第三幕 まるでアトラクション
カーテンから漏れる日の光。まだベッドの温もりに体を預けていたいアイザックは、唸りながら寝返りをした。目を開けてしまえば、この心地良さが失われてしまう。そんな気がして、また深い眠りに入ろうと息を吐いた。
「アーイザーーーック!!!」
玄関から聞こえてくる、絶叫に近い声で目が冴えた。正直まだ寝ていたかったが、昨日交わした彼女との約束を思い出し、血の気が失せる。
「……あー……」
壁掛け時計を見ると、なんと時刻は午前7時。昨日『モーニングコールをする』と脅された時間と同じだった。だんだん数を増やすドアへのノック音に、アイザックは後ろめたく思いながらベッドから飛び起きる。真っ先に玄関に行きドアを開けると、エヴリンが仁王立ちしてアイザックを睨みつけていた。
「……あら、良い夢は見れた?」
エヴリンは腕を組み、挑発的な笑みを浮かべた。彼女が言いたいことはわかっている。概ね、『ちょっとは早く起きられないのかしら』というような文言だろう。
「……ぅ…すみません……」
彼女の問いに答えられず俯いていると、彼女は手を鳴らした。マジック本番の前など、気持ちを切り替える際にしていた行動だ。
「さあ、急いで準備するわよ!まずは身支度から!」
彼女はアイザックに後ろを向かせると、乱雑に洗面所近くまで背中を押した。彼女の腕から伝わる震えは、現世に行くことへの緊張によるものだろうか。……いや。おそらく、アイザックの高い身長を支えているのだから、腕が痺れているのだ。
「顔洗って着替えて!あたしは朝食作って待ってるから!」
アイザックの背中を何とか洗面所に押しやると、エヴリンはそれだけでどっと疲れたような気になった。洗面所で寝ないか心配に思いながら、キッチンの方へ向かう。ドア越しに派手に躓いた音が聞こえ、エヴリンは頭を抱えた。彼が大きな怪我をしていませんようにと、彼女はアイザックの代わりに神に祈っておいた。
エヴリンがキッチンを見ると、彼の家での生活が容易に想像できた。彼のキッチンは使用された形跡が殆どなかった。それなのに使用したあとの片付けは甘く、コンロや電気ポットの下には飲食物から落ちた液体が水玉模様を描いていた。ショーでは真剣に取り組めるが、彼は自分の周りには一切気を配れないらしい。よく言えば仕事熱心、悪く言えばだらしない。
袋のままでまな板の上に置いてあるスーパーの食パンを横目に冷蔵庫を開けてみると、やはり中はほぼ何もなかった。パンに塗るであろうジャムが半分入った瓶が一つと、ヨーグルトが5つ。申し訳程度に置かれた卵数個と大きなベーコンが1枚。念の為冷凍庫も確認したが、こちらは一つも物がなかった。
「うーん…アイザックとはわかり合えないかも…」
いくら食事を必要としなくても食事をするだけで幸せを得られるし、自分で調理するのは大変だが、その分失敗も楽しめる。アイザックのキッチンには、そういった食に関するプラスな感情が一つも見当たらなかった。彼の仕事風景を思い出すと、彼にとってはマジックこそが食事とも言えるのかもしれない。
「……よし、作りますか!」
エヴリンは袖を肘の辺りまで捲った。まずトースターに置かれていたパンをセットする。よく使っているのか白い塗装が一部のみ茶色く変色し、網は洗われてはいるが綺麗とは言い難い。
収納を漁ってほぼ使われた形跡がないフライパンと包丁を洗い、冷蔵庫から卵とベーコンを取り出す。ベーコンは半分にしてからフライパンに乗せ、卵を上に落とした。
焼いている間に皿を洗い、そこに少し固めのヨーグルトを落とし、ジャムを添える。見た目は正直あまり良くないが、急いでいるので気にしないことにした。
フライパンの様子を見ると、もう少し時間がかかりそうだ。パンもまだ焼けておらず、カウンターを爪で叩きながらキッチンから見える景色を眺める。
「…病院みたいね」
仕事に関係する物や生活に必要不可欠な物以外、何もない質素な部屋。それは彼女の病院での記憶を蘇らせた。1日三食、プレートに乗った食事はどれも味がしなかった。プラスチックを胃に詰めていくあの感覚が、死んだ今も根強く残っている。
だが唯一、弟が来る日は味がした。味がしたのに、最期の食事はほとんど手がつけられなかったのが悔やまれる。
「…誰の家が病院ですか」
部屋を分ける扉が開き、不満そうなアイザックがスーツの上着を片腕にかけて自室から出てくる。どうやらエヴリンとは違い、アイザックはこの質素な部屋をそれなりに気に入っているようだった。
「あら、アイザックにしては準備が早いじゃない」
「…『しては』、とは失礼な。ワタシだって、肝心な時は本気を出しますよ」
アイザックは不満の表情を隠さずエヴリンの使うキッチンの様子を覗う。油の弾ける音がフライパンから聞こえ、トースターからはいい匂いがし始めていた。
「……朝食なんて、いつぶりでしょう……」
その呟きを逃さず、エヴリンは「は?」と驚きの声をあげた。その顔には『信じられない』といった感情が表れている。
「べ、別に良いじゃないですか。ここでは腹なんて空きませんし…」
アイザックが反論する意思を見せると、エヴリンはカウンターを勢い良く掌で叩いた。食器が揺れて音を立てる。
「これは気持ちの問題よ!ここは高価な食材も望めば手に入るし、太らないし、おまけに奪われることもない!絶食するために死後があるわけじゃないのよ!?」
エヴリンの語尾は震えていた。彼女の叫びは、彼女にとって食事がどんな存在かを物語っているようだった。
アイザックにとって、食事は生きるため。食事そのものを楽しむことはなく、あくまで体が欲するから蓄えるものだった。
「……すみません」
彼女の気迫に圧倒され、アイザックは謝ることしかできなかった。エヴリンは溜息を吐いてトースターとフライパンに目を向けると、出来上がったそれを皿に盛り付けていった。
「急いで、でもちゃんと食べて。現世にも美味しいものがきっとあるから、アイザックにはたらふく食べてもらうわよ」
エヴリンは出来上がった皿をアイザックに突き出す。少し強引な渡し方だが、アイザックはそれを素直に受け取った。
「…そうですね。いくら食べても、腹がはち切れることもありませんし」
よく食べるエヴリンを想像しながら冗談混じりに言うと、彼女はアイザックの背中を力強く叩いた。
「今絶対、失礼なこと考えてたでしょ」
アイザックは、エヴリンの下からの睨みにふふっと微笑む。
「心外ですね。貴女はよく食べるなぁと思っていただけですよ」
「なにそれ。アイザックが食べないだけでしょ」
彼女の持つもう一つの皿を受け取ると、アイザックはそれをテーブルに置いた。エヴリンはナイフとフォークを準備して、少々雑に皿の隣に置く。
「…さ、早く食べましょう。遅れたら、二度と現世に行けなくなるかもしれないから」
そう呟いたエヴリンが十字を切って手を合わせたのを確認すると、アイザックも同じようにポーズをとる。
「我らを導く尊き父よ。貴方の慈しみを忘れず、今ある食事に感謝いたします。アーメン」
彼女はたとえ時間がなくとも、食前に毎日神に祈りを捧げている。死んだ今でも、本物の神に出会ったことはない。だが、神を信仰していればいつか幸せになれる。彼女にとって、神は唯一の希望だった。
1時間後。黒光りする蒸気機関車が発車準備を始めた頃、少し遠くから全速力で走ってくる影が2つ見えた。握りしめるあまり切符を皺だらけにして車両内に駆け込む。アイザックの足が車内に収まった瞬間、怪訝そうな表情をした駅員によって扉が閉められた。
「……ま、間に合った……っ!」
汗を服の袖で拭きながら、エヴリンは息を吐いた。乗客が彼らを睨んだが、今はそれを気にする余裕は持ち合わせていない。アイザックは丁寧に手拭いを使って汗を拭き取った。2人は空いている座席に座ると、シートベルトを着用する。
「…で、現世には何分くらいで着くんですか?」
今回は遅刻について彼らは何も話さなかった。互いに遅れるきっかけを作ったからだ。アイザックは食事中にうたた寝をし、エヴリンは列車を間違えた。2人揃って、今日は何かとついていない日らしい。
「えっと…ここには一分って書いてるけど…」
エヴリンは座席に貼られているポスターを指さした。『最高速度は一分!落ちる感覚がクセになる!』と、まるで遊園地のアトラクションの紹介のような文が綴られている。
「……落ちる?」
アイザックは嫌な予感がして、付けたベルトを確認した。彼が少し痩せ型なため、腹部を抑えるベルトは少しの余裕がある。
「…待ってください。これ、もしかして…」
アイザックが言い終わる前に、頭上から安全バーが降りてくる。混乱する乗客たちを他所に、明るい女性の声でアナウンスが車内に流れた。
「皆様!この度は現世行きの当選、おめでとうございます!皆様には現世の滞在時間を楽しんでいただくため、当車両は最高速度で向かいます!もし体調が悪くなったら、座席横にある袋をお使いください!
…準備は良いですね?それでは、カウントダウンを始めます!!」
10から始まるカウントダウン。それは、彼にとって絶望の始まりだった。顔を白くしてエヴリンを横目に見ると、彼女は何が起こるのか全く分かっていない顔をしていた。笑顔のまま、周囲をキョロキョロ見渡している。
「3…2…1…0!それでは、いってらっしゃーい!」
カウントダウンが終わると、列車の角度が急に変化した。10度ずつ音を鳴らしながらほぼ直角になると、閃光のようなスピードで落ち始める。急降下により体が浮き始め、発車して数秒で袋を使う乗客もいた。
「あははっ!何これすごーい!ね、アイザック!」
エヴリンは彼に笑いかけたが、アイザックはまるで抜け殻のように気を失っていた。エヴリンはそんな彼に呆れながら、1枚だけ袋を余分に取っておこうと思った。
次話更新→6/14(日) AM:7:00




