第33話 発症
「えっ……」
その間の抜けた声が自分の口から洩れたものだと、アルは気付けもしなかった。
とさり、と。信じられないくらい軽い音を立てて、姉が倒れたのだ。
精霊術教室の存続が決まった後、昨日は言い過ぎたので謝りたいと、マーガレットの母が随分と殊勝なことを言うので、家まで連れて来たら……こうなった。
反射で姉に駆け寄るアルには、何が何だかわからない。抱き起そうと伸ばした手が、びくりと震えて止まる。不用意に触れてしまったら、致命的な何かが起こりそうで、辛そうに歪められた姉の顔を、ただ見ていることしかできない。
どれくらい、そうしていたのだろうか。不意に――アルの主観的には不意に、肩を叩かれ、振り返るとそこには神父が居た。マーガレット母娘が連れて来たのだろう、というところまで思考が至るのにも、少々時間が必要だった。
「まずは彼女をベッドへ」
神父に言われ、協力して部屋まで運ぶ。ぐったりと力の抜けた姉の体を、寝台にそっと横たえて、摑みかからんばかりの勢いで、アルは神父に詰め寄った。
「なぁ、何があったんだ!? 姉さんは……!」
「この時期にこの症状ならば、ただの風邪だろう。生命力を高める術を使うので、後は安静にしておけば問題ないはずだ」
この村では医師も兼ねる神父が言うのだから、間違いないだろう。まだ動揺を引きずっていたアルは、神父の言葉に含まれる曖昧さに気づけずに、落ち着いて見える大人に全てを委ねてしまった。
それが間違いであったことにはすぐに気づくことになる、けれど。それはとりもなおさず、事態が取り返しのつかないことになった、という意味でもある。
もしもアルが、最初から冷静であったなら、姉が倒れた時点で神父ではなく、ハルをこそ頼っていたことだろう。
苦し気に、不規則な呼吸を繰り返すヴィオラの胸元、中央より僅かに左寄り、心臓の位置に神父の指先が軽く触れる。そこは生命を象徴する部位であるため、治療術を施す時にはなるべく近い場所に触れるのだと、アルは神父では無くハルに教わって知っていた。
神父が治療を始めると、呼吸は浅く、赤かった顔色はむしろ青白く変じていく。
何か、様子がおかしい。そんなアルの思考に応えるように、手を引いた神父が小さな呟きを漏らす「バカな……」と。そして再度姉に触れようとした神父を、アルは直観に従って遮っていた。
……いや、間に体をねじ込んで、全力で姉から遠ざけたその行為は、『遮る』ではなく『突き飛ばす』と言うべきか。
「オマエ、姉さんに何をしたっ!」
「……違う、そんなはずはない……病魔であるはずが……」
病魔。うわごとのように呟く神父の言葉に含まれたその単語で、アルは何が起きたのかを悟った。対処を間違うと逆効果、ハルはそう言わなかったか。
「オマエがっ!」激情に任せて神父を殴り飛ばすと、マーガレット――と、その母親も――が、ひっと小さな悲鳴を上げたが、それを気にかけるだけの心のゆとりは今のアルには無い。
「紅蓮! ハルをここに!」
ここには居ない侍獣に対する呼びかけを、わざわざ口に出す必要などはないのだが、それを知る者はここにはおらず、知っていたとしても、今のアルをそんなどうでもいいことで刺激する程に愚かではなかっただろう。それこそ、燃える火に手を突っ込むようなものだ。
ひどく顔色の悪い――死体じみた、という縁起でもないたとえが浮かびかけ、アルは慌ててかき消した――姉の手を、アルは両手で包み込むように摑む。
膝をつき、握った姉の手を額に押し当てる。それは祈りの姿にも似て……いや、実際その通りであったかもしれない。
冷え切った体を、少しでも温めることができるように。自分が『火』だというのなら、その生命の火を、どうか姉に分け与えることができるように、アルマンディン=ゲンティアン=グレンは真摯に祈った。
「アル? いったい何があったんで……」
言葉を中途半端なところで止めた友人の到着は、随分早かったようにアルには思えた。扉が開く音すらも聞こえないくらいに注意力が散漫になっていたのか、などと考えるアルは、ハルが文字通り『跳んで』来たのだとは知らない。ハルとシディ、それから紅蓮は、絶影の能力で空間を跳躍して、直接この場に現れたのだ。
「――病魔、ですね」
昏睡状態のヴィオラを一瞥したハルが呟く。
ぐるりと周囲を見回して、アルに殴り飛ばされたまま壁際にへたり込んでいる神父と、寄り添って怯えているマーガレット母娘を確認すると、だいたいわかりました、と言った。なんとも間が悪い、とため息をつき、語る内容はアルが求めていた解答だ。
「病魔は疲弊した心に憑きます」と、マーガレットの母に視線を向け、「相当口汚く罵ったそうですが、昨日の今日でどうして此処に居るんです?」
つまり。考え無しにそいつを連れて来てしまったアルの所為で、姉は倒れたのだということか。ここでマーガレットの母に当たることができれば、まだしも気が楽だったのかもしれないが。いつだったか、ハルが言っていたことは完全完璧に正解だった。自身が正しくないと思う行為を、アルは自分に許すことができない。
――だって、その人はただ、
「あ、あの、お母さんは、謝ろうとして……」
アルの代わりにマーガレットが言い、ため息混じりにハルが答える。
「そうだろうとは思いましたが……間が悪かったですね。まぁ、それでもそちらは今回のことも含めて、謝れば済む程度でしかありません。誰も余計なことをしなければ、彼女が死に瀕することなどなかったでしょうから」
死に瀕する、という言葉。
ハルの視線が向けられる先。
気が付くと、アルは両手で神父に摑みかかり、壁に叩きつけていた。
アルにとって、きっとこれが初めてのことだった。
――本気で、誰かに殺意を抱くのは。
「魂すら遺さず焼き尽くしてやる!」
ひぃ、と怯えたように息を呑むその態度が、殊更アルの神経を逆撫でする。コイツの痕跡は何も遺さない。その魂が世界に還ることさえも許さないと、心が炎となって燃え盛る。
魂から発した猛る炎が、実体を得て、敵と定めたその男を焼き尽くす前に、
「――アル。」しかしその殺意は、犯人を教えた友人によって止められる。
肩に乗せられた友人の手を睨みつけるアルに、ハルが言葉を重ねる。
「焼くなり斬るなりは姉さんを助けてからにしてください。今は霊力も時間も、無駄遣いする余裕なんて無いです」
それは、火を噴きそうに加熱していたアルの頭を冷やすのに充分な言葉だった。
「……助け、られるのか?」
「私とアルだけでは無理ですね。色彩が足りない。村中の人間……いや、頭の固い大人はむしろ邪魔になる……?」と、そこでちらりと神父に目を遣り「いっそ思考が硬直していない子どもだけの方が……」
アルの問いに答える途中で、自らの思考に没入してしまうハルだが、アルは何も言わずに結論が出るのを待った。精霊術教室の先生が智慧を絞っているのだ、邪魔をするのはこの上なく愚かなことだ。
ハルの知識と思考を、アルは無条件に信頼していた。
「アル。精霊術教室の皆を集めます。病魔、私たちで倒しますよ」
応、とアルが答えるよりも早く、
「――バカな! 病魔は専門の治癒術師にしか祓えない! 子どもだけでどうにかなるようなモノではない!」悲鳴じみた声を上げる神父は、自分にもできないのに、とでも言いたそうであった。
「どうにかしなければ彼女は助からず、貴方は晴れて人殺しですね。代案が無いのなら黙っていていただけますか」いつもの笑顔でハルは言う。
「黙っていられるわけがない! 子どもだけで病魔を祓うなど不可能だ! 治療は子どもの遊びではない!」
先程とほぼ同じ内容を繰り返し、必死に食い下がる神父に、ハッ、とハルは笑って見せた。ふてぶてしい、まるで芝居をした時のような笑みだった。
「不可能上等。私の精霊術教室を舐めるな、と言わせてもらいましょう。
そもそも、貴方の言う『治療』が子どもの遊び以下だったから、こんなことになっているのだと、自覚くらいはしていますか?」
ばっさり斬り捨て、ハルはアルへと向き直る。
「アル、此処に呼ぶ最優先は緋衣草、緑翡翠、山法師です。次いで琥珀ですね。一番重要な緋衣草はアル自身が、緑翡翠なら紅蓮に任せても大丈夫でしょう」
緋衣草、緑翡翠、山法師、琥珀と、アルは頭の中でハル独自の呼称を変換していく。普段のようにフルネームで呼ばないのは、自身の思考に没入しているためか、時間短縮のためか……或いは、その両方か。
「山法師と琥珀は……」
と、事態についていけずにおろおろしている母娘に目を向ける。
「フォエミナとアンバーを、手分けしてここに連れて来て欲しい」
思考能力の大半を内に向けている様子のハルに代わって、アルが言葉の不足を補う。いつもならこれはルビアの役割なのにな、などと思いつつ。
神父と、ヴィオラと、ハルたちと。視線を巡らせて戸惑いを表す母娘に、アルは深々と頭を下げた。
「頼む。姉さんを助けるのを、手伝ってくれ」
「――お母さん……」マーガレットがぎゅっ、と母の手を握り、
「あなたはここから近いフォエミナの家ね。お母さんはアンバー君を呼んでくるわ」母は見上げてくる娘にそう言った。
「――助かる」僅かに表情を緩めてアルが言えば、
「助けるのはこれからなんでしょう? ちゃんと本人に謝らせてちょうだいね」
マーガレットの母は微笑みを返したのだった。
おかしい。モンスターペアレントだったのが、なんだか良い人に見える……
そして想定外に長くなった件について。次で終わらない予感がひしひしと。1エピソード3話がデフォになりつつありますね。
病魔はあからさまなフラグの立て方をしたので、こういう展開が予想できていた人も多いのではないでしょうか。我ながらあれは取ってつけたようだったと反省。サブタイに『病魔』とつけなかったのは、せめてものネタバレ回避です。
さてさて次は神父サマ、って言うか、神父ザマァの視点で「覚醒する魂」(仮)です。早ければ明日にでも!