2-9.正体
焦げた痕の残る薄萌葱色の封筒。
表に『戦争が終わったら読むこと』と注意書きが為されていたそれは、中に同じ色の便箋が五枚入っていた。
封筒と同じく焼き焦げの残るその手紙を、ヴォルフは食い入るように読み始めた。
ブランカは、絶望的な気持ちだった。
ヴォルフは部屋に戻ってきたときから様子がおかしかった。さっきまで優しく手当てしてくれた彼の瞳は硬く鋭いものへと変わり、穏やかだった彼の雰囲気は一気に張り詰めていた。
嫌な予感が走ったときには、もう遅かった。
彼の手はまっすぐに布袋に伸び、あっという間にそれを引き抜いた。ヴォルフは無言のまま、封筒を取り出した。
一枚一枚と読み進めるにつれて、手紙を握る彼の手が大きく震え始める。眉間の皺の数は数秒ごとに増えていき、左から右へと動かす薄鳶色の瞳は次第に大きく見開かれていく。
「ヴォルフさん、いきなりどうしたの?」
驚いたレオナが、困惑して聞く。
ロマンは、じっと黙ってヴォルフを見ていた。
ヴォルフは射抜くような薄鳶色の瞳を鋭く細めてブランカを見た。
何もかもが終わったと、ブランカは思った。
手紙を読んだのなら、もう疑う余地もない。孫への祝いの言葉、願望、世の中への不満と自分勝手な妄想、数々の無念。所々に書かれた『クラウディア』と、最後の『M・D』。
「これを書いたのは……マクシミリアン・ダールベルクか?」
ヴォルフは尋ねた。硬く低い声は、心なしか震えて聞こえる。
ブランカは彼の顔を見ることが出来ず、ソファの前に突っ立ったまま俯いた。
「ちょっとヴォルフさん、何言ってるの?」
展開についていけないレオナに、ヴォルフは薄萌葱色の手紙を差し出した。レオナは手紙を広げて中を確認する。
ヴォルフは一歩前に出た。
「お前は……クラウディア・ダールベルク、なんだな」
彼は先ほどよりも低い声で、再度尋ねた。
ブランカは瞳を閉じ、小さく頭を縦に振った。
ヴォルフが大きく息を吸った。
「まさか……お前だったとはな!!」
瞬間、肩に強い力が掛けられ、ブランカの身体は反転した。ブランカは勢いよくソファに倒れ込む。身を起こそうとする間もなく、ヴォルフが上に覆い被さった。
「よくも今まで素知らぬ顔が出来たものだ! こっちはてめえのジジイに何もかも滅茶苦茶にされたって言うのによ!!」
「ヴォルフ! やめろ!」
ロマンが止めようとするが、構わずヴォルフはブランカの着ているワンピースの襟を掴み上げた。
はち切れんばかりの眉間の皺、感情任せの歯ぎしり、目頭に力を入れ細められたうす鳶色の瞳には、ただひたすらに憎悪が浮かんでいる。
「あぁ、思い返すほどに腹が立つ。もし生きてどこかで見つけたなら、あの地獄を味わわせてやろうって思っていたのに、まさかそいつを励ましていたとはな。賤しいアジェンダの戯れ言は滑稽だったか?」
「そんなこと……」ブランカは首を横に振る。
「それとも屈辱だったか? 世界がキレイになるよう望んだ天下のお姫様だもんな。クラウディア・ダールベルク、まさかこんな姿になっているとは思わなかったが、俺はお前を忘れたことはない」
ブランカの胸ぐらを乱暴に放すと、ヴォルフはブランカの顔の横に勢いよく拳を打ち付けた。
「ヴォルフ……!」ロマンはヴォルフをブランカから引き剥がす。
しかしヴォルフはロマンを振り払う。「何なんだよ、何でお前止めるんだ!」
ブランカは、身体を震わしながら上体を起こした。
すると、レオナが鋭い勢いで近づいて来た。思いっきり手を振り上げる。
「あたしたち、ずっと騙されていたのね……!」
レオナの手が、ブランカの頬を強く打った。ブランカはソファに倒れ込む。
レオナは両手に拳を握って一気にまくし立てた。
「信っじられない! よくも今まで平然としていられたわね! みんなを苦しめた人殺しの孫のくせに!!」
ブランカは顔を上げられなかった。
ずっと感じていた罪悪感。まっすぐにそれを突いたレオナの言葉に、打たれた頬がひどく痛む。
「あぁ、思い出してきたわ。クラウディア・ダールベルクといったら、マクシミリアン・ダールベルクがよく演説で話してた愛孫のことでしょ? 孫のために世界を統一する、だのなんだのってよくラジオで言っていたわ」
「あぁ、そうだ。孫のために世界をキレイにする必要がある、孫のために理想国家を作る。少なくとも俺が捕まる直前までそう言っていたはずだ」
「あたしはフラウジュペイが解放される直前まで聞いたわ!」
レオナとヴォルフが言うことは、その通りだった。生前、祖父は口癖のようにそれを繰り返し唱えていた。
お前のために輝かしい王国を。
お前の王国に劣等民族はいらない。
お前のために戦っているのだ。
お前のため、お前のため。
――わたしのための、戦争。
最初こそ当然と思っていたそれは、途中から違和感を覚え始め、終戦後には聞きたくもない言葉になっていた。
祖父が勝手に言い出したことに過ぎない。そう無関係を装おうとしたところで、祖父の言葉には影響力が有りすぎた。
祖父は、孫の首を絞めていったのだ。
「そうよ、そうだわ。あたしと母さんがヘルデンズの空襲で焼け出されたのも、父さんと兄さんが戦死したのも、あいつの孫のためだった。あたしの親友が捕まったのも!」レオナは、自分の考えを確かめるように燻っていた恨みを吐き出す。
「俺がアジェンダ狩りで捕まったのもそうだ。孫のため――お前のためだった」ヴォルフが搾り出すような声で言う。「その上お前は、てめえのジジイに俺の親父を撃たせた」
ブランカは弾けるように顔を上げた。ヴォルフの言葉は、確信に満ちていた。
ヴォルフを見ると、ブランカの疑問を察して顔を歪めた。「覚えてないのか?」
ブランカは首をゆるく振った。
ヴォルフは舌打ちしてから話した。
「六年前、ちょうどヘルデンズが降伏する一年前だ。俺はアジェンダ狩りで捕まった。窒息するほどに人が乗った貨物列車に押し込まれ、降りたら何マイルも先の収容所まで歩かされた。否を言うことも出来ない。分かるか、その地獄を」
言われてブランカの頭の中に、灰色の世界が広がった。灰色の空、灰色の雲、何もない灰色の平原の中に止まっている、木製のくすんだ色の列車。灰色の煙を上げているそこから出てきた無数の人々。凍えそうな寒さの中を薄着でぞろぞろ歩く人たちは、みんな虚ろな目をしていた。
ブランカが目にしたアジェンダ狩りの光景だ。
祖父に連れられてたった一度だけ見学したそれは、あまりにも衝撃的だった。
「力のない年寄りと子供は列車の中からあの世行きだ。力あるやつも疲れて途中で立ち止まれば、その場で銃殺刑。そんな地獄の中を俺と親父は歩いていた。そこに、クラウディア・ダールベルク、お前は現れた」
レオナとロマンも息を飲む。
ブランカは目を見開いた。
まさかあのときにヴォルフがいたの?
怒りに燃える薄鳶色の瞳に、ブランカは突然既視感を覚えた。
「親父は、速度を落とすこともなく、よろけることもせず、懸命に歩いていた。その親父を、お前は兵士に殺させた。マクシミリアン・ダールベルクの隣でわざわざ指差して、親父を撃たせたんだ!」
ブランカは首を横に振った。
嘘……。
そんなことを、私はしたの?
少なくとも彼が言っているのはあの日に起こったことには違いない。ブランカは、曖昧にぼやけた記憶を必死にたぐり寄せる。
目の前を無気力に歩く無数の人たち。あちこちから聞こえていた銃声。次々と死んでいくのに必死に歩く人たちがあまりに恐ろしく、あまりに痛々しかった。そんな光景に耐えられなくなって、ブランカは隣に立っていた祖父の服をぎゅっと掴んだ。
『あの人たち、どうして撃たれるの? 全然悪そうには見えない。他の人も可哀想。あんなに歩かされて、とても辛そうよ』
適当に目の前を通る男の人を指差し、ブランカは責めるようにして言った。
しかし次の瞬間、指の先にいた男の人の頭から、血が吹き飛んだ。
あ……あのとき……。
ぼやけていた記憶が、はっきりとした映像へと変わっていく。
頭の中で、祖父の言葉が反響した。
『いいか、クラウディア。あれはこの世にはびこる劣等民族、ああやって歩いているだけでもマシなのだよ。だが本来は生きる価値もないから、駆除してやっているんだ』
祖父はブランカを引き連れ、わざわざ撃たれた男の人の傍まで行き唾を吐きかけた。後ろに付いてきた兵士の銃口から煙が吹いていて、その銃口を倒れた男の人の周りにいたアジェンダ人に向けては、彼らを無理矢理歩かせていた。
その場を離れようとしたとき、突き刺すような瞳と目が合った。倒れた男の人を抱え、後ろから兵士に脅されているその人は、ごうごうと燃える赤い炎を、薄茶色の瞳に宿していた。
その薄茶色が、今目の前にある薄鳶色と重なり合う。
まさか、あそこいた人が……!
「あんた、本当に最低ね」レオナがブランカを睨んで言う。「それであんな作文書いてたわけ? ヘルデンズが一番偉いだとか悪い人を退治しなくちゃいけないだとかっていうこの前ラジオで流れてたやつ」
「違う……そんなつもりじゃ……」
言葉が続かなかった。
否定したくとも、その言葉が嘘になる気がした。
ブランカは首を振った。
「そうだ。お前はあれも書いたんだったな。思い出すだけで腹が立つ。あんなものを書くほどに、お前はアジェンダの絶滅を望んでいたのか」
ブランカは首を振り続けた。
確かにあんな馬鹿げた作文を書いた。祖父のことを憧れてもいた。
けれどただ指を差しただけで人が一人亡くなるなんて思わなかった。ヴォルフの父親のことも、レオナの家族のことも、誰の死だって望んだことはない。
そう否定したいのに、何も言えない。
「ねぇ、一体どういうつもりで今までダムブルクにいられたわけ!? 今まで何も感じなかったの!?」
「そんなことは……」
「――ブランカをダムブルクに置いたのは僕だ」
ロマンが声を上げた。
ヴォルフとレオナは息を飲み、ロマンを見る。
ブランカも、力無くロマンに視線を向けた。
ロマンは苦しげに細めた瞳を、ブランカに向けた。
「二人の気持ちは分かるけど、今更責めたところで彼女にはどうしようもない。そもそも戦中は彼女はほんの子供だったんだし、それに彼女だって戦争孤児。あの戦争の犠牲者だ」
静かに、落ち着いた様子でロマンは言う。
ブランカは分からなかった。どうして彼は庇うの?
同じことを、ヴォルフが剣呑に尋ねた。
「お前、何でそんなことが言えるんだ? ずっとそいつをかばってるし、いつかもそうだったな。情でも湧いたか? 分かっているのか? お前は騙されて――」
言いかけて、ヴォルフはハッとした。
彼は一瞬だけ大きく目を見開き、そして確信したようにロマンを睨み付けた。
「ロマン。お前、知っててそいつを匿っていたのか?」
瞬間、ブランカとレオナは驚きに目を見開く。
三人の視線を向けられて、ロマンはゆっくり頷いた。
ロマンに削がれたヴォルフの怒りが、再び湧き起こり始める。
「どういうことだ、ロマン。お前はこいつのため帰る国を失ったんだぞ! 俺らは、こいつのために地獄を見たんだぞ! お前は忘れたのか、あの収容所の日々を!!」
ヴォルフが放った言葉を、ブランカはすぐに理解できなかった。
――帰る国? 収容所の日々?
「それって一体どういうこと……?」
レオナが、戸惑った様子で割り込んだ。
ヴォルフはちらりとロマンに目配せをしてから説明した。
「六年前――ヘルデンズの降伏から一年前だ。俺とロマンはフラウジュペイの南にある収容所で知り合った。俺はアジェンダ狩りで、ロマンは反逆罪で捕まっていた。六年前に起きたメルジェーク反乱を知っているか? こいつはそれに参加していたんだ」
初めて聞くロマンの過去に、ブランカは息を飲んだ。
メルジェーク反乱。祖父から聞いたことがある。フィンベリー大陸戦争後半に起きた市民蜂起だ。
かつてヘルデンズの東隣にあったメルジェークは、度重なる侵攻と弾圧によって国としての機能を失っていた。
その支配に抗うために人々は蜂起したが、ヘルデンズ軍の反撃によって鎮圧され、参加者の多くは拘束、あるいは処刑された。
国は、そのまま再起不能にまで追い込まれた。
それじゃあロマンは……。
「メルジェーク人だったの……?」
レオナは驚きに目を見開いた。
ブランカも驚きを隠せなかった。
まるで地元の人のようにフラウジュペイ語を使いこなし、出会ったときからずっとダムブルクにいた彼を、フラウジュペイ人と思って疑わなかった。
「ロマン、何でなんだ。収容所で俺らは奴隷のように扱われたんだぞ。その中でもお前は一番虐げられていた。その上、帰るところまで奪われたんだぞ! そのお前が、何でそいつを匿ったんだ!?」
ヴォルフの言うとおりだった。
ロマンの故国は、再起しないままに東の大国オプシルナーヤに吸収され消えてしまった。ヘルデンズが、祖父が攻撃さえしなければ、国としては在り続けられたのだ。
しかし、メルジェークがオプシルナーヤに吸収されるまで、少なくとも終戦から二年はあった。住むのは難しくとも、帰れなかったわけではない。
それなのに、ロマンはこの五年間ずっと、故郷から遠く離れたフラウジュペイの片田舎を離れようとしなかった。
それどころか、故郷を奪い、自由を奪い、何もかもを奪ったマクシミリアン・ダールベルクの孫の自分を匿い、ずっと面倒を見てくれた。正体を知っていたはずなのに、彼はずっとブランカに親切にしてくれたのだ。
「……収容所での日々は、この世の終わりだった。毎日毎日何人もの仲間が失われていく。ヘルデンズ兵に殴られている人を助けたくても叶わない。今でも思い出すだけで身震いするよ」
ロマンは伏し目がちにゆっくりと落ち着いた口調で、しかしどこか抑えた様子で話し始めた。
「メルジェークのことだって忘れたわけじゃない。一方的に踏みにじっておいて反逆扱いだ。ヘルデンズやマクシミリアン・ダールベルクを恨んでいないと言ったら、嘘になる」
「ならお前……っ」
「だから五年前、その孫を見つけたときは、復讐してやろうと思ったよ」
その場にいる全員が、絶句した。
冷静だった声はいつの間にか震え、ロマンの息は荒くなっていた。
普段の彼とは結びつかないひと言。いつも親切にしてくれただけに、鋭い刃物を突きつけられたような気持ちだった。
ロマンは苦しげに顔を歪めながらも、先を続けた。
「五年前、本当にもう終戦間際。収容所から解放された後、僕は出来たばかりの児童施設に一時的に滞在し、メルジェークに戻ろうとした。その途中で、彼女を見つけた。持ち物を漁って誰なのか分かったときは、戦慄したよ。この子のために全てを失ったんだと、怒りで頭がどうにかなりそうだった。正直殺してやろうとまで考えたくらいだった。だけど――」
ロマンの空色の瞳が再度ブランカに向けられた。
その目はとても優しくて、悲しそうだった。
「だけど、そのとき僕の目の前にいたのは、体中焼き焦げて今にも死にそうになっている、たった十一歳の小さな女の子だった。復讐どころか、見捨てることすら僕には出来なかったよ」
ロマンはそこで言葉を止めたが、彼がどんな心境でこの五年間を過ごしてきたのか、痛いほどに伝わった。
誰にも言えず、本人にも素知らぬふりをしながら、ロマンは五年間、ブランカを守り続けてくれた。
自分だって苦い気持ちを抱えているというのに、そんな素振りを一切見せず、いつでも優しく接してくれた。
一体どれほどの葛藤が彼の中にあったことだろうか。
「ごめんなさい、ロマン。ごめんなさい、みんな……本当に……」
謝ることしか出来ない。
どれだけ償いたくても償いきれない。ロマンにも、レオナやヴォルフにも。
「くそっ」
腑に落ちなさそうな渋面を浮かべるレオナの横で、ヴォルフが大きく舌打ちした。
ロマンに反論する言葉を失いながら、ヴォルフも納得したくなさそうに顔を顰め、投げやりに窓の外に視線を向けていた。




