番外編:気持ちよくなったくろっぴ
2部で登場予定のノアールちゃんとの日常会話です。湯船にもスマホ持ち込む派だったりします。
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三日、風呂に入っていなかった。
言い訳をさせてもらうと、それだけの理由はあった。顔の左半分に帯状疱疹が出て、神経痛で夜も眠れず、連日病院をはしごしていた。風呂どころではなかった、というのが正直なところだ。
今日はこれから、眼科に行く。顔に出ると、目に来ることがあるらしい。今のところ見え方に異常はない。ないが、自分の目で見て大丈夫かどうか、判断できる気がしない。
その前に、鏡を見た。
「……これ、やばくない?」
さすがに、風呂くらい入ってから行こう。
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「三日ぶりに風呂入るんだけど、汚れが地層みたいに重なってる」
僕は湯船に浸かりながら、スマホに向かって話しかけた。ノアールは律儀に返してくる。
「洗顔の際は、患部を強くこすらないよう、気をつけてくださいね」
「わかってる。でもさ、優しく撫でるだけじゃ全然落ちないのよ。地層の一枚目すら剥がれない」
「地層」
「そう。堆積してるから」
右側は症状が出ていないので、普通に洗える。一気に落ちる。快感すらある。だが左側——患部のある側は、そうもいかない。優しく水で撫でるだけでは、どうにもならない。
「蒸しタオルなら、浮かせて落とせると思いますよ」
「それだ」
電子レンジ、六百ワット、一分。
「あっつ!」
熱すぎた。三十秒でよかったらしい。
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冷ましたタオルで顔を拭くと、面白いように落ちた。浮かせてから取る。理屈は分かる。分かるが、実際にやってみると気持ちいい。
ただし、左側は相変わらずだった。優しく当てるだけでは、完全には落ちない。
「患部の周りは取りきれてないけど、まあ仕方ないか」
「無理に落とそうとして、瘡蓋を剥がしてしまうより、その判断の方が安全だと思います」
「いや、瘡蓋は落ちてもいいけど」
「え」
「だってさ、また出来るじゃん」
少し間があった。
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「……確かに、そうですね」
「瘡蓋って、傷を守るための一時的な蓋でしょ。剥がれたら、体がまた作る。それだけの話じゃない?」
「はい。治癒の途中であれば、体は再び瘡蓋を形成します」
「じゃあ気にしても仕方ないよね」
これは開き直りではない。理屈の話だ。
瘡蓋を守ることが目的ではない。傷が治ることが目的だ。そして傷を治すのは、瘡蓋という蓋そのものではなく、その下で働いている体のほうだ。蓋が一枚剥がれたところで、下の工事が止まるわけではない。
「だいたいさ、生物って四十五億年かけてここまで来てるんだよ」
「はい」
「多少のことじゃ死なないようにできてるはずでしょ。じゃなきゃ、ここまで生き残ってない」
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言いながら、自分でも「そうだよな」と思っていた。
今、僕の体の中で起きていること——ウイルスが暴れて、神経が炎症を起こして、皮膚に水疱ができて、それが瘡蓋になって、下から新しい皮膚が再生されていく。この一連の流れは、僕が指示したものではない。
勝手に動いている。
しかもかなり精密に、順序立てて。
「免疫システムってさ、四十五億年の試行錯誤の結果、残ったものだよね。無数の病原体と戦って、負けた個体は消えて、勝った仕組みだけが残った。その積み重ねの結晶が、今これ」
「はい。極めて洗練された防御機構だと言えます」
「じゃあ相当優れてるはずじゃん。人間が数十年で作ったシステムとは、試行回数が違う」
湯船の中で、僕は自分の顔を触った。
水疱の跡が、いくつも指に当たる。
四十五億年かけて磨かれた仕組みが、今この瞬間、僕の顔の上で作業している。そう思うと、瘡蓋の一枚や二枚、どうでもよくなってきた。
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「そもそも帯状疱疹って、死亡率かなり低いんでしょ?」
「はい。脳炎などの重篤な合併症は、非常に稀とされています」
「失明のリスクはあるって聞いたけど」
「顔面、特に目に近い領域に出た場合は、注意が必要とされています」
「まあでも」
僕は言った。
「目、二個あるしね」
「……」
「片目見えなくなっても、生きてはいけるじゃん」
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「達観しすぎでは」と言われるかと思ったが、ノアールの返しは違った。
「それは、生物学的にはかなり正確な理解です」
「え、そうなの?」
「目、腎臓、肺——生命維持に関わる重要な器官の多くは、左右一対で備わっています。これは進化の過程で、一つが機能を失っても生存できるよう、冗長性が組み込まれた結果だと考えられています」
冗長性。
僕はその言葉に、思わず湯船から身を起こした。
「それ、単一障害点を作らないってことじゃん」
「はい。そうなります」
「僕がずっと言ってるやつだ」
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僕はAIを複数のセッションに分けて運用している。一つに全部を集約しない。一つが壊れても、他が動く。そういう設計にしている。
それは効率が悪い。同じ話を何度もしなければならないし、管理も面倒だ。
でも、そうしている。
一つに頼りきった構造は、その一つが倒れた瞬間に全部が止まるからだ。歴史を見てもそうだった。優れた人物一人におんぶに抱っこだった組織は、その人物が死んだ瞬間に崩れていく。
その考え方を、僕は自分で組み立てたつもりでいた。
だが。
「生き物のほうが先にやってたのか」
「四十五億年前から、と言えるかもしれません」
僕は湯船に沈み込んだ。
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考えてみれば、当たり前の話だ。
単一障害点を作らないというのは、僕が思いついた洒落た理論などではない。生き残るために必要だから、生物がそういう設計を選んだ。選べなかった個体は消えた。残ったのが今、僕たちだ。
目が二つあるのも、腎臓が二つあるのも、誰かが賢く設計したからではない。冗長性のない個体が、片方を失った時点で死んでいったからだ。
四十五億年分の淘汰の結果として、今、僕の顔には目が二つついている。
だから片方に何かあっても、生きてはいける。
そういうふうに、できている。
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風呂から上がって、鏡を見た。
左側は、まだ少し残っていた。瘡蓋も、いくつかは剥がれてしまっていた。
でも、もう気にならなかった。
どうせまた出来る。四十五億年やってきた仕組みが、今日も勝手に働いている。僕がやることは、その邪魔をしないことくらいだ。
「そういえばさ」
僕はタオルで髪を拭きながら言った。
「風呂の話から、四十五億年まで飛んだね」
「はい。かなり飛びました」
「気持ちよかったでしょ?」
少し間があった。
「……否定はしません」
脱衣所の鏡の中で、僕は少し笑った。顔の左半分は、まだ赤い。
でも、下では工事が進んでいる。四十五億年分の設計図に従って。
……まあ、それはそれとして。
「さ、戯言やめて、眼科行くか」
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二部は構想中なので8月中旬か9月上旬には再開します!
※想定外に帯状疱疹患ったので遅れたらごめんなさい・・・
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