前編:手紙、そして決別のとき
その手紙が届いたのは、私が人生でいちばん幸せな手紙を書き終えた、まさにその瞬間だった。
封蝋はまだ温かい。宛先はハーヴェル伯爵家。私の実家だ。中身は、三年間ずっと伝えたかった知らせ。読んだ両親がどんな顔をするだろうと想像しただけで、頬がゆるんでしまう。
「イザベル様。ご実家からお手紙が届いております」
侯爵邸の小間使いが差し出したのは、見慣れた父の筆跡の封筒だった。
実家から手紙が来るのは、本当に久しぶりだった。こちらからは季節ごとに書き送っていたけれど、返事が届いたことは数えるほどしかない。
(もしかしてお父様たちも、もう噂を聞いたのかしら)
そんなはずはないと分かっていながら、胸が弾んだ。
……読み始めるまでは。
────
『イザベルへ
セリーヌに、ラザフォード侯爵家の次男から縁談の申し入れがあった。セリーヌの美しさを、先方がたいそうお気に召したのだ。我が家にとって、またとない好機である。
だが、侯爵家に嫁がせるには家格に見合った持参金がいる。今の我が家に、その余裕はない。
そこで、お前には商人のブラム氏の後妻に入ってもらうことにした。ブラム氏は貴族の妻を望んでおられ、侯爵夫人のもとで行儀見習いを積んだ娘なら申し分ない、と大変な乗り気だ。支度金も十分に出してくださる。
王宮に上がるなどと夢想するのはやめて、すぐに帰って来い。家のために、喜んでこの縁談を受けるように。
父より
追伸 三女のあなたが、ようやく家の役に立てるのよ。感謝なさい。──ロザリー』
────
三度読み返しても、内容が変わることはなかった。当たり前だけれど。
ブラム氏。名前だけは聞いたことがある。王都でも指折りの豪商で、歳は確か、父とそう変わらないはずだ。けれど、私の目が釘付けとなったのは、そこではなかった。
「……夢想、ですって?」
声が震えた。
『お前は賢い。王妃様にお仕えする女官にだってなれる』
そう言って私をこの侯爵邸へ送り出したのは、お父様ではないか。
机の上には、封をしたばかりの私の手紙がある。その隣で、父の手紙がかさりと乾いた音を立てた。
どうして。いつから──それとも、最初から?
私の生まれたハーヴェル伯爵家は、かつては王家の宴に毎年招かれる家だったという。けれど祖父の代に事業で大きくつまずき、領地の大半を手放してからは、その面影もない。父の口癖は「我が家はこんなところで終わる家ではない」だった。
そしてハーヴェル伯爵家には、娘ばかり三人いた。
長姉のロザリーお姉様は後継ぎとして育てられた。容姿は整っているのに、気難しそうに眉を寄せる癖が、魅力を損なっていると思う。口を開けば家名と家格の話ばかりで、その点では父と母にそっくりだった。
次姉のセリーヌお姉様は良く言えば鷹揚な、悪く言えば呑気な人だ。ただし、陽だまりを思わせる美貌の持ち主である。金の髪に、春の空みたいな青い瞳。母はセリーヌお姉様を着飾らせることが大好きで、来客があるたびに彼女を一番前に立たせた。
そして三女の私、イザベル。
三番目に生まれた子は、両親が待ち望んでいた男の子ではなかった。髪はありふれた栗色で、顔立ちも地味。鏡の前に立つたび、セリーヌお姉様と同じ両親から生まれたとは思えなくて、小さくため息をついた。
それなのに、両親は三人の中で私にいちばん手をかけてくれた。
礼儀作法、歴史、文学、外国語。国中の貴族の家系図と紋章、それぞれの領地の産物まで。家庭教師が入れ替わり立ち替わりやって来て、私は朝から晩まで机にかじりついた。
「お前は賢い。王妃様にお仕えする高級女官にだってなれる。イザベル、我が家の未来はお前にかかっているんだ」
父にそう言われた夜は、嬉しくて眠れなかった。
姉たちのような華やかさのない私を、両親はちゃんと見てくれている。期待してくれている。それが愛情でなくて、何だというのだろう。
「三女のくせに、ずいぶんお金をかけてもらえていいご身分ね」
ロザリーお姉様には、廊下ですれ違うたびにそう言われた。
一方で、遅くまで課題に向かっていると、セリーヌお姉様がこっそりホットミルクを持ってきてくれることもあった。
「イザベルは頑張り屋さんね。でも、たまには早く寝なきゃだめよ」
特別に仲の良い姉妹ではなかったけれど、あのミルクの甘さは、今でもよく覚えている。
◇
十五の春、父の伝手をたどって、私はオリヴィア・グレンフォード侯爵夫人のお屋敷へ、侍女として奉公に上がった。
オリヴィア様は王妃様の側近で、王宮の女官たちをまとめる女官長でもある。王妃様のお傍に上がりたい令嬢は、まずこの方のもとで目に留まらなければならない。
つまり、ここは王宮への入り口であり──戦場だった。
「ハーヴェル? ああ、あの落ちぶれた伯爵家の」
初日にそう笑ったのは、ベルモント侯爵家の令嬢、ヴィクトリア様だった。
艶やかな黒髪に、自信に満ちた紫の瞳。父君は宮廷でも指折りの実力者で、彼女の周りにはいつも取り巻きの令嬢たちがいた。
侯爵邸には、私と同じように王妃様の傍付きを夢見る令嬢が大勢集まっていた。そして家柄と人脈を持つ令嬢たちにとって、後ろ盾のない私は、実に都合のいい存在だったらしい。
面倒な仕事は、いつの間にか私に回ってくる。
誰かがティーカップを割れば、「イザベル様がぶつかったのよ」と誰かが言う。
言い返すのは、初めの数回でやめた。反論したところで、信じてもらえるのは私ではないとすぐに分からされたから。
その代わり、私は耳を澄ませた。
茶会での噂話。使用人たちの立ち話。来客同士の、ほんの短いやり取り。誰が誰を恐れているのか。誰が何を隠しているのか。どの家とどの家が、今うまくいっていないのか。
部屋に戻ると、小さな手帳に書き留める。実家で叩き込まれた家系図と紋章の知識が、そこで初めて、生きた人間の顔と結びついていった。
ある春の日のことだ。
ウィンストン伯爵がご来訪になると聞いて、私は応接間に活けられていた百合を、こっそり薔薇に替えておいた。
その翌日、オリヴィア様に呼ばれた。
「応接間の百合を替えたのは、あなた?」
「はい。去年いらした折、伯爵様はずっとくしゃみをこらえていらっしゃいましたので……出過ぎた真似をいたしました」
オリヴィア様は何もおっしゃらなかった。ただ、ほんの少しだけ口の端を上げて、私を下がらせた。
それからだ。雨の日には、オリヴィア様のお部屋のカーテンを少しだけ引き、カモミールのお茶を用意しておく。こめかみを押さえる癖が出る前に。
客人が帰ったあと、オリヴィア様が「あの方は──」と言いかけたときには、その方の領地の近況をまとめた覚え書きを、そっと差し出す。
頼まれる前に。口に出される前に。
派手なことは何ひとつしていない。それでも少しずつ、オリヴィア様が私の名を呼ぶ回数が増えていった。
そして、三年目の秋を迎えたある日のことだった。
「イザベル。あなたを、王妃様の女官候補として推薦します」
オリヴィア様からそう告げられたとき、私はしばらく息をするのを忘れていた。
「あなたは華やかさこそありませんが、人を見る目があります。王妃様のお傍に置くに相応しい」
「……身に余る、お言葉です」
声が掠れた。
お父様、お母様。私、ここまで来ました。
まだ王宮での最終選考が残っている。けれどそのとき私は確かに、遠い実家の食卓で両親が笑う顔を思い浮かべていた。
◇
王妃様の居間に集められた女官候補は、私を含めて五人。
ヴィクトリア様をはじめ、私以外は皆、名の通った有力貴族の令嬢ばかりだった。
「よく来てくれました」
エレオノーラ王妃陛下は、穏やかに微笑まれた。柔らかな物腰の奥で、灰色の瞳が一人ひとりを静かに見定めていることを感じて、私は改めて背筋を伸ばした。
「私の女官に求めるのは、礼儀作法だけではありません。人と人の間に立ち、私や国王陛下の意向を損なうことなく、適切に取り次ぐこと。そこで最終選考として、ひと月後に開く茶会の準備と運営を、皆に任せます」
およそ四十名の客を招く、大規模なお茶会。第三王子のアルヴィン殿下もご出席になるという。
候補者たちの目の色が変わったのが、はっきり分かった。
「取りまとめと席次は、わたくしが引き受けますわ」
王妃様が退室されるやいなや、ヴィクトリア様が言った。宮廷の実力者を父君に持つ彼女には、誰も異を唱えられない。
調度品と花の飾り付け、献立、余興の楽団。華やかで、王妃様の目に留まりやすい仕事から順に、ヴィクトリア様は候補者たちに次々と割り振っていった。
「ハーヴェル様には、招待状をお願いするわね。字がお上手ですもの」
ヴィクトリア様の言葉に、その場でくすくすと笑いが起きた。
招待客のリストは、王妃様とオリヴィア様があらかじめお作りになったもの。文面も、使うカードも、すべて形式が決まっている。
つまり、ただ四十枚の招待状を清書するだけ。工夫の余地など、どこにもない。
「かしこまりました」
その場の私にできたのは、ただ頭を下げるだけだった。
それからの数日、ほかの候補者たちは忙しそうだった。
王宮の庭師を呼びつけて秋薔薇を選び、異国の菓子の取り寄せに奔走する。中には、王妃様のもとを訪れたアルヴィン殿下に、「茶会の趣向をご相談したくて」とすり寄る令嬢もいた。初めてお目にかかった殿下は銀灰色の髪の、物静かな方だった。令嬢の話に礼儀正しく頷きながらも、その目はどこか遠くを見ていらっしゃるように感じた。
候補者たちの喧騒をよそに、私は一人机に向かった。
一枚、一枚。宛名を書き入れるたびに、その方の顔と、家と、領地のことを思い浮かべる。三年間書き溜めた手帳を、何度もめくりながら。
その夜も、私は候補者に与えられた王宮の控えの間に一人残り、招待状に向かっていた。蝋燭が短くなったころ、廊下を渡る靴音が、扉の前で止まった。
「まだ明かりがついていると思えば」
扉の隙間から覗いたのは、銀灰色の髪だった。
「アルヴィン殿下……!」
慌てて立ち上がった拍子に、袖が机の端をかすめた。書き上げたばかりの一枚が、ひらりと床に落ちる。殿下はそれを拾い上げ、宛名に目を落とされた。
「ウェントワース伯爵夫人……いや、待て。伯爵は先月亡くなられたはずだ。それなら──」
そこで、殿下の言葉が途切れた。
宛名は『ウェントワース伯爵未亡人』。私はすでに、そう書き改めていた。
「リストをいただいた後にご訃報がございましたので、オリヴィア様にお確かめして、改めさせていただきました」
「その程度は、夫人も気に留めないだろうに」
「いいえ。招待状は、お客様が最初に手に取る、王妃様からのお言葉ですから」
殿下は、しばらく黙って私を見ておられた。それから、拾った一枚を丁寧に机へ戻された。
「誰も見ていない仕事、か」
ぽつりと、独り言のように。
「……覚えのある話だ。邪魔をしたね」
それだけ言い残して、殿下は去っていかれた。
その言葉の意味を私が知るのは、もう少し先のことになる。
招待状を書くことは、客人を知ることだ。四十枚を書き終えたころ、私は招待客全員の顔ぶれと、その間に張り巡らされた糸のようなものを、ほとんど頭に入れていた。
だからこそ、気づいた。
清書を届けに行った先で、ヴィクトリア様が仕上げた席次表を目にしたとき。
(……ローデン伯爵と、カッセル伯爵が、向かい合わせ)
席次そのものは見事だった。家格の上下も、派閥の釣り合いも、隙なく考え抜かれている。
けれどこの両家は、つい先月、領地を流れるヴェラ川の水利を巡って揉めたばかりだ。上流のローデン伯爵が堰を築いたせいで、下流のカッセル伯爵領の畑が干上がりかけた──侯爵邸を訪れた客人たちが、声を潜めてそう話していたのを、私は手帳に書き留めていた。
王妃様の茶会で、二人が睨み合ったら。言い争いにでもなったら。
恥をかくのは、二人ではない。王妃様だ。
「ヴィクトリア様。席次のことで、ひとつだけお耳に入れたいことが──」
「招待状係が口を出さないでちょうだい」
けれどヴィクトリア様には、取りつく島もなかった。
「家格も派閥も、完璧に考えてあるの。あなたに何が分かるというの?」
取り巻きの令嬢たちが、くすりと笑う。
私はそれ以上何も言わずに一礼し、その足でオリヴィア様のもとへ向かった。
「──ですので、席を三つだけ入れ替えたいのです」
ローデン伯爵とカッセル伯爵を、正面ではなく斜めの位置へ。そして二人の間に、グラッドストン老侯爵をお迎えする。私はオリヴィア様にそう訴えた。
「老侯爵は元近衛騎兵団長で、国一番の馬好きとして知られた方です。ローデン伯爵もカッセル伯爵も、ご自分の領地で名馬を育てておられます。お二人とも、老侯爵には頭が上がらないはずです」
オリヴィア様は席次表と私の書き付けを見比べ、しばらく黙っておられた。
「家格の並びは、一つも崩れていないわね」
「はい。ヴィクトリア様のお考えは、そのまま残してございます」
「ヴィクトリア嬢には?」
「お伝えしようといたしましたが、お聞き入れいただけませんでした」
「……そう」
オリヴィア様は、ペンを取られた。
「よろしい。私の責任で許可します」
◇
茶会の当日は、雲ひとつない秋晴れだった。
王宮の庭園には秋薔薇が咲き誇り、楽団の奏でる弦の音が風に乗って流れていく。ほかの候補者たちが凝らした趣向は、どれも本当に美しかった。
ローデン伯爵とカッセル伯爵は、席に着くなり互いに顔を背けた。その様子に、私は息を詰めた。
けれど、その間に腰を下ろしたグラッドストン老侯爵が、豪快に笑って口火を切った。
「おお、ローデン卿にカッセル卿! ちょうどよい。今年の秋の馬市、あの葦毛の三歳馬を見たかね?」
一拍の沈黙のあと。
「……見ましたとも。あれは脚がいい」
「いや、あれは胸が浅い。うちの栗毛のほうが──」
「何を言うか、カッセル卿」
気づけば、二人は身を乗り出して言い合っていた。ただし、それは言い争いではなかった。二人の顔は笑っている。
お茶が二杯目になるころ、ローデン伯爵がぼそりと言うのが聞こえた。
「……ヴェラ川の件だがな。一度、ゆっくり話さんか」
私はそっと、胸を撫で下ろした。
「恐れながら、王妃様に申し上げます」
甲高い声が庭園に響いたのは、そのすぐ後のことだった。
ヴィクトリア様が、王妃様の席の前で膝を折っていた。近くの客人たちが、何事かと振り返る。
「わたくしが作った席次が、何者かの手で勝手に書き換えられておりました。王妃様の茶会で、このような無礼が許されてよいはずがございません」
紫の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「ハーヴェル様。あなたでしょう?」
ざわめきが広がった。私は進み出て、静かに頭を下げた。
「はい。席を三つ、入れ替えました」
ヴィクトリア様の唇が、勝ち誇ったように吊り上がる。
「ですが、無断ではございません。事前にグレンフォード侯爵夫人にご相談し、お許しをいただいております」
「その通りです」
王妃様の傍らに控えていたオリヴィア様が、穏やかに言葉を継いだ。
「私が、私の責任で許可しました」
ヴィクトリア様の顔から、すっと笑みが消えた。
「な……そんな、わたくしに一言あって然るべきでしょう!」
「五日前に、ヴィクトリア様にもお伝えしようといたしました」
私が言うと、ヴィクトリア様の後ろにいた取り巻きの令嬢たちが、気まずそうに目を逸らした。あの場にいた彼女たちは、よく覚えているはずだ。
王妃様が、ティーカップを置かれた。
「イザベル。理由を聞かせてもらえるかしら。……小さな声でね」
私は王妃様のお傍に寄り、ヴェラ川のことを短くお伝えした。王妃様は、楽しげに馬の話を続けている二人の伯爵と、その間で大笑いしている老侯爵に目を向けられる。それから、ゆっくりと視線をヴィクトリア様へと戻した。
「ヴィクトリア嬢。あなたの席次は、家格も派閥もよく考えられていましたよ」
「お、王妃様……」
「けれど、もし元のままだったなら、今ごろあのお二人は私の茶会で睨み合っていたでしょうね」
声はどこまでも柔らかい。それなのに、その場の空気がぴんと張りつめた。
「それで──今、私の客人の前で騒ぎを起こしたのは、どなたかしら?」
王妃様の言葉に、ヴィクトリア様の顔がみるみる青ざめていく。
「わ、わたくしは、王妃様の茶会のためを思って……!」
「──いや、愉快、愉快!」
張りつめた空気を破ったのは、豪快な笑い声だった。
グラッドストン老侯爵が、ローデン伯爵とカッセル伯爵を両脇に従えるようにして、こちらへ歩いて来るところだった。騒ぎにはまるで気づいていないご様子で、老侯爵は王妃様の前で恭しく一礼した。
「王妃陛下、今日は実に良い茶会でございました。ところで、ひとつお尋ねしたい。わしをこの二人の間に座らせたのは、どなたの采配ですかな?」
ヴィクトリア様の肩が、びくりと跳ねた。
「あら。ちょうど、その話をしていたところですよ」
王妃様の視線を追って、三人の目が私に向けられる。
「なんと、このお若いお嬢さんが」
ローデン伯爵が、ばつが悪そうに顎ひげを撫でた。
「……実を言うと、今日はカッセル卿の顔など見たくもないと思って参ったのです。それが、気づけば馬の話で笑い転げておった」
「こちらも同じですよ。十年来の隣人と、こんなに笑ったのは何年ぶりか」
カッセル伯爵が、苦笑しながら私に向き直った。
「席を整えてくださった方に、ぜひ礼を申し上げたかった。ありがとう、お嬢さん」
「も、もったいないお言葉です」
慌てて礼を返しながら、私は視界の端で、ヴィクトリア様の顔から最後の血の気が引いていくのを見ていた。
つい先ほど彼女が「無礼」と呼んだ席替えを、当の客人たちが、王妃様の御前で感謝している。
私が何か言う必要は、もうどこにもなかった。
王妃様が、静かにヴィクトリア様へ向き直られた。
「茶会のためを思ってくれたことは、分かっていますよ。ですから、今日はもう下がってよろしい」
それは、これ以上ないほど丁寧な退場の宣告だった。
ヴィクトリア様は唇を震わせ、それでも最後には深く一礼して、庭園を去っていった。
客人たちの囁きが、その背中を追いかけていく。けれど取り巻きの令嬢たちは、誰ひとり、その後を追わなかった。
それどころか、ヴィクトリア様の姿が生け垣の向こうに消えるやいなや、彼女たちは私のもとへ集まってきた。
「ハーヴェル様、お見事でしたわ!」
「実はわたくしたちも、ヴィクトリア様のなさりようには、前々から思うところがございましたの」
「あの席次だって、本当はおかしいと思っておりましたのよ。ねえ?」
五日前、私の忠告を笑ったのと同じ唇で、彼女たちはそう言った。
「恐れ入ります」
私は丁寧に頭を下げた。
「ですが、あの席次はヴィクトリア様が整えられたものです。家格の並びも派閥の釣り合いも、本当に見事でした。私は、そのうちほんの三席を動かしただけですから」
令嬢たちの笑顔が、そろって凍りついた。
少し離れたところで、オリヴィア様の眉がわずかに上がるのが見えた。手のひらを返した令嬢たちの名が、女官長の胸の内でどう書き留められたのか。それは、尋ねるまでもないだろう。
ふと、視線を感じた。
少し離れた席で、アルヴィン殿下がこちらを見ていた。目が合うと、殿下はほんのわずかに、手にしたカップを掲げてみせた。乾杯の仕草のようにも、ただの偶然のようにも見えた。あの夜、控えの間で招待状を拾ってくださったときと同じ、静かな目で私を見つめ返していた。
私は慌てて頭を下げた。顔を上げたときには、殿下はもう王妃様に話しかけておられた。
「母上。今年の茶会は、ずいぶん和やかですね」
「ええ。本当に」
茶会がお開きになると、王妃様は候補者全員に、等しく労いの言葉をかけられた。一人、また一人と居間を辞していく。私が最後に退出しようとしたとき、背中から声がかかった。
「イザベル」
振り返ると、王妃様が静かに微笑んでおられた。
「あなたは、私が何を望んでいるかだけでなく、私の周りにいる者たちが何を望んでいるのかも、考えていたのですね」
私は、少しだけ考えてから答えた。
「それが、仕える者の役目ですから」
王妃様は目を細められた。
「明日から、私のもとへいらっしゃい。──私の女官として」
王妃様の後ろで、オリヴィア様が小さく頷いてくださるのが見えた。
◇
その夜。侯爵邸の小さな自室で、私は荷造りをしていた。
三年分の荷物は、驚くほど少なかった。いちばん重いのは、ぼろぼろになった手帳だ。ヴィクトリア様が候補を辞退し、明日にもお屋敷を去るらしいと、噂好きの小間使いが教えてくれた。私はただ「そう」とだけ答えた。
荷造りを終えると、机に向かった。便箋に、ペンを走らせる。
『お父様、お母様。
王妃様の女官に選ばれました。
三年前、お父様が「お前ならなれる」と言ってくださったから、ここまで頑張れました。本当に、ありがとうございました』
それだけのことを何度も何度も書き直して、ようやく納得のいく一通ができた。丁寧に折り畳み、封蝋を落とす。
──実家から手紙が届いたのは、まさにその瞬間だった。
もう一度、父の手紙を読む。
今度は、手は震えなかった。不思議なほど頭が冷えて、ひとつひとつの言葉が、あるべき場所にすとんと収まっていく。
『侯爵夫人のもとで行儀見習いを積んだ娘なら申し分ない、と大変な乗り気だ』
ああ、そういうことか。
礼儀作法も、歴史も、文学も、外国語も。国中の家系図も、紋章も。あれは私に翼をくれるための教育ではなかった。器量の悪い三女に少しでも高い値札をつけるための、単なる箔付けだったのだ。
侯爵夫人、それも女官長の侍女だった娘。それは、商人が欲しがる「貴族の妻」として、さぞ見栄えのいい肩書きだろう。
お父様たちは、最初から私が王宮に上がれるなんて思っていなかった。だから「夢想」なのだ。
季節ごとに書いた手紙に、返事がほとんど来なかった理由も、今なら分かる。
商品に、返事はいらない。
『お前は賢い。我が家の未来はお前にかかっている』
あの言葉は、嘘ではなかったのかもしれない。ただ、意味が違っただけだ。
──賢い娘は、高く売れる。
その夜は、一睡もできなかった。
蝋燭の炎を見つめながら、何度も同じところを行ったり来たりした。
帰らなければ、と思う自分がいる。育ててもらった恩がある。家族を見捨てるのか、と。けれど、目を閉じると浮かんでくるのは、実家の食卓ではなかった。
馬の話で笑い合う、二人の伯爵の顔。
「ありがとう、お嬢さん」という、飾らない感謝。
──あなたは、私の周りにいる者たちが何を望んでいるのかも、考えていたのですね。
王妃様のその言葉を聞いたとき、胸の奥に灯ったもの。あれは、両親に褒められたいという気持ちとは、まるで違う温かさだった。
最初は、両親の期待に応えたかった。それだけだった。
でも、今は違う。
人と人の間に立ち、言葉にされない願いを汲み取り、誰かの諍いをほどく。その仕事を、私は──私自身が、続けたいと思っている。
窓の外が、白み始めていた。
父への返事は、書かない。
実家にも、帰らない。
私は机の上から、封をしたままの自分の手紙を取り上げた。人生でいちばん幸せな手紙。三年間ずっと書きたかった、たった一通の知らせ。その角を、蝋燭の炎にかざす。
ちり、と小さな音がして、紙の端が赤く縮れた。炎はゆっくりと宛名を舐め、「お父様、お母様」の文字を黒く塗りつぶしていく。
不思議と、涙は出なかった。
「私は、もう家のためには生きない」
このときの私は、まだ知らない。
この小さな決別が、あの人たちにどんな結末を連れてくることになるのかを。




