第39話 『九日月(ここのかづき)の高揚』
「ん~ふふふ♪」
その日、亜里沙は朝からご機嫌であった。
先日の肉料理が予想以上に上手くいったからだ。
ガスもなければ冷蔵庫もない。鉄製の鍋もなければフライパンもない。あげくに調味料すら一切ないのないない尽くし。
そんな中で曲がりなりにも美味しい料理が作れたのだ。それはなんというか、例えようもないほどの充実であった。
達成感というか、到達感というか、とにかく不思議な高揚を少女は全身に感じていた。
彼女の知っている一番近い感覚で言うなら、それはかけっこの走り終わりに似ていた。
全員で全力疾走して、風を切って、そんな中で体一つ、胸一つ相手より前にでて、誰よりも先にゴールするあの快感……あれをもっと大きくしたような感じ。
ただそれを上手く言葉に表すことができなくって、彼女は今朝から何かうずうずしっぱなしであった。
おそらく……彼女の感じているのは開拓の喜びである。
未踏の領域に踏み入って、己の試行錯誤で誰にも教わっていない、誰も知らない解にたどり着いたときに感じる充足感。
無論彼女がたどり着いた答えには当の昔に先人がいる。
けれど彼女はそのことを知らないし、教えられてもいない。
その意味で彼女が、異世界という未踏の地で本人の創意工夫で新たな境地を切り開いたことに間違いないのである。
「あーでも香辛料はともかく簡単な調味料は欲しいかも。塩とか」
香辛料はともかく塩くらいなら村落で購うことができのではないのだろうか。なにせ人間の体にとって塩は必需品のはずである。
亜里沙はそんな事を考えて一人こくこくと頷いた。
まあ厳密にはこの世界の人間にとってもそうであるかどうかは不明なのだが、流石に彼女もそこまでは頭が回らない。
「……あんまりはしゃぎすぎんなよ」
アールヴが買い置いてくれているパンを倉庫から取り出して皿に盛り、木製のコップで水を汲んで、さらにはアールヴ用の生肉も用意する。
まめまめしく動き回りながら朝食の準備をしていた亜里沙は、彼の一言に怪訝そうに振り返った。
「はしゃぐって……私が?」
「おお、尻が浮わっついてそのまま空を飛びそうだったぞ」
「そ、そんなにー?!」
ショックを受けながらも手足は休めない。
切株の家の中央部、天井まで吹き抜けとなっている一階の真ん中の部屋に、彼女は朝食を運ぶ。。
そこから屋内のほとんどの部屋が見渡せて、窓からの光も一番届きやすい朝食にはぴったりの場所だ。
「でもなんて言うか、あーる、う゛らしくない言葉だね。なんていうか……文学的みたいな?」
「人間どもがよく使う言い回しだ」
「ああ……」
どうやらこちらの世界のことわざか何からしい。一応そのまま聞いても意味は通じるが。
「私そんなに浮わついてたかなあ。う~ん、思ってたよりお料理が上手くいったから?」
「そりゃそういう事もあるのかもしれねえがな、俺が言いたいのはそっちじゃねえ。月齢の話だ」
「げつれい? ああ、月の。 月齢がどうかしたの?」
アールヴは人狼であり、日数の経過は月の満ち欠けで数えているようだ。
ゆえに彼の言葉の中にはしばしば月に関わる言葉が出てきた。
「上弦が過ぎて満月もだいぶ近づいてきた頃合いだ。人狼混じりのお前にも少しゃあ影響が出てきてるって話さ」
「影響って?」
「こう機嫌がよくなったり、わけもなくはしゃいだり、興奮しやすくなったりな。普段よりてめーを抑えられなくなってねえか?」
「わけはちゃんとあるもん!」
「わかってる。だがちゃんと自重はしておけって話だ。いいな」
「ぶー」
せっかくの楽しい気分に水を挿され、唇を尖らせる亜里沙。
けれど人狼としてはずっと先輩である相手の意見である。少女は不承不承彼の言葉に従った。
……いや、本人としては従ったつもりになっていた。
「んじゃあ狩りに行ってくるからな」
「行ってらっしゃーい!」
朝食を終え、ぶんぶんと手を振ってアールヴを送り出す。
「ええっと水汲みは朝にやっちゃったし葉っぱもだいたい集めたし、あとは……」
そんな事を呟きながら彼女がやっているのは毛皮のなめし作業である。
元々体を動かすのが大好きだし、親の手伝いも進んでやるような娘である。仕事さえあれば彼女は実にまめまめしく働いた。
「んー、終わったー!」
一息つきながら草原の上に寝っころがる。
時刻は昼を少し過ぎたあたりだ。
そよそよと頬を撫でる微風が心地よい。
しばらく目を閉じてじっとしていた少女は……
「……ヒマ」
どうにもうずうずする自分の体を抑え切れなくなっていた。
「んー、でもなにしよっか。小説とか持ってきてないしなー」
これが向こうの世界なら学校に行っている時間帯であり、ちょうど給食を食べ終えてグラウンドで遊び回っている時分だろうか。
少女は校舎の隅にある遊具で遊んだり、地面に埋められたゴムタイヤの上を落ちないように渡ったり、あるいは男子生徒に混じってサッカーやドッジボールなどに興じていた(そしてしばしば男子をへこませて、同性から黄色い声を浴びたりもしていた)。
けれど今の彼女には授業もなければ宿題もない。その一方で何か暇をつぶすようなホビーのたぐいも一切持ってきていなかった。
読めるのはせいぜいこちらに召喚されたときにランドセルに入っていた教科書くらいのものである。
「んーと、んーっと……」
腕を組んで賢明に考える。
今の自分に何ができるだろう。
ぱっと思い付くのはやはり料理である。
もう少し色んな材料があれば、もっと美味しくなるのだろうか。
「食べ物……そうだ、食材探しをしよう!」
先日料理に使った果実や香草は手近な森で採取したものだ。それであれだけ見つかったのだから、もう少し足を延ばせばもっとたくさん見つかるのではないだろうか……少女はそんな事を思いのぼせる。
もしもっと美味しい料理が作れたら、アールヴはもっと喜んでくれるだろうか。
それは……彼女にとって随分と素敵なアイデアに、思えた。




