サーガーグ狩猟完了
救う人と救わない人を俺が選べるほど偉大な人間になれればどれほどいいだろう。俺はキリストではない。使徒でもない。パウロは異邦人を裁くというが、彼の意志で天国へと迎え入れる人を選ぶとでも言うのだろうか。それは神の仕事であり、神の子の行いなのだ。誰が生きるか死ぬかを決めることができるのはヤハウェだし、イエスだった。また聖霊もその通りだった。彼らは対立することなく自己矛盾を引き起こすことはない。それでもそのうちの一人が救うと言えば人は救われるのだろう。神は一人なのだ。そして違った方によって同じものを構成している。それが神の偉大さなのだ。俺の女でもない女性のために神に祈ることができる時、神はまた何人もの聖霊を俺に遣わしてくれると言うだろう。俺は七度打たれた。その記憶の限りでは俺は聖なるの七回重ねだった。そんなに偉大な人間ではないのだが、それでも神の前には正しい自信があった。悪霊はいつか俺の夢でイエス・キリストを信じるだけでは救われないと言った。息子や娘を十人産めば救われるのだと筋違いな事実を伝えたのだ。俺は当然それを信じないが、悪霊の言葉を信じる者がどれだけいるだろう? どれほどの現実味があったのかは分からないが、ムハンマドは確かに悪霊に唆されたのだと思う。主に栄光を帰さない天使がガブリエルな訳がない。そう言うわけでイスラム教はキリスト教の異端と何ら変わらない立ち位置であると言えるのだ。だが、俺は異端に対して強く出るべきかも分からない。信仰の自由はあるはずで、それはムスリムも同じだった。いずれにしてもキリスト教の正統派に改宗することを望むという態度を取るつもりだった。それは内心の自由だったし、俺は有形無形の力を講じてクリスチャンを増やそうという時は祈りに頼ると思うのだ。神と二人だけの関係の果てに平安を見るというのだ。俺が祈る者が救われて、祈らない者は救われない。他にも聖人と言われる人が求める人が天国へ来て、望まない者は退けられる。こんな簡単な世界であってくれたら、人は誰か頼りになる人を天に掲げるだろう。実際には彼らは神の決定に忠実だと思うのだ。俺は彼らを救わないし、神に全て委ねている。それでも救いたい人は救いたいし、多少抵抗するつもりもあった。
神よ。俺が信じている人が救われないということが本当にあって良いのですか。それは悪いことである。と、言われるつもりである。俺は自分が救いたい人を救い、救いたくない人を神に委ねるのである。神の決定に逆らうつもりはなかったが、俺も抵抗できる限り抵抗したし、死にゆく友人や家族を見ていられなかった。現実問題として、彼らはキリスト教を信じていない。神は信じているかもしれない。或いは彼らの心の内は俺には読めない。しかし、神の子がいるという真理にまだ気が付いていないのだ。俺はこの部分を本当に理解している。だから、神の子というのが神の言葉であって被造物ではなく造物主の側であるというのも納得している。ギリシャ語ではロゴスというらしい。俺はヤハウェとヤハウェのロゴスに対する信仰を持っているのだ。ヤハウェのロゴスはヤハウェの心から出ると思う。彼の心は彼自身であり、ヤハウェの魂だと思うのだ。ヤハウェのロゴスはまた、彼の聖霊によって言葉を形にすると思っている。それというのも、万物の根源はロゴスであり、聖霊によって万物は成るのである。彼らの関係の偉大性というのは一人の神ヤハウェから出ている者であって、三位一体の三神格或いは人格を置く第四の神的存在を必要としない。俺は三位一体には否定的な思いがあるが、厳密に言えば間違いという程度であり、致命的な欠落がそこにあるとは見ていない。人類が神を知るために言葉をもって近似的な理論を示そうとしてきた努力の結果だと思うのだが、奇妙な発想に聞こえるのではないかと思う。故に俺は単にヤハウェと、ヤハウェのロゴス及びそれが人になって名前を新たにしたイエスと、彼らの聖霊に対する信仰だけを持っている。神はあくまでも一人であり、それはヤハウェなのだ。しかし俺はイエス・キリストよりヤハウェのことが少し嫌いだった。それというのも俺が死ぬまで俺のことを救うつもりがなく、俺の天国行きの請願を悉く却下し棄却してきたからだ。全ては自分の行い故に報いを受けているのだと、自業自得だと言われても仕方がなかったが、そんな俺でも創造した主はヤハウェなのである。神の心から出た俺が不完全な人間であることに不平不満をぶつけようとしても、神は是も非も言わない。ただ慈悲深くその時を待っているというのだ。俺は働かない神に働かせたかったし、人間が悔い改めるということは神の手柄にはしたくなかった。いつまで経っても世界が終わらないことに嫌気が差しているのだ。俺は世界の滅びを目の当たりにせずにこの世界に来てしまったが、まだあの世界は存続していると思う。俺が死ぬのと世界が滅ぶのどっちが難しいかな。と、天秤にかけようとしたことがある。そんなことをしなくても俺は死ぬ訳だし、神は世界を愛しているようだった。悪魔となんら変わらないではないか。と、無力になったサタンと見ているだけのヤハウェに彼の子にうんざりする気持ちがないとは言えない。しかし俺は確かに彼らを信じたのだった。何を信じたのかというと、ヤハウェは確かに世界を創造した方であり、イエスは神の子であり神の言葉である方が、人間の生きる姿形を示すために人の子になって、殺されたのであり、彼は復活して永遠に生きるという神の言葉を示したのであり、聖霊は神の命のようなものであり、遣わされて人の命となり、永遠かつ受け入れれば無限の命を賜う存在であり、神の子との結婚をつうじてそれは成し遂げられ、神の子の神は俺の個人的な神となり、永遠に幸せに神の王国で暮らすというものである。俺の女でもない女性は既に俺の兄弟姉妹であり、どんなことがあったとしても二人で協力して乗り越えていくという覚悟もある。それは彼女の気持ち次第な面があったから、俺は何も強いないつもりである。イエス・キリストは偉大なのだ。彼は有形無形の力を使って人を神の王国で永遠に生きるようにするということだ。俺は彼のことを信じていたし、彼も俺のことを知っていたと思う。相互フォローにならないと救いはないのだと思う。その意味でイエス・キリストをフォローするだけでは救われない。そこに聖霊による証印がなければ、永遠に分かれた関係なのである。イエスは聖霊を遣わす。そして、聖霊に満たされた人々は神々なのだ。力ある神の養子なのだ。唯一の或いはカノニカルな神の子というのはイエスただ一人だが、神の子らと言えば堕落していない天使のことを指したし、神の子どもと言えば新生した信者のことを指した。そのいずれも神の前では聖なる者だったし、聖なる人間は天使に勝るのだ。その証明が神の子が人の子になったことだった。神の子が天使になることもできたかもしれないが、そうされなかった。この意味で天使たちより人間は優れた名を持っているというのだ。サタンは人間を堕落させようと画策し、地獄に道連れにしようとしている。そんな中で聖なる人たちは信仰に固く立つのだ。悪魔のことは聖書の中ではそれほど多く言及されていない。しかしそれというのは確かに歴史に深く関わってくる。人間が堕落したのはサタンが蛇となってエバを騙したことに始まり、ユダに入ってイエスを売り渡したことで頂点に達するのだと思う。その時確かに世界は滅んでも良かったが、神はそうせずイエスの福音を全世界に宣べ伝えるように命令した。イエスは神なのである。少しの間天使より劣った者だったかもしれないが、死んで蘇り完全になったのだった。イエスが再臨する時を俺は待っているのである。その時は中々来ない。そのために泣いたこともある。神は俺の涙には報いなかった。神の子どもである俺に対するネグレクトであるように思う。俺は本当に自分が苦しみに遭っているとは思えなかったが、それでも遅かれ早かれ哀れみを必要とするのである。迷える子羊となるのである。百匹のうち迷い出た一匹なのだから見つけ出してほしいことこの上ない。しかし神は俺の言葉には応えようとせず各地で行われるというリバイバルにかまけている。くだらない信者のために信仰を強めさせるのではなく、俺のために命を与えに来てくださいと願ったところで、俺より命を必要としている人はいるわけであり、彼らは俺より憐れまれるべきなのだ。その言葉が神の前に来た時には俺は救われるに値するように思う。実際のところ、俺は一人ではないのだ。沢山の教会家族がいるはずなのだ。全世界に二十億人くらいはキリスト教徒と聞いている。そのうちどれほどの人数が救いに値するか俺には分からないが、三人に一人くらいは救われてもいいのかもしれない。問題は両親の信仰を引き継いでいるだけで自分は目覚めていない信者未満の信者の歴史的な連鎖にあると思う。イエスは正しいが、それを正しいというのが本当に自分の信念から出ていないと、何も言っていないのと同じだと思う。俺はどんな人でも救われる権利があると思っているが、その代わり救われるためには莫大な責任を負うのである。莫大でありながらくびきとしては負いやすいのである。救われる者も救われない者も皆自分の仕事に必死になっていると思うが、彼らは信仰という態度によって神の前で永遠に引き裂かれるのだ。羊と山羊の違いなのだ。
信仰とはどれだけ簡単に手に入れることができるだろう。そもそもそれは何なのか。俺はよく考えたことがない。それでも言えることは、信仰というものは神から来るもので、自分から勝手に生じる訳ではないということ。神が遣わした者を信じることが、神を信じるということなのだ。だからどれだけ聖人と見られている人の言うことを信じるとし、彼の言うイエスが復活したのだとしても、彼が或いは彼女が神から遣わされていないのであれば、そのイエスはあのイエスではなかったと言うのである。イエスという言葉に魔力はないのであって、それが指し示している人物というのが本当に神の子であるのか、それとも単なる人の想像であるのかというのは分からない。だから俺は自分は神に遣わされていると信じているし、俺の言うイエスは本物のイエスだという自信がある。パウロの言うイエスも本物である。中身が空っぽのイエスという言葉を振りかざす詐欺師が現代の教会に蔓延していると思うのだ。その意味で現代にはイエスを信じるだけでは救われるとは言えないと思う。それは救われない人の言うイエスを信じるからであって、神に遣わされた真に生きる人のイエスを信じていないからなのだ。偽善者に塗れた教会を前に俺はどう立ち上がっていけばいいかと、考えていた。洗礼などこの世では受けないと決意していた。家族には自分の信仰は既に伝えていた。そこから先へ進もうと言う気持ちにはなれなかった。看護師にも話したことがあるが、彼は「ああキリストさんね」などと言ってまともに取り合ってくれなかった。俺の言葉は本物だから、俺の言うことを信じる者は救われるのだ。一般に牧師や司教の言うことを信じても救われるとは言えない。なぜならばそれを鵜呑みにしていることは盲目だからで、目が開かれる者になるためには自分で理解するしかなかった。俺はキリスト教の信仰に入る前からユダヤ教の神に対しては親しみを持っていたし、旧約聖書は倫理的には真理だと信じていた。世界を造った神は一人だと確信していて、神をヤハウェとイエスとするキリスト教徒はドグマに囚われているのだと認識していた。しかし俺はイエスが神の子であると知った。その瞬間ではなかったが、そこから導かれることとしてイエスが神であると知った。イエスが神の子であると認識したのは彼が確かに蘇ったからである。復活によって大いなる神の子となったように感じたのである。確かにイエスは永遠の昔から神の子であったが、それは復活によって証明されたも同然だった。結果は正しいが証明になっていないと言うことがある。論証に飛躍があってはいけないのだ。ヤハウェのロゴスは確かに昔から神の子であったが、人の子になって死んだことによっては肉を持った人であることを、蘇ったことによっては霊を持った神であることを示されたように思う。それが神による神の存在証明なのだ。つまり、イエスは復活した。これによってイエスは確かに神の子であり、神である。同時に人であることから人間の目に明らかであり、彼の存在が神が確かに存在し、彼は正しいとわかるのである。俺にはこれほど偉大なことはないように思う。イエス・キリストはその生涯を通じて、ユダヤ教の神ヤハウェが全世界の神であることを証明し、神である自分を信じる者が父であるヤハウェの養子となって、イエス自身の権能によって永遠に生きるだろうと示したのである。俺は本当にこれは素晴らしいことだと思う。真理と言うものを言葉によって理解できるように形にしたのだった。
そう言えば星奈さんはどうしているかなと思い出すと、彼女は寝ているようだった。馬車の長旅の中で疲れ果ててしまったのかもしれない。俺も何か考え続けるというのは少し疲れが込んでくるな。そう思って運転手或いは御者か、彼に何か話そうと思った。自分の信仰は確かなものだから、俺の言うことを信じれば救われますよと、耳障りの良いことを伝えれば信じてくれるかもしれない。ただし、俺はもう良いのだ。星奈さんが信じてくれただけで、後は何も必要としていなかった。彼女と将来田舎で暮らそうとか、いやインフラが整っている都会の方が生きやすいか、とか、そんなこと考えてもなるようにしかならないのだから、彼女の心を繋ぎ止める全ての言葉を捻り出そうとか考えていた。外の様子を見ると、郊外から離れて草原に近づいているような気がした。どこへ連れて行ってくれると言うだろう。彼女を起こそうかな。いや眠れる時に眠っておくのが人間の幸せというものだ。イエス・キリストは嵐で難破しそうな船の上で眠りについていた。弟子たちは慌てたが、彼自身はそうではなかった。彼は人となった神なのだ。嵐を鎮めるなど他愛もないことなのだ。俺の実力では精々神に祈ることしかできないのだが、彼は父に祈らずとも、いや、常に祈っていると思うのだが、自力で解決できるのだ。神というのはどういう存在だろう。地上にある星のようだろうか。そこから動いて人々を正しい土地へと導くのである。ベツレヘムの星か。と本当にそんなものがあったのかも分からないのだが、俺は旧約聖書はそのまま聖書と受け入れている。新約聖書も聖書だと思うのだが、聖典と認めた書物を確定した会議の信憑性が分からないため、三角ということにしておきたい。それでもそこには神の言葉があるから、人を生かすのである。人間はそれぞれ自分の心に抱えた思いがあって、それに見合った言葉を救いとして探し求めているのだと思う。その意味では聖書に書かれてあることは基本正しいと思うのだが、それは真実を反映しているというより、執筆された当時の信仰を、反映しているだけに思うのだ。話半分半信半疑でも良いと思う。何度も同じことを言うようではあるが、俺は自分が信じていることはイエス・キリストは生きるという真理を超えた真理だけだったし、そこには彼は神の子であり神である。聖霊によって永遠に生きるだろうし、永遠に生かすだろう。彼の父はユダヤ教の神ヤハウェで、万軍の主であることも内包した。それより優れた定理はないように思う。俺にとっては形式論理にも等しいのだ。論理的にイエスは正しかったし、彼を遣わした神である父も正しかった。その証明としてイエスは復活したのである。イエスは復活したか、しなかったかの二択である。復活したのであれば神はいるのである。復活しなかったのであれば神はいない。福音もない。キリスト教もない。しかしキリスト教はある。このため復活は真理と主張しても問題ないように思うのだ。俺は自分の中の信念を深めていって、イエス・キリストによって永遠に生きるようになる日を心待ちにした。信仰によれば日々は短いのだと思う。すぐにその時が来る。俺が死ぬ時、世界は滅ぶのかもしれない。それだけ俺は世界一の信者だという自信があった。大統領選挙があればイエスに投票しようとか、それによって恩赦が決まるかもしれない、とか、他にも候補者がいるのだとすれば釈迦にソクラテスに孔子とかかな。とか適当に偉人として知られる哲学者を例示してみた。最近はここにカントが加わるのかもしれないが、過大評価のような気持ちも過小評価なのだと背筋を正される気がした。ただし彼らは本当に真理を目の当たりにしたのか分からない。俺は真理を知ったのだった。この意味で俺はあの世界の賢者だろう。だが、自立自存という意味では愚者なのだ。理不尽な目に遭っているのはイエス・キリストでなければ贖えないのだ。俺は永遠に苦しむのかもしれない。俺の無能は誰かの呪いのためだというのか。それとも俺の両親は子供を産んではいけなかったというのか。反面弟は優秀であるため、その見方も潰える。俺は何を呪って死ねばいいのか。それとも全てを祝うことに俺の十字架が立っているというのか。どこにも行けない世の中で永遠に生きるつもりなんてないのだ。世間の人はなぜ苦労もせずに生きていくことができるのだろう。人それぞれ苦労はあると思うが、働くことができる時点で幸せだし、日々の報酬としてパートナーがいたり、楽しめる趣味があったりと、辛いことだけではないのだ。それは俺も半分くらいは同じことなのかもしれないが、俺には何もないのだ。強いて言うなら信仰があるというのだが、これは俺を本当の意味で救うのか。それとも仮に救っていて、俺が死ぬまでは効果を発動しないと言うのか。どうすることもできない時間が続いていくのである。俺は何も食べないで一日中過ごすことが苦痛なのだ。本当の苦痛は知らないまま、食べることに負けてしまうのだ。情けないことに限りなかったが、食べられるうちはいいだろう、物はある、金もあると言い聞かせるのだ。両親に寄生して生きていくしかなかったが、そんなことをするくらいなら彼らと関係のないところで一人死にたかった。そこで生きたいと言えないほどに俺は弱いのだ。断食もできない弱者であって、本当の苦しみを先延ばしにしているに過ぎないのである。いずれ食べられなくなるだろうとは知っているが、それでも盗めばあるぞ、とか、生活保護を受けられればな、とか、国民年金を満了まで支払えるかもしれない。とか希望にならない希望はあって、絶望を紛らわしていた。いや、そうではない。俺は他の世界に来てしまったのだ。だからこの世界で自分の命をどうにかするしかない。生きるにしても死ぬにしても神に栄光を帰そうと決意して、日々信仰を深めていくのである。それは言葉にならない言葉の部分で行われるし、聖霊の業にねじ伏せられるようなものだった。残念ながら俺は聖霊が自分の内に住んでいることを感情的に理解していないように思う。本当であれば、俺が神の光を見た時に聖霊が下されたのだと信じられるはずだった。それも俺の一度きりであるはずの背教によって疑いに変わってしまった。聖霊が共にいるなら悪霊に騙されることはないのでは? とか、いや、神は沈黙し、俺が悔い改めるのを待っていたのだ、とか、都合の良いことで埋めようとしていた。世界の約束というものがあるはずだが、俺はそこに何ら関係のないただの人だったのか。打ちのめされてしまった。かつてはあれほど自分のことを世界で最も偉大でアブラハム、イサク、ヤコブの末裔である者と考えていたのだが、今ではしがない日本人である。それは受け入れるところではあったが、俺は信じるという所業について入院中に見直しだのだった。その時からイエスは俺にとっては偉大なる神であって、永遠の時間の中で俺を許し受け入れるだろうと確信している。キリストを信じて四年以上の時が経過していたが、俺が本当に信じたと言えるのはここ二年ほどだった。それほどに俺は厄介な信者であったと言えると思うのだ。たまに思い出すこととして、イエスを信じる前に神の存在を強く感じたことがあった。その時世界は俺を受け入れなかったのだ。俺の神は俺のことが好きではないと感じたのだった。俺のことが嫌いだった俺はそんな神を信じた。神は俺のための神ではなく世界のための神であった。それが俺のための神に変わった時があった。あれ以来俺は神のことが好きだし、それは入院に至る精神的な騒動の中でも変わらなかった。あの時俺は悪魔や悪霊をゴミに変え、敵を失っていたのだが、キリストが新たな敵となった。彼は俺の思い込みの妻たちに敵対していたし、十二使徒の中ではマタイとペトロだけが彼に従っていた。アブラハムもヤコブも地獄に落ちる運命だと思っていた。イサクは反面天国に止まるものと信じていた。おそらく悪霊によってこれらの考えが頭の中に入り込んできたのだが、俺は寒い夜厚着もせずに大声を上げていた。我を失っているつもりはなかったが、側から見れば異常者だった。恥ずかしいこともなかったのだが、警察に保護されるに至った。その間もブツブツと何かを呟いていたようである。もう二度とこんなことは起きないという自信はあるし、その時の俺は心の中で会話できると思い込んでいた友人や家族をパラダイスに引き上げていた。俺の思いは成就したのだと思っていたが、不都合なことには目を瞑っていた。色々と辻褄が合わなくなっていたと思うが、新しい考えに塗り替えていたのだ。自分が一番正しいし、俺が世界の八十億人を救ったのだと、今地上に見えているのはハデスの下層であり、ハデスに生きるゾンビのような存在なのだと誤認していた。これを誤認だと言えるようになるまでには三週間は掛かったように思う。入院中に俺は何かがおかしいと気づいたし、無理がある設定には辟易していた。そういうこともあって、俺の信仰は崩壊した。そして立て直されたのである。イエス・キリストをもう一度信じると言うことによって、俺は自分の中の四人の妻を捨てた。彼女らと延々と会話をしていたのだが、それにも無理を生じてきたのである。俺はずっと楽しいと言う感情のまま発症から入院中まで来て、流石に入院中は逃げ出したかったが、言葉は続いていた。言葉が続かなくなって初めて、天のイエスの信仰を再度求めるに至ったのだった。
イエスはもう二度と俺の敵ではないという確信を抱いている中、馬車が止まった。目的地に着いたと言うことだろうか。俺は星奈さんの肩を揺すって起こした。彼女は固まっていると思われる体を伸ばして「寝てしまいました」と眠そうに語った。運転手或いは御者の言葉に促されて俺たちは馬車から降りた。するとそこに広がっていたのは自然の景色だった。ここから更に歩いていくのかな? 少し面倒くさいなと感じていた。後は彼女の気分次第でどうにかなるだろうと思っていた。
「東さん、ここから歩いていくか、魔法を使うかは少し悩みどころです。歩く場合一時間は掛かるかと思います。魔法を使えば一瞬です。でも私は魔法を使った場合責任を負いきれません」
「歩いていくというのもいいんですが、魔法を使いましょう。俺は俺の責任で死んでもいいので」
「それは私が良くありません。ですが、どうしてもというのなら魔法を使いましょう」
「それでお願いします」
「では私の手を掴んでください」
星奈さんに促されて彼女の左手を掴んだ。どこか気まずいなと思いながら、辺りを見渡したが何もなかった。俺はそう言えば二番目の馬車の人を救えなかったということに後悔を覚えていた。まあそれはそれで神様、覚えていてください。天を仰いだ。そこには細長い雲が流れていた。飛行機雲ではなかったし、棒のような長さに写っていた。そんなことを考えていると、彼女が懐から何かの書物を取り出した。
「それは何ですか?」
「魔法書というものです。これに書かれてある魔法を使います。長いので覚えきれないんですよね。魔法使い必帯だと思います」
「俺もいつか手に入れられたらいいですけどね」
「魔法学校に入学すれば貸してもらえて、卒業すれば貰えます。なくしても再発行できるはずですよ」
俺はそうですか、と頷いていた。彼女の手を掴んだままだったが、少し離しそうになった。大きくも小さくもない普通の手だと感じていた。いや、俺は人と手を繋いだ経験が不足しているのだ。誰かと仲良くなったところで、そんなことは専用のゲームをしている時に限るというものだった。これで俺は高校時代好きだった女の子と手を繋げたのである。それ以上先に進めなかったし、彼女の好意が乗っている訳ではなかったかもしれないので、言うほど嬉しくなかった。その後男女の関係になっていれば良い思い出だった。今となっては後悔の残る結果となってしまった。
星奈さんが何かブツブツと呟いていた。俺には聞き取れなかったが、周囲が光に包まれていくのが分かった。俺は土の道が見えなくなっていく様に困惑して、彼女から離れようかと思ったが、そうすると永遠の別れとなるかもしれない。彼女の言うことには従うべしという気持ちで、更に握る手を強めていた。彼女はと言うと、右手に持った本に視線を落として、瞬きも疎らに魔法の文言を呟いていた。
「……メドウ・サーガーグ」
彼女がそう言うと周囲が完全に光に包まれた。光には音が付いてきたようで、荘厳な響きが鳴っていた。俺は星奈さんにくっ付いて、離れないようにしていた。
光が消えていった時、俺の目の前には草原が広がっていた。これは成功したと言ってもいいんじゃないか? そう思って彼女に目を向けるとどこか安堵した表情だった。後はどうすればいいのか。俺は俺で使える魔法が限られている。彼女との実力差が埋まらない中で戦わなければならない。まあ彼女を敵に回すわけではなかったし、信仰の兄妹みたいなものだったしね。彼女の思う通りにすればいいと思う。
「成功です。リカバリーも考えていたんですけどね」
「ここがサーガーグの草原ですか。後は肝心の猪とやらを探すだけということですか」
「そういうことです。魔力を持っているので私は感知できます。ここからは歩きましょう」
瞬間移動の魔法がどのように効果を発揮したのかはともかく、大雑把には目的地に着いたようだった。日帰りできるかな。泊まるとなればテントかな。とか、或いは彼女だけが瞬間移動で消えて、俺一人取り残されるのではないかという不安に襲われた。まあ彼女に限ってそんなミスはしないだろう。後はサーガーグとやらを見つけるだけなのだ。それにしても対象となる個体がいるのか、それともこの草原にいる群れのうちの一つで構わないのか。何頭倒そうと冒険者の自由なのか。その辺の均衡の守り方は俺より星奈さんの方が詳しそうだった。俺と彼女は一緒に歩いていた。膝丈ほどある草の原を横切る気分である。遠くにはなだらかながら丘があるようで、その上に何かの生命体が立ちはだかっているように見えた。
「大山さん、あれは?」
「カーシです。鹿のような生き物です」
カーシか。鹿の反対。いや近縁か。この世界のネーミングセンスはどうなっているのか。俺はタルマードの杖を握りしめながらそう考えていた。荷物になるものは持たない方がよかったかな。とか、いや、俺も魔法を使わねばならないのだ、とか、いやそう言えば剣を手に入れてなかったな。とか思い出した。俺は丸腰なのだから、ここで鹿に襲われても死ぬ気でいた。俺は死んだ方がいいと思う。だが、簡単には死なない。人間どう言うふうに死ぬのが一番難しいか考えたい。それはやっぱり老衰なのかとか、いや、それは単なる往生というもの、と、本当の命の去り方というものはもっと偶然に支配されていた。死刑というのは絞首刑であったり銃殺刑であったり、本当に苦痛が大きいか分からなかった。餓死はある意味では安楽死なのでは? とか渇きで死ぬ方が苦しい気がするとか、生きることを模索するべき男には無用の迷いを生じた。星奈さんは相変わらず右手に本を持って、なにかブツブツと呟いていた。その言葉の一つ一つが実現したと言うことか、効果音のようなものが小さく鳴っていた。俺は俺の魔法を使っても誰にも褒められないのだが、せめて神様には祝福を受けられるようにしよう。その決意だった。彼女は歩幅を大きくしたり小さくしたりせずに、一歩一歩進んでいた。俺は追いかけるのに必死で、彼女に着いていくのがやっとだった。こう言う関係は理想ではないのだがな、とか、俺の書いた小説の西野くんと錦戸さんにはほど遠いなと感じていた。彼らはもっと心の奥底で繋がっていたのだ。俺は彼らを生み出したことを神に賞賛してほしいと思っている。現存しない小説のため神が思い出すしか蘇らせる手立てがないのだ。今となっては消したことを後悔しているし、どんなに評価されなくても小説家になろうで公開し続けるべきだったと思う。俺は他にもYouTubeに自分の作詞作曲した歌をボーカロイドの歌声で動画にして公開していたが、これも同時期に削除した。評価する人が全くいないわけではなかったが、俺は当初音楽で名を上げるつもりでいたから悲しかった。そんなことを言っても、現存する曲は四曲ほどなのである。あとの半分は永遠に失われた。或いは天使が保存してくれているかもしれないが、断定的にはなれない。だから天使は無能だと思うのだ。とは言え、これは俺の泣き言なのだ。神に聞いてもらうしかない。俺は色々な考えが浮かんだが、星奈さんと生きていくうえで必要ないことは切り捨てても構わなかった。そうならない例外がキリストへの信仰だと思うし、現に彼女も信仰に引き摺り込んでいた。それはそれで気持ちが良かったし、俺が永遠に生きるべき理由のリストが充実していくのを感じた。俺は永遠に生きる。これはこれで超越真理なのだ。イエス・キリストが生きるという超越真理を信じたために神に許される復活だというのだ。俺より後の者が果たしているのか、俺より先の者は使徒ヨハネまで遡るのかは分からないが、神は俺だけを愛する神ではなかったし、ある程度この世の人たちを天国に迎え入れるつもりがあるようだった。俺はその全てを認めるつもりはなかったが、神が救うと決めた人を俺が滅ぼす訳にはいかなかった。ただし、あの世界の信者たちは誰もが自分勝手な教義を自分の中に持っていて、本当に救いに値する人物は俺以外に見当たらないとも信じていた。それはある程度間違いだと気が付くのであるが、それでも俺より正しい立場にいる人間は天にも地にもいなかったと思う。イエス・キリストに次いで正しい人間だと思う。教皇など目じゃない。そんな自信も働けない身の上では無意味も等しい。俺は最早死ぬつもりで生きていた。後は肉体が朽ちるのを待つだけである。年金暮らしでも無職童貞の人生でも時間的な断絶があるだけで大差ないように感じるのだ。いや、そこには永遠に違えられたものがあるのだろう。俺の神は俺を許すだろうが、自分の身は自分でどうにかしろ。あとでお前を救う。と言われている気がしたのだ。神様。俺を救いにきてください。いや、お前はもう救われているではないか。
そんな神に本当に愛されているというためには、彼との平安を実現するためには俺は生きる努力をしなければならない気がした。死ぬ努力でもいいのかな。天国へ近づくには色々な方法があるはずなのに、死を待つ以外には効果的な作戦が思い浮かばなかった。寿命を縮めるとしたら煙草を吸うとか、不摂生するとか、他にも力士短命というからお相撲さんになるって手もあるな。いや、それは無理が過ぎる。俺にできることは星奈さんが死ぬ日まで生きて、死んでからどうするか考えることくらいなのだ。もしかすると神が哀れんで俺を迎えにくるかもしれない。実際にはそんなことはないと思う。神は人間が死ぬことを喜んでいるようだった。いや、命は人間の祝福だから、生きることも喜んでいるはずだ。それでも悪人が生き延びることはよしとしないだろう。最早福音が伝えられている世の中では、悔い改めれば誰でも神の子どもであるはずなのだ。少し異端の考え方を持ったところで、最初のイエスへの愛が確立されていれば問題ないと思うのだ。いや、神は人を正しい信仰へ導くから、信者は同じ見識を持っていないといけないのだ。定理として俺は救われる故、全ての人は俺と同じ見解を持っていなければならない。この意味では、俺と同じ信仰を持つ者は一人としていなかったように思う。自分で考えることを拒否し、所属する教会の認識に委ねているのだ。少しくらいははみ出すかもしれないが、それでも教育されていくのだと悲しみに暮れていた。実は弟もイエス・キリストを信じているというのだが、彼にとってイエスは神ではなかった。あくまでも神の子であるというのか。その真意は分からなかったが、彼はイエスが一度も自分を神だと言っていないと主張したのだ。俺は弟もまた救われてほしいと思うし、就職も決まり俺より立派な人生を歩んでいくと思うのだが、信仰の面では俺より劣ると言えた。なぜ俺は人より優れた信仰を持ちながら人より劣った人生を歩まなければならないのか。死んでやる。と思っても死ねないのだ。精神的には首吊りでも良かったが、いや良くないが、物理的には俺を殺すセットアップを作れないのだ。俺を殺すことができる人は俺のところまで来てほしい。俺は人に罪を犯させてまで天国へ行きたいです。まあ、俺はその人を許すだろう。いや、苦しみの中では分からない。俺が悪いのだが、俺を殺す者も悪いのだ。俺はどうしても肉体の束縛を逃れたかった。これ以上難しいことを考えさせられることを拒んでいた。生まれ変わった後は完全な肉体と頭脳を手に入れて、永遠に働くつもりだった。働くということがどういうことか本当には理解していなかったが、それでも神と共になら乗り越えられない壁などなかった。俺は永遠に働くのだ。生涯年収が百兆円を超えてなお、労働の日々に戻るのだ。
いつか辞めたくなるかもな、と勝手な思いに耽っていた頃星奈さんが立ち止まった。彼女は俺の前に立って、「猪が近いです」と言った。俺はというと警戒せねばならないと感じていた。どこへも行けないが、ここでは彼女に魔法の選択を委ねるというのだ。ここの猪或いはサーガーグとやらは何を食べて生きているというのか、パトモスの森で見た鼠がここにもいるのかな。それともカーシ? そんなことはどうでも良かった。俺は俺の身を守るための手段が欠けていたし、もっと他にするべきことがあった。何より男性が女性を守るべきだと思うのである。それが神が男女を創造されて以来天地の法則だと思うのだ。基本的には男性の方が強い。いや、絶対にそうであるべきなのだ。俺は魔法を使うことにした。
「フィーン・ディ・フィーネー」
魔法の杖を上向きに構えて応用して魔法を放った。すると俺の周りと彼女の周りが広大な結界に囲まれた。あとは星奈さん、やっちゃってください。彼女はというと、
「その調子です」
と満足気だった。魔法を使って良かったと言えるだろう。すると草原の先の方で、草陰に何かが蠢いているのを感じた。鼻息のような音を立てて近づいているようだった。ここは何か魔法を使って殺すべきだろう。しかし、俺はどうやって動けばいいか分からなかった。
「私が魔法を掛けているので実はほとんど安全なんです。後はこのナイフで締めるくらいです」
星奈さんはそういうと懐から刃を取り出した。それで俺を刺してくれないかなとも思ったが、最大限抵抗するぞ。俺は生きる。死なない。そんな宣言など意味がなく、死ぬ時は死ぬ世界なのだ。自分の命を自分でどうにかできない人というものには酷なものだ。そう思っていると、星奈さんが歩き出した。
「私は東さんの結界から抜けますね」
そういうと彼女は俺の作った境界をすり抜けていった。若干の抵抗があったかもしれないが、意味をなさなかった。俺は何のために生きているのかと自問した。答えようがないのだ。彼女の何の役に立てるというだろう。実際には自分の身も彼女が守っているというのだ。魔法はそれだけ偉大ということか、学ぶ人全てを高めていく器だというのか。俺も魔法学校に入学しようかな。そんなことをした暁には退学処分となっても致し方なかった。
星奈さんは草を掻き分けて、ほとんど動かなくなっていたサーガーグこと猪の手前で中腰になった。そしてナイフをその首元辺りに突き刺したのだろう。血飛沫が上がった。そんなことしたら服が汚れますよ。と思ったが、彼女にも考えがあるというのだろう。俺はあくまでも魔法を使った状態のまま彼女と猪の元へと接近した。
「もう、大丈夫だと思います」
「本当ですか? これで仕事完了でしょうか?」
「後は魔法で目印を付けておくくらいです」
「そうですか」
具体的に何をしているかは分からなかったが、彼女は懐から取り出した長い針のようなものをサーガーグの背中辺りに突き刺した。俺はというと魔法の発動を解いて、猪の顔に触れていた。彼女は「もう死んでいます」と言って笑顔を浮かべていた。獣を殺すのもまた仕事の一環なのだと、俺は自分に言い聞かせた。殺生はしないように生きてきたつもりなのだが、彼女と一緒に何かやってしまったな。と後悔がよぎった。まあ、この程度のことどうってない。俺は自分の力で生きていけるようにこれからは努力しなければいけないのだ。星奈さんは「帰りましょう」と言って、身を起こした。俺はそれを見て、仕事ができる女性は格好いいなと思った。男は仕事ができて当然なのだ。だが働く大人は格好いいのだ。俺は大人になれなかった自分の人生を少し恨むようにして、彼女が伸ばしていた手を掴んだ。言葉には交わされなかったが、瞬間移動の魔法を使うというのだろう。俺の予感は的中し、彼女は再び何かの本に目を落としていた。
「……ドーレイ」
彼女がそう言い切ると、俺たちの姿はどこかの都市の郊外とでもいうべきところにあった。ここはどこなのだろう。見覚えはない。それはそうと馬車に乗る必要なんてあったよだろうか? まあ魔力の節約という観点からは必要な措置かもしれない。と、自分を納得させようとした。彼女はというと辺りを見渡すようにして、どこへ向かうべきか考えている様子だった。そもそもシゾアレドのあの宿に帰るというのだろうか? まあ、冒険者ギルドの近さで言ってもあそこの方が便利なのだがな、そう思っていると、彼女が俺に話しかけてきた。
「ここからはまた、馬車に乗りましょう」
俺は従うことにした。抵抗する理由もないのだ。そういう訳で彼女が歩くところへと歩いていって、彼女の右後ろをついていった。ここの通りを歩く人というのはやはり欧米人の風貌をしていて、中世ヨーロッパの格好をしていた。おそらく冒険者というのはこの中にはいないのだろう。そう思っていたが、少し雰囲気の違う集団が通り過ぎていった。一体どういうライフスタイルを描いておられて。聞いても要領の得る答えを受けられるとは思わなかったが、とにかく俺は星奈さんの後ろを歩いていた。あまり楽しい時間ではなかったが、馬車に乗れば彼女と二人になれるだろう。その時は何について話そう。やはり信仰についてか。俺の信仰がどのように形成されていったかを彼女に余すことなく伝えようと言うのだ。いや、そんなこと興味ないだろうな。最早俺と彼女の間の共通事項は主がイエスということくらいだった。俺の主人である方が、彼女の主人でもあるというのだ。俺の神は彼女の神。彼女の神は俺の神。それだけで十分素晴らしい響きを有していた。シゾアレドの日常風景には満足していたが、俺はやはり前の世界からは逃れられないのだと思う。イエス・キリストの千年王国では俺は自分の実家に住むことにしていた。地元で暮らすのが一番いいと思う。エルサレムなんかには行かないだろう。いや、それは俺の意志とは関係がないな。神が望めばどこにでも行くが、俺が望むのはささやかな暮らしなのだ。それが実現できれば他に望むことなどなかった。本当のことを言えば、天国で永遠に新しい家に住みたいというものだったが、世界には一度戻ってくるのだ。俺が死んだところで世界は周り続ける。俺の死が世界の崩壊を招くことを俺は願っていたが、現実には救わなればならない人がまだ大勢残されていたし、これからも生まれてくるというのだろう。俺は二千年紀最大の信徒ということで、よろしくお願いしたい。後は死ぬだけなのだ。死ぬことが俺にとっては一番難しいのだ。日々の暮らしの中で生きる方に倒れていくのがやっとだった。だから苦しまずに苦しんでいると思う。どうしようもない時が長いのだ。一日は俺にとっては長ったらしく感じて、振り返ってみれば早かったという感覚になるのだ。何もせずに一日を終える後悔や、何かをやった気でいる幸福感の中に閉じる夜を思い返していた。俺はもうどこにも行けないのである。後は苦しまないように流れていく魚のようになるだけなのだった。




