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VARIANTAS  作者: 機動電介
13/22

ACT13 背負い

トライアルを襲うヴァリアントにグラムは一人で立ち向かう。

Chapter 1

 ソルジャーの首を捩切り、胴を貫き、ナイトの腕を折り、膝を砕き、叩き潰す。

 踊るように。流れるように。

 ヴァリアントとの熾烈な戦闘。まるでビデオゲームを見ているような、一方的な破壊。

 EPCにグラビティーナックル。グラビティードライバーによる、常識を超えた高機動戦闘。

 彼はまるで、その戦場に溶け込むかのように闘い続ける。

 前方から強烈な閃光。ソルジャーの長射程砲による遠距離砲撃。

 彼は、着弾するビーム全てを回避し、EPCを連射。ソルジャーの戦列を蹴散らし、破壊する。

 フラッシュ。

 敵部隊最奥部に、通常とは異なる高エネルギー反応を感知。

 質量、大。

 上級機種、[ヴァリアント・ガーズマン]を確認。

 戦闘能力、極めて高。

 当機[リセッツクロウ]との戦闘能力を比較、検証。

 結論。

 危険は有るものの、戦闘に支障なし。

 要因。

 パイロットの特異な戦闘能力、グラビティードライバー、EPC、及び最新鋭戦闘ソフトウェア。


「大佐」

「何だ」

「敵部隊最奥部に、ガーズマンを捕捉しました」

「何か問題でも?」

「いえ、何も問題はありません。ただ…」

「ただ…?」

「…いえ…何でもありません」

 エステルは心の中で呟いた。

「(あなた本当は泣いているんですね…心の中で泣きながら、必死に涙を堪えて…)」

 機体は更に、ヴァリアントの群れの奥へ。

 すかさず、5機のソルジャーが高速で接近してくる。

「敵機接近」

「邪魔だッ!」

 交差する機体。

 ソルジャーが一瞬で鉄屑に変えられる。

 部隊最奥部へ突入するリセッツクロウ。

 機体は更に奥深く。

 部隊最奥部、ガーズマンのもとへ。





************






 水蘭からヘルメットを通じて彼の網膜に映し出される風景。

 焼けた地面。

 依然、群を成す敵。

 単機、刀一つと己の技量だけで敵に立ち向かう彼に、仲間からの援護など存在しない。

 独立無援の恐怖。

 極度のストレス。

 金切り声を上げる神経を、大きな深呼吸で黙らせ、押さえ付ける。

 それでも軽減できない、生体と精神にのしかかる重圧は、次第に彼の身体機能を蝕んでいく。

 上昇する血圧と心拍数。

 急性過呼吸症。

 民間人…

 それもほんの少年で、訓練も何も受けていない普通の人間なら、当たり前の事。

 傷だらけの機体。

 白兵戦闘のみの水蘭に対し、ミサイルやビームカノン等、満身創痍の機体に加えるには過剰とも言える程の、各種重火器による応報。

 その攻撃の中でも彼は、数十機のソルジャーと、一機のナイトをたった一人で破壊してきた。

 しかし、それもここまでだろう。

「…限界…か…」

 膝を突く水蘭。

 視界に混じるノイズ。

 オーバーヒート寸前のアクチュエーター。

 左腕は砕け、装甲の切れ目からあちこちで火花が散っている。

「ダメです、若様!」

 彼女の叫ぶ声。

 春雪の声が遠のく。

 薄れゆく意識。

 敵機が接近してくる。

 もはや恐怖は感じない。

「ごめん、春雪…所詮…僕の修行不足さ」

 一斉に打ち掛かるソルジャー。

 温かい液体にたゆたうように、彼はゆっくり目を閉じる。






 あれ…?

 おかしいな…

 なんでこんなに静かなんだろう…

 それに…

 なんで…

 何で僕…

 まだ生きているんだろう…?




 彼の目に映ったのは、水蘭の目の前に立ち塞がる一機のHMA。

 赤銅色の装甲に身を包み、左腕に内蔵型の重火器を。そして右腕には、巨大なパイルバンカーを装備した、HMA‐h2カスタムメイド機。

「…! あッ…ああッ!?」

 HMAのパイロットが叫ぶ。

「マッスルバスター一番星! シェーファー02・ロンギマヌス! 一足遅れて登ッ場ォ!」

 水蘭の前に立ち、大見えを切るビンセントのロンギマヌス。

 その周囲には、ソルジャーの残骸が散らばっていた。

「サン…ヘドリン!?でもこの機体は…」

 ロンギマヌスから水蘭へ、回線接続。

「おい民間機、乗っているのは誰だ!?」

「え!? ああっ! はい、僕はこの機体のテストパイロット、菊地一刃です」

「んげぇ! 若旦那!?」

「その声はやっぱりビンセントさん!?」

 ビンセントがコクピットの中でのけ反る。

「確かあなたは死んだって…!」

「そっ! それには深~い訳が…」

「ビ、ビンセントさん!後ろ!」

「ぬっ!?」

 ロンギマヌスへ襲い掛かるソルジャー。

 その時、一条のビームがソルジャーを貫き、爆ぜた。

「遅えぞ!レイズ!」

 ビームランチャーを構え、全身に大量の武器と弾薬を装備した、レイズのラッシュハードロング。

 レイズがぼやく。

「ビンセントさん…何で僕にだけこんなに武器持たせるんですかぁ?」

 ビンセントは彼に答える。

「俺はスマートなのがいいの!」

「まったく…勝手な事ばっかり言わないで下さい…よっ!」

 レイズは、ビームランチャーを100mmガトリングに持ち変えると、それをソルジャーの群れの中に斉射した。

 爆炎が飛び散り、噴煙が巻き上がる。

「緊急指令で、すっ飛んで来てみりゃあ、もうこんな状態になってやがる…まぁその為の“俺達”なんだけどよ…」

 ビンセントはそう言って、マシンカノンのマガジンを換えた。

「若旦那、これからは“俺達”の仕事だ! 若旦那には悪いが、後は任せてもらうぜ!」

 スラスターを吹かし、ロンギマヌスが地面から浮く。

「ビンセントさん!」

 一刃がビンセントを呼び止める。

「ん?」

「御武運を!」

 ロンギマヌスが、水蘭に向かって親指を立て、ホバー走行へ移った。

 ラッシュハードロングの横に立つロンギマヌス。

 彼はメインスラスターのノズルを絞り、パワーを溜め込む。

 レイズがビンセントに問う。

「お知り合いだったんですか?」

 彼が答える。

「仕事でちょっとな」

 無線をサンヘドリン本部へ。

「本部、情報にあった試験機を保護した。これより敵部隊の殲滅に入る!」

 ビンセントが咆る。

「行くぜぇ! レイズ!」

「了解!」

 メインスラスターが、莫大な推力を開放し、ロンギマヌスを凄まじい速度で押し出す。

 機体はソルジャーの群れの中へ、真っ直ぐ向かって行った。






Chapter 2

 部隊最奥部のガーズマンに近付くにつれて、更に熾烈を極めていく敵の攻撃。

 グラムは、今起きている戦闘に全神経を集中させている。それ以外に、注意を割く余裕も必要も無い。

 突然彼は、自分が敵の射線上にいる事を感じ、機体を大きく機動させる。

「1時方向から高エネルギー反応」

 巨大なビームが、機体を擦過する。

 重力壁を擦過面の一点へ。

 巨大なビームパルスから機体を守る。

 並の機体ならば、側を通過しただけで装甲が焼け焦げるほどの大出力ビーム。

 ガーズマンが放った、ポジトロンビームカノン。

 光条が通過し、遥か後方で巨大な火球が咲く。

 彼は機体を大きくライドさせ、EPCを連射。

 突然、ナイトやソルジャー達が、ガーズマンの前に踊り出て盾になる。

 ガーズマンがミサイルを放った。

「ミサイル接近、数20。シグネチャホーミングです」

 20基の誘導弾が、尾を曳きながら高速で機動する。

 即座に回避運動へ移るリセッツクロウ。

 後退と前進、スラスターを駆使したサイドステップを繰り返し、ミサイルの射線を回避。

 機体は鋭角な軌道を描きながら、EPCでミサイルを撃ち落としていく。

 爆炎が散り、炎が空気を焦がす。

 次の瞬間、数発のミサイルが、EPCの目の前で炸裂。

 彼は咄嗟に銃口を引き戻し、左前腕に展開した重力壁で防御する。

「EPCを狙ってきたか…!」

 エステルが、彼の脳波に異変を感じ取る。

 冷静だが、脳の深層域が活発に活動している。

 宇宙が…

 因果律が、彼の脳に流れ込んでいる。

 熱く…激しく…

 こんな事はあの時以来…

 そう…

 セカンドムーブの時以来…

「大佐?」

「行くぞ。エステル」

 リセッツクロウが、高速で機動する。

 双方、全力を賭けた最後の衝突。

 グラムは機体の左手を強く握り締め、腕を引く。

 襲い掛かるソルジャーの群れ。

 ソルジャーが、一斉にビームカノンを放つ。

 刹那、リセッツクロウ周囲の空間が陽炎のように歪み、次の瞬間、背後の地面が陥没。

 同時に、リセッツクロウは100メートル近くを一瞬で移動。

 ビームカノンの光条は霧散し、ソルジャーが跡形もなく蒸発する。

 彼は右腕に持ったEPCを、ガーズマンに向けた。

 ガーズマン。

 それはヴァリアンタスの近衛兵だ。

 その姿は大躯であり、躯体は堅固。

 右手に持つポジトロンガンブレードは、一薙ぎで機動装甲数機を打ち砕き、艦を沈め落とす。

 その前に立ちながらも、彼の指はトリガーに掛けられたまま、引かれていない。

 ガーズマンからの攻撃も無い。

 完全に見合っている。


 声が聞こえる。

 聞き覚えのある、威圧的な声。

 生き残った機体のセンサー全てと、彼自身へ送られる圧縮通信情報。

 それが今、声となって、彼らに届いている。

「久しいな、我が兄弟」

「貴様か…」

「私の指揮する部隊を破り、ガーズマンの前に立った…よくそこまで戦えるものだ。敵ながら感服する」

「戦っているのは私だけじゃない。それに、私を“兄弟”と呼ぶのはやめてもらおう」

 笑い声。

「何を言うのかと思えば滑稽な…私とお前は“兄弟”…いや…私はお前、お前は私だ」

「貴様こそ何を言っている。私とお前に何の関わりが有ると言うのだ」

「貴様は知らないだろう。作られた記憶、人生。偽物の生を生きるお前には、理解できないだろう」

「黙れ。早くこの機体から出ろ」

「私はお前を知っている。そしてお前も、私を知っている筈だ。目を開いて見ろ。真理を聞け。真実を知れ」

 グラムは強く答える。

「私はお前など知らない!」

 彼は構えていたEPCのトリガーを引いた。

 ガーズマンは、その攻撃を軽やかに回避する。

「来い、戦い方を教えてやる」

 挑発する“声”。

 ガーズマンが、その手に持つ巨大なガンブレードから陽電子砲を放つ。

 それを回避するグラム。

 彼はEPCを撃った。

 ガーズマンは、再びその攻撃を回避する。 

「どうした、我が兄弟。的は大きいぞ。コアを撃ち抜け。捕まえてみろ。その手でこの身を引き裂いてみせろ」

「心配するな。今そうしてやる」

 彼はEPCを連射しながら、ガーズマンへ接近した。

 ガーズマンが、腕部に内蔵されたビームカノンを撃つ。

 機体を掠めるビーム。

 グラムは、EPCをガーズマンに突き付けた。

「終わりだ」

「まだだ。まだ終わらん」

 トリガーが引かれる寸前、ガーズマンのミサイルが二機の間で爆ぜる。

 弾き飛ばされるリセッツクロウ。

 次の瞬間、ガーズマンのガンブレードが煌めいた。

 両断されるEPC。

 リセッツクロウのそれと比べて、倍以上はあるガーズマンの巨大な拳が、コクピットへ迫った。

 彼は両手を重ね、重力壁を掌に展開して、それをガードする。

 大きな衝突音。

 突き飛ばされるリセッツクロウ。

 機体の脚が、地面を刔る。

「この動きは…機甲体術!」

 グラムの表情が凍り付く。

 ヴァリアントが、機甲体術を使っている。

 何故?

 そう思うもつかの間、ガーズマンがビームカノンを連射した。

 GRASを全力で展開する。

 着弾するビーム。

 爆炎が、リセッツクロウを覆い隠す。

 グラムは、胸のビームカノンを撃ち返した。

 ビームが、ガーズマンに命中する。

 連射されるビームカノン。

 その光条は全て、ガーズマンの装甲表面で霧散した。 

「…空間圧縮による空間断層…!」

 エステルが答える。

「EPCでなければ貫通出来ません!」

 声が彼に言う。

「武器を失った今、お前は私に勝つ事はできない。お前は物理的にも、精神的にも弱い」

「くっ!」

 ガーズマンはガンブレードをグラムに向けた。

「貴様は、この戦いから身を退くべきだ。貴様に、人類を護る事など出来ん!」

「黙れぇ!」

 彼はグラビティナックルで、ガーズマンのブレードを砕いた。

「まだ抗うか…」

「幾らでも!」

 グラムは、グラビティドライバーによって拳速を高めた右上段突きを繰り出した。

 しかしガーズマンは、いとも簡単に、その拳を受け流し右腕を掴む。

「なに…!?」

「踏み込みが甘い」

「くっ!」

 グラムが、ガーズマンから離れた。

 一方ガーズマンは、離れたリセッツクロウから距離が開かないように、素早く歩み寄る。

 両手を構えるグラム。

 対するガーズマンは、リセッツクロウの左腕を上方に打ち払い、右腕を掴んで引きながら、肘打ちを打ち込んだ。

「くそ…!何故だ!なぜ貴様が機甲体術を使える!」

 よろけるリセッツクロウ。

 ガーズマンの目がリセッツクロウを見下ろす。

「(流石は我が兄弟…直撃している様に見えていても、しっかりと重力壁でガードしている…長引けば、こちらが不利だ…!)」

 ガーズマンが両手を胸の前に構えた。

「私が、お前を開放してやろう!」

 ガーズマンの右脚が、地面を捕らえ踏み込む。

「機甲体術奥義…!」

 スラスターを噴射。

 巨大な二枚の掌は、ガーズマンの全質量を受け、前に打ち出される。

「ツヴァイス・カノーネ(二連掌砲)!!」

 二枚の掌はリセッツクロウの胴体を捉え、大きく弾き飛ばた。

 機体が、弓なりに跳ねる。

 グラムは心の中で呟いた。


 弱い…

 全く…全く彼の言う通りだ…

 私は誰も護れなかった…

 目の前に居る…

 手の届く人間さえ護れなかった…

 そしてその“心”さえも…

 私は何の為に戦ってきたのだろう…

 一体誰の為に…



『そして樹は、物質としての束縛を少しずつ断ちきり、自らの姿を自由に変えていく…』


 博士…

 私は…


『希望はいいものだよ…ミラーズ君…多分最高の物だ…良い物は決して滅びない…』


 グラムの脳裏に浮かぶ顔。

 グレンの笑顔…

 エステルの微笑み…

 皆の姿…

 そうだ…

 私が背負い護っている物…

 それは何とはかなく、尊いのだろう…!



 リセッツクロウが立ち上がる。

 両足でしっかりと地面を捕らえて。

「なるほど…機体前面に集中させた重力壁で、大地の反発力を中和したか。しかしそれで機体とイクサミコは護れても、パイロットは相当なダメージを喰らうはずだ」

 グラムが血を吐いた。

「グラム!!」

 エステルが叫ぶ。

 それでも彼は、逃げようとはしなかった。

「確かに私は弱いかも知れない…人類など護れないかもしれない…でももしそうなら…私は幾らでも強くなってみせる! 強くなって護ってみせる!私はまだ生きている!人は生きている限り、負けではないッ!」

 グラムはもう一度両手を構えた。

 右手を強く握り締め腰まで引き、左掌を突き出す。

「(構えが変わった…!?)」

「来い!!」

「ハッタリは効かん!」

 ガーズマンはスラスターを吹かし、リセッツクロウへ肉薄した。

「行くぞ! 機甲体術奥義…ファウスト・ゲベイア(正拳砲打)!!」

 ガーズマンから打ち出された正拳が、空気の壁を突き破ってリセッツクロウに迫る。

「(この打法は全身の捻りとインバースキネマティクスを駆使した亜音速拳!決まった!)」

 しかしグラムはその瞬間、リセッツクロウの左掌をそっと横に傾けた。

 そしてその掌に沿って右腕を滑らせる。

 その時突然、拳は凄まじいスピードで打ち出され、ガーズマンの拳を粉々に打ち砕いた。

「な、なに!?」

 ガーズマンが、砕けた右腕の破片を撒き散らしながら大きく弾き飛ばされる。

 着地するガーズマン。

 脚が地面を刔る。

「貴様、その技は…」

 グラムが口を開いた。

「ただ、フレズベルグの真似をしてみただけだ」

「右腕と左掌との間に重力場を展開させたか。なるほど、双方の重力場は互いに反発しあい、右腕を凄まじいトルクとスピードで打ち出す即席のグラビティレールガンと化す。名を付けるとすれば“アルティメット・ピアッサー(絶対貫通徹甲打)”といったところか…。だが!」

 ガーズマンが、残った左腕で殴り掛かる。

「技の一つ増えたところで!」

 迫る正拳。

 しかしグラムはそれをいとも簡単に回避。

 右手でガーズマンの指先を掴み、左手を肘に当てて捻り上げる。

「踏み込みが甘い」

 ガーズマンの間接が軋みだす。

「いかに圧縮空間による空間断層があろうとも、関節構造を硬質化出来る訳じゃない!」

 グラムは、リセッツクロウ全身のスラスターを吹かし、機体ごとガーズマンの腕を回転させた。

「ぐおっ!」

 ガーズマンの腕が捩切れる。

 リセッツクロウはそのままガーズマンにドロップキック。

 ガーズマンがよろける。

「貴様ぁ…」

「たとえお前が私の事を知っているとしても、私はお前の事を知らない。そして今の私は、お前の知っているグラム=ミラーズではないッ!!」

 グラムはリセッツクロウをガーズマンへ突撃させた。

 ミサイルを放つガーズマン。

 グラムはそれを、胸のビームカノンで撃ち落とした。

「私は貴様らが奪っていった物をすべて取り戻す! そして貴様だけは、この手で必ず倒すッ!」

 リセッツクロウの左掌底が、ガーズマンの胴に直撃する。

「(くっ!圧縮空間に膨大な重力波を注ぎ込んでいる! 重力崩壊を起こす気か!)」

 グラムはリセッツクロウの右腕を振り上げた。

「消えろ!! 原子の藻屑と成り果てて!!」」

 振り上げた右腕はそのまま左手の甲を叩いた。

 右手から打ち込まれた重力波は左手を砕き、そして、先に打ち込まれた重力を一気に崩壊させる。

 崩壊した重力場は、周囲に飛び散り、拡散するが、圧縮空間の内壁に当たり反射。

 反射した重力場は発生地点で互いにぶつかり合い再び反射し、周囲の空間を吹き飛ばす。

 そう、重力崩壊とは、超新星爆発と同義なのだ。




************




 間近で見る、よく訓練された兵士の戦いとはなんと力強く、なんと精練されていることか。

 自分にとってはあまりにも強大だった敵戦力が、電光石火の如く勢いで、さくりさくりと削られていく。

 剣に勤しんだ自分の半生。

 その全てを否定されているような、空虚感。

 それはあまりにも大きく、広い空洞。


 ソルジャーの最後の一機が、ロンギマヌスのパイルバンカーに貫かれた。

「こちら02、敵殲滅完了」

「こちら01、敵性反応無し。殲滅完了確認」

「よっしゃ。終わったぜ?若旦那」

 ロンギマヌスが、水蘭に振り向く。

 すると水蘭は、ゆっくりと立ち上がった。

「春雪…セルフチェックは終わったね?」

「はい。ビーム兵器に当てられていたセンサー類の回復、及び駆動系の再調整も完了しました」

「よし…」

 水蘭はロンギマヌスに背を向けた。

「おい、どこへ行く?」

「大佐は一人で戦っています!大佐を助けに行かなきゃ!」

 一刃はそう言うと、水蘭を駆り出した。

「おい、若旦那!…レイズ!あと頼む!」

「ちょっと、ビンセントさん!?」

 ビンセントは水蘭の後を追う。

 一刃は心の中で叫び続ける。

「(大佐!大佐!大佐!あなたは僕の理想だった!僕の目標だった!あなたのようになりたかった!でもそれは出来ない…!出来ないけど、出来る限り近付こうとした!それなのに…それなのに…もしあなたが死んでしまったら、僕は一体…!)」

 一刃は機体を止めた。

 立ち込める黒煙。

 あちこちで燃え上がる炎。

 彼の周囲には、ヴァリアントの残骸が散らばっていた。

 その中心には、巨大なクレーター。

 水蘭の後ろにロンギマヌスが立った。

「わかっただろ?若旦那」

「ビンセントさん…これは一体…?」

 ビンセントが大きく息を吐く。

「『奴が戦場に降り立てば、そこには炎が降り注ぐ。天の火に非ず。それ全て、地獄の炎』…」

「地獄の炎…」

「だから奴は…グラムはこう呼ばれるようになった…ヘルファイヤー・グラム(業火のグラム)とね…」

 一刃は思わず息を飲んだ。

 これが大佐の力…

 地獄の炎を身に纏い、近付く物全てを焼き尽くす、憤怒の業火…

 何かが近付いてくる…

 恐ろしい程の殺気に満ちた、黒い機動装甲。

「大…佐…?」

 水蘭の目の前に、リセッツクロウが立った。

 その右手には、ガーズマンの頭部があった。

 リセッツクロウが、水蘭の横を通り過ぎる。

「大佐、あの…敵部隊は…?」

 リセッツクロウが立ち止まる。

 グラムは答えた。

「皆殺しにした」

 一刃の背中に寒気が走る。

 違う…!

 あれは大佐じゃない!

 あれは正しく…


 地獄の炎―!!


 立ち去っていくグラム。

 誰も彼を、呼び止める事は出来なかった。







Chapter 3

[ジェネシック・インダストリー本社、特別室室長室]

 深い暗闇がある。

 全てを覆い隠すような深い暗闇が。

 闇の中に一つの光がある。

 その光の中に佇んでいる彼は、大きな背もたれのある豪華な革張りの椅子に深く腰掛け、脚を組みながら静かな様子で待っている。

 静かに、待ち焦がれるように。

 突然、部屋の扉が開いた。

「失礼します。チーフ」

 彼の秘書、エヴァが部屋へ踏み入る。

「チーフ、駐屯地にヴァリアントが出現しました」

 口元にうっすらと笑みを浮かべるロイ。

「それで?」

 彼女は答える。

「我が社のトライアル用機体、リセッツクロウにグラム=ミラーズ大佐が搭乗。これと交戦・殲滅した模様…ただ…」

「ただ?」

「その際、開発一課主任・ミハエル=セルベトゥス博士がヴァリアントによる攻撃で死亡しました」

 ロイが、口の端を持ち上げてゆっくり微笑んだ。

「やはり…天は我々の味方だ…我々が手を下すまでもなく、運命は自然と流れる…」

 不安そうな面持ちで彼を見つめるエヴァに、ロイは答える。

「そうだな…エヴァ…君にもそろそろ知っておいてもらおう…」

 彼は、真剣な眼差しで彼女の顔を見つめると、ゆっくり口を開いた。

「この世界は腐っている。古い体制、古い民、軍、経済、思想、宗教…その全てが、腐敗した油膜となって世界を押さえ付けている。だが今、世界は私の手で変わろうとしている。古い外皮を脱ぎ捨て、新たな段階…新たな階層へとシフトしようとしている。私は、その障害を取り除いているだけだ」

「障害を…取り除く…?」

「そう…成長には痛みを伴う。もちろん流血もね…」

「あなたは一体…何をなさるおつもりなのですか?」

「言っただろう? 障害を取り除くとね…」

 彼女の表情が凍った。

「チーフ…あなたはまさか…!」

 クーデター。

 彼女の脳裏にはこの言葉が浮かんだ。

「危険過ぎます! いかにあなたがお持ちの私設兵団が精鋭部隊でも、統合体と戦うには戦力が…」

「戦力…?」

 ロイが、低い笑い声を漏らした。

「戦力…か…確かに今の統合体…それも中央軍に戦いを挑むなど自殺行為だ…」

「……?」

「…強いて言うなら、神の力…真の義と平和と安全の守護神…」



 …ディカイオス!!



「ディカイオスの力は、神に等しい。地上の…それも薄っぺらな協定で成り立っている軍など無力…あえて言おう…カスであるとね…」

「しかし…ディカイオス一機では戦略的に無理があります…!それに、ディカイオスを略奪するなど、不可能では?」

 彼は答える。


「あるだろう? それを可能にする神の力が…」

「まさか…!」

「“機動兵器端末群超広域戦闘指揮・支援同時遂行用虚数因果律総括通信回路網機構”…ディカイオス・システムが…!」

「そんな…まさか…! ディカイオス・システムはヴァリアントからの教訓で、ディカイオス‐エイレーネには組み込まれなかった筈では!?」

 ロイが、笑いながら彼女に言う。

「父は私に、偉大な遺産を遺してくれた。この手には余る遺産をね…そう…組み込まれていたのだよ…システムは…ヴァリアンタスと同じ、機動端末兵器システムがね。元を正せば当然な事…ディカイオスもヴァリアントも、作った人間は同じ…つまり、ヴァリアントとディカイオスは生き写しの双子なのだから…そして今日…その事実を知る最後の一人が死んだ。これで真実は闇の中…端末機も無事…しかし…ヴァリアントは革命の邪魔…つまりはこれからも、サンヘドリン…そしてミラーズ大佐には戦い続けてもらわねばならない…それまでには、こちらの準備が全て調う…システムを我が手に納める手筈もね…時が来れば、略奪などする必要も無い…」

 彼は大きく息を吐いた。

「運命は自分の手で開くもの…しかし、宿命は…いや…宿命さえも、我らの味方…こっちへおいでエヴァ…」

 エヴァが、彼の側へ歩み寄る。

 ロイは彼女の腰に手を回し、彼女の身体を引き寄せる。

 彼が、彼女の耳元で囁く。

「僕の好きな言葉を知っているかい…?エヴァ…」

 彼女は答える。

「新しい葡萄酒は…新しい革袋に…」

「覚えていてくれたんだね…」

 ロイはそう言うと、彼女と唇を重ねた。

 彼は心の中で呟く。


 神は言われた…

 “光在れ”と…

 ならば私はもう一度光を創る…

 この手で…

 もう一度…!



 世界はそれを待っている。





************





[3月15日、サンヘドリン本部特別軍事査問委員会]



「もう一度聞く、ミラーズ大佐。ヴァリアントは貴官が殲滅したのだな?」

 彼は、並み居る委員会の将官達に答えた。

「はい。ヴァリアントは私が殲滅しました」

 将官の一人が彼に言う。

「いいかね?ミラーズ大佐。問題なのは、中央軍の駐屯地にヴァリアンタスの侵攻を許した事だ」

「これでは中央軍のお偉方に顔が立たん!」

「しかもこの戦闘には、民間人まで参加したと聞いている」

「やはり対ヴァ戦力を集中させるのは…」

 ぼんやりと遠くを見つめるグラムの瞳。

 ガルスは心の中で呟いた。

「(何があった…グラム…何があったと言うのだ…今のお前の、まるで世界で自分だけが取り残されているような目…お前の目は、また昔のそれに戻ってしまった…暗く、哀しい、何かを恐れた目に…)」




 彼女はただ呆然と、その前に立っていた。

 彼の名が刻まれた真新しい墓石。ミハエル=セルベトゥスの眠る霊廟の前で。

「なんで…こうなっちゃうのかなぁ…」

 グレンがぽつりと呟いた。

「博士は何も悪くないのに…天に誓って何も恥ずべき事の無い人だったのに…先生の知識も、もっと教えて欲しかった…お母さんの事も、先生自身の事も…もっと知りたかったのに…!ねぇ、エステル!どうして?どうしてこうなってしまったの!?教えて…エステル…」

 彼女は側に付き添っていたエステルに縋り付き、そう叫んだ。

 エステルは彼女に答える。

「私にも…分かりません…ただ…大事な人を失う気持ちは、私にも分かりますよ…」

 グレンが声を張り上げた。

「…エステルに…私の気持ちの何がわかるって言うのよ! あなたには大佐が居るけど、私には何も無いの! 何も無いのよ…」

「グレン、私は…!」

「それでも私は大佐を信じてた…信じてたのに…! こんなに辛い想いをするなら…最初から信じなければよかった!」

 突然、曇った空の下に、乾いた音が響いた。

 エステルが、グレンの頬を叩いた。

「…私はあなたではありませんから…あなたの気持ちはわからないかも知れません…でも…人を信じる気持ちが無ければ、人間は生きて行けないんです…!」

 グレンは自分の頬を摩りながら、顔を俯かせる。

「痛い…痛いよ…エステル…」

 エステルがグレンの肩を抱きしめた。

「私も痛い…でも大佐はもっと痛いんです…。気付いていますか? グレン…、私が今抱いているあなたの身体…そして私たちの足元に広がって、続いている無限の大地…これが、彼の背負っているものなんです…彼はただ一人で、こんなにも重いくびきを背負っているんです…彼は今まで、幾つもの命をその手で受け止めようとしました…でもその度にその命は、彼の指を摺り抜けてしまう…その命こそが、ここに眠る英霊たちなんです…」

 グレンは静かな様子でエステルに言った。

「わかってる…わかってるの…エステル…でも…頭でわかっていても、私の心は理解できない…! このままじゃ私…私…大佐に酷い事を言ってしまう!」

 彼女はエステルの腕を振りほどいた。

「だから私…もう大佐やエステルとは一緒にいれない…」

 彼女がそう言ったその時、空から雨が降り出した。

 降りしきる雨の中、二人は傘もささずに立っている。

「グレン、大佐は…」

 躊躇うエステル。

 髪を解いたグレンの姿が別人のように見えて、エステルは思わず言葉を飲み込んだ。

「さようなら…」

 グレンはただそう言い残し、その場を去って行った。

 強くなる雨足。

 エステルは何も出来ずにただ、彼女の背中を見つめた。





************





 無言と思考の停止。これしか無かった。

 降りしきる雨の中、中央広場のベンチにただ座るだけの彼には。

 考えてもしょうがない事だった。

 今まで何度も考えた事だったが、その度に答えは見つからなかったからだ。

「大佐…」

 声が聞こえる。

 彼を呼ぶエステルの声が。

 彼は振り向かない。

 ただ黙ったまま俯いている。

 二人の肩を打つ大きな雨粒が、服を伝いながら染み込んでいく。


 返す言葉など無い。

 言葉など…

 私はいつの間にか、言葉など信じなくなった。

 正確には、『人間らしい“気持ち”』と言う物を…

 “気持ち”が無ければ…

 感じなければ、傷付く事がないから。

 “ヴァリアンタス”と、それを破壊する事を目的に組織された“サンヘドリン”とそのシステム。

 その力、“ディカイオス”。

 私は“人”ではなく、ディカイオスの部品になる。

 “グラム=ミラーズ”と言う名の生体部品に…

 それなのに…

 なぜ…


 彼女はもう一度彼に言う。

「戻りましょう、大佐…」

 彼はやっと、その顔を上げた。

「風邪ひきますよ…?」

 そう言う彼女の頬には、彼女自身の髪が張り付き、その肩は小刻みに震えている。


 私のイクサミコ…

 いや…私の半身、エステル…

 私はどうしたらいい?

 私は一体何をすればいい?

 何を想い、何を目指せばいい?

 私の背負っている物は、重過ぎる…

 どうすれば強くなれる?

 心も身体も…


「大佐…?」

「助けてくれ…エステル…」

 彼はベンチから立ち上がり、エステルの肩を強く抱きしめた。

 痛いほど…

 彼の鼓動が直接伝わる程に…

「何回…こんな思いをすればいいのでしょうか…? 私達は…」

 エステルはそう言って、グラムの背中に腕を回し、彼の身体を優しく抱いた。







Chapter 4

 いつもより空気が冷たく感じる。

 白いクロスが貼られた壁に四方を囲まれた寝室。

 そこに一人。

 昨日の夕方から降っていた雨は、今もまだ降っている。

 肌を寄せ合い、傷を舐めあい、慰めあっても、心の隙間は埋まらなかった。

「大佐」

 枕元に置かれたインターホンのスピーカーから、時間を知らせるエステルの無色な声が響く。

 彼は無言のままベッドを出た。



 前だけを見て、足早に歩く。

「…それで?」

 グラムは後ろからついて歩くエステルに問う。

「ガルス司令からの御命令です。拘束拘留中のキクチ金属工業試作機パイロット・菊地一刃の取り調べに参加せよとの事で…」

 エステルが立ち止まり、彼の背中を視線でなぞる。

 彼の首筋から肩口、そして背中へ。

「どうした?」

 グラムが横目で振り返る。

「いえ…」

 エステルは再び言葉を続ける。

「対象者は黙秘を続けています」

「なぜ」

「不明です。ただ、大佐に会わせろと言い続けているそうで…」

「それで結局妥協したと…?」

 取り調べ室の前で止まる。

 グラムは大きく息を吐いた。

「しょうがない…給料分は付き合おう」

 彼は扉を開けた。





************





 ふと振り返ると、私と先生が一緒に居た時間なんて、とても短かったのかもしれない。

 本当は先生の事なんか何も知らなくて、私が勝手に付き纏っていただけかもしれない。

 きっとそれと同じなんだ。

 私と“大佐”って…

 私は、彼の事を何も知らないし、彼も、私の事を知っている訳が無い。

 それでも大佐は、私達の事を護ってくれている。

 いや、きっと…

 きっと、名も知らない大勢の命をも…

 でも…

 彼だけは…

 先生だけは失いたくなかった…


「おい!お嬢ちゃん!」

 突然、術長の声が耳元で響いた。

「わっ!術長さん?」

「さっきから呼んでるのによう。大丈夫かい?」

 椅子に座るグレンを、心配そうな表情で見下ろす術長に、彼女は少々驚いた様子で答える。

「え? ええ…大丈夫ですよ?」

 術長が彼女に問う。

「電算室、まだ使うかい?」

「あ…」

 彼女が操作するコンピューター画面には、入力し途中の数式が映っている。

 術長は大きなため息をついてから、彼女に言った。

「無理すんなよ…お嬢ちゃん。しばらく休みな」

「無理なんかしてませんよ? 全然、大丈夫!」

「お嬢ちゃん…」

「だから、大丈夫ですってば!元気元気!」

「ああ!分かった分かった!分かったから泣くな!」

「え…?」

 突然、慌てたように言葉を取り繕う術長。

 グレンは自分の目元を指でなぞった。

 指先に濡れる感触。

「あれ?なんでかな?どうしてだろ…ごめんなさい…ちょっと、失礼しますね…!」

 彼女は急いで電算室を飛び出すと、レストルームに駆け込んだ。

 洗面台の鏡の前、両手で自分の顔を覆うグレン。

 突然、レストルームの中に、綺麗な鼻唄が響いた。

 彼女はそっと振り向く。

 するとそこには、一人の女医が立っていた。

「エビング…博士…」

「あら?お久しぶりねぇ…グレンちゃん。お邪魔だったかしら…?」

「あ…いえ…」

 ハンカチで目元を拭ってから大きく息を吸って、呼吸を整える。

「ごめんなさい…博士…すぐ出て行きます…」

「ちょっと、待って。グレンちゃん!」

 グレンがドアノブに手を掛けようとしたその時、エレナは彼女の後を追うように踵を返し、グレンを呼び止めた。

 グレンは足を止めて、彼女の方に振り返る。

「は、はい…?」

「お急ぎ?」

「いいえ…特には…」

「ねぇ、久しぶりに会ったんだし…」

 指先で自分の唇をなぞるエレナ。

 よく見れば、彼女の白い指が、ルージュの上を艶かしく滑っている。

 グレンはあの時と同じ寒気を背中に感じた。

「エ、エビング博士…?」

「私…グレンちゃんとシたいな…」

 グレンの背中に、最大級の寒気が走った。

「え…? ちょっとそれは…私も博士も女性同士ですし…私にその趣味は…」

 狼狽するグレン。

 そんな彼女を尻目に、エレナは悪戯な笑みをこぼしてグレンに言う。

「嫌ね、勘違いしちゃって…お茶よ、お茶。少しお話ししない? ちょうど美味しいケーキもあるんだけど…?」

「え? お茶?」

 エレナはグレンに優しく微笑んだ。





************





「正直、本当に来てくれるとは思っていませんでした」

 グラムとの間に金属製の机を挟んで座る彼は、グラムの表情を伺いながらそう言った。

「本来、私が来る必要など無い。言いたい事が有るなら、手短に願おう」

「もう一度、会いたかったと言うのはダメですか?それに、聞きたいのはあなた達の方でしょう…?」

 不機嫌なグラムに、一刃の極めて冷静な答えが返って来る。

「元々、こんな取り調べ自体がナンセンスだ。聞く事など何も無い筈なのに」

「おしゃべりは嫌いじゃないです」

 この少年は何を言っているんだ?

 全く意図が掴めない。

 グラムは彼に問う。

「何故出撃た?」

「え?」

「死ぬかも知れないと分かっていたのか?」

「それはもちろん分かっていました」

「怖くなかったのか? 死ぬのが…」

 彼は一瞬の間を空けてから、グラムに答えた。

「怖かったですよ? 死ぬ程怖かったです」

「なら何故? 軍人でもないのに」

「…何故…でしょう?ただ、我慢が出来なかった」

「我慢?」

「戦う力を持っていながら、それを使わない事が…戦いに出れば、自分は死ぬかも知れません。でも、自分が戦いに出なければ、他の誰かが死ぬ。軍人さんはそう思いながら戦っていると、僕は思っています」

「民間人…」

「ええ。僕はただの民間人です。だから、最後まで戦えなかった。民間人の僕に、戦場で戦う術は持ち合わせていないから…」

「軍人になれば、最後まで戦えると?」

「僕はそう信じています」

「死ぬ目を見るぞ? 死は全てを失う…自分が死ななくても。友も、愛する人間もだ」

「大佐は、失った事がありますか?大切な人を…」

「ああ…多分ある」

「でも僕は戦いたい」

「なんの為に? 人類の為? 正義の為?」

「そんな大層な物じゃありません。僕の力なんてちっぽけな物…ただ僕は、自分の瞳に映る人くらいは、自分で守りたいから…」

 グラムは短く息を吸った。

「自分で守る…か…」

 彼は一刃の瞳を見つめ、彼に問う。

「軍人なら最後まで戦える。おまえはさっきそう言ったな?」

「はい」

「なら一刃、軍に来い。お前がその気なら、戦い方を教えてやる」

 グラムはそう言って席を立った。

「話は終わりか?」

「はい、大佐。ありがとうございました」

 背を向けるグラムを一刃が呼び止める。

 彼はグラムに言った。

「その人の事、今も覚えていますか?」

 足を止めるグラム。

 彼は振り返る事無く、部屋を後にした。





************





「ごめんなさいね。散らかってて…」

 医務室奥にある自分の執務室に、エレナはグレンを招き入れた。

 そこは10畳程の広さがある非常にシンプルな部屋で、デスクの上には幾つもの書類が積み重ねられている。

 部屋の隅には木製の猫足テーブルと、布製のソファーが置かれていた。

 これは彼女の趣味だろう。

「忙しいかったんじゃ…?」

 気を使うグレンにエレナが微笑む。

「今お茶入れるから、掛けて待ってて」

「ええ…」

 しばらく部屋を見回す。

 仕事でしか使わないにしても、あまりにも生活臭のない、ある意味、非常に無機質と言える室内。

 奥ではエレナが、給湯室で湯を沸かしている。

 ふと彼女は、デスクの上に何かを見つけた。

 ガラス板と金属製のプレート二枚で構成されたモダンなデザインの写真立て。

 その写真立ては、肝心な写真が見えないように伏せてあった。

 好奇心に駆られるグレン。

 その写真立てに、彼女はそっと手を伸ばす。

 そこに写っていたのは見慣れた男性とエレナの姿だった。

「だめよ、悪戯は…」

 突然エレナの横顔が、グレンの後から現れる。

「エ、エビング博士…?」

「エレナ…でいいわよ」

 彼女の背中に追い被さるように、エレナは身体を寄せてくる。

「それじゃあ…あの…エレナさん…」

「なぁに?」


 グレンの腰を、慣れた手つきで撫でるエレナ。

 身体を強張らせるグレンの耳に、彼女の湿った吐息がかかる。


「あ、あの…」

「あなた…その趣味は無いって言ったわよねぇ…」

「え…?ええ…」

「じゃあ私が…その趣味にさせてあげようかしら…」

「え…?」


 グレンの心臓が、まるでエンジンのように早くなる。

 顔が紅葉し、今にも倒れてしまいそうな彼女に、唇を寄せていくエレナ。

 腰をなでる手の小指がスカートの裾に掛かり、するするとめくってゆく。

 グレンは心の中で叫んだ。

「(ああ! どうしよう…! うまく抵抗できない! このままじゃ私、エレナさんに…!ごめんなさい、お母さん…私、こっち側の人間になりそうです…)」

 覚悟を決めるグレン。

 そんな彼女を他所に、エレナは笑いながら身体を離した。

「え…?」

「冗談よ、冗談。お茶、入ったわよ。それとも…続きがシたい?」

「えっ? いえ、結構です!」

 グレンが慌ててソファーに座ると、エレナは手際よくティーカップを彼女の前に置いた。

 カップ横の皿には、綺麗に切り分けられたロールケーキが乗せられている。

 エレナが、ティーポットからカップへ紅茶を注ぐ。

 カップから昇る白い湯気。

 それと共に、アールグレイの甘い爽やかな香りが部屋いっぱいに広がる。

「お砂糖は?」

「いえ…」

「ミルク入れる?」

「お願いします」

 紅茶の中に、白い渦が出来る。

「どうぞ」

「いただきます」

 ソーサーをカップの下に持ちながら、彼女は紅茶を一口含む。

 グレンに続いてエレナも。

「少し苦かったかしら?」

「いえ、美味しいです」

 二人の口元で、カップがゆっくり上下する。

「あの…一つ聞いてもいいですか?」

「なに?」

「写真の男の人って…」

 エレナはソーサーの上にカップを置いた。

「ええ。グラムよ」

 グレンの眉が、不安そうに下がる。

「二人は…恋人同士だったんですか?」

「恋人…ね…」

 エレナは紅茶を一口含んでから、彼女に答えた。

「私…ここに来る前は、CAMSに居てね、彼とはそこで出会ったの。彼は患者で、私は彼の専任心理カウンセラー。知ってる? 彼の事」

「エステルに聞きました」

「時には主治医、時には友人、時には支え…そうね、恋人だった事もあったわ…」

「二人はどうして…?」

「私が捨てたの」

「何故…?」

 エレナは少し考えてから、彼女に答えた。

「『待っていなくてもいい』って、彼が言ったから。それで後から気付いたの。私は彼の笑顔を見た事が無いって…」

 この言葉を最後に、二人の間を沈黙が支配した。

 長く、湿ったような沈黙。

 グレンが思い切って口を開く。

「ごめんなさい…変な事聞いちゃって…」

「いいのよ…」

 エレナは笑顔でそう答えると、グレンに問うた。

「あなたはどうなの?」

「え…?」

「好きなんでしょ? 彼の事…」

 次の瞬間、楽しげに話していたエレナの表情が固まった。

 眉を歪めるグレン。

 彼女の目は、不安と迷いの色に塗り潰されていた。

「どうして、そんな事聞くんですか?」

「違う? それとも彼の事嫌い?」

「違います…!嫌いとかそう言うのじゃなくて…好きですよ? 好きですけど…」

 急に黙り込むグレン。

 エレナは彼女の次の言葉を待った。

「一緒に居たいとか…付き合いたいとか…そう言うのじゃないんです…私はただ…」

「“護って欲しい”?」

 急にエレナの表情が険しくなった。

「あなたやっぱりそうよ。逃げてる。目の前の事から逃げてる」

「逃げてる…?」

「本当は傷付くのが恐くて、自分の気持ちから逃げてるだけ。護ってほしいなんて言い訳だわ」

「言い訳なんかじゃありません!」

「じゃあ何?好かれている訳でもない人間を、無条件で護れと言う訳?」

「じゃあ先生はどうして亡くなったんですか!大佐が護って…護ってくれていればこんな事には…!」

 彼女は途中で言葉を切った。

「あなたの事は聞いているわ。辛かったわね…でもね、グレン。あなたと同じ事を思っている人がもう一人いるのよ…?あなたは彼に何をしてあげた?どんな言葉をかけてあげた?人はみんな、何かと闘っているわ。でも彼の闘っているものは途方も無く大きいの。そんな彼を、仲間である私達が支えてあげなければいけないのよ。本当はね…グレン…彼ってとても不器用な男なの。気持ちを言葉に出して言えない人。そんな彼を支える事が、私たちの出来る“闘い”じゃないかしら?」

「私にそんな事…できるんでしょうか?」

「出来るわ、グレン。あなたなら出来る」

 エレナはそう言うと、グレンにロールケーキを差し出した。

「このケーキね、シティーの“シャトレーゼ”ってお店で買ってきたの。そのお店、今では珍しくパティシエがケーキを作っているのよ?だから、ケーキ一つ一つに作り手の、幸せな気分にしてあげたいという心が込められているの。重要なのは、本当の気持ちよ…」

 俯くグレン。

「私…そんな事考えた事もなかった…大佐は私達の為に闘ってくれているのに、私は自分の事ばかり考えてた…」

 彼女が顔を上げた。

「私、闘います!自分の出来る戦いを!そうすればきっと、彼の支えになれるから…」

 彼女はそう言って、エレナの顔を見つめた。

 彼女の腹が鳴る。

「あのぅ…ケーキ食べてもいいですか?」

 グレンが恥ずかしそうにそういうと、エレナは微笑みながら答えた。

「どうぞ」

 嬉しそうにケーキにぱくつくグレン。

 そんな彼女を見て、エレナは心の中で呟いた。

「(この子だけは…不幸にしないでね…グラム…)」

 彼女は深く心から願った。





************





『その人の事、今も覚えていますか?』


 出ていく時、彼は私にそう尋ねた。

 純粋で悪意の無い質問。

 私は答えずに、取り調べ室を後にした。

 頭の中がチリチリする。

 こんな事が前にもあった。

 昔、CAMSでの再生治療を受けた後、軍医は私に同じ質問をした。私が軍医に、「何故そんな事を聞くのか」と問い質したら軍医は、「記憶の再生の為」と答えた。

 その時も今と同じように、脳の奥がチリチリとしていたのを覚えている。

 その度に現れる“幻の君”…

 君は一体誰なんだ?

 無い筈の記憶から形作られる、君は…?



「よう」

 ビンセントが、あたかも偶然見掛けたかのようなそぶりで声を掛けてくる。

 わざわざ探して来たこと位、一目見れば分かると言うのに。

 彼が居るのは、いつもと同じ中央広場の同じベンチ。

 何かを考える時。

 悩む時。

 彼は決まってここに来る。

「何をしに来た」

 グラムは、ビンセントの姿を見分するかのように睨み付ける。

「随分とつれねぇなぁ…親友が慰めに来たのによ」

 ビンセントは彼の横に座った。

 両手には缶ビール。

 口には煙草をくわえている。

「ほらよ」

 ビンセントがグラムにビールを投げ渡した。

 彼は右手で受け止める。

「飲めよ。ぬるくなっちまったけど、空きっ腹には調度いいぜ?」

 ビンセントはそう言って、缶ビールを一気に飲み干した。

 鳩が地面を突いている。

 何の悩みを持たぬかのように、誰かの撒いた餌を啄んでいる。

 一匹の白い鳩がいた。

 その鳩は、群れから離れた所に立ち、餌にも目をくれず、ただグラムの事をじっと見ている。

「災難だったみてぇだな…」

 ビンセントの言葉は、単刀直入に核心へ迫った。

「でも自分を責める事はねぇよ、グラム。それがその人間の択んだ道だ」

 グラムの心に火が灯った。

 択んだ道?

 死ぬ事が?

 死を選ぶ事が、避けようの無い選択だったと言うのか!

「道だと?」

 心に反して、彼の言葉は自分でも意外な位に落ち着き払っていた。

「お前は間違っている。死を選ぶ事など、正しい訳が無い」

 グラムの、余りにも真っ直ぐな答えに、ビンセントは苦笑の色を隠せなかった。

「ぶわはははは! 捻りがねぇなぁ、おい!」

 グラムが眉を歪める。

「何が可笑しい!」

 ビンセントは煙草を大きく吹かした。

「なぁ、グラムよ…今この瞬間に、何人の傭兵がくたばってるか、お前には分かるか? 10や20なんて数じゃねぇ…未だあちこちで続く小競り合いやら紛争やらで、奴らぁボロ雑巾みてぇに死んでいくんだ…それでも奴らぁ闘いを止めねぇ。奴らぁ戦場の中でしか生きていけねぇ。俺達傭兵はな、どこかが少しおかしいんだ」

 夕暮れの風が頬を撫でる。

 夕闇の中、徐々に減っていく人影。

 植えられた街路樹から散る枯れ葉が、風に吹かれて舞っていく。

「ただ死ぬ為に生きるのか?」

 ビンセントは答えて言った。

「ちげぇよ…生きる為に死ぬんだ。俺達は金の為でも、忠義の為でもなく、ただ自分達の志の為に引き金を引く。自分が死んでも、生き残った仲間が必ず成し遂げてくれるって信じてっからだ」

「誇りは命を縮めるぞ?」

「自信過剰もな」

 ビンセントがベンチから立った。

「いくら力があったとしても、力はいつか自分を裏切る。力は絶対じゃねぇ。“力”を持つ奴にとっちゃ、逃げられねぇ宿命だ。それでもなぁグラムよ…俺達は託されてんだ。奴らから…将来を託されてんだよ」

 グラムは言った。

「将来なんて捨てている」

 ビンセントは彼に答えた。

「違う。将来がお前を捨ててんだ。自分を好きになれよ…グラム。長く付き合うんだからな。自分を救えねぇ奴に、他人は護れねぇぞ?」

「お前は、自分を救えたか?」

 ビンセントは振り返り、グラムに答えた。

「復興作業中!」

 立ち去っていくビンセントの背中は、どこか寂しく見えた。

 グラムは、彼から受け取った缶ビールのフタを開け、中味を飲み干した。

 飲み慣れている筈のビールの味が、今日は苦く感じる。

 人を救う事と自分を救う事…

 自分に託されている事…

 “護る”と“守る”…

 似て異なる二つの言葉…

 これを同時に熟すのは難しい。

 だが、それが自分の道…

 背中に背負っている自分の使命…

 散っていった者たちへの、せめてもの償い…

 力が自分を裏切るまで…

 鳩が飛んでいく。

 灰色の鳩達が。

 灰色の群れに混じる白い鳩。

 彼はその鳩を、見えなくなるまで見つめ続けた。







Chapter 5

 私は望む。

 護られるだけでなく、闘い護る事を。

 私は臨む。

 自分の出来る闘いに。

 本来、人間一人の始まりなど、二つの細胞が偶然出会う事に過ぎず、発生した人間個体の出会いも又、偶然に過ぎない。

 それでも人は、出会ってきた人々を想い、愛して止まない。ただ、偶然に出会っただけの人々と共に歩もうとする。

 そんな人間が、私は…



 今の彼女は、サンヘドリンの技術者でなく、ジェネシック社の一社員としてそこに立っている。

 試験機を危険に晒し、事もあろうに重要な人材を失った社は、自分達の致命的な損失を恐れた。

 それを避ける為に彼等は、リセッツクロウと“当事者”を、サンヘドリン本部に一時保管。

 処理完了の後に、全てを回収する手筈を整えていた。

 全てが完了した今、彼女には帰社命令が出されている。

 グレンは首から掛けられたサンヘドリンのIDカードを外し、ガルスの目の前に置いた。

「お世話になりました」

 一礼する彼女に、ガルスが聞く。

「グラムに、会っていかなくても…?」

 彼女は答える。

「時間が無いみたいです。残念ですけど…。代わりに彼に渡して欲しい者があるんです」

 彼女はそう言って、一つの封筒を渡した。

 封のされた、何も外側に書かれていない封筒。

「私が出て行った後に、彼に渡して下さい」

 彼女は出て行った。

 彼女の居ない今、封筒はグラムの手元にある。

 彼はそれを開け、中に入っていた手紙を読んだ。


 私は望む。

 護られるだけでなく、闘い護る事を。

 私は臨む。

 自分の出来る闘いに。

 本来、人間一人の始まりなど、二つの細胞が偶然出会う事に過ぎず、発生した人間個体の出会いも又、偶然に過ぎない。

 それでも人は、出会ってきた人々を想い、愛して止まない。ただ、偶然に出会っただけの人々と共に歩もうとする。

 そんな人間が、私は愛おしく思う。

 大佐…

 人には“定められた運命”など無いけど、“宿命”はあります。

 だれもがその背中に背負っている大きな使命が…

 私は大佐と…、みんなと出会って、その重さを知りました。

 でももし、その宿命を、大佐が一人で背負うつもりなら私は、あなたの上に被さってでも、共に背負いたいと思っています。

 大佐…、私は戦場に出て闘う事は出来ないけど、大佐には出来ない闘いができます。

 私は私の闘いを、大佐は大佐の闘いを戦い抜いて、最後は同じ物を護っていきたいから…

 私は民間人で、大佐は偉い軍人さんで、考えの違いは有るかも知れないけど、それもきっと、苦難を乗り越える力になるから…

 先生はきっと、自分の闘いを戦い抜いて、最後は大佐に託したんだと思います。大佐はみんなの希望だから…

 どうしよう…

 書きたい事はいっぱいあるのに、言葉が思い付かないです…

 そうそう…

 昔誰かが、「タマゴを割らなきゃ、オムレツは作れない」と言っていたのを思い出しました。

 だから私、少し考えてきます。

 考えて考えて、“一番おいしいオムレツ”を作れるようになって戻ってきます。

 多分それが私の使命だから…

 この手紙、恥ずかしいから読んだ後は処分しちゃって下さい。

 あと、約束通り、私が居なくなった後に読んでくれてありがとう。

 みんな大好きです。



 彼は中央広場のベンチに座りながら、静かに手紙を閉じた。

 頭上には雲一つ無い青空が広がり、耳元では心地良い風のささやきが奏でられている。

 彼は昼時の、よく晴れた空を見上げた。

「今日だったんですね…彼女が帰る日…」

 聞き慣れた声が聞こえる。

「彼女が手紙をくれた」

「なんと書いてありましたか?」

「『自分の闘いを戦う』…と。私は護っているとばかり思っていた。でも実際は、護られていたんだ…」

 エステルが、今にも崩れてしまいそうな表情で彼に言う。

「彼女…帰って来るでしょうか?」

 グラムが、澄んだ表情で答えた。

「さあな…ただ一つ確かなのは、今のグレンは、昔の彼女じゃないと言う事だ」

 彼の瞳が、エステルの瞳を見つめる。

「彼女は必ず帰ってくる…必ず…その時は、笑顔で迎えよう」

「大佐…」

「なんだ」

「彼女は大佐の事を…」

「エステル」

 彼は彼女に言った。

「大昔に、ヘミングウェイという作家が言った。『この世は素晴らしい。戦う価値がある』とね。私もそう思う。ただ、私の世界は小さい。手に届く範囲が私の世界…そしてその世界の中に、君が居る。幸福というものは、一人では決して味わえないものだ、エステル…本当に幸せなのは、目覚めた朝、愛する人間が居る事だ」

 彼女は彼の瞳を一心に見つめながらこう言った。

「不思議です。口先だけで『愛してる』と言われても簡単に無視できますけど、態度で示されると…ついほだされてしまいます」

 グラムはゆっくり微笑み、エステルの手を取る。

「我々は現在だけを耐え忍べばいい。過去にも未来にも苦しむ必要は無い。過去はもう存在せず…」

「未来はまだ存在していないのだから…」

 彼は彼女に言った。

「一つ謝りたい事が有る」

「はい?」

「グレンに…また何も言えなかった。努力は…したのだが…」

 エステルの顔に、ゆっくりと笑みが広がる。

「大丈夫よ…グラム…。少しずつで…彼女が帰ってきた時に、『おかえり』って言ってあげれば…」

 彼の目の前を、白い鳩が飛んでいく。

 彼は言わずにはいれなかった。

 エステルに…

 そして、グレンに。


「ありがとう」と。


 鳩は、雲一つ無い青い空に、羽ばたき消えて行った。



[ACT 13]終



VARIANTAS第一部・『出会いと別れ編』完

はい、これにてVARIANTAS第一部・『出会いと別れ編』完と相成りました。

今まで見てくださった方も、これから見てみようという方も、ありがとううございました。第二部は、すぐに始まると思いますので、第二部も読んでいただけると幸いです。また、評価してくださった方や、お気に入り登録してくださった方々。平に、お礼申し上げます。

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