまらない人生だろうから。
「私は……私は、貴方のことが、ウィル君のことが好きなんです!」
――言ってしまった。
これはもうごまかしようがない、けれど。次にルビアが思ったのは、まぁいいか、というものだった。そもそも最初からごまかすつもりなどなかったのだし、たぶん彼にはこれくらいでないと届かない。
「貴女は。いったい、どの程度の覚悟で言っているのでしょう。
悪いことは言わないので、やめておいた方が良いですよ?」
これでもまだ届かない、足りないと言うのなら、もう言葉だけでは無理だ。
ぐっと手を引いたのが、歩き出そうとした瞬間だったのは偶然だが、彼が自分に向かって倒れて来たのはちょうど良かった。逆側の手で肩を支え、顔を寄せる。
とさり、と軽い音を立てて、花飾りの栞が地面に落ちた。
それが合図、というわけでもないが、一瞬だけ触れた唇を離す。
閉じていた目を開けると、ウィルはルビアではなく、その背後を凝視していた。まさか、と思って振り向くと……まさか、よりにもよって、アルが其処には居た。
「――あ、えっ、と……わ、悪い!」
まるで逃げ出すように走り去るアルに、「あ……」思わず、といったふうに手を伸ばすウィル。
「――こんな……」
こんな。その先を彼が口にすることはなかったが、ルビアにはそれに続く言葉がわかる気がした。
――こんな、つまらないことで。
彼は、そう言いたかったのではあるまいか。
彼にとって、親友と気まずくなるかもしれないという事態は、ルビアにキスをされたことよりもずっと、遥かに重大な問題なのだろう。
足下では、彼に贈るはずだった花飾りが土埃に汚れていた。
視点変更の焼き直しは最小限にしました。全部やっても冗長だと思うので。
このエピソードは次のアル君視点で完結(予定)です。