後編:ざまあみろ、そして自由を手に入れる
王妃様の女官になって、ふた月が過ぎた。
仕事は、侯爵邸にいたころの何倍も忙しい。謁見を願う貴族の取り次ぎ。贈り物への礼状の作成。陳情の中身を整理して、王妃様がお読みになる前に要点をまとめておくこと。
どれも地味な仕事だ。けれど、地味な仕事には慣れている。
「イザベル。南部の陳情の件は?」
「こちらに。三通とも同じ水害の件ですが、書いた方の立場がそれぞれ違いますので、並べて整理してございます」
「あなたが来てから、私の机がずいぶん片付いたわね」
王妃様が小さく笑われる。その言葉ひとつで、徹夜の疲れなどどこかへ消えてしまう。
最初は遠巻きに私を見ていた古参の女官たちも、近ごろは「イザベル、この方のご家族について教えてちょうだい」などと尋ねに来るようになった。手帳は二冊目に入った。
ある午後、王妃様の居間の前で、銀灰色の髪の方とすれ違った。
「──ああ、君か」
アルヴィン殿下だった。慌てて礼を取ると、殿下は少し足を止められた。
「あの時の席次は見事だった」
「え……」
「ローデン伯とカッセル伯。先日、二人で連名の願い出をしてきたよ。ヴェラ川の堰を、共同で管理したいそうだ」
思わず、顔を上げてしまった。
殿下は、ほんの少しだけ目元を和らげておられた。
「誰も気づかないところで、誰かの諍いをほどく。……なかなかできることじゃない」
それだけ言うと、殿下は王妃様の居間へ入っていかれた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
褒められたからではない。──いいえ、それもある。でもそれ以上に、あの日の小さな仕事が、ちゃんと誰かの明日につながっていたことが、たまらなく嬉しかった。
それから数日後、王妃様の居間に、アルヴィン殿下が書類の束を抱えてお見えになった。
「母上。少し、知恵をお借りしたいのですが」
王太子殿下は政務、第二王子殿下は軍務。そして第三王子のアルヴィン殿下に回ってくるのは、諸侯から上がる細々とした陳情や、地方の小さな揉め事の仲裁なのだという。誰もやりたがらない、けれど誰かがやらなければならない仕事。ローデン伯とカッセル伯の連名の願い出が殿下のもとへ届いたのも、そういうわけだったらしい。
「北のアーデン男爵とベリル男爵が、境界の森をめぐって三年も争っているのです。測量をやり直しても、古い地図を持ち出しても、どちらも一歩も引かない」
殿下が机に広げた書類を、王妃様がすっと私のほうへ押しやられた。
「イザベル。あなたはどう思う?」
私は手帳をめくった。アーデン、ベリル──あった。
「恐れながら……揉めているのは、森そのものではないかもしれません」
「どういうことだ」
「八年前、ベリル男爵のご令嬢が、アーデン男爵のご子息に嫁いでいらっしゃいます。そして三年前、そのご子息が亡くなられて、幼いお孫様がお一人残されました」
殿下の手が止まった。
「境界の森は、どちらの家が持つにしても、いずれはそのお孫様に渡る土地です。両家とも、本当は森ではなく──お孫様をどちらの家で育てるかを、争っておいでなのではないでしょうか」
しばしの沈黙のあと、殿下は書類の束をばさりと閉じられた。
「……三年分の測量図が、まるで役に立たなかったわけだ」
その声は呆れているようでいて、どこか楽しげだった。
「君の手帳には、他に何が書いてある?」
「とても、お見せできるようなものでは……」
「では、困ったらまた聞きに来る」
それが冗談ではなかったと分かったのは、翌週、殿下がまた別の書類を抱えて現れたときだった。
実家から二通目の手紙が届いたのは、その翌週のことだった。
私は、あの夜から一度も返事を書いていない。もちろん、実家に帰ってもいない。それでも貴族の社交界は狭い。「ハーヴェル家の三女が王妃様付きの女官に上がったそうだ」という噂は、どうやら遠い実家にまで届いたらしい。
ため息をひとつ吐いて、封を切る。
────
『愛する娘、イザベルへ
王妃様付きの女官に選ばれたと聞いた。父は誇らしく思う。幼いころから手塩にかけて教育してきた甲斐があったというものだ。これもすべて、我々の教育の成果である。
さて、せっかく王妃様のお傍にいるのだ。我が家のために、しかるべき方々へ口を利いてもらいたい。財務卿への紹介があれば、なお良い。
また、セリーヌの持参金の件だが、女官の給金と、お前の立場があれば、どうにでもなるだろう。ラザフォード侯爵家への体面もある。早急に工面するように。
なお、ブラム氏の件はひとまず保留にしておいてやる。
父より
追伸 後継ぎである私の縁談にも、ふさわしい方を紹介なさい。王宮にいるのだから簡単でしょう。──ロザリー』
────
(……愛する娘、ですって)
前の手紙には、そんな言葉はひとつもなかったのに。
私は静かに便箋を畳み、封筒に戻した。侯爵邸であの手紙を受け取った夜とは、何もかもが違っていた。怒りも、悲しみも、胸のどこからも湧いてこない。
ただ、ああ、この人たちは何も変わらないのだな、と思った。
今度は、返事を書くことにした。
黙っていれば、また次の手紙が来る。次の要求が来る。それに、これは私が自分の言葉で終わらせるべきことだと思ったから。
────
『ハーヴェル伯爵様
お手紙を拝読いたしました。
私は王妃様にお仕えする女官です。私が動くのは、王妃様のため、ひいてはこの国のためであり、ハーヴェル伯爵家の利益のためではございません。
どなたかへの口利きはいたしかねます。姉の持参金のために、私が王妃様のもとで得た信用を切り売りするつもりもございません。
また、ブラム氏とのご縁談は、正式にお断り申し上げます。
どうか、皆様お健やかに。
イザベル』
────
「お父様」とは、書かなかった。
封をして、王宮の文官に託す。指先は少しも震えなかった。
◇
嵐の襲来は、それから十日後のことだった。
「イザベル殿。ハーヴェル伯爵ご夫妻と、ご令嬢のロザリー様が、面会を求めておいでです」
取り次ぎの侍従は、困ったように眉を下げ、声を潜めて付け加えた。
「その、門のところで、ずいぶんと大きなお声を出されておりまして」
でしょうね、と私は心の中で呟く。
自分たちが育てた娘が、親の命令に逆らう。あの人たちにとって、それは天地がひっくり返るほどありえないことなのだ。
「私も同席しましょう」
事情を聞いたオリヴィア様は、迷わずそうおっしゃった。
「あなたを推薦したのは私です。その責任があります」
面会に使われるのは、女官の棟の小さな応接室だった。すぐ外は東の回廊で、謁見の順番を待つ貴族や廷臣たちが行き交っている。
「扉は少し開けておきなさい。未婚の女官が客人と会うときの、宮廷の慣例です」
「はい」
私は言われたとおり、扉を半分ほど開けておいた。
三年ぶりに見る両親は、記憶よりも少し小さく見えた。
父の上着は、かつては上等だったのだろう生地がすっかり色褪せている。母のきつい香水の匂いは昔のままだ。ロザリーお姉様は流行遅れのドレスの裾を握りしめ、部屋に入るなり私を睨みつけた。
「お久しぶりでございます。ハーヴェル伯爵様、伯爵夫人。ロザリー様」
私が礼を取ると、父の顔が赤黒く染まった。
「何だ、その他人行儀な挨拶は! 何だ、あの手紙は!」
「親の命令に逆らうなんて、この恩知らず!」
母が金切り声を上げる。
「王妃様の女官になれたのだって、グレンフォード侯爵夫人に取り入ったおかげでしょう。自分の実力だなんて思い上がらないでちょうだい!」
母の言葉にオリヴィア様の眉が、ほんのわずかに動いた。母は、同席者が侯爵夫人その人であることに気づいていないらしい。
「そうよ」
ロザリーお姉様が、一歩前に出た。
「ブラム氏の話をまとめたのは、この私よ。支度金で屋敷の借金を返して、セリーヌを侯爵家に嫁がせて、後継ぎの私が家を立て直す。完璧な計画だったのに、あなたのせいで全部台無しじゃない!」
ああ、やはり。あの追伸は、ただの添え書きではなかったのだ。
「後継ぎの私がこの家を再興するために、お前は身を挺すべきなのよ!」
三人の声は、半分開いた扉からそのまま回廊へ流れ出ていく。
外の足音が、いくつか止まったのが分かった。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
不思議なほど心は凪いでいた。ずっと、この人たちの顔色をうかがって生きてきた。けれど今は、三人の顔がとてもよく見える。
「あなたたちが私に望んだのは、『駒』であって『娘』ではなかったでしょう」
父が、口を開けたまま固まった。
「侯爵夫人のもとで箔をつけた娘なら、商人に高く売れる。前のお手紙に、そう書いてありましたね」
「そ、そんな下品な書き方はしていない!」
「内容についてはお認めになるのですね。では、今さら『親の命令』だなんて、笑わせないでください」
父が、何か言いたげにはくはくと唇を動かす。けれど言葉は出てこない。
それを無視して、私はロザリーお姉様に向き直った。
「それから、お姉様。ハーヴェル伯爵家の再興は、後継ぎであるお姉様ご自身の努力で成し遂げるべきことです。妹を売ったお金でするものではありません」
「なっ……!」
ロザリーお姉様の顔が、真っ赤に染まった。
「黙れ!」
父が、テーブルを拳で叩いた。
「娘を嫁にやるのに、親が値をつけて何が悪い! 女官だの何だの、どうせ嫁入りのための箔付けの肩書きだろうが!」
──その声は、これまでのどれよりも大きく、回廊に響き渡った。
「……今のは、ハーヴェル伯爵か?」
「王妃様付きの女官を、箔付けの肩書きだと?」
「娘に値をつける、とは……」
扉の向こうで、ひそひそと囁き交わす声がする。父は気づいていない。
オリヴィア様が、静かに立ち上がられた。
「ハーヴェル伯爵」
決して大きな声ではない。それなのに、部屋の空気がしんと冷えた。
「イザベル嬢を推薦したのは、確かに私です。しかし、彼女が王妃様付きの女官となったのは、イザベル嬢の働きをご覧になった王妃様ご自身がお望みになったからです」
オリヴィア様は、父をまっすぐに見据えられた。
「あなた方は、私だけでなく、王妃様の目も曇っているとおっしゃるのですか?」
「い、いえ、決してそのような……!」
父の顔から、さっと血の気が引いた。母は先ほどの失言を思い出したのか、扇で口元を覆った。ロザリーお姉様はうつむいたまま動かない。
「失礼」
そのとき、半開きの扉が、軽く叩かれた。
振り返った三人が、そろって息を呑む。アルヴィン殿下が、扉の前に立っておられた。王妃様の居間へ向かわれる途中だったのだろう。
「廊下の向こうまで聞こえていたものでね。ハーヴェル伯爵、だったかな」
「は、ははっ! 第三王子殿下におかれましては……」
父が転がるように膝を折る。殿下はそれを、冷たく見下ろされた。
「ひとつだけ伝えておこう。王妃の女官に、実家の都合で口利きや金の工面を求めることは、宮廷では固く禁じられている」
父の肩が、びくりと跳ねた。
「ご存じなかったのなら、今ここで覚えてお帰りいただきたい」
それきり、殿下は何もおっしゃらなかった。けれど、それで十分だった。両親とロザリーお姉様は、もはや一言も返せないまま、逃げるように部屋を出ていく。
その背中に、私は最後にひとつだけ声をかけた。
「私はこれからも、自分の仕事に励みます」
母が、一瞬だけ振り返った。
「だからどうか──私の人生を、私に返してください」
返事はなかった。
三人は、囁き交わす貴族たちの視線の中を、うつむいたまま回廊の向こうへ消えていった。
扉が閉まると、膝から力が抜けそうになった。
「よく言いました、イザベル」
オリヴィア様が、そっと背中に手を添えてくださる。
殿下は、まだ扉の脇に立っておられた。
「差し出がましい真似をした」
「いいえ。ありがとうございました、殿下」
「礼を言われるようなことはしていない。決め手になったのは、君の言葉だ」
「ですが、殿下はどうして……」
思わず問いかけると、殿下は少しだけ視線を逸らされた。
「……三番目というのは、誰にも本気で見られないものだ」
「えっ」
「兄上たちの予備。王宮では、陰でそう呼ばれている。何をしても、上の二人と比べられて終わりだ」
淡々とした声だった。けれど、その奥に沈んでいるものを、私は知っている気がした。
待望の男子ではなかった三女。姉たちの華やかさの陰で、値札をつけられる日を待つだけだった娘。
「だから、自分を駒として扱う者に向かって、あんなふうに言える君が……少し、眩しかった」
あの夜、控えの間で殿下が呟かれた「覚えのある話だ」という言葉の意味が、ようやく分かった。
「……三番目同士、ですね」
口にしてから、なんて不敬なことをと青くなった。けれど殿下は、虚を突かれたように瞬きをして──それから、声を立てて笑われた。
「ああ。三番目同士だ」
笑いが収まると、殿下はふと真顔になられた。
「家族と縁を切って、後悔は?」
答えを考えるまでもない問いだった。
「ありません。……少しだけ、寂しいだけです」
「寂しいのは、ちゃんと愛そうとしていた証拠だ」
殿下は、静かにそうおっしゃった。
「君は、何も間違っていない」
その一言で、喉の奥が熱くなった。あの夜、手紙を燃やしたときにも流れなかった涙が、今になってこぼれそうになって、私は慌ててうつむいた。
殿下はそれ以上何もおっしゃらず、ただ私が顔を上げるのを黙って待ってくださった。
そして、今度こそ王妃様の居間へ向かわれた。
◇
噂というのは、驚くほど足が速い。
あの日、東の回廊に居合わせた貴族たちの口から口へ。「ハーヴェル伯爵家は、娘を商品としか思っていない」「王妃様付き女官の名誉を、嫁入りの箔付け呼ばわりした」。三日もすると、王都で知らない者はいなくなっていた。
ほどなく、ラザフォード侯爵家とセリーヌお姉様との縁談が立ち消えとなった、と聞いた。表向きの理由は、持参金の折り合いがつかなかったこと。それも確かに、理由のひとつなのだろう。けれど、一番重要な理由は、誰の目にも明らかだった。
その知らせを聞いた夜、私は一通の手紙を書いた。
宛先は、セリーヌお姉様。実家に送れば、両親の目に触れる。だから幼いころ私たちの面倒を見てくれた、ばあやに宛てて、こっそりと託した。
『お姉様の縁談が壊れたのは、私が家の言うことを聞かなかったせいです。ごめんなさい』
特別に仲の良い姉妹ではなかった。それでも今思い返せば、冷たかった両親やロザリーお姉様と違って、セリーヌお姉様だけは、ごく普通の姉として私に接してくれた。夜更けに差し入れてくれた、ホットミルクの甘さを私は今でも思い出せる。
返事は、思っていたよりずっと早く届いた。
届いた封筒には、手紙が二通入っていた。一通は、見覚えのある几帳面で小さな文字。ばあや自身からのものだった。
────
『イザベルお嬢様
お元気でお過ごしのご様子、ばあやは毎晩、神様にお礼を申し上げております。
お嬢様がお気になさっているといけませんので、こちらの様子を、ありのままにお知らせいたします。
先日の朝、旦那様へ宮廷から通達が届きました。当面のあいだ、王宮の行事へのお招きは差し止める、とのことでございます。朝食の席でそれをお読みになった旦那様は、スプーンをお皿の上に取り落とされました。
その翌週には、ラザフォード侯爵家のお使者がお見えになりました。玄関先で縁談の取り下げを告げられ、お茶の一杯も召し上がらずにお帰りになりました。奥様は、それから三日ほど寝込まれました。
奥様のお茶会も、皆様「急なご病気」とのことで、お一人、またお一人と欠席のお返事が届きます。この辺りでは、ずいぶんと悪い風邪が流行っているようでございます。
ロザリーお嬢様の婿取りのお話も、すっかり途絶えました。たまに舞い込むのは、訳ありか、難ありの方ばかり。ロザリーお嬢様は近ごろ、お部屋で家系図ばかり眺めておいでです。
使用人へのお給金も滞りがちで、料理番も庭師も、この春までにお暇をいただきました。わたくしも、近いうちにそうさせていただくつもりでおります。
旦那様は今朝も、届くはずのない招待状をお待ちになって、ご自身で玄関の手紙受けを三度覗いておいででした。
お嬢様。どうか、何ひとつお気になさいませんように。
ばあやは、お嬢様が小さいころから、夜遅くまで灯りをつけて一生懸命に学んでおられたのを存じております。その努力がようやく正しく報われたのだと、心から誇りに思っております。
お嬢様は、お嬢様の道をお進みくださいませ。
マルタ』
────
読み終えて、私はしばらく便箋を膝に置いたまま動けなかった。
胸がすく、という気持ちとは少し違った。あの家で起きていることは、私が仕組んだことではない。あの人たちが自分で口にした言葉が、自分で選んだ行動が、そのまま返ってきているだけだ。
それよりも、あの家に私の部屋の灯りを見ていてくれた人が、セリーヌお姉様のほかにもいた。そのことが、ただ嬉しかった。
そして、もう一通。私はセリーヌお姉様の手紙を、ゆっくりと開いた。
────
『親愛なる妹、イザベルへ
お手紙をありがとう。正直に言うと、ほっとしているの。ううん、これも正直ではないわね。ええと、「ざまあみろ」って言うのよね? 一度使ってみたかったの。
お父様とお母様と、ロザリーお姉様には、もううんざり。毎日毎日、家のため、家のためって。
侯爵家との縁談も、本当は望んでいなかったわ。私には、侯爵家の奥方が務まるような教養も才覚もないもの。あなたと違ってね。
本当はね、お隣のヒューズ男爵家に嫁ぎたかったの。覚えているかしら? 小さいころ、一緒に木苺を摘んだテオよ。でも、あの家は貧乏だからって、お父様は鼻で笑っておしまい。我が家も大して変わらないのにね。
私には、あなたみたいに自分の足で踏み出す勇気はないみたい。
だから、私はあなたにお話があった商人の方──ブラム様に嫁ぎます。一度お会いしたけれど、奥様を亡くされて長い、静かで優しい方だったわ。貴族出身の妻を望んでいらして、良い暮らしを約束してくださるし、何より両親に持参金をせがむ必要もないもの。
ブラム様は、不思議な方だったわ。一時間お話ししたのに、一度も私の容姿のことをおっしゃらなかったの。代わりに「普段は何をなさっているのですか」と聞かれたから、裏庭で薔薇を育てていると答えたら、どの品種か、冬はどうやって越させるのか、根掘り葉掘り。気づいたら、私ばかり喋っていたわ。
お父様たちは、今度は私の支度金を当てにしているみたい。ちょっと癪だけれど、口うるさいこの家から逃れられるなら、それでいいわ。
セリーヌ』
────
私は、その手紙を二度読んだ。
「それでいい」と書いてある。けれど、その一行だけ、ペン先が強く押しつけられたように、インクが滲んでいた。
本当は、少しもよくないのだ。
セリーヌお姉様は、両親の思い通りに生きるのが、もう嫌なのだ。ただ、それ以外の方法を知らないだけで。
このままブラム氏との縁談が進めば、支度金はそっくり両親の懐に入る。それでは、お姉様は名前の違う「駒」として、もう一度売られるのと同じだ。
私はペンを取った。
────
『セリーヌお姉様へ
ひとつだけ、お願いがあります。
ご結婚の前に、ブラム様と「婚姻契約書」を交わしてください。そして、次の二つを必ず書き入れてください。
一、支度金は、花嫁であるセリーヌ本人の名義で管理し、実家には渡さないこと。
二、婚家は、ハーヴェル伯爵家に対し、いかなる援助の義務も負わないこと。
立会人には、王都の公証人をお頼みください。正式な契約書があれば、お父様たちにも手出しはできません。
ブラム様が本当に誠実な方なら、きっと署名してくださるはずです。
これは勇気の問題ではありません。ただの、手続きの問題です。
あなたの妹、イザベル』
────
書き終えて、私は小さく笑ってしまった。
婚姻契約の書き方も、公証人の立て方も、実家で家庭教師に叩き込まれた知識だ。私に値札をつけるために学ばされたことが、姉を自由にするために役立とうとしている。
(……皮肉なものね)
それからひと月後。セリーヌお姉様から、短い手紙が届いた。
────
『ブラム様は、契約書を読むなり笑って、その場で署名してくださったわ。「ご自分の値打ちをご存じの奥方なら、なおのこと大歓迎です」ですって。
それだけじゃないの。ペンを置く前に、ブラム様はご自分で一行書き足されたのよ。「屋敷の庭の手入れは、セリーヌの望むままに任せること」って。一度お会いしたときに話した薔薇のこと、ちゃんと覚えていてくださったの。
昨日、小さな式を挙げました。お父様たちに知らせたのは、全部終わったあとよ。
それから、ばあやにはうちに来てもらうことにしたわ。隠居じゃなくて、引き抜きよ。ばあやは貴族のお家に詳しいでしょう? それを知ったブラム様が、「お給金は今の二倍出す」とおっしゃってくださったの。
ありがとう、イザベル。私は生まれて初めて、自分で何かを選んだ気がするの』
────
後から聞いた話では、支度金を当てにしていた父は、契約書の写しを見せられて、その場で寝込んでしまったそうだ。両親が私を売ろうとした相手に、セリーヌお姉様は、両親の手を離れて嫁いでいった。あの人たちの手元には、何ひとつ残らなかった。
お姉様もまた、ずっと「駒」として扱われてきたのだと、今なら分かる。
美しいから愛されていたのではない。美しいから、高く売れると思われていただけだった。
それでも、お姉様は自分の名前で署名をした。
窓の外の夕焼けを見ながら、私はそっと祈った。
どうか、お姉様の人生が、お姉様のものでありますように。
◇
セリーヌお姉様の手紙が届いてから、十日ほど経ったころ。王宮の通用門に、私を訪ねて小柄な老婦人がやってきた。
「ばあや……!」
マルタだった。ブラム家へ移る前に、どうしても渡したいものがあるのだという。門の脇の小部屋で向かい合うと、ばあやは膝の上の包みを、そっと解いた。
中から出てきたのは、紐で束ねられた手紙の山だった。
見覚えのある封筒。見覚えのある、私の字。
「お屋敷を出る支度をしておりましたら、旦那様の書斎の、いちばん下の引き出しから出てまいりました。見つけたときには、どれも封が切られておりませんでした」
三年分。季節ごとに一通ずつ。
侯爵邸での暮らしのこと。オリヴィア様に初めて名前を呼んでいただいた日のこと。つらいことがあっても、お父様の言葉を思い出して頑張っていること。家族に読んでほしくて、書き送った手紙。
──商品に、返事はいらない。
あの夜、自分で出した答えが、こうして形になって目の前にある。分かっていたはずなのに、指先が冷たくなった。
「……ひとつだけ、お伝えしなければならないことがございます」
ばあやが、静かに言った。
「この束を見つけた晩、奥様が、これをお部屋へお持ちになりました。そして一晩中、一通ずつ封を切って、お読みになっておいででした」
私は、顔を上げた。
「明け方、お部屋の前を通りましたら、灯りがついたままで……奥様は手紙を胸に抱いて、泣いておいででした。『あの子は、ずっと書いてくれていたのね』と、何度も」
束を手に取ると、確かに、どの封も切り口がまだ新しかった。三年のあいだ、誰にも開かれなかった手紙。それが、ほんの数日前に、ようやく開かれたのだ。
あのころの私が、いちばん読んでほしかった人に、三年遅れで届いた言葉。
嬉しい、とは思わなかった。悲しい、とも少し違った。ただ、胸の奥で何かが静かに終わったのが分かった。
「奥様に、何かお伝えすることはございますか」
ばあやの問いに、私は長いあいだ黙っていた。
「……いいえ」
それから、束をそっと包み直した。
「これは、あのころの私のものよ。あのころの私が、ちゃんと頑張り続けたという証。それだけで、もう十分なの」
ばあやは皺の目立つ手で私の手を包み、何も言わずに頷いてくれた。
その晩、私は手紙の束を、机のいちばん奥の引き出しにしまった。
燃やすことはしなかった。けれど、もう二度と開くこともないだろう。
◇
殿下が王妃様の居間を訪れる回数は、少しずつ増えていった。書類を抱えてくる日もあれば、何も持たずに来て、窓辺で王妃様と短い世間話をして帰る日もある。
王妃様が謁見で席を外されていた、ある午後のこと。私はお茶と一緒に、小さな焼き菓子を殿下の前に置いた。
カップに伸びかけた殿下の手が、ぴたりと止まった。
「……これは」
「胡桃と塩のサブレです。お砂糖は、ほとんど使っておりません」
殿下はひとつ口に運び、それからゆっくりと私を見上げられた。
「なぜ、私が甘いものを苦手だと?」
「あの茶会の日、殿下はお菓子に一度も手をつけておられませんでした。それからも、こちらでお出しする甘いものだけは、いつも残っておいででしたので」
殿下は、しばらく黙っておられた。
「……母上ですら、気づいていないのに」
ぽつりと、そうおっしゃった。
「三番目の王子が何を好み、何を残すかなど、誰も気に留めないと思っていた」
殿下はもうひとつサブレを手に取り、窓から差し込む光にかざすように眺められた。
「君は、本当によく見ているな」
その声がいつもより少しだけ柔らかかった気がして、私はなぜか顔を上げられなくなった。
それから、ひと月ほど経ったころのことだ。
謁見の取り次ぎを終えて回廊を歩いていると、窓の下の通用門のあたりが、何やら騒がしかった。気になって思わず窓から見下ろして、息が止まった。
衛兵に行く手を阻まれているのは、父だった。
「財務卿にお目通りを願っているだけだ! 通せ!」
「ハーヴェル伯爵家の方は、当面、王宮へのお立ち入りをご遠慮いただくよう申しつかっております」
「私を誰だと思っている! 私は王妃様付き女官の父親だぞ!」
門の前を行き交う人々が、足を止めた。
誰かが、くすりと笑った。それが合図だったかのように、あちこちで忍び笑いが漏れる。
あれが、例の。娘を売ろうとしたという。挙句、その娘に縁を切られたという──
囁きは、窓辺の私の耳にまで届いた。
父の上着の肘のあたりが、擦り切れて光っているのが見えた。借金の相談に来たのだろう、と思った。財務卿に頭を下げて、返済の猶予を乞うために。
セリーヌお姉様の手紙の一句を思い出す。『ざまあみろ』。今の私の胸の内にある感情が、そう表現されるものなのだろうか。私には、よく分からない。ただ確かなのは、あの人が私のことを「娘」ではなく「王妃様付き女官」としてしか呼べないのだと──それが、少しだけ寂しかった。
やがて父は衛兵に背を押されるようにして、門の外へ消えていった。
私は窓辺を離れ、王妃様の居間へ戻った。机の上には、今日のうちに片付けなければならない陳情が、まだ山のように残っている。
私の居場所は、もう、ここなのだ。
◇
季節がひと巡りした。
私は今、王妃様のもとで、諸侯からの陳情の取りまとめを任されている。どの家とどの家を引き合わせ、誰の願いをどの順でお耳に入れるか。王妃様は大事な案件ほど、まず私に意見をお求めになる。
「困ったことがあればイザベルに聞け」──古参の女官たちのあいだで、そんな言葉が囁かれていると知ったときは、さすがに照れくささに顔が熱くなった。
ある穏やかな午後。書類を整えていると、王妃様がふとペンを置かれた。
「イザベル。あなたは、ご実家を再興したいとは思わないの?」
私は少しだけ考えた。
かつては、それがすべてだった。家のため、両親のため。そのために学び、そのために耐えてきた。
「かつては、そう思っておりました」
正直に、答えた。
「でも今は、自分の働きで得たものを、自分の意思で使いたいと思っております」
王妃様は、ゆっくりと頷かれた。
「そうね。あなたの人生は、あなた自身のものですものね」
その言葉が、春の陽射しのように胸に沁みた。
「母上、失礼します」
軽く扉が叩かれ、アルヴィン殿下が入ってこられた。
「あら、また来たの」
王妃様が、わざとらしく目を丸くなさる。
「近ごろ、ずいぶん私の部屋に来るわね。前は呼んでも、なかなか顔を見せなかったのに」
「……用があるからです、母上」
殿下は咳払いをひとつすると、私のほうへ向き直られた。銀灰色の髪が、窓からの光にきらりと揺れる。
「イザベル。来月、私の名で茶会を開くことになった」
「はい」
「客は、少々気難しい顔ぶれでね」
殿下は、どこか楽しげに目を細められた。
「今度は、私の茶会にも君の機転を貸してほしい」
王妃様が、くすりと笑われる気配がした。
私は手帳を胸に抱いたまま、微笑み返した。
「喜んで。まずは、招待客のリストを拝見させてくださいませ」
◇
殿下の茶会が王宮で評判になってから、しばらくして。
王都では、新しい噂が流れ始めていた。第三王子殿下が、王妃様付きの女官をたいそうお気に召しているらしい、と。
その噂がどこまで届いたのかは、すぐに分かった。実家から、三通目の手紙が届いたのだ。宮廷の門を閉ざされ、財務卿にもすがれず、使用人までもが去っていく。あの人たちにとって、それが最後に残された頼みの綱だったのだろう。
封筒の表には、見慣れた父の筆跡で、こう書かれていた。
『我が家の自慢の娘、イザベルへ』
……自慢の娘。
夢想するのはやめて帰って来い、と書いたのと同じ手で。
中に何が書いてあるのかは、封を切らなくても分かる。殿下とのご縁を喜ぶ言葉。親としての後押しの申し出。そしてきっと、そのついでの、いくつかのお願い。
私は封筒を裏返し、余白に一行だけ書き添えた。
『受け取りを辞退いたします』
そして封を切らないまま、文官に託した。
あの日、あの人たちからの手紙を読んだ私は、封をしたばかりの自分の手紙を燃やした。
今度は、あの人たちの手紙を読まずに、封をしたまま返す。
それで本当に、全部おしまい。
それからふた月ほどして、セリーヌお姉様から長い手紙が届いた。
────
『イザベルへ
先週、ついにお屋敷のものが競売にかけられたの。借金を返すためよ。
お母様の嫁入り道具だった鏡台だけでも買い戻そうと思って、私はブラム様と一緒に久しぶりに伯爵邸に戻りました。
大広間に、知らない人たちが大勢いたわ。銀の燭台も、お祖父様の代の絨毯も、次から次へと値がついて運び出されていった。お母様は、最後まで自分のお部屋から出てこなかった。
最後に運ばれてきたのは、大階段に掛かっていた、ご先祖様の肖像画。お父様が毎朝あの前に立って、「我が家はこんなところで終わる家ではない」とおっしゃっていた、あの絵よ。
競売人が値を読み上げたとき、お父様が立ち上がったの。
そして胸元から、封筒を取り出した。あなたが送り返した、あの手紙よ。封を切らないまま、ずっと持ち歩いていたみたい。
お父様はそれを高く掲げて、皆さんに向かっておっしゃったわ。
「我が家は、王妃様付きの女官を出した家だ。あれは、私が育てた娘だ」
何度も、何度も。
でも、封筒の裏には、あなたの字で「受け取りを辞退いたします」と書いてあったでしょう。前の方の席の人たちには、それが見えていたのね。何ともいたたまれない、しらけた空気が流れたわ。しばらくして、競売人が咳払いをひとつして、何事もなかったように値の読み上げを続けた。
結局ご先祖様の肖像画は、額縁の値段にもならないような額で、古道具屋さんに引き取られていきました。ブラム様がおっしゃるには、厳めしい顔の中年男性の絵よりも、可愛らしい若い女性の絵のほうが良い値がつくそうよ。確かに、そちらのほうが飾り甲斐があるものね。なんだか笑っちゃったわ。
お父様はそのあとも、空っぽになった大階段の壁を、ずっと見上げていたそうよ。
そうそう、鏡台は無事に買い戻せました。お母様には、もう少し落ち着いたら届けるつもり。
それから、ロザリーお姉様のこと。
縁談がひとつだけ来たそうよ。南の港町の、ずいぶんお年を召した材木商の後妻のお話。借金を肩代わりする代わりに、由緒正しい貴族の娘を、ということらしいわ。……どこかで聞いたような話でしょう?
セリーヌ』
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私は便箋を置いて、窓の外を見た。
──家のために、喜んでこの縁談を受けるように。
あの日、父の手紙に書かれていた言葉が、今はロザリーお姉様の身に降りかかっている。
ロザリーお姉様から手紙が届いたのは、それから半月後のことだった。
生まれて初めての、お姉様からの手紙だった。
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『イザベルへ
あなたなら、王宮に伝手があるでしょう。
財務卿でも、どなたでもいいわ。借金の返済を待ってもらえるよう、口を利いてちょうだい。それが無理なら、もっとましな縁談を紹介して。
あの材木商、六十を過ぎているのよ。前の奥様を二人も亡くしているの。
私は、伯爵家の後継ぎなのよ。どうして私が、こんな目に。
お願い。助けて。
ロザリー』
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最後の「助けて」の字だけが、ひどく震えていた。
──後継ぎの私がこの家を再興するために、お前は身を挺すべきなのよ。
面会室でそう叫んだのと同じ人の字とは、とても思えなかった。
私は長いあいだ、その便箋を見つめていた。
口を利くことはできない。宮廷の決まりでもあるし、何より、それをしてしまえば、私はあの人たちと同じになる。誰かの信用を、自分の家のために切り売りする人間に。
けれど、何も返さずにいることもできなかった。私は、短い返事を書いた。
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『ロザリーお姉様
私にできることは、ありません。
伯爵家の再興は、後継ぎであるお姉様ご自身の努力で成し遂げるべきことだと、私は今もそう思っています。
ただ、もしその縁談をお受けになるのなら、ひとつだけ。婚姻の前に、必ずご自分の名義で契約書を交わしてください。セリーヌお姉様が、そうしたように。
お姉様の人生も、お姉様のものですから。
イザベル』
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それきり、ロザリーお姉様から手紙が来ることはなかった。
お姉様が南の港町へ嫁いでいったと風の便りに聞いたのは、翌年の春のことだ。契約書を交わしたのかどうかは、知らない。
おそらくハーヴェル伯爵家が再興されることはない。このまま緩やかに朽ちて、消えていく。
両親が夢見た家格も、姉たちの華やかな結婚も、何ひとつ、あの人たちの思い描いたとおりにはならなかった。
けれど私は、この王宮で自分の居場所を見つけた。
誰かに値札をつけられるのではなく、自分の仕事で、自分の価値を示せる場所を。
そして何より──自分の人生を、自分で選ぶ自由を。
あの朝、燃やした手紙の灰の向こうに、こんな日々が待っているなんて。
あの夜の私に教えてあげたら、きっと信じないだろう。
お仕事ものが書きたかったのですが、なんだか違う方向に。手紙の部分って、どう見せれば読みやすいのでしょうね?




