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【書籍化進行中】白い結婚から始まる、辺境の眠れる場所

【書籍化進行中】白い結婚で要らないと言われたので、夫婦寝室を辺境騎士団の仮眠室にしました

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/28

「君とは夫婦になるつもりはない」


 初夜の部屋で、夫となったばかりのアルヴィン・グランヴェル辺境伯は、私にそう告げた。


 扉の外には、祝福の花がまだ飾られている。


 寝台の白い布も、惜しみなく薪をくべられた暖炉も、王命の婚姻を祝っていた。


 その中央で、夫だけが私を見ていなかった。


「この結婚は王命だ。拒めば、私の立場が悪くなる。だから受け入れた形にはする」


 アルヴィン様は、面倒な書類の説明でもするように言った。


「だが、君を妻として扱うつもりはない。王都に大切な人がいる」


「……そうですか」


「君には辺境伯夫人の名を与える。屋敷で静かにしていてくれればいい」


 辺境伯夫人の、名。


 名、のところだけ、妙にはっきり聞こえた。


「承知しました」


 アルヴィン様は、少しだけ意外そうな顔をした。


 泣くなり、すがるなり、するとでも思っていたのだろう。


 私は何も言わなかった。


 泣いてどうにかなる婚姻なら、最初からこんな部屋は用意されない。


 飾られた祝福は、私たちのためのものではない。


 王家と貴族たちに、婚姻が無事に成立したと見せるためのものだ。





 翌朝、アルヴィン様は王都へ発った。


 王宮の防衛会議に出るのだと言っていたが、馬車に積まれた荷は、会議の書類より社交服の方が多かった。


「奥様。お部屋へご案内いたします」


 馬車が門を出るのを待って、老家令ギルバート・ロウが頭を下げた。


 銀髪を後ろで結んだ、黒服の老人だった。


 声も所作も控えめなのに、その礼だけが、新しい奥方に向けるものにしては深すぎた。


 案内されたのは、昨夜の部屋ではなかった。


 狭いが、清潔な部屋だった。


 寝台と机、小さな暖炉。


 窓の向こうに、黒い森へ続く防衛線の灯りが並んでいる。


「こちらが、奥様の私室でございます」


「昨夜の部屋とは、別なのですね」


「あちらは、当主夫妻のための夫婦寝室でございます」


 ギルバートは一拍おいて、付け加えた。


「王命婚が受け入れられたと、外向きに示すための部屋でもございます。王家の使者がお見えの際、妻を迎えた証として、整えておく必要が」


「使わなくても、整えておくのですね」


「……旦那様は、そのようにお考えです」


 それ以上、老人は夫をかばわなかった。


 私も、聞かなかった。





 その日の午後、ギルバートに屋敷を案内された。


 階段の踊り場で、足が止まった。


 壁に古い紋章が彫られている。


 盾を囲む二本の針葉樹と、その下に眠る狼。


 どこかで見た形だった。


 亡くなった母の小箱に、似た刺繍があった気がする。


「これは?」


「古い守護家の紋でございます。昔、この地の魔境防衛を担っていた家の」


 ギルバートはそれだけ言って口を閉じた。


 閉じた横顔が、なぜか少しだけ懐かしそうだった。


 廊下の奥で、人が眠っていた。


 若い騎士だった。


 床に座り込み、壁にもたれ、剣を抱いたまま眠っている。


 鎧の継ぎ目に黒い泥が詰まり、手袋の指先が紫色に膨れていた。


「起こさないでください」


 低い声に振り向くと、黒髪の騎士が立っていた。


 辺境防衛騎士団長、ルーク・アッシュフォード。


 婚礼の席で一度だけ挨拶した男だ。


 王都の騎士のような華やかさはない。


 ただ、その立ち姿だけで、この辺境が誰の背中で保っているのかは知れた。


「三日ぶりの睡眠です。少しだけ、眠らせてやってください」


「宿舎はないのですか」


「あります」


 それきり、ルーク様は黙った。


 あるのに、なぜ。


 そう聞き返すより先に、眠る男の指先が目に入った。


「……冬前の迎撃期は、足りません。重傷者に寝台を譲れば、軽傷者は床に回る」


「怪我人を、休ませる部屋は」


「処置室ならあります。傷を縫って、毒を抜く場所です。休ませる寝台はない」


「この方の指は」


「凍傷です。床では温まらない。放っておけば、指を落とします」


 ルーク様は、少し間を置いて言った。


「療養室を――休ませるための部屋を増やしてほしいと、申請は出しています。半年前から、何度も」


「お返事は」


「……この通りです」


 彼は、床で眠る部下を目で示した。


 グランヴェル辺境伯領の北には、黒い魔境がある。


 冬が近づくと魔境の獲物が枯れ、飢えた魔物は熱と魔力を求めて南へ降りてくる。


 家畜も馬も人も、彼らには区別がない。


 砦は、魔物が村の灯りへたどり着く前に食い止めるためにある。


 その砦を守る者たちが、眠る場所を譲り合っていた。


 眠る場所──胸の中で繰り返したとき、ふいに母の声がよみがえった。


 眠れる場所を粗末にしてはいけないのよ、ノエル。


 眠れる場所は、明日を守る場所だから。


「ギルバート。昨夜の夫婦寝室は、今も空いているのですね」


「はい。旦那様は王都でございますので」


「寝具も、暖炉も、そのまま」


「王家の使者に備え、整えたままにしております」


 誰も使わない部屋が、飾りのために暖かい。


 守っている人間が、廊下の床で凍えている。


「あの部屋は、私の裁量で使えますか」


「夫婦寝室、夫人客間、夫人予算、慰問費。いずれも、辺境伯夫人のご裁量にございます」


 ルーク様が一歩前に出た。


「奥様。騎士を夫婦寝室に入れれば、傷つくのはあなたの名です」


 責める声ではなかった。


 本気で案じている声だった。


「ありがとうございます。けれど――」


 私は、廊下で眠る騎士を見た。


「今、傷ついているのは、私の名ではありません」


 ギルバートを見る。


「夫婦寝室を、仮眠室にします」


 老家令の眉が、ほんのわずかに動いた。


「旦那様がお戻りになれば、お怒りになるでしょう」


「旦那様は、あの部屋を夫婦寝室として使わないとお決めになりました。ならば、あそこは空き部屋です」


 長い沈黙のあと、ギルバートは深く一礼した。


「寝台を四つに。寝具は、洗い替えを含めて十二組。暖炉には薪を。それから、薬草茶と温粥をご用意いたします」


 ルーク様は、何も言わなかった。


 ただ、こちらを見る目から、最初の警戒だけが抜けていた。





 その日のうちに、夫婦寝室から天蓋が外された。


 白い布は洗われ、飾りのクッションは片づけられ、寝台は四つに増えた。


 化粧台は薬草棚に。


 花瓶には、花の代わりに煮沸した包帯。


 部屋いっぱいに、煮出した薬草の匂いが満ちた。


 初夜のために磨かれていた銀の水差しには、喉を痛めた騎士のための蜂蜜湯が注がれた。


 最初に入ってきたのは、廊下で眠っていたあの若い騎士だった。


「奥様、俺なんかが、こんな部屋──」


「眠ってください」


「ですが」


「命令ではありません。お願いです。明日も立っていただくために」


 彼は泣きそうな顔で寝台に横になり、五分と経たずに寝息を立てた。


 ルーク様が、小さく息を吐いた。


「三日ぶりです。……こいつは昨日も、自分の寝台を譲りました。魔毒を受けた先輩に」


「昨日譲った分、今日は眠る番です。譲らせません」


「……譲らせない、ですか」


 小さく繰り返してから、ルーク様はこちらを見た。


「なぜ、ここまでなさるんですか」


 責める声ではなかった。


 ただ知りたい、という声だった。


「役に立てば」


 口にしてから、自分でもみじめな理由だと思った。


 それでも、続けた。


「役に立てば、ここにいてもいい気がするからです」


 ルーク様は、笑わなかった。


「あなたがいなければ、こいつは廊下で指を失っていた」


 眠る部下を見て、それから、私を見た。





 夫婦寝室を仮眠室にしてから、廊下で眠る騎士はいなくなった。


 代わりに、暖炉の前に腕を吊ったまま座り込む負傷者が現れた。


 寝る場所はできても、癒える場所がまだ足りない。


「ギルバート。この屋敷に、まだ使われていない部屋はありますか」


 老家令は、最初からその問いを待っていたように頭を下げた。


「ございます。奥様がそうお命じくださるのを、お待ちしておりました」


「待っていた?」


「私が勝手に開ければ、越権でございます。奥様のご命令であれば、夫人領域は動かせます」


 この老人は、知らなかったのでも、できなかったのでもない。


 鍵を回す手が現れるのを、待っていたのだ。


「では、教えてください。どの部屋が使えますか」


「使われていない客間が三つ。一つは療養室に。古い小広間は、夜警明けに温食を出す場に。衣装部屋は、防寒マントと包帯の保管庫に使えましょう」


「夫人予算は」


「夜会用ドレスの費用が、手つかずで残っております。夫人茶会の菓子代、香油代、装飾費も」


「夜会の予定はありません。茶会に招く相手も」


「では」


「防寒マントを買いましょう。薬草と薪も。残りは厨房へ」


 ギルバートは、初めてわずかに笑った。


「かしこまりました、奥様」





 そこから、屋敷は少しずつ形を変えた。


 空き客間は療養室に。


 古い小広間には長机が並び、夜警明けの騎士に温かいスープが出るようになった。


 衣装部屋には絹のドレスの代わりに防寒マントが積まれ、香油代は凍傷薬に、刺繍糸の代金は清潔な布に化けた。


 招く相手のいない茶会の菓子代は、麦粥と干し肉になった。


 私が決め、ギルバートが帳簿に乗せ、ルーク様が現場へ運ぶ。


 それだけのことで、屋敷の景色は変わっていった。


「俺、新しい防寒マントなんて初めてです」


 あの若い騎士が、袖を何度も撫でながら言った。


 指先の紫は、ほとんど元の色に戻っている。


 私は、返事に困った。


 使われていないものを、動かしただけだ。


 嘘の夫婦を飾るための部屋。着る予定のないドレス。招く相手のいない茶会。


 その空っぽに、誰かの体温が入った──それだけのことだった。


 ギルバートは、すべてを記録した。


 仮眠室を使った者の名。療養室の滞在日数。薬草の支出に、マントの配布先。


 凍傷で離脱した者の数と、魔毒が悪化した件数まで。


 ルーク様は最初、それを見て顔をしかめた。


「そこまで記録するのですか」


「何を変え、誰が救われたのか。残さなければ、あとで何も証明できません」


 ギルバートは淡々と答え、ルーク様はそれきり何も言わなかった。


 ただその日から、仮眠室の名簿だけは、きっちり提出するようになった。





 迎撃期が深まると、魔物は増えた。


 夜半、砦の鐘が鳴る。


 魔境から降りた氷狼の群れが、防衛線にぶつかったのだ。


 騎士たちは、夜明けまで戻らなかった。


 戻ってきたルーク様の肩には、血がにじんでいた。


「こちらへ」


「軽傷です」


「軽傷者が休まないから、療養室が足りなくなるのです」


 彼は一瞬目を見開き、それから、初めて声を出して笑った。


「叱られるとは、思いませんでした」


「辺境伯夫人の仕事ですので」


「あなたは、本当にそれを仕事にしてしまうんですね」


 包帯を巻く。


 布越しに、戦ってきた体の熱があった。


「……痛みますか」


「いいえ」


 ルーク様は、じっと私を見ていた。


「あなたに手当てされると、痛みを忘れます」


 騎士団長の言葉ではなかった。


 包帯を巻く指が、わずかに震えた。


 役に立つから、置いてもらえる。


 ずっと、そういうものだと思ってきた。


 けれど今、役に立つかどうかとは別のところで、誰かの目が私を見ている。


 それが怖くて、どうしようもなく、うれしかった。





 その冬、屋敷の廊下で眠る騎士はいなくなった。


 夜明け前に戻った者は処置室で傷を診てもらい、療養室へ。


 毒の深い者は薬草茶を飲み、凍えた者は小広間でスープを受け取る。


 歩ける者は仮眠室へ行き、短くても寝台で眠る。


 最初は遠慮していた騎士たちも、ルーク様に一喝されてからは、黙って寝台に倒れ込むようになった。


「眠るのも防衛のうちだ」


 そう言ったのは、ルーク様だった。


 その言葉は、思ったより早く騎士たちに根づいた。


 床ではなく毛布の中で眠り、寝台を譲ったあとも別の部屋で休み、熱を出しても廊下に転がされずに済む。


 それだけのことで、翌朝ふたたび立てる者が増えた。


 騎士団の離脱者は目に見えて減り、砦の守りは、崩れなかった。





 迎撃期が一段落した夜、ギルバートが一通の報告書を見せにきた。


 王宮へ送るものだという。


 例の記録が、そっくりそのまま数字になって並んでいた。


「ここまで書くのですか」


「誰が何をしたのかを残さなければ、手柄だけが別の者のものになります」


 ギルバートは、乾いたインクを確かめるように、紙の端を押さえた。


 それから、もう一通の写しを銀盆に置いた。


 アルヴィン様宛てだった。


 表題だけが、大きい。


 ――グランヴェル辺境伯領、防衛状況改善。


 兵の離脱率、前年の半数以下。


 まるで、現辺境伯の統治が順調であるかのような書きぶりだった。


「これは……旦那様が、誤解なさるのでは」


「なさるでしょう」


 ギルバートは平然と答えた。


「よろしいのですか」


「人は、自分が信じたい形で報告を読みます」


 彼は、王宮宛ての封書を別の盆に置いた。


「旦那様は必ず、この改善をご自分の功績として王宮に示そうとなさいます。そして、監察官を伴ってお戻りになる」


「……それを、待っているのですか」


「私は、辺境伯家の家宰でございます。領地を損なう当主を、感情で弾劾することはできません」


 ギルバートは、顔を上げた。


「記録でなら、できます」


 初めて、この老人を怖いと思った。


 同じだけ、頼もしいとも。





 春を待たずに、アルヴィン様は戻ってきた。


 王家の監察官を伴って。


 自分の功績を見せるために。


「これは、どういうことだ」


 夫婦寝室の扉を開けた瞬間、声が飛んだ。


 中では、三人の騎士が眠っていた。


 一人は腕を吊り、一人は額に包帯を巻き、一人は防寒マントをかけたまま寝息を立てている。


 暖炉は赤く燃え、部屋には薬草茶の匂いがした。


「なぜ私の寝室に男がいる!」


「夫婦寝室です」


 私は言った。


「そしてあなたは、あの部屋を夫婦寝室として使わないと、初夜にお決めになりました」


「屁理屈を言うな! 妻の分際で、男を寝室に入れるなど──不貞だ。監察官の前で、よくも」


 ルーク様が前へ出ようとするのを、手で制した。


 ここは、剣の出番ではない。


 私の戦いだ。


「不貞ではありません」


 声は、思ったより静かに出た。


「仮眠室も療養室も、夫人予算と夫人裁量で整えたものです。支出も、使った騎士の名も、すべて帳簿にあります。私が誰かと寝所を共にした記録は、一行もありません」


「記録だと? 口では何とでも言える」


「ええ。ですから、口ではなく――ギルバート」


 名を呼ぶだけで、足りた。


 老家令が、分厚い帳簿を抱えて進み出た。


「監察官殿。奥様の仰せの通りでございます」


「使用人風情が口を挟むな」


「使用人だからこそ、記録してまいりました」


 ギルバートは、帳簿を開いた。


「あわせて、旦那様が奥様を妻として扱わなかった記録も、こちらにすべて」


 白い結婚の覚書に始まり、夫婦寝室の未使用記録、王都の女性へ贈られた宝飾品の支出、療養室増築申請の未決裁、防寒マント予算の差し戻しと王都社交費への流用──そして、私が夫人予算で整えた物品と、それを使った騎士たちの名簿、離脱率の変化まで。


 ギルバートの声は、少しも震えなかった。


「王家に対して夫婦寝室を整えたと示しながら、奥様を妻として扱わなかったのは、旦那様でございます」


「黙れ。私は王命に従って、この女を迎えた」


「迎えただけでは、王命婚を果たしたことにはなりません」


 ここから先は、もう私の戦いではなかった。


 この老人が、何年もかけて静かに研いできた刃だった。


 帳簿の下から、王家の封蝋が押された書状が現れた。


 婚姻裁可の写しだった。


「この婚姻は、伯爵家の持参金だけが目的ではございません。王家はグランヴェル家に、旧守護家ヴァレンの血を迎え、辺境の信頼を取り戻すことを望んでおられました」


「……ヴァレンだと?」


「この地がグランヴェル領となる前、魔境防衛を担っていた家でございます。ノエル様のお母上は、その血を引く方でした」


 踊り場の、眠る狼。


 母の小箱にあった刺繍と、同じ形。


「旦那様は、王命婚の目的を果たされなかったばかりか、奥様の正当な夫人権限の行使を、不貞と断じられました」


 アルヴィン様の顔から、血の気が引いていった。


「ち、違う。私は……この女が、勝手に」


 視線が、帳簿と監察官の間を泳ぐ。


「記録など、家令がいくらでも書き換えられる! これは、妻と使用人が結託して──」


 監察官が、帳簿を閉じた。


「アルヴィン・グランヴェル卿。王都への出頭を命じる。辺境伯としての職務は、裁定まで停止とする」


「では、この地は誰が見る! 私を止めれば、辺境は──」


 そこで、彼は言葉を失った。


 誰も、狼狽えていなかったからだ。


 政務はギルバートが、軍務はルーク様が、救護は私が、とうに回していた。


 辺境は、彼なしで冬を越えていた。


 それを知らなかったのは、当主だけだった。


 監察官は続けた。


「政務は家宰ギルバートが継続。軍務は騎士団長ルーク・アッシュフォードが担う。ノエル殿の整えられた仮眠室および療養室は、王家承認のもと、辺境救護院として正式に残す」


 アルヴィン様が、私を見た。


「ノエル。君は、私の妻だろう」


 初めて呼ばれた「妻」は、驚くほど軽かった。


「いいえ」


 私は答えた。


「あなたが最初に、そうではないとお決めになりました」





 婚姻は無効となり、アルヴィン様は王都へ送られた。


 彼がいなくなっても、砦の鐘は鳴る。


 魔境の森は黒くざわめき、騎士たちは防衛線へ向かい、夜明けに戻ると、夫婦寝室だった部屋で眠った。


 私は、辺境に残った。


 辺境伯夫人としてではない。


 裁定が下るまでの間、旧守護家ヴァレンの血を引く者として、辺境救護院を任されたのだ。


「奥様」


「もう奥様ではありません」


「では、ノエル様」


 ギルバートは、少しだけ口元を緩めた。


「本日の支出確認をお願いいたします。──救護院長殿」


 救護院長。


 その響きに、私は少し笑った。


 夫婦寝室だった部屋に、もう白い布はない。


 洗いざらしの毛布と、傷薬と、薬草茶と、遠慮のないいびきがあるだけだ。





 その日の夕方、支出確認を終えて私室へ戻った。


 扉を開ける前から、暖かい空気が漏れていた。


 暖炉に火が入っている。


 机の上には、湯気の立つスープと焼きたてのパン。


 寝台には、いつもの薄い掛け布の上に、厚い毛布が一枚。


「……これは」


 振り向くと、戸口にルーク様が立っていた。


 大きな手に、もう一枚、毛布を不器用に抱えて。


 戦場では迷いなく剣を振るう人が、ひどく落ち着かない顔をしていた。


「差し出がましいことを、しました」


 視線が、わずかに泳ぐ。


「夜警明けの者に出しているスープです。あなたにも、一杯。……毛布と暖炉は、俺の判断です」


「なぜ」


「あなたは、仮眠室の寝具を確かめて、療養室の薬草を数えて、マントの不足を聞いて、夜警明けの食事まで見ていた」


 彼は、今しがた火を入れたばかりの暖炉を見た。


「そのくせ、自分の部屋の暖炉には、火を入れ忘れる」


 何も、言えなかった。


「この屋敷で眠れる場所を整えたのは、あなたです。なら──」


 彼は、抱えていた毛布を、そっと寝台に置いた。


「あなたの眠る場所も、誰かが整えていい。その誰かに、俺がなりたい」


 初夜には、泣かなかった。


 要らないと言われたときも、涙は出なかった。


 なのに、剣を握る手が私のために毛布を運んできたのを見た瞬間、胸の奥が、音を立ててほどけた。


「……私は、ここにいてもいいのでしょうか」


 ルーク様は、すぐには答えなかった。


「それを決めるのは、あなたです」


「私が」


「はい」


 一歩、近づく。


「ただ、俺は望んでいます。あなたが、明日もここで目を覚ますことを」


 私は椅子に座り、スープを一口飲んだ。


 温かかった。


 ここは、最初から私に与えられていた部屋だった。


 けれど今夜、初めて、私のための部屋になった。





 それから、季節がいくつか巡った。


 辺境救護院は王家承認の正式な施設になり、私は相変わらず支出を数え、寝具を確かめ、薬草を煮ている。


 ルーク様は夜明け前に砦へ向かい、夜明けに戻る。


 戻ると、まず私の顔を見る。


 無事だと、目で伝えるように。


「院長殿」


 ある朝、肩に新しい傷を作って戻った彼が、私を呼んだ。


「軽傷です」


「軽傷者が休まないから、療養室が足りなくなるのです」


「……叱られると、安心します」


 包帯を巻くあいだ、彼はずっと、私を見ていた。


 要らないと言われた私を、最初から、まっすぐ見ていた人が。


 眠れる場所は、明日を守る場所。


 母のその言葉を、私は今、毎朝の包帯と薬草茶で確かめている。


 そしてここは、もう誰にも拒まれない、私の家だ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


白い結婚シリーズ第四作目投稿しました。


『白い結婚で捨てられた私は、愛する騎士を戦場へ送りました――最後の一人が帰るまで、門は閉じません』


正式な領主代行となったノエルのもとへ、魔物の大群襲来の報せが届く。


愛するルークを、自らの命令で戦場へ送り出したノエル。


砦を守るのか。


領民と守備兵を生かすのか。


そして、最後の後衛を率いるルークが戻らないまま、魔物は第二防衛線へ迫る。


「最後の一人が帰るまで、門は閉じません」


一度は置き去りにされたノエルが、今度は誰一人置き去りにしない物語です。


どうぞよろしくお願いいたします。

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