第四幕 帰郷
〈ちょっとした設定〉
アイザックはそこそこ恵まれた家で育っています。
少々面倒くさがり屋な"普通"側の人間です。羨ましいですね。
無重力だった車内は、ゆっくりとスピードを落としていった。それは現世にもうすぐ着く合図だった。
やがて車両が完全に止まると、軽い電子音が聞こえた。続いて、静かな車内にアナウンスの声が明るく響く。目的地が別だからか、いつの間にか他の乗客はいなくなっていた。
「当選者のエヴリン様、アイザック様、大変お疲れ様でした!降りる際は足元に十分ご注意くださいませ!」
アナウンスが終わると共に扉が開かれた。エヴリンは横にいるアイザックに声をかける。
「…アイザック、降りるわよ。吐くなら外でして」
アイザックは小さく頷いた。顔は青白く、口元を抑えながら車両を出る。エヴリンは彼の背中に手を当てて、余分に持っていた袋のうち、1枚を彼に渡した。
「……ありがとうございま…うっ…」
アイザックはエヴリンから袋を奪うように受け取り、その場でしゃがみ込む。喉にせり上がる物体の気持ち悪さに涙目になりながら、袋に口を隠してえずき始めた。エヴリンはそんなアイザックには何も言わず、丸まった背中を撫で続けていた。この場合、会話が困難になることを彼女は知っていたのかもしれない。
少しすると、アイザックは袋から顔を離した。袋の中身は軽く、好奇心から除いてみるとそこには何もなかった。
「…現世に来たら、あたしたちの汚れはないことになるらしいわよ」
エヴリンはアイザックの背中から手を離した。膝に手をついて立ち上がる。
「もし平気なら、観光しない?現世にいられるのは、1週間だけなんだから!」
アイザックは酔いが覚めた頭で立ち上がった。まだ口の中は気持ち悪いが、今ここで燻っているわけにはいかない。目的は彼女が弟に会うのを手伝うこと。愛する家族との再開は、早いほうが良い。
「…ところで、エヴリンは両親には…」
「あ、何あれ美味しそうじゃない?」
"両親"と聞いたエヴリンはアイザックの手を強引に引っ張って近くの菓子店を指さした。
あからさまな誘導。彼女は両親について何も話したくないらしい。アイザックは彼女が一瞬だけ見せた怯えの表情を見て、なんとなく彼女の事情を知ってしまった気がした。14という若さで亡くなり、弟だけを家族として認めている。それがどんな意味を持っているのか、アイザックは深く考えようとして止めた。
「…エヴリンが好きそうなお菓子ですね」
エヴリンに合わせて話題を変えると、彼女のアイザックの腕を掴む力が緩んだ。話し方の調子がいつもの彼女に戻る。
「そう!特にあたし、あのナッツが入ったブラウニーが好きなの!」
彼女はショーケースに入ったブラウニーを指さした。正方形に切られた切り口から、噛み応えのありそうなナッツ類が顔を覗かせている。
「…これ、食べられないのかしら…」
エヴリンはブラウニーから目を離せないでいる。別に腹が減った訳では無いが、チョコレートの甘い匂いが彼女を引き付けてやまない。
「あ、たぶん食べられますよ」
アイザックは切符裏に書かれた注意書きを目を細めて見ていた。小さな字だが、『現世の食事は可能。ただし複製物のため、味が落ちる可能性あり。』と表記されていた。
「本当!?」
エヴリンはその場で楽しそうに手を叩き、小さく跳ねた。そしてブラウニーに向き直ると、遠慮がちにショーケースに手を伸ばした。指先はショーケースをすり抜け、ブラウニーに触れる。彼女がそのまま手を引き抜くと、置かれたブラウニーからもう一つ、同様のものが現れた。彼女はそれを両手で持ち、嬉しそうに三口で食べきった。
「相変わらず、食べるのが早いですね」
奪われるわけでもないのに、という言葉か喉元まで出かかった。しかし冗談とはいえ、アイザックはそれを口に出すべきではないと判断した。
「だって、美味しいんだもの」
口の端に欠片を付けて笑う彼女は、年相応の姿だった。本来の年齢ではおそらくアイザックより10歳以上も上だが、少女であることに変わりはない。
「…そうですか」
確かに、美味しいなら仕方がない。アイザックは彼女の食欲に苦笑した。
「あの、そういえば彼、復帰したんですよね?」
カウンターの女性たちが、店に客が来ないのを良いことにスマホをいじりながら会話を始める。もちろん、存在を認知されていない彼らは、客として歓迎されていない。
「あー……あれ、俳優だっけ?」
「違いますよ〜!モデルとか色々やってますけど、本業はマジシャンです!」
"マジシャン"と聞いて、アイザックは彼女たちの話に耳を傾けた。エヴリンはその隙にブラウニーをもう一つ手に取る。大きな口で頬張りながら、アイザックと同じように会話の盗み聞きをした。
「あ、そうだった?でも正直、彼はマジシャン向いてないよ。彼のマジック、そんなに面白くないじゃん」
そう言う彼女は、カウンターに気怠そうにカウンターに頬杖をついた。慣れた手つきでスマホに文字を入力すると、とある動画サイトのショート動画を隣の若い女性に見せる。
「別に、顔が良いからそんなこと気にならないですよ!…うわ、動画で見ても本当にイケメン〜!」
気怠そうな女性のスマホごと受け取った彼女は、うっとりした様子で画面をスクロールしていた。
「……何がいいんだか」
肘をついたまま、女性は特大の溜息を漏らした。
一方、2つ目のブラウニーも食べきったエヴリンは、2人の女性の話を興味深そうに見て聞いていた。
「……イケメン…すっごく気になる」
エヴリンはカウンターに乗り上げ、彼女たちのスマホを覗いた。もし彼女が生きていたら、出禁にされそうなくらい失礼だ。
「ちょっ…エヴリン、はしたないですよ!」
アイザックは慌てて彼女のことを地面に下ろそうと説得する。だが彼女は動かなかった。その瞳はすっかり画面に釘付けだったのだ。
「エヴリン、いくら好みの男性だからといって…」
魂だけでも、同じように帰ってきている輩がいるかもしれない。もし今こんな姿を見られたら、帰ってから周囲に笑われるだろう。アイザックはそれを恐れていた。
そんな彼を他所に、エヴリンは静かに口を開いた。
「リアムだ」
「……え?」
エヴリンは震えた声で『リアム』と何度も名前を呼んだ。思い出を飲み込むように、その音を刻むように。
「……嗚呼、こんなに立派になったんだ……」
彼女の瞳は唯一の弟をしっかりと捉えていた。触れることのできないスマホに、手をかざす。指先がスマホをすり抜け、エヴリンは名残惜しそうな顔をした。
「……そろそろ行きますか」
アイザックが手を差し出すと、エヴリンは姉の表情から一変して、ニヤリと口角を上げる。エヴリンは勢いよくショーケースの上から飛び降りると、アイザックの差し出された手は無視して歩き出した。
「ほら、早く行きましょ!本物のリアムに会いたくなっちゃった!」
アイザックは安堵した溜息を漏らした。肩を竦めて彼女の背中を追う。相変わらず、掴めない性格だ。掴ませないだけかもしれないが。
「…ほらアイザック、こっち!」
街中を歩いていたエヴリンが、ふとアイザックの腕を掴む。アイザックは転びそうになりながらも路地裏に入った。
「エ、エヴリン、これはどこに行くんです?」
エヴリンは歩くアイザックに若干苛立ったようだった。腕を掴んだまま少しずつスピードを上げる。
「あたしの家!少し見るだけだから、走るよ!」
エヴリンの家。アイザックは少し身構えた。彼女の両親の話は、彼女によって遮られた。本当は家に帰るのも本意ではないのだろう。だが、彼女の腕は力強かった。弟を探すためなら、どこまででも行けてしまいそうなほど。
「……良かった、まだ場所は変わってない」
暗い路地裏を抜けた先、蔦が絡んだくすんだ屋根の家が見えると、エヴリンは足を止めた。家自体はそこまで古くないが、ちゃんとした手入れをしていないせいで廃墟のように見える。中庭には生い茂った雑草の間から缶ビールのアキカンが顔を出し、花壇はいくつか割れていた。
「……ここが、アナタの家だったんですか…」
アイザックは呆然としていた。メディアでしか、こんな酷い家を見たことがなかった。アイザックが思わず目をそらしたくなるであろう現実を、この家は表している。
「……今家にいるのはパパだけみたいね」
エヴリンは亀裂の入った大きな窓から目を凝らしてリビングを確認した。背の高い雑草が小柄な彼女を覆っている。
「…わかるんですか?」
アイザックも目を凝らして室内を見渡す。古いソファに座って酒を呷る、やたらと体格の良い中年の男。彼以外に近くに人はいなさそうだが、別室にいる可能性をアイザックは疑っていた。
「だってパパ、静かなんだもの。もしここに誰かがいれば…もっとうるさいから」
エヴリンは言葉を選んだ。直接的に言うと被害者らしくなると思ったのだろう。実際はそうなのだろうが、彼女はそうは思っていないらしい。
「…さ、街に戻りましょ。ここの空気、淀んでて好きじゃないの」
エヴリンは苦笑して踵を返した。ここに来てから、ずっと彼女の笑顔は硬い。
「…そうですね。気分転換に、また何か食べましょうか」
アイザックはエヴリンの少し前に立った。今の彼女は死後の世界の先輩でも姉でもなく、幼い子供だ。先頭を今の彼女に歩かせるのは、彼の正義が許さなかった。
彼らが歩き出した時、空き缶が床のフローリングに落ちた音が高く響いた。エヴリンがビクリと肩を震わせる。
「……オイ。オメェ…なんでここにいンだよ」
酒に焼け、痰が絡んだ低い声。その声の主は、ソファから静かに彼らをじっと見ていた。
次話更新→未定(更新前日に書き込みます)




