6-13.世界は動く②
お腹が空いて仕方がない。
一体何日まともに食べていないのだろう。こんなにひもじい思いをしたのは初めてだ。
少女は、物陰から配給所を見ていた。
目の前には、ブリキの器を持った人の列が並んでいる。どの人も汚らしくて、みすぼらしい。そんな人たちに混ざるのは、プライドが許さなかった。
ぐぅぅ。お腹の音が鳴り止まない。
道行く人が、こちらを見て目を逸らす。一層恥ずかしくて堪らなかった。
少女は配給所を見据える。
何であの子はあんなに平気でスープを配れるの?
あんな、底辺の作業なのに。
あんな作業をしたくなかったから、軍幹部の下に喜んで就いた。まさかあんな扱いを受けるなんて、思っていなかった。
仕方なく着ているぼろの袖から、無理やり押された焼印が覗く。
あぁ、お腹が空く。
変装したら、気付かれないかしら。
でも……うようよしているオプシルナーヤ兵士たちを見ると、怖くて堪らない。
少女は、建物の角に蹲った。
お願い。これまでのこと、謝るから、スープを分けて。
私にも救済して……。
すると、何かが降ってきた。
なにこれ……小さいパン?
顔を上げると、去っていくオプシルナーヤ兵士の姿が見えた。
今日は急に寒くなった。
ブランカは小さく肩を震わせた。本当はマフラーや厚手の秋コートを羽織りたいけど、我慢した。配給の列に並んだ人たちは、ずっと寒そうな格好をしている。
ブランカは鍋のスープに視線を落とした。きっとこれも冷め切っている。どこかで温め直せたらいいんだけれど。
ブランカは後ろに立っていたセドロフ大尉を見上げた。
「どうかしましたか?」
「あの……スープを温め直したいんです」
セドロフ大尉はわずかに頷いた。手近な兵士に指示を出す。
ブランカは一番前に並んでいた人に、頭を下げた。
「ごめんなさい。少し、お待ち頂けますか?」
「いや、むしろラッキーだな」
彼は軽く笑って、鼻をかいた。この配給所でよく見る男性だ。
「いつも気遣ってくれて助かるよ」列の後ろから声がかかった。
「いえ、私は全然……」ブランカは小さく首を横に振った。
最近は、こうして声をかけられることが増えた。大したことも出来ていないのに、お礼を言われると、胸の奥が少しだけ暖かくなった。ブランカの方こそ、たくさん勇気をもらっている。
「ねぇ、ヨモギ使ってくれた?」
裾を引かれて、ブランカは下を見た。いつもの男の子が、今日もヨモギを片手に持ってブランカを見上げている。配給所のお馴染みの光景になりつつあった。
ブランカは屈んで目線を合わせた。「うん。いつもありがとう」
男の子は少し頬を膨らませて、ブランカにヨモギを差し出した。彼は首を傾げた。
「何でお姉ちゃん、やけど治らないの?」
ブランカはすぐに答えられなかった。
見ていた大人たちが、気まずそうに口を開けている。
「多分、ヨモギが足りないからじゃないかな」
別の方から、聞き覚えのある声が答えた。
ブランカは反射的に顔を上げた。
列の横に、ロマンがいた。
ブランカは目を見開いた。
ロマンはブランカに笑みをよこすと、ヨモギの男の子と目線を合わせた。
「このお姉さんの火傷には、数えきれないほどのヨモギが必要なんだ。だから、毎日来ないとね」
「本当に?」
ロマンはにっこり微笑んだ。「一緒に摘みに行こうか。手伝ってあげるよ」
男の子は嬉しそうにロマンを見上げた。
ロマンはちらりとブランカを見ると、小さくウインクして、歩き出した。
驚きが強すぎて、言葉が出ない。聞きたいことも、話したいこともいっぱいあったのに。
ブランカはエプロンのポケットを触って、あ、と思った。
「すみません、セドロフ大尉」大尉がブランカを見る。「あの子にお菓子、渡して来ていいですか?」
大尉は目を僅かに動かした。「見える範囲で」
ブランカは、少し先を歩くロマンとヨモギの男の子を追いかけた。
「待って!」
二人は振り返った。
ブランカは、ロマンを一瞬見てから、しゃがみ込んだ。男の子にチョコレートを差し出す。
「ヨモギ、本当にいつもありがとう。すごく嬉しい」
男の子は顔を赤くして、もじもじ身体を揺らした。
上から、ふふっと笑い声が降ってきた。見上げると、ロマンが目を細めて、嬉しそうに顔を和らげていた。
「いい顔になったね、ブランカ」
懐かしい包み込むような笑顔を見ていると、ブランカは、色んなものが込み上げてきた。何から話せばいいか分からない。
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
言われて、ブランカは目尻を拭った。
男の子は首を傾げている。
「お嬢様」
セドロフ大尉が近付いてきた。ああ、もう時間がない。
ブランカは、エプロンのポケットから小さな紙切れを出した。
「あのロマン、これ知ってる?」
ロマンはブランカを起き上がらせるふりをして、紙切れを受け取った。手のひらの中で確認する。
『必ず行く。お前はお前だ――W』
「……ヴォルフの字だね」
ロマンはブランカを見た。
ブランカは、恐る恐る聞いた。
「ヴォルフ……大丈夫なの?」
「お嬢様」大尉がすぐそばまでやってきた。「スープが温まりました。お戻りを」
ブランカは促されて、配給所に戻る。
首だけなんとか振り返ると、ロマンはブランカに見えるように親指を立てた。
ブランカは、息をついて身体を震わせた。
やっぱり……やっぱりヴォルフは生きてる……!
瞼の裏が熱くなってきた。ブランカはぎゅっと目を閉じる。
帰ったら、いっぱい泣こう。
ブランカはぐっと唾を飲み込んで、気持ちを切り替えて、定位置に戻った。
「大活躍だね、救済のダール二世さん」
聞こえてきた声に、ブランカは固まった。
全身の鳥肌が立つ。
「ランベール殿。こちらで何を」セドロフ大尉が尋ねた。
フィルマンは肩をすくめて返す。「お嬢様のお手伝いをしたいと思いまして」
ブランカは列の前にいた人に、温かいスープを配り、徹底的にフィルマンを無視した。
しかし、フィルマンは脇に陣取ったまま、動かなかった。
「ここに来るまでに聞いたよ。君、なかなか罪作りみたいだね」フィルマンはフラウジュペイ語に切り替えて言う。「まるで虫が群がる花のよう。母親には無かったのにな」
柄杓を握る手に、力が入った。
この人が母のことを話すのはとても腹立たしいけれど、いちいち反応するものか。ヴォルフのこともそう。この人はいつだってでたらめしか言わない。
ブランカは気持ちを強く持って、無視し続けた。
「つれないな。せっかくの再会なのに」
「ランベール殿。作業中ですので――」
セドロフ大尉がそう言いかけた時。
配給台の脇から、コスモスの花冠がひょっこり現れた。
三つ編みの女の子が、ブランカを見上げた。
「あたしの友達がね、いっつもお菓子自慢してくるの。ヨモギしか持ってこないくせに」
彼女は、頬をぷっくり膨らませながらも、きらめく青い瞳をブランカに向けた。
「これ、もらってくれる?」
無垢な瞳を見ているうちに、逆立っていた気持ちが和らいだ。ブランカはエプロンのポケットから、マドレーヌの包みを出した。
かがみ込んで差し出すと、女の子は背伸びしてブランカの頭に花冠を乗せた。
女の子は、にっこり笑った。
「お姉さん、とっても似合うよ」
ブランカは、目を細めた。
女の子が去って振り返ると、フィルマンの姿はなかった。




