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第19話 『四日月の消沈』

「おい、どうした! チビ!」


 アールヴの制止の声も聞かずに扉を開けて巨大な切株から飛び出た亜里沙は、そのまま数歩駈け出して……だがすぐにその速度を落とし、とぼとぼと広場を歩く。

 広場は数十mも歩けばもう森へと続いていて、少女はその森のほとりに座り込み、両脚を抱えてその健康的な膝頭に己のおでこを擦りつけていた。


「私……馬鹿だなあ……」


 自分が情けなくなって思わず深いため息をつく。

 湿った息が太ももに当たって一瞬暖かくなるが、すぐに夜風で冷たくなった。

 まるで自分の膨らんでしぼんだこの気持ちのようだ。



 ぼんやりと……何かが光っている。

 それは彼女の首元から放たれる光。

 月夜に照らされた、その紫の首輪が、ほんの僅かながら薄紫色に発光していることに、消沈している彼女は気付かない。



「……で、なにいきなり落ち込んでンだ」


 顔を伏せていたら……いつの間にかにアールヴが彼女の前に立っていた。

 ただし外に出たからか、人狼ではなく本来の狼の姿に戻っていたが。

 彼は口に咥えていたものを脇に下ろすと、しっぽをぶるんと大きく振って鼻息を吹いた。


「だって……私、自分が情けなくって」

「情けねえのは別に今に始まったこっちゃねえだろうが」

「あうっ!」


 アールヴの台詞のぎゅっと両足を抱え込んでいた亜里沙はびくりと身体を震わせ、両足の隙間に顎を乗せたまま潤んだ瞳でアールヴを睨んだ。


「言わないでよお、私だって気にしてるんだからぁ~」

「気にしてるならいいじゃねえか。次から気をつけりゃいい話だろ?」

「そうじゃなくってさ……」


 こてん、と顔を横に倒し、アールヴから視線を逸らす。

 なんとなく面と向かって言いにくかったのかもしれない。


「アールヴって、お料理じゃなくて生のお肉食べるんだよね」

「そりゃあまあ、俺は狼だからな」


 そう、彼は人の姿が取れるだけであくまで狼の姿が本性である。

 となればその生活習俗も食性も狼のそれと同じかかなり近いはずだ。

 無論人の姿で料理を食べることだってあるだろうが、好みで言うなら断然生肉を好むはずである。


「なら……あのパンは私のためにわざわざ用意してくれたものなんだよね?」

「っ!!」


 そうだ。狼がパンを好んで食べるなど聞いた事もない。

 あれは明らかに「人間の食べ物」だ。そして彼は人間ではない。

 ならば……それは、彼がわざわざ手間をかけて用意してくれたもののはずなのだ。


 食事を用意してもらっても、一緒に食事を取る機会の無かった彼女は……それに気づかなかった。


 それが金銭で購ったものなのか、それとも物々交換か何かで得たものなのか、はたまた村を襲って奪ってきたものなのかはわからない。

 ただいずれにせよ獣化病という病気のせいで人間に嫌われているという人狼の彼が、そうした危険を冒してまで人里に下りて手に入れたものなのだろう。


「それに……私は、文句を言ったの」


 ぽすん、と膝頭に頬を当てぐりぐりする。

 その腕は、脚は、小刻みに震えていた。

 そんな苦労をして手にいれたものを、それも自分の好みではない、他人に与えるためだけのものだ。

 それを自分はやれ堅いだの食べにくいだのと文句を垂れたのだ。


「お仕事もろくにできないし、何の役にも立ってないのに文句ばっかり。私いったい何様なんだろう」

「チビ……」

「チビだのガキだのって言われても仕方ないよ。だってほんとにチビでガキなんだもん……っ」


 ひくっ、としゃくりを上げて、両膝に顔をうずめる。

 目尻に溜まった涙がみるみると濃くなってゆくのがわかる。

 そして、その涙の一筋が少女の頬を伝わったちょうどその時……



 彼女の頭に、少し硬めの肉球が乗せられた。



「阿呆。お前はまだガキなんだ。ガキがワガママを言って何が悪い」

「でも、だって! 私あーるぶとは見ず知らずの他人だよ!? 昨日会ったばかりなんだよ!? それなのにこんなに迷惑かけて! そのうえ文句まで言って! 私、わたし……っ」



 かこんっ!



「あいったぁぁ~~~~っ!?」


 やけに甲高い音と共に彼女の頭部に何か軽くて堅い物が命中たった。

 アールヴが何かを咥えてそのまま彼女の頭めがけて放ったらしい。


「見ず知らずじゃねえ!」


 頭を抱えて呻く亜里沙にアールヴの強い言葉が叩きつけられる。

 びっくりした少女は思わず顔を上げ、小さく唸り声を上げる狼と目が合った。

 夜の闇の中の彼の瞳は爛々と紅に輝いていて、本来なら怯えなければならぬはずの肉食獣の眼光に、彼女は思わず息を飲んで魅入ってしまった。


「いいか。俺はお前に噛みついて人狼混じりにした。本来お前が立っているべき人間どもの街……そこにいられなくなるかもしれねえ危険を冒してまでだ」

「でも、それは会話できないといけないからで……」

「そうして俺はわざわざお前を家まで連れ帰った! その時点で俺にとってお前が他人なんてこたああり得ねえんだ!」


 ぐるる、と不機嫌そうに唸るアールヴは、何やら彼女の言葉が癇に障ったらしい。

 口調も随分と荒々しいもので……



 ……けれど、なぜか亜里沙にはそれが不快には感じられなかった。



「なんで? 私たち昨日会ったばかりなのに……」

「いいか、ヒヨッコ。お前は今人狼混じり、つまりはほんのちょっぴりだが俺の同族って事になるわけだ。それはいいな?」


 亜里沙は少し逡巡した後こくり、と頷く。


「昨日だろうか十年前だろうが、一度縄張りにテメェから引き入れた同族はな、狼にとっちゃあ群れの一員だ!」

「群れの、一員……」

「そぉーだ。おりゃあ気ままな一匹狼だったが、お前が来たことで俺らは群れになった。んで群れにゃあボスが必要だ。年と腕を考えりゃあそりゃあ俺が引き受けるのが妥当ってモンだろう?」

「う、うん……」


 狼の流儀のことはよくわからなかったが、普通に考えたら年上のアールヴの方が相応しいのは間違いない。


 『それともなにか? 俺に挑んでボスの座を奪うか?』……そんな感じのやけに剣呑な瞳が向けられたので、亜里沙はぶるんぶるんと首を振って否定しておいた。


「群れのボスが仲間を守るのなんざ口に出すまでもなく当たり前のことなんだ。特におめーはまだまだガキなんだから、ワガママを言うのも危なっかしいのも全部覚悟してるっつの」


 そこまでまくし立てたアールヴは、鼻先をくい、と向けて彼女の後方を指した。

 どうやらそちらの方を向け、と言っているらしい。


「? あ……っ!」


 少女は見つけた。そこに転がっていたもの……先刻己の頭にぶつかったもの。




 ……それは、彼女にも持ち運べる程度の、小さく、軽めの桶だった。




「これ、あーる、う゛、私の……?!」

「大人用の桶じゃいかにも重そうだったんでな。ひとっ走り行って人の姿になって買ってきたんだよ。それがお前の明日からの仕事だ! サボんなよ!」


 ややバツが悪そうにそっぽを向いたアールヴが、状況は全然違うのにまるでついさっきまでの自分のようで、亜里沙は先刻までの涙がどこへやら、ついおかしくなって軽く吹き出してしまう。


「あ、あとさっきのパンはそのついでだついで。だから気にする必要はねーの! わかったか!」

「うん、わかった!」


 ふんす、と鼻息を吹いてまくしたてる狼。

 涙をこすりながら破顔する少女。


 アールヴはふいと彼女に背を向けて、鼻面でその先を指し示す。

 彼が首を向けた先には……彼の、いや彼らの家たる大きな切株があった。


「ほれ、いつまでもいじけてねえで、帰るぞ、チビ」

「……………………うんっ!」





 四本足の狼と、二本足の異界から来た人間族の少女が、隣り合って同じ家に消えてゆく。

 少女は満天の夜空を見上げて……この世界の月の大きさに大きな歓声を上げていた。






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