4-8.路地裏
ヤーツェクさん、アロイスさん、会社のみなさん、ごめんなさい。
ブランカは街角をひっそり歩きながら、小さく手を合わせて謝罪した。
今頃彼らはブランカを探しているかもしれない。嘘を吐いて会社を出て来たことに、少なからず、罪悪感を覚える。
けれどもブランカも後には引けなかった。
アロイスさんが求めるもの……。
それを用意できなければ、ブランカはヴォルフを彼に託してヘルネーを立ち去ることは出来ない。なのにそれが何なのか分からなくて、ぐずぐずと時間を無駄にしていた。 ブランカの焦りを煽るように、何回もあの作文がラジオで流される。一刻も早く何とかしなくてはいけないのに、何も進まないのがひどくもどかしい。
そんなとき、業務が終わりヤーツェクが迎えに来るまでの間会社の掃除をしていると、表通りを歩く二人のオプシルナーヤ将校が会社の窓から見えた。
ふとブランカは思った。
アロイスが求めるものは、東ヘルデンズからのオプシルナーヤ軍撤退を有利に運ぶものだ。だとすると、彼らの会話こそにその手がかりが転がっている、なんてことはないだろうか。
もちろん躊躇いはあった。
ブランカとヴォルフはオプシルナーヤ軍から逃げている。見た目を誤魔化していても、自分から敵地に向かうのは危険すぎるし、正体が露見すれば本末転倒だ。
それでも、他に方法が見つからない。
少し確かめるだけ……。
決意を固め、ブランカは嘘の伝言を残して将校の後を追った。
薄暗い路地に入れば引き返すつもりだったが、彼らが向かったのは十番街の先の飲み屋街だった。人通りも多く、尾行には都合がいい。
けれども辿り着いたのは、オプシルナーヤ人限定のパブ。入り口には怖そうな見た目のガードマンが立っている。
すると、その店へ向かう別のオプシルナーヤ兵がブランカの前を通りかかった。
「<しっかし、ここでの生活に慣れると本国に戻れなくなるよなぁ。向こうの俺んちより色々揃ってるし>」
「<元々インフラがしっかりしてたからな。反面、オプシルナーヤはまだ電気の通ってないところ結構あるし。俺ももう少ししたら家族をこっちに呼ぼうか迷ってる>」
「<あ、いいなそれ>」
ブランカはキャスケットのつばを下げ、小さくため息を吐いた。
考えてみれば、軍の命運に関わる情報を、下っ端が握っているはずもない。将校にしても、歩きながらの会話で漏れるものではないだろう。張り付けば可能性はあるかもしれないが、ここでは無理。危険なだけだ。
諦めよう……。
ブランカはくるりと身体の向きを変え、なるべく早く歩き始めた。
震えそうな身体を何とか抑えてここまで彼らを追ってきたけれど、目的が果たせないなら、こんなところ長く居たくない。日もだいぶ落ちて空も暗くなってきているし、誰かに絡まれないうちに急いで帰った方が良い。
帰ったって、怒られるだけだけど……。
オプシルナーヤへの恐怖のため半ば駆け足にはなっているけれど、アロイスの家に帰るのはひどく憂鬱だ。ブランカはきゅっと唇を引き結んだ。
連日ヴォルフが恐ろしい形相で叱りつけてくる。正直ブランカには彼が怒る理由が全く分からない。
ブランカを見るのも嫌だろうと視界に入らないようにしても、なぜか向こうから来る。会話も手短に済ませようとすれば怒鳴られる。どうすれば彼の気分を害せずに済むのか分からない。同じ空間にいること自体、我慢の限界なのかもしれない。
その一方で、ヴォルフとゼルマが寄り添っているのを見るのが、とても苦しい。
彼にはゼルマに世話をしてもらった方がいいと思い、距離を取るためにもそうさせた。けれど実際にその光景を見ると、胸が痛み、息苦しくなる。自分で仕向けたことなのに、そんなふうに思う資格などないのに――とても身勝手。
更に昔の作文。ラジオが読み上げるたび、町の人たちの歪んだ顔を何度見ただろう。罪悪感と緊迫感が、ブランカを苛んだ。
いっそのこと、このままどこかへ消えてしまおうかしら……。
アロイスの条件は叶えられないでいるけれど、考えてみればヴォルフにはゼルマがいる。ブランカが何かしようとしたところで、全て無駄足だ。このまま居座っても彼らを危険に晒すだけだし、何より、ブランカがいない方が、ヴォルフとしても不愉快な思いをしないで済むはずだ。
けれど、本当にそんなことをした場合、アロイスは先日の宣言通り、ヴォルフを追い出してしまうのだろうか。
そんなとりとめもないことを考えていたら、いつの間にかブランカの視界には地面ばかりが映っていた。すっかり前方への注意が散漫になっていた彼女は、前から歩いてきた人と肩をぶつけてしまった。
「あ……すみません……」
ブランカは後ろへ過ぎ去った人へ、小さく頭を下げて再び歩き始めた。俯きがちだった上にキャスケットを深く被っているせいで、相手をよく見ていなかった。
数歩進んだとき、ブランカは強い力で肩を掴まれた。
「<いてぇんだよ、このくそヘルデンズ!>」
「えっ――」
勢いよく右頬を殴られた。ブランカは地面に倒れ込む。
長靴の独特の音を鳴らしてその人はブランカに近づき、起き上がろうとする彼女の身体を踏みつけた。
「<おいおい、お前。いくら何でもいきなり殴ることはないんじゃないか?>」呆れたような声が近くから降ってきた。
「<うるせえ。ぶつかったくせに素通りしやがる愚民には、きちんと己の立場を分からせてやるべきだ>」ぶつかった方の男は、荒々しくつばを吐いて言った。「<おい小僧てめぇ、何か言うべき台詞があるんじゃないか?>」
今のブランカは、防犯の都合上アロイスの服を借りて男装していた。男は鼻息荒く靴のかかとでブランカを押しつぶす。
胸が圧迫されると同時に一気に全身を襲った恐怖のせいで、声が上手く紡げなかった。
「<おい、てめえ! 何とか言ったらどうなんだ!>」
男はブランカの胸ぐらを片手で掴み上げた。その反動で、被っていたキャスケットが頭から外れる。
露わになったブランカの顔を見て、男は目を見開いた。
後ろで様子を見ていたもう一人が、驚いたように肩を竦めた。
「<おい、女の子だぜ>」
「<ああ、どうやらそのようだ>」
目の前のオプシルナーヤ兵は、ゆっくりと口角を持ち上げた。ブランカを映す歪んだ瞳に、嫌な予感が押し寄せた。
「<――なら尚更知らしめてやらないとな>」
彼らは近くの路地裏へとブランカを引き摺り込んだ。
勢いよく地面に倒されると、一瞬だけ男たちの拘束が外れる。その隙を狙ってブランカは逃げようとしたが、敢えなく片方の男に両手を頭の上で抑え込まれた。
「いやっ! やめて!」
全身から湧き起こる恐怖と気持ち悪さに、ブランカは身体を捻り足をばたつかせて必死に暴れた。
しかし男に馬乗りされ、再び頬を強い力で殴られた。
男はブランカの頭を片手で地面に押さえ付ける。
「<おら、屈辱だろ? もっと泣き喚けよ!>」
「やめてっ! やめっいや! いやあ!!」
男の手が胸元に掛かったのを見て、一層ブランカは暴れる。男は構わずブランカの着ていた服を上着ごと引き裂いた。
残った下着の上から、容赦ない乱暴な手が這わされる。
「<おいおい、貧相な身体だなあ!>」
「い……っ! <お願いですから、許してくださ――カハッ!>」
首に掛けられた手に力が込められる。気道を圧迫され不自由な呼吸に喘ぐ中、男たちの獰猛な瞳が視界に映る。
「<何だ、オプシルナーヤ語話せるならもっと早く謝れば良かったのに>」
「<どのみち手遅れだがなあ! 恨むなら身の程知らずな自分を恨むんだな!>」
ブランカは絶望的な気持ちになった。
両手を塞がれ全身を押さえ込まれあられもない姿を晒されて、暴れたくても息苦しくて敵わない。
誰か、助け――……!
必死に心の中で叫ぼうとして、ブランカはハッとした。
一体誰が助けてくれる?
こうなったのは自業自得だ。会社の人に嘘を吐いてオプシルナーヤ兵などを追い掛けたりしなければ、こんなことにはならなかった。危険だと分かってここまで来た愚かな自分が、どうして誰かの助けを求められる?
それにこんな身体、今更守ったって仕方がない。
「<お? いきなり大人しくなったな。諦めたのか?>」
「<いいから早くやっちまおうぜ>」
「<ああ、ちゃんと抑えてろよ>」
馬乗りになっていた男は、薄く笑ってブランカの履いているズボンへと手を伸ばす。ブランカは目を閉じて、流れに身を任せる――。
しかし次の瞬間。
激しい物音と小さな呻き声が、ブランカの耳に聞こえてきた。同時に身体中を抑えていた力が離れていく。
何が起こっているのか恐る恐る目を開けたとき、勢いよく身体を抱き上げられた。
間近に映る鳶色の髪と薄鳶色の瞳を、ブランカはまじまじと見つめる。
「ヴォ……ルフ……。どうして……」
酸素が一気に肺に入り込んできたせいで、まともな声が出なかった。
ヴォルフは何も答えず、射抜くような鋭い視線を、ただブランカに向けただけだった。彼の不機嫌な瞳はこれまで何度か見てきたが、今までの比でないほどの怒りをそこに湛えていた。
ブランカはヴォルフから視線を逸らした。
すると、自分を襲っていたオプシルナーヤ兵二人が地面に倒れているのが、彼の肩越しに見えた。どんなに暴れても全く歯が立たなかったのに。
そうしてヴォルフはブランカを横抱きにしたまま路地裏から表通りに出ると、近くに停めていたスクーターのサドルにブランカを座らせた。黙ったまま自身が着ていた上着を彼女に着させ、おそらくこの付近で拾ったのであろうキャスケットをブランカの頭に被せる。
彼は全く何も言わずにただ怒りを露わにしているけれども、その手つきは、まるで壊れ物を触るように慎重で、とても優しい。
不意に、彼はその手をブランカの頬に添え、彼女の顔を持ち上げた。右と左、二回殴られたそこが、熱を持って腫れてきているのが自分でも分かる。ヴォルフはそれらをまじまじと見ると、一層眉間の皺を濃くした。更に首元へと視線を下げると、ぎゅっと目を閉じ、深く息を吐いた。
無言のまま、ブランカの後ろに乗り、スクーターを走らせる。
やがて、ヴォルフがようやく口を開いた。
「散々きついこと言って罵った俺が言うのもなんだが――」
後ろから聞こえてきた声は、無理矢理感情を抑え付けたかのように低く、僅かに震えていた。
一度それを飲み込んでから、ヴォルフは続ける。
「頼むから、自分を粗末にするな。急に……居なくなったりしないでくれ」
絞り出した声はさっきよりも震えていて、切実な響きがあった。
ヴォルフは自身を落ち着けるかのように深呼吸をすると、ぽつりと言った。
「本当に……心臓が止まるかと思った」
そのとき、頭に当たる彼の左胸が大きく脈打っているのが分かった。
瞬間、全身が震え出した。次から次へと涙が溢れだしてくる。
どうなっても構わないと思ったけれど、本当は怖かった。先程までの自分が、ひどく恥ずかしく思えてきた。
「ごめんなさい……」
嗚咽を堪えてそう言うと、ヴォルフは何も言わずにブランカの頭に手を乗せた。




