2-5.一本の電話
それからの日々を、ブランカはほとんど覚えていない。
暦の上では一週間が過ぎていたが、その実感はなかった。
彼女はずっと虚ろな状態で、ただひたすら機械的に日々を過ごしていた。
フィルマンの屋敷で目を覚まし、カミーユに勉強を教わり、街へ出て食事をする。ロゼに来てからの生活と、ほとんど変わらない。
変わったのは、西地区ワーズ街に行かなくなったことだった。行く理由が、もうなくなってしまったからだ。それにカミーユの母がフィルマンの家に来るようになった。
それから、ロマンやレオナに連絡を取る気力もなかった。謝らなければならないとは思う。でもそれ以上に、何もかもがどうでもよかった。
ブランカはあの日以来、ずっと無気力で、そして虚ろだった。
あの日――アルトロワ広場で起こったあの惨劇。
ブランカの虚ろな心は、ずっと母を想っていた。
あんなにすぐ目の前にいた。
どれほど辱められても放心状態だったのに、母はわたしの声で目を覚まし、微笑んでくれた。
五年の年月で変わり果てた自分を、ちゃんと見つけてくれた。音にはならなくとも、母は娘の名を口にした。
ちゃんと、生きていてくれていた。
――あの瞬間までは。
銃声。
胸から噴き出した血。
崩れ落ちる身体。
あの瞬間の光景が、何度も瞼の裏に蘇る。
一人になると、ブランカは堪えきれず吐き、涙を止められなくなった。
何も出来なかった。
あんなに近くにいたのに、ただ見ていることしか出来なかった。
――では、他に何が出来た?
名乗り出ればよかった?
身代わりになれば、何か変わったの?
それとも、あの場で一緒に死ぬべきだった?
どれを考えても、答えは同じだった。結局、自分は何も出来なかった。
見殺しにするしか、出来なかったのだ――五年経った今でも。
その事実が、何度も繰り返し胸を抉った。
こんな痛みを、フラウジュペイの人たちは六年間も抱えていたのだろうか。フィンベリー大陸のあちこちで、同じような光景が繰り返されていたのだとしたら、とても耐えられない。
それなら、この痛みは――当然の報いなのだろうか。
ダールベルクの血が流れていること自体が罪だというのなら、自分もまた、ああして裁かれるべきなのだろうか。
あの時の光景を再び思い出して、ブランカは身震いした。
怖かった。
あんな風に大衆の前に晒され、撃たれることを想像するだけで、息が詰まる。
死ぬのが……怖かった。
わたしは最低。見殺しにしたくせに……。
けれど、だからといって生きる意味があるわけでもない。この先、どこへ行けばいいのかも分からない。
何のために生きているのかも、もう分からない。
逃げろと、母は言った。五年前も、そして最後の瞬間も。
でも、どこへ逃げても同じだ。
自分は大陸中の悪者で、正体を隠しても、その事実からは逃げられない。
けれども、死ぬことはやっぱり怖い。結局のところ、ブランカは生きる覚悟も死ぬ覚悟も出来ていないのだ。
胸元から出した薄萌葱色の手紙を開く。
どうかこの国の行く末を、お前に見届けてもらいたい。
お前がこの国を明るくするのだ。
どうかお前には健やかに長生きして欲しい。
何があってもお前だけは私の味方であってほしい。
ヘルデンズの運命は、お前の手に――。
「わたしに……どうしろというの」
どうすることもできない。
そうして、込み上げてくる悲愴感と激しい自己嫌悪に心と頭を殴られては、最終的にブランカはひどく無気力になっていた。
身体は機械的に日常を過ごし、頭の中は常に母を想う。
そんなブランカの虚ろな心を現実に呼び戻したのは、一本の電話だった。
***
アルトロワ広場の発砲事件から二週間が経ったある日の午後。カミーユの母がオーベルと一緒にフィルマンの屋敷にやってきた。
「やあ、叔母さん。毎日毎日悪いね」
フィルマンが玄関先でカミーユの母を迎える。
ブランカも一緒になってフィルマンの隣に並ぶと、カミーユの母はにっこり嬉しそうに笑って手を横に振った。
「いいのよ、私も家で一人で暇だったから。それにこっちの方が、居心地がいいのよね」
「フィルマンの家はうちより広いですからね。色々物も揃っていますし、私もこちらに泊まり込もうかと思うことがかなりあります」
「よしてくれよ、カミーユ。そんなことを許してしまえば、四六時中君と過ごさなくてはいけなくなるじゃないか」フィルマンはおどけたように肩を竦めた。
ブランカ以外の三人は、おかしそうに笑った。
「さて、僕とカミーユはこれから商談があって出かけなくてはいけないんだ。ブランカ、叔母さんのこと頼んでいいかな?」
「はい、大丈夫です」ブランカは機械的に答えた。
すると、カミーユの母がブランカに飛びついてきた。「それならあなたたちが帰ってくる前にこの子をとびきり可愛くしておくわ! 夕飯も作っておくから、ゆっくりしてらっしゃい!」
「まったく、君は本当に叔母さんのお気に入りだね」
それだけ言うと、彼はカミーユと一緒に出かけていった。
「さぁ、早くおめかしして買い物にでも行きましょう」
「そう、ですね」
二人はフィルマンの屋敷のリビングに向かった。
大抵カミーユの母が来るときは、オーベルの散歩をしたり、彼女が持ってきたレコードや映画を楽しんだりしている。
この日もすぐにリビングのテーブルに化粧道具が広げられた。
「今日はね、とびきりいいものを持ってきたのよ!」
カミーユの母の嬉しそうな様子を、ブランカはぼんやり見ていた。
ブランカは表面上普通に接しているが、やはり上の空で、耳に入ってくるものも、視界に入ってくるものも、半分くらいしかきちんと認識していなかった。
「こっちに来てもうすぐひと月になるのかしら? どう、こっちの生活は」
「だいぶ慣れました」
「それはいいことね。ダムブルクでの生活はひどいんでしょう? 火傷の子を放っておくくらいだものね」
「それは、私が気にしなかったので……」
「あら、ダメよ気にしなくっちゃ! 年頃の娘さんなんだから」
ブランカが適当に相鎚を打っているのに構わず、カミーユの母は楽しそうに手を動かしながら話を続けた。
「まぁ、あなたのように可愛らしくて気の利く子なら、余所に行くよりフィルマンにこのままもらってもらう方が断然いいわね。フィルマンてば、いい子でしょ? 仕事は出来るし話し上手だし、見た目も悪くないでしょう? それなのに四十近くになっても結婚していないって、どうかと思うのよね」
「そう、ですね……」
「ねぇあなた、どうかしら?」
「どうって?」
「フィルマンと結婚してみない?」
流石にこの質問には困った。
どう返そうかと、ブランカは虚ろな頭で無難な答えを探す。
すると――。
――リリリリリリリリリン。
リビングに備え付けられた電話が、突然鳴り響いた。カミーユの母は「間が悪いわね」と文句を垂れるが、ブランカは機械的に電話のところへ向かった。
「はい、ランベールです」
迷わず受話器を取った。
フィルマン達が不在の時、最近は彼女が代わりに電話に出ていたから、このときも特に何も考えずにそうしていた。
しかし、向こうから聞こえてきた声に、ブランカの思考が凍り付いた。
「……何だ、ランベールはようやく女でも作ったのか?」
数秒の間のあと聞こえてきた声は、とても低い男の声。嘲笑混じりの口調に、独特の凄みと尊大さが潜んでいる。
虚ろだった心が、一気に地上へと引き戻される。くぐもっていた聴覚は瞬時に研ぎ澄まされ、靄のかかっていた視界はあっという間にはっきりした。
ブランカの深緑色の瞳は、大きく見開かれていた。
嘘……。
この声って……。
まさか、まさか……!
「それで、ランベールは今いないのか?」
再び発された声に、ブランカの懸念は更に膨れあがった。
ただ声が似ているだけなのかもしれない。そうであってくれればいい。
けれども考えれば考えるほどに、ブランカの疑問は確信へと繋がっていく。
そもそもこの声を忘れるはずがない。
聞き間違えるはずもない。
もう二度と聞くこともないと思っていたのに……!
受話器を持つ手が大きく震え出し、歯ががたがたと打ち付け合う。頭のてっぺんから足の先まで身体が急速に冷えてゆき、喉が枯れていく。
息をするのもつらくなってきた。
ブランカが何も言わないでいると、男は再度尋ねてきた。
「ランベールはいないのか?」
「い……いません……」
ブランカは、震え上がる声を何とか絞り出した。無理矢理声も変えてみた。相手に気付かれてはいないだろうか?
男は「そうか」と呟く。
「それなら帰ってきたら電話をかけ直すよう伝えておいてくれ。あぁ、私の名前を伝え忘れていた。私は――」
その瞬間、ブランカは受話器を電話機に戻した。
両手が、受話器を強く握りすぎて白くなりかけている。肩は大きく上下して、荒い息が口から漏れた。
大量の冷や汗が、全身から噴き出していた。
「ブランカ? どうしたの? 今の電話は?」カミーユの母が心配そうに声をかけてきた。
ブランカはハッとして、首をゆるく振った。「あ……えっと、間違い電話……みたいです」
「そう、それは迷惑ね」
――迷惑。
迷惑は迷惑だ。
結局さっきの電話の人が誰なのか分からなかったけれど。
でも予想通りなら……。
もう一生関わることもないと思っていた。もう二度と関わりたくもなかった。
思い出したくもなかったのに、どうして今更になってその存在を知らしめてくるのか。
どうしてこの家にあの人からの電話がかかってくるの?
全くの偶然か、ただの人違いか。
それとも――。
「さぁ、ブランカ、早くこっちに来て。まだ仕上がっていないんだから」
カミーユの母に声をかけられて、そちらを向くと、ちょうどリビングに掛けられた鏡に自分の姿が映っていた。
真っ白な肌、火傷を誤魔化した赤い頬。深緑色の瞳は変わらない。
しかし、彼女の頭には、背中まで真っ直ぐ伸びるハニーブロンドのウィッグが被せられていた。
嘘でしょ……?
顔の雰囲気も瞳の色も、昔の自分とも母とも違う。ブロンドの色だって微妙に違うのに、今の自分は昔の自分の面影と、母の面影を色濃く残していた。
嫌な汗が、背中を流れる。
悲観的に暮らしていたこの二週間、知らぬ間に自分はこんな姿で街中を歩いていたの?
そんなところを、あの人に見られてしまったのなら……。
ブランカは勢いよくウィッグを取る。
「ちょっと! どうして外すの!? 可愛らしいのに!」
「すみません、少し内側がチクチクしていたので……」
妙な胸騒ぎが、彼女を襲った。
どうして、あの人がここに電話を掛けてきたの?
フィルマンとあの人の間にどういう関係があるのか、まるで分からない。
とにかく今分かることは一つだけ。
ここは危険だ。
よく分からないが、あの人がフィルマンと繋がっているのなら、ここにいてはいけない。
「ブランカ、何をしているの? 早くいらっしゃい――あら? どうしたの? 顔がとても青いわよ?」
「いえ、何でもないです……」
ブランカは首を横に振るが、彼女の言うとおりブランカはひどく震えていた。全身が冷たくなっているのが自分でも分かる。
怖い……!
怖い。
死ぬことよりも、誰かに恨まれ続けることよりも。
ただあの人に見つかることが恐ろしい。




