第10話「旅立ちの鐘」
二人は冒険者協会の前へとたどり着いた。
重厚な扉を開けた瞬間、外の静けさとは対照的な、ざわめきと熱気が二人の全身に押し寄せてくる。
重なり合う怒鳴り声や笑い声、商談の生々しい交渉、依頼内容を大声で読み上げる声。
金属がぶつかり合う甲高い音に、椅子を引き摺る不快な軋み、酒場の奥から響くジョッキ同士の乾いた衝撃音。
視線を巡らせれば、壁際で刃こぼれした剣を黙々と研ぐ者、鎧の紐をきつく締め直す者、仲間と地図を広げて真剣な顔で作戦を練る者の姿があった。
背中に巨大な槍を背負った男が風を切って通り過ぎ、その後ろでは、魔術師らしき女性が魔力灯を調整し、その淡い光を細く揺らしている。
中は広い吹き抜けの構造になっており、壁一面には無数の依頼票が貼られた掲示板がそびえ立っていた。
冒険者たちが鈴なりに群がり、羊皮紙を剥がしては仲間と相談し、時に声を荒げて取り合っている。
その奥に構えられた長い受付では、数人の受付嬢が慌ただしく依頼票を受け取り、次々と冒険証に刻印を押していた。
「次の方、どうぞ!」
「三番受付へお願いします!」
飛び交う声に混じり、手続きを告げる小さな鐘の音や紙をめくる音が絶え間なく響く。
フィナは思わず足を止め、目を丸くした。
「……ん、昨日より騒がしい」
その小さな呟きには、驚きと、ほんの少しの高揚が入り混じっていた。
オリティスはそんなフィナを横目で見ると、口元をわずかに緩める。
「改めて、ここが冒険者協会だ。依頼と情報、そして人と金……すべてが集まる場所だな。ちょうど、今が混み合う時間帯なのだろう」
その瞬間、小気味よい足音がこちらへ駆け寄ってきた。
「オリティスさん!フィナちゃん!」
振り返ると、あの日、登録時に対応してくれた受付嬢が満面の笑みで手を振っていた。
長い金髪を後ろでまとめ、室内の光を受けて蜂蜜色に輝かせている。大きな瞳は澄んだ翡翠色で、笑うたびにきらきらと快活な光を宿した。
白を基調とした制服は清潔感があり、胸元には協会の紋章をあしらったブローチが誇らしげに留められている。
柔らかな布地のスカートを揺らし、明るい声と共に、彼女の全身から眩しいほどの活気があふれ出ていた。
「そうそう、自己紹介がまだでしたね! 私はミルフィと申します! これからどうぞよろしくお願いしますね!」
オリティスは表情ひとつ変えず、淡々と尋ねた。
「今日は依頼を見に来た。何か手頃なものはあるか?」
「はいっ!」
ミルフィは弾むように即答する。
「経験は何よりも大事ですからね! 特にフィナちゃんのような新人さんには、実戦感覚こそが一番の教材です! それで……私が紹介するのもいいんですが、一度あの掲示板をご自身で見てみてはどうでしょう? もちろん受付から直接受注もできますが、掲示板には本当に多様な依頼が集まっていますから、きっとフィナちゃんの勉強にもなりますよ!」
そう言って、ミルフィは二人を巨大な掲示板の前へと案内した。
壁一面を埋め尽くす、無数の羊皮紙。
「依頼の階位は、用紙の色で判別できるようになっているんです。文字が読めない冒険者さんも多いですからね。フィナちゃんたちは階位のルキなので、対象はあの茶色の紙になります」
フィナは背伸びをするようにして、一枚一枚の依頼票を食い入るように見つめた。
「読めない……」
「そのために色があるんです! 依頼の性質は大きく分けて4つ。採取や運搬のような“生活依頼”は緑色、護衛や討伐のような“戦闘依頼”は赤色、そして探索や調査といった“特殊依頼”は青色です。ここには貼られませんが、他にも直接指名される“指名依頼”というものもあります。どれも冒険者としての信用と経験を積む、大事なお仕事ですよ!」
フィナは真剣な面持ちで頷き、再び緑色の依頼票を見上げる。
ミルフィはその中から一枚の紙を指差した。
「そうですね……あれなどはどうでしょう。虚大穴とは真逆の方向にある、比較的安全な地域──“葵群の森”での醜精討伐依頼です。最近、その森の街道で馬車が襲われたとの報告がありまして、現地の商隊がかなり困っているようなんです」
「ん、余裕」
フィナが自信満々の言葉にオリティスが微笑み。
「フィナがこう言っている。これで決まりだな」
「承知しました!」
ミルフィは受付へ駆け戻ると、手早く依頼書に受領の刻印を押し、二人に差し出した。
「では! 無理はなさらず、気をつけて行ってきてくださいねっ!」
そしてミルフィは、見送りにとばかりに、冒険者協会の中央に設置された巨大な鐘の綱を、勢いよく思い切り引き絞った。
激しく乾いた金属音が、吹き抜けの館内中に爆音となって響き渡る。
「ッ……!」
思わず顔を顰めて耳を塞ぐフィナ。
オリティスは平然とそれを受け流していたが、次の瞬間、受付の奥の扉が勢いよく開き、怒声が飛んできた。
「その鐘は“緊急事態”に鳴らすものだと、何度言えば理解するんだミルフィーッ!!」
「ご、ごめんなさぁーいっ!」
頭を下げるミルフィの姿を背に、オリティスとフィナは静かに冒険者協会を後にした。
扉が閉まる頃には、再びいつもの混沌としたざわめきが、何事もなかったかのように協会を包み込んでいた。
冒険者協会を出てしばらく歩くと、街の空気が少しずつ変わっていくのが肌で分かった。
この街に着いた時は、生き残ったという実感があまりに強すぎて、まともに目を向ける余裕のなかった光景だ。
広々とした石畳の随所には、今もなお深い傷跡が刻まれている。
まるで巨大な獣の爪で抉り取られたような深い溝──喪失獣がこの街を蹂躙していた頃の名残だった。
道の脇には、古びた防壁の残骸がそのままにされていた。
現在は蔦が絡まり、花が咲き乱れているが、その石肌には黒く焼け焦げた痕や、魔術の衝撃で爆ぜた亀裂がはっきりと残っている。
フィナは思わず足を止めた。
「……ここ、戦った跡?」
オリティスが静かに頷く。
「ミオルタは元々、喪失獣の侵攻を食い止めるため、大竜帝国ユーレンバンスが緊急的に築き上げた前線基地だった。今でこそこうして都市として栄えているが……この傷跡は、歴史の名残だな」
少し先にある広場では、兵士たちが訓練に励んでいた、槍を鋭く構え、腹の底からの掛け声を上げ、盾を打ち鳴らす音が硬く響く。
「……強い」
門が近づくにつれ、周囲の空気はさらに肌を刺すように引き締まっていく、門へ続く道の両脇には、重厚な石造りの監視塔が二基、聳え立っていた。
塔の上からは弓兵が鋭い視線で周囲を警戒しており、設置された魔力灯が、真昼の太陽の下でも淡く青白い光を放ち続けている。
門の外側には、古い杭の列が、今も地面に深く突き刺さっていた、喪失獣の猛烈な突進を物理的に阻止するために設置された拒馬の跡。
現在は一部が撤去されているものの、地面にはそれを固定していた深い穴がいくつも暗く口を開けている。
フィナはその跡を見つめ、胸の奥がざわりと小さく震えるのを覚えた。
ミオルタの門へと到着した二人、陽はまだ高く、初めての旅立ちにはこれ以上ないほどの快晴だった。
「おや、君たちは一昨日にここへやってきた……」
門の片側に立っていた門番が、記憶を辿るようにして気さくに声をかけてきた。
「んっ!」
フィナは小さく頷くと、腰から冒険証を取り出し、すっと差し出して見せる。
門番は目を細めてそれを受け取り、刻印を確認すると、大きく頷いた。
「おおっ! さっそく冒険者登録できたのか! 立派なもんだな! ああ、名乗るのが遅れた。俺の名前はハルド。で、こっちに立ってる無口なヤツがアルだ。見ての通りの愛想はないが、腕は確かで頼れる男さ。外で何か困ったことがあれば、いつでもこいつに言ってくれよ」
フィナは興味深そうに、隣に直立しているアルをじっと見つめた。
「んっ」
短くそう告げると、アルもまた、まっすぐにフィナを見つめ返し、無言のまま静かに深く頷いた。
「……ああ」
二人の視線が交差した瞬間、そこには言葉を必要としない。
その様子を側で見ていたオリティスは微笑む。
「どうやら、無口な者同士、通じ合うものがあるようだな」
「ははは、本当ですね」
ハルドも顔をほころばせながら頷いた。
「お二人はこれからどちらへ?」
「冒険者協会で醜精退治の依頼を受けた。目的地は葵群の森だ」
オリティスが答えると、ハルドの表情が引き締まった。
「なるほど、葵群の森ですか。それなら、この門を出て小道を道なりに進めば一本道ですよ。しばらく歩くと、青緑色の林が見えてきます。特徴的な色合いだから、見落とすことはないはずです。あの森の浅瀬なら、基本的には安全圏ですよ」
「どんな魔物が出るの?」
フィナの端的な問いに、ハルドは門番としての真面目な顔に切り替えた。
「森の入り口付近なら、目当ての醜精や、疾狼あたりが主でしょうね。どちらも下位の魔物ですが、素早さに特化した魔物なので油断は禁物です。特に疾狼は、時折上位種を混ぜた群れで組織的に動きますから。それと……あまり奥へ行きすぎると、茶鬣の縄張りに引っかかる可能性があります。あれは流石に新人には早すぎる。くれぐれも無理はしないでくださいね」
「貴重な情報、感謝する」
オリティスが軽く片手を上げて感謝を示すと、フィナへと振り返った。
「フィナ、行くぞ」
「んっ!」
短い返事と共に、フィナは力強く頷いた、二人はそのまま重厚な門をくぐり、指し示された西の小道へと一歩を踏み出す。
心地よい風が遮るものなく吹き抜け、背後からは街の喧噪がゆっくりと遠ざかっていった。
門の背後で、ハルドが小さく息を漏らす。
「……それにしても、綺麗な人だったなぁ。あの黒髪の女の人……」
「……コホン」
隣で、アルが唐突に、静かで硬い咳払いをした。
「なんだよぅ! 本音を言ったっていいじゃんか! なあアル、お前だって本当は少しそう思ってただろ?」
アルは無言のまま、ただ視線を真っ直ぐ前方へと戻した。
だが、兜の隙間から覗くその耳の付け根が、わずかに赤く染まっていることに、ハルドが気づくことはなかった。
陽が穏やかに西へと傾きはじめた頃、オリティスとフィナは、ハルドに教えられた通りの土の道を静かに進んでいた。
切り出された石畳はいつの間にか途切れ、足元は土と木の根が複雑に絡み合う、柔らかな小道へと変化している。
湿り気を帯びた心地よい風がフィナの頬を撫で、青々とした草の香りと、遠くから聞こえる鳥のさえずりが、旅立ちの緊張を優しく解きほぐしていく。
そんな静寂の中、オリティスがふっと思いついたように口を開いた。
「そういえば、魔物に関する基礎的な知識をまだ教えていなかったな」
フィナは興味津々といった様子で、すぐに隣のオリティスを見上げる。
「んっ」
「魔物には、大きく分けて2つの種類が存在する。1つは“通常種”──生まれながらにして魔物としてこの世界に産まれ、繁殖する存在だ。今回の討伐対象である醜精がこれだ」
「ふむふむ」
「そしてもう1つが“属性種”だ。これは世界の“属性の影響”を強く受けて通常の生物が魔物へと変化した存在、あるいは、属性の乱れや魔力濃度の集中によって、環境から自然発生した魔物を指す。先ほど門番が言っていた疾狼や茶鬣がそれだな」
「……変化……?」
「そうだ。単純な戦闘能力や脅威度で言えば、後者の属性種の方が格上になりやすい。環境の変異に伴って、突然変異で規格外の強さを得る個体もいるからな。大雑把に言えば、生物由来が通常種、世界由来が属性種だ」
オリティスは一度足を止め、深く広がる街道の先を見据えた。
「そして──その属性魔物の中でも、最高峰の頂点、最強種と言われている存在が龍だ」
その単語が耳に届いた瞬間、フィナの胸の奥に、言葉にできない奇妙な引っかかりが生まれた。
「……龍?」
口に馴染まないような、妙な違和感。
けれど同時に、魂の深い部分を直接揺さぶられるような、強烈な興味。
「違和感……でも、興味、ある」
その瞬間、突如としてオリティスの真横の空間が、ガラスが割れるかのように鋭く裂けた。
その亀裂から、傲慢な気配を纏ったアジスイデアが姿を現す。
『フン、龍だと! 我ら高貴なる“竜”の下位存在たる、ただの塵芥ではないか! フハハ、あれは哀れな造物よ。我らという真なる絶対者がいたがゆえに、言葉が勝手に歪み、混同したに過ぎん!』
アジスイデアは不遜に顎を引くと、フィナを圧するように見下ろした。
『小娘、1つ助言をくれてやる。環境の化身たる“龍”はともかく、“竜”には、決して、絶対に挑まぬことだ。いくらお前がオリティスの庇護下に置かれていようとも、一瞬で跡形もなく喰い殺されるだろうからな』
オリティスは呆れたようにアジスイデアを一瞥し、静かに言葉を継ぐ。
「私とて、フィナを竜と戦わせるつもりはない。あれは私でも苦戦を強いられるからな。……まあ、フィナが感じたその違和感は正しい。“龍”と“竜”は、人間の発音としては同じように聞こえるが、その本質、性質は全くの別物だ。しかし、その講義はまた今度にしよう。──着いたぞ」
(竜、龍、りゅう……?)
頭の中でその響きを繰り返すフィナの思考を遮るように、目の前には幻想の光景が広がっていた。
葵群の森。
その名の通り、生い茂る全ての葉が不思議な青緑色に染まった巨木たちが、一帯を深く埋め尽くしている。
真昼であっても空がわずかに隙間から覗くほどの木々の密度。
そして、ほの暗い森の深奥から差し込むわずかな木漏れ日が、青緑の葉に乱反射して、まるで水底のように淡く輝いていた。
「……綺麗」
フィナは息を呑み、小さく呟いた。
張り詰めた静けさの中、森のどこかで名も知らぬ鳥が優雅にさえずり、風が葉を揺らして吹き抜けていく。
オリティスは薄く目を細め、鼻先をかすめる空気に意識を向けた。
「まだ、雨の匂いが残っているな」
「……ん。雨の匂い、好き」
フィナがそう言って前話を振り返るように微笑むと、オリティスも柔らかく目を細める。
「私もだ」
『けっ、我は好かん!』
アジスイデアが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
二人は揃って、その我が儘な竜へ冷ややかな視線を向けた。
『……チッ、我は帰る!』
アジスイデアは、そのまま自ら引き裂いた亜空間の裂け目へと、逃げるように姿を消した。
「では、行こうか」
「んっ!」
二人は静かに、青緑の光に満ちた神秘の森へと、その第一歩を踏み出した。




