白い結婚で要らないと言われたので、夫婦寝室を辺境騎士団の仮眠室にしました
「君とは夫婦になるつもりはない」
初夜の部屋で、夫となったばかりのアルヴィン・グランヴェル辺境伯は、私にそう告げた。
扉の外には、祝福の花がまだ飾られている。
寝台には、白い布がかけられている。
暖炉には、惜しみなく薪がくべられている。
部屋のすべてが、王命による婚姻を祝っていた。
その中央で、夫だけが私を見ていなかった。
「この結婚は王命だ。拒めば、私の立場が悪くなる。だから受け入れた形にはする」
アルヴィン様は、面倒な書類の説明でもするように言った。
「だが、君を妻として扱うつもりはない。王都に大切な人がいる」
「……そうですか」
「君には辺境伯夫人の名を与える。屋敷で静かにしていてくれればいい」
辺境伯夫人の名。
妻ではなく、名。
その違いだけは、はっきり分かった。
「承知しました」
私が答えると、アルヴィン様は少しだけ意外そうな顔をした。
泣くと思ったのかもしれない。
すがると思ったのかもしれない。
けれど、私は何も言わなかった。
泣いたところで、妻になれるわけではない。
すがったところで、夫婦になれるわけでもない。
この部屋に飾られている祝福は、私たちのためではない。
王家と貴族たちに、婚姻が無事に成立したように見せるためのものなのだと、そう思った。
*
翌朝、アルヴィン様は王都へ発った。
王宮で開かれる防衛会議に出席するためだと言っていた。
けれど馬車に積まれた荷には、会議用の書類より、王都で着る社交服の方が多かった。
「奥様。お部屋へご案内いたします」
アルヴィン様の馬車が門を出たあと、老家令ギルバート・ロウが深く頭を下げた。
銀髪を後ろで結び、黒い服を隙なく着込んだ老人だった。声は静かで、動きも控えめだ。
ただ、その礼は、新しい奥方に向けるものにしては少し深すぎる気がした。
案内されたのは、昨夜の部屋ではなかった。
狭いが、清潔な部屋だった。
寝台と机、小さな暖炉。窓の向こうには、黒い森へ続く防衛線の灯りが見える。
「こちらが、奥様の私室でございます」
「昨夜の部屋とは別なのですね」
「はい。昨夜の部屋は、当主夫妻のための夫婦寝室でございます」
ギルバートは静かに答えた。
「あちらは、王命婚が正式に受け入れられたと外向きに示すための部屋でもございます。王家の使者や親族が来た際、当主が妻を迎えた証として整えておく必要があるのです」
「証として」
「はい」
「では、あの部屋は使わなくても、整えておく必要があるのですね」
「……旦那様は、そのようにお考えです」
ギルバートはそれ以上、夫をかばわなかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
アルヴィン様が欲しかったのは妻ではなく、妻を迎えたという形なのだ。
*
その日の午後、私はギルバートに屋敷を案内された。
階段の踊り場で、ふと足が止まった。
壁に古い紋章が彫られていた。
盾を囲む二本の針葉樹。
その下に、眠る狼。
どこかで見たことがあった。
亡くなった母の小箱に、同じ形の刺繍があった気がする。
「これは?」
「古い守護家の紋でございます」
「守護家?」
「昔、この地の魔境防衛を担っていた家です」
ギルバートはそれだけ言って、口を閉じた。
なぜか、その横顔は少しだけ懐かしそうだった。
廊下の奥へ進んだとき、私は人が眠っているのを見つけた。
若い騎士だった。
床に座り込み、壁にもたれ、剣を抱いたまま眠っている。鎧の継ぎ目には黒い泥が詰まり、手袋の指先は紫色になっていた。
「起こさないでください」
低い声がした。
振り向くと、黒髪の騎士が立っていた。
辺境防衛騎士団長、ルーク・アッシュフォード。
婚礼の席で一度だけ挨拶を交わした男だった。王都の騎士のような華やかさはない。けれど、立っているだけで、この辺境が誰の背中で守られているのか分かった。
「三日ぶりの睡眠です。少しだけ眠らせてやってください」
「宿舎はないのですか」
「砦にも、屋敷の裏手にも兵舎はあります」
ルーク様はすぐに答えた。
「ただ、冬前の迎撃期は足りません。重傷者に寝台を譲れば、軽傷者は床に回る」
「救護室は」
「処置室なら。傷を縫い、毒を抜き、骨を固定する場所です。休ませる寝台は足りていません」
「この方の指は、凍傷ですか」
「ええ。床で眠れば温まらない。温まらなければ、進む」
ルーク様は静かに言った。
「療養室を増やしてほしいと、申請は出しました。半年前から、何度も」
「返事は」
「ありません」
その一言で、すべてが分かった。
休ませる寝台は足りていない。
その言葉が、胸に残った。
グランヴェル辺境伯領の北には、黒い魔境がある。
冬が近づくと、魔境の獣も魔素も枯れる。飢えた魔物たちは、熱と魔力を求めて南下する。家畜も、馬も、人も、彼らには区別がない。
だから砦は、魔物が村の灯りにたどり着く前に食い止めるためにある。
その砦を守る人たちが、眠る場所を譲り合っていた。
母の言葉を思い出した。
眠れる場所を粗末にしてはいけないのよ、ノエル。
眠れる場所は、明日を守る場所だから。
「ギルバート」
「はい、奥様」
「昨夜の夫婦寝室は、今も使われていないのですね」
「はい。旦那様は王都へ発たれましたので」
「寝具も、暖炉も、そのままですか」
「王家の使者に備えるため、整えたままにしております」
私は、廊下で眠る騎士を見た。
この人たちには、眠る場所が足りない。
それなのに、誰も使わない部屋が、飾りだけのために暖かく保たれている。
そのことが、どうしても正しいとは思えなかった。
「あの部屋は、私の裁量で使えますか」
「夫婦寝室、夫人客間、夫人予算、慰問費。いずれも、辺境伯夫人のご裁量にございます」
ルーク様が一歩前に出た。
「奥様。騎士を夫婦寝室に入れれば、傷つくのはあなたの名です」
責めているのではない。
本気で案じてくれているのだと分かった。
「ありがとうございます」
私は廊下で眠る騎士を見た。
「けれど、今傷ついているのは、私の名ではありません」
ルーク様が黙った。
「この方たちが眠れる場所を、先に用意したいのです」
私はギルバートを見た。
「夫婦寝室を、仮眠室にします」
ギルバートはほんのわずかに眉を動かした。
「旦那様がお戻りになれば、お怒りになるでしょう」
「旦那様は、あの部屋を夫婦寝室として使わないとお決めになりました」
私は、まだ閉じられている夫婦寝室の扉を見た。
「ならば、あそこは空き部屋です」
長い沈黙のあと、ギルバートは深く一礼した。
「承知いたしました。清潔な寝具を十二組。暖炉には薪を。薬草茶と温粥も用意いたしましょう」
ルーク様は、何も言わなかった。
ただ、私を見る目から、最初の警戒が薄れていた。
*
その日、夫婦寝室から天蓋が外された。
白い布は洗われ、飾りのクッションは片づけられ、寝台は四つに増やされた。化粧台は薬草棚になり、花瓶には花ではなく、煮沸した包帯が入れられた。
初夜のために磨かれていた銀の水差しには、喉を痛めた騎士のための蜂蜜湯が注がれた。
最初に入ってきたのは、廊下で眠っていた若い騎士だった。
「奥様、俺なんかが、こんな部屋を使うわけには」
「眠ってください」
「ですが」
「これは命令ではありません。お願いです。明日も立っていただくために、今は眠ってください」
彼は泣きそうな顔をして、それから寝台に横になった。
五分も経たずに眠った。
ルーク様が、小さく息を吐く。
「三日ぶりです」
「はい」
「こいつは、昨日も自分の寝台を譲りました。魔毒を受けた先輩に」
「では、今日は譲らせません」
ルーク様は私を見た。
「あなたは、なぜここまでなさるのですか」
責める声ではなかった。
ただ、知りたいという声だった。
「役に立てば、ここにいてもいい気がするからです」
言ってしまってから、みじめな理由だと思った。
けれどルーク様は、笑わなかった。
「あなたがいなければ、こいつは廊下で指を失っていた」
彼は、眠る部下を見て、それから私を見た。
最初にあった警戒は、もうそこになかった。
*
夫婦寝室を仮眠室にしてから、廊下で眠る騎士はいなくなった。
けれど、問題が消えたわけではない。
今度は暖炉の前に、腕を吊ったまま座り込む負傷者がいた。
寝る場所はできた。
でも、傷を癒やす場所はまだ足りない。
「ギルバート。この屋敷に、まだ使われていない部屋はありますか」
老家令は、最初からその問いを待っていたように頭を下げた。
「ございます。奥様がそうお命じくださるのを、お待ちしておりました」
「待っていたのですか」
「私が勝手に開ければ、越権になります。ですが、奥様のご命令であれば、夫人領域は動かせます」
この老人は、何も知らなかったわけではない。
何もできなかったわけでもない。
ただ、鍵を持つ者が現れるのを待っていたのだ。
「では、教えてください。どの部屋が使えますか」
「使われていない客間が三つございます。一つは療養室に。古い小広間は、夜警明けの温食を出す場所にできます。衣装部屋の一部は、防寒マントと包帯の保管庫に使えるでしょう」
「夫人予算は」
「夜会用ドレスの費用が残っております。夫人茶会の菓子代、香油代、装飾費も」
「夜会の予定はありません。茶会に招く相手もいません」
「では」
「防寒マントを買いましょう。薬草と薪も。温かい食事に回せる分は、厨房へ」
ギルバートは、初めてわずかに笑った。
「かしこまりました、奥様」
*
そこから、屋敷は少しずつ形を変えた。
空き客間は療養室になった。
古い小広間には長机が置かれ、夜警明けの騎士たちに温かいスープが配られるようになった。
衣装部屋には、絹のドレスの代わりに防寒マントと包帯が積まれた。
香油代は凍傷薬になった。
刺繍糸代は清潔な布になった。
夫人茶会の菓子代は、麦粥と干し肉になった。
私が決める。
ギルバートが制度に乗せる。
ルーク様が現場に届ける。
それだけで、屋敷の景色は変わっていった。
「俺、新しい防寒マントなんて初めてです」
あの若い騎士が、袖を何度も撫でながら言った。
紫色だった指先は、もう元の色に戻りかけていた。
私は返事に困った。
私はただ、使われていないものを動かしただけだった。
嘘の夫婦を飾るための部屋。
出席する予定のない夜会用ドレス。
招く相手のいない夫人茶会。
形式だけ割り当てられていた夫人予算。
その空っぽに、誰かの体温が入った。
ギルバートは、すべてを記録した。
仮眠室の使用人数。
療養室の滞在日数。
薬草の支出。
防寒マントの配布先。
凍傷による離脱者数。
魔毒の悪化件数。
ルーク様は最初、それを見て少し顔をしかめた。
「そこまで記録するのですか」
「必要なことです」
ギルバートは淡々と答えた。
「何を変え、誰が救われたのか。残しておかなければ、あとで何も証明できません」
ルーク様は何も言わなかった。
ただ、その日から仮眠室の利用者名簿をきっちり提出するようになった。
*
迎撃期が深まると、魔物は増えた。
夜、砦の鐘が鳴る。
魔境から降りてきた氷狼が、防衛線にぶつかったのだ。
騎士たちは夜明けまで戻らなかった。
戻ってきたとき、ルーク様の肩には血がにじんでいた。
「こちらへ」
「軽傷です」
「軽傷者が休まないから、療養室が足りなくなるのです」
彼は一瞬だけ目を見開いた。
それから、初めて声を出して、少し笑った。
「叱られるとは思いませんでした」
「辺境伯夫人の仕事ですので」
「あなたは、本当にそれを仕事にしてしまうのですね」
私は包帯を巻きながら、彼の肩に触れた。
布越しに、戦ってきた体の熱があった。
「……痛みますか」
「いいえ」
ルーク様は、じっと私を見ていた。
「あなたに手当てされると、痛みを忘れます」
その言葉は、騎士団長のものではなかった。
包帯を巻く指が、わずかに震えた。
役に立つことは、愛されることではない。
分かっている。
――けれど、役に立つだけではない目で、誰かが私を見ている。
その事実が、怖くて、どうしようもなく、うれしかった。
*
その冬、屋敷の廊下で眠る騎士はいなくなった。
夜明け前に戻ってきた者は、まず処置室で傷を見てもらい、それから療養室へ運ばれる。毒が深い者は薬草茶を飲み、凍えた者は小広間で温かいスープを受け取る。歩ける者は仮眠室へ行き、短くても寝台で眠るようになった。
最初は遠慮していた騎士たちも、ルーク様に叱られてからは、黙って寝台に倒れ込むようになった。
「眠るのも防衛のうちだ」
そう言ったのはルーク様だった。
その言葉は、思ったより早く騎士たちに浸透した。
夜警明けの者が、床ではなく毛布の中で眠る。
軽傷者が、重傷者に寝台を譲ったあとも、別の部屋で体を休められる。
魔毒を受けた者が、熱を出したまま廊下に放り出されずに済む。
それだけのことだった。
けれど、その「それだけ」で、翌朝ふたたび立てる者が増えた。
辺境防衛騎士団の離脱者は、目に見えて減っていった。
砦の守りは、崩れなかった。
*
迎撃期が一段落した夜、ギルバートは私に一通の報告書を見せた。
王宮へ送るものだという。
そこには、仮眠室の使用人数、療養室の滞在日数、薬草の支出、防寒マントの配布先、凍傷による離脱者数、魔毒の悪化件数が、細かく記されていた。
「ここまで書くのですか」
「はい」
ギルバートは、乾いたインクを確かめるように報告書の端を押さえた。
「誰が何をしたのかを残さなければ、手柄だけが別の者のものになります」
ギルバートは、もう一通の写しを銀盆に置いた。
そちらは、アルヴィン様へ送るものだった。
表題だけが大きく書かれている。
グランヴェル辺境伯領、防衛状況改善。
兵の離脱率、前年の半数以下。
魔物侵入件数、減少。
まるで、現辺境伯の統治が順調であるかのように。
「これは、アルヴィン様が誤解なさるのではありませんか」
「誤解なさるでしょう」
ギルバートは平然と答えた。
「よろしいのですか」
「奥様。人は、自分が信じたい形で報告を読みます」
彼は王宮宛ての封書を、別の銀盆に置いた。
「旦那様は、必ずこの改善を自分の功績として王宮に見せようとなさいます。そして、監察官を伴ってお戻りになる」
「それを、待っているのですか」
「はい」
ギルバートの声は静かだった。
「私は、辺境伯家の家宰でございます。領地を損なう当主を、感情で弾劾することはできません」
彼は顔を上げた。
「ですが、記録でならできます」
その時、初めてこの老人が怖いと思った。
同時に、頼もしいとも思った。
*
春を待たずに、アルヴィン様は辺境へ戻ってきた。
王家の監察官を伴って。
自分の功績を見せるために。
「これは、どういうことだ」
アルヴィン様が夫婦寝室の扉を開けた瞬間、声を荒げた。
そこには三人の騎士が眠っていた。
一人は腕を吊り、一人は額に包帯を巻き、一人は防寒マントをかけたまま寝息を立てている。
暖炉は赤く燃えていた。
薬草茶の香りがした。
アルヴィン様の顔が赤くなる。
「なぜ私の寝室に男がいる!」
「夫婦寝室です」
私は言った。
「そして、あなたはその部屋を夫婦寝室として使わないと、初夜にお決めになりました」
「屁理屈を言うな!」
アルヴィン様は私を指さした。
「妻の分際で、男を夫婦寝室に入れるなど。不貞だ。王家の監察官の前で、よくもこのような真似を」
その言葉に、ルーク様が私の前へ出ようとした。
私は、手でそれを制した。
ここは、私の戦いだ。
そして、ギルバートが静かに前へ出た。
「旦那様。奥様が不貞を働いた記録はございません」
「使用人風情が口を挟むな」
「ただし、旦那様が奥様を妻として扱わなかった記録なら、こちらにすべてございます」
ギルバートは、分厚い帳簿を差し出した。
白い結婚の覚書。
夫婦寝室の未使用記録。
アルヴィン様が王都の女性へ贈った宝飾品の支出。
辺境救護室増築申請の未決裁記録。
防寒マント予算の差し戻し。
王都社交費への流用。
私が夫人予算で購入した寝具、薪、薬草、防寒マント、食糧。
仮眠室と療養室を使った騎士たちの名簿。
そして、離脱率の変化。
ギルバートの声は、少しも震えなかった。
「王家に対して夫婦寝室を整えたと示しておきながら、奥様を妻として扱わなかったのは旦那様でございます」
「黙れ。私は王命に従って、この女を迎えた」
「迎えただけでは、王命婚を果たしたことにはなりません」
ギルバートは、帳簿の下から一枚の書状を取り出した。
王家の封蝋が押された、婚姻裁可の写しだった。
「この婚姻は、単に伯爵家の持参金を得るためのものではございません。王家は、グランヴェル家に旧守護家ヴァレンの血を迎え、辺境の信頼を取り戻すことを望んでおられました」
アルヴィン様の眉が寄る。
「ヴァレンだと?」
「この地がグランヴェル辺境伯領となる前、魔境防衛を担っていた旧守護家です」
ギルバートは静かに続けた。
「ノエル様のお母上は、そのヴァレン家の血を引く方でございました」
階段の踊り場にあった古い紋章。
母の小箱に刺繍されていた、眠る狼。
眠れる場所を粗末にしてはいけない、という母の言葉。
それらが、ようやく一つにつながった。
「ノエル様は、持参金のためだけに迎えられた方ではございません。王命婚の目的は、旦那様の爵位に、旧守護家の血と辺境の信頼を添えることでした」
ギルバートは、アルヴィン様を見た。
「旦那様は、奥様を妻として扱わず、王命婚の目的を果たされませんでした。さらに、奥様の正当な夫人権限の行使を不貞と断じられたのです」
監察官が帳簿を閉じた。
「アルヴィン・グランヴェル卿。王都への出頭を命じる。辺境伯としての職務は、裁定が下るまで停止とする」
「では、この地は誰が見る」
アルヴィン様が叫んだ。
「私を止めれば、辺境は」
そこで、彼は言葉を失った。
辺境は、すでに彼なしで回っていた。
政務はギルバートが支えていた。
軍務はルーク様が守っていた。
救護は、私が夫人権限で整えた。
アルヴィン様だけが、そのことを知らなかった。
監察官は静かに言った。
「日々の政務は、これまで通り家宰ギルバートが継続。軍務は辺境防衛騎士団長ルーク・アッシュフォードが担う。ノエル様が整えられた仮眠室および療養室は、王家承認のもと、辺境救護院として正式に残す」
アルヴィン様が私を見た。
「ノエル。君は私の妻だろう」
私はその言葉を、少し不思議な気持ちで聞いた。
初めて呼ばれた「妻」が、こんなに軽いものだとは思わなかった。
「いいえ」
私は答えた。
「あなたが、最初にそうではないとお決めになりました」
*
婚姻は、無効となった。
白い結婚の証拠は、すべてギルバートの帳簿に残っていた。
アルヴィン様は王都へ送られた。
彼がいなくなっても、砦の鐘は鳴った。
魔境の森は黒くざわめいた。
騎士たちは防衛線へ向かった。
そして夜明けに戻ると、夫婦寝室だった部屋で眠った。
私は、辺境に残ることになった。
辺境伯夫人としてではない。
王家の裁定が下るまでの間、旧守護家ヴァレンの血を引く者として、辺境救護院の管理を任されたのだ。
ギルバートは相変わらず静かだった。
「奥様」
「もう奥様ではありません」
「では、ノエル様」
彼は少しだけ口元を緩めた。
「本日の支出確認をお願いいたします。救護院長殿」
救護院長。
その響きに、私は少し笑った。
夫婦寝室だった部屋には、もう白い布はない。
そこには洗いざらしの毛布と、傷薬と、薬草茶と、いびきがあった。
嘘の夫婦を飾るための部屋は、明日を守る場所になった。
*
その日の夕方、救護院の支出確認を終えた私は、自分の私室へ戻った。
扉を開ける前から、暖かい空気が漏れていた。
中に入ると、暖炉に火が入っていた。
机の上には温かいスープと、焼きたてのパン。
寝台には、いつもの薄い掛け布ではなく、厚い毛布が一枚増えていた。
「……これは」
振り向くと、ルーク様が戸口に立っていた。
大きな手に、不器用に毛布をもう一枚抱えている。
戦場では迷いなく剣を振るう人が、ひどく落ち着かない様子だった。
「差し出がましいことを、しました」
彼は、視線をわずかにそらした。
「夜警明けの者に出している、滋養のあるスープです。あなたにも、一杯。……毛布と暖炉は、俺の判断です」
「なぜ」
「あなたは、仮眠室の寝具を確かめ、療養室の薬草を数え、防寒マントの不足を聞き、夜警明けの食事まで見ていた」
彼は、今しがた火を入れたばかりの暖炉を見た。
「けれど、自分の部屋の暖炉には、火を入れ忘れていた」
私は、何も言えなかった。
「この屋敷で、眠れる場所を整えたのは、あなたです」
ルーク様は、まっすぐに私を見た。
あの初夜の夜、夫が一度も向けなかった目で。
「でしたら、あなたの眠る場所も、誰かが整えていい」
彼は、抱えていた毛布を、そっと寝台に置いた。
「その誰かに、俺がなりたい」
机の上のスープから、湯気がのぼっている。
厚い毛布は、いかにも実用一点張りで、飾り気はない。けれど、触れる前から暖かそうだった。
初夜には泣かなかったのに。
捨てられたときも、拒まれたときも、妻ではないと言われたときも、涙は出なかったのに。
戦場で剣を握る手が、私のために毛布を運んできたのを見た瞬間、胸の奥がほどけた。
「……私は、ここにいてもいいのでしょうか」
ルーク様は、すぐには答えなかった。
その沈黙は、答えを押しつけないためのものに思えた。
「それを決めるのは、あなたです」
「私が」
「はい」
彼は、一歩近づいた。
「ただ、俺は望んでいます。あなたが、明日もここで目を覚ますことを」
その声は、もう騎士団長のものではなかった。
その言葉は、命令ではなかった。
引き留める言葉でもなかった。
ただ、ここに私の眠る場所があると告げていた。
私は椅子に座り、スープを一口飲んだ。
温かかった。
夫婦寝室ではない。
誰かに拒絶された空き部屋でもない。
ここは、最初から私に与えられていた部屋だった。
けれど今夜、初めて私のための部屋になった。
*
それから、季節がいくつか巡った。
辺境救護院は、王家承認の正式な施設になった。
私は救護院長として、相変わらず支出を数え、寝具を確かめ、薬草を煮ている。
ルーク様は、相変わらず夜明け前に砦へ向かい、夜明けに戻ってくる。
戻ると、まず私の顔を見るようになった。
無事だと、目で伝えるように。
「院長殿」
ある朝、肩に新しい傷を作って戻ってきたルーク様が、私を呼んだ。
「軽傷です」
「軽傷者が休まないから、療養室が足りなくなるのです」
「……叱られると、安心します」
彼は笑った。
私が包帯を巻くあいだ、彼はずっと、私を見ていた。
夫に要らないと言われた私を、ただ一人、最初から、まっすぐ見ていた人が。
眠れる場所は、明日を守る場所。
母の言葉は、正しかった。
私は今、たしかに、明日を守る場所にいる。
そしてそこは、もう、誰にも拒絶されない、私の家だった。
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