#15 ことつもの
人と魔物の戦いが終わった。
やがて街道は復旧し、人々は再び国を行き来するようになった。
この頃、アルノが所属する戦没者遺品返還部の仕事も少しずつ変わり始めていた。
もう崩壊した前線に倒れた者を迎えに行くことはなく、代わりに、これまで立ち入ることのできなかった戦場跡へ赴き、遺品を探し、名も残らぬ者たちを故郷へ返す日々が続いていた。
ある日、回収した遺品の整理を終えたアルノは何気なく手を止めた。
淡い金の髪と、白い衣。誰かの顔が浮かぶ。
降臨の儀を果たすために旧聖地まで送り届け、共に歩み、帰ってきた、聖女。
頭の奥に鈍い痛みが走り、アルノは思わず目を閉じる。
違う、と呟く。
儀式を果たした、聖女の遺体を、運んだのだ。
聖地へ向かうために、越えた山々。
這うように進んだ谷。
あの旅を、あの少女の姿を思い出そうとするたび、頭痛は酷くなった。
ここのところ、記憶が曖昧になることがある。
夢を見た翌朝のように、何かが霧散していくような日々を過ごしている。
それから数日後、大聖堂から一通の手紙が届いた。
短い文で、大聖堂へ来るようにとだけ記されていた。
◾️
高い位置から差し込む光が、石の床に色とりどりの影を落としている。
大聖堂を訪れたアルノは、大きな礼拝堂の中をゆっくりと歩みを進め、やがて奥にあるステンドグラスの前で足を止めた。
見上げると、万民を見守る偉大な存在の姿があった。
「あの夜以来か」
声に振り返ると、少し離れた場所に司祭長エドヴァルが立っていた。
いつのまにか、礼拝堂からは人の気配も消えている。
こちらへ歩いてくるエドヴァルを確認し、アルノは軽く居住まいを正す。
「大聖堂からの手紙で、この場所に来るよう伝えられました」
呼び出したのは、あなたが?
そう尋ねると、エドヴァルは小さく頷いた。
「仕事は相変わらずかね?忙しくしていたなら、申し訳ない」
「いえ、休みもたまっていましたので。ちょうどよかったですよ」
「まだ休みをとっていなかったのか?戦いは終わったのではないかね」
エドヴァルは少し驚いた様子で尋ねた。
降臨の儀を果たした聖女により、この国への魔物の侵攻は完全になくなっていた。
各地では祝祭が行われ、これまで戦に関わっていた者たちも、次第に休暇をとれるようになっていたはずだった。
エドヴァルの問いに、アルノは表情を変えずに答える。
「まだ回収の済んでいない遺品が各地にあります。ようやく、それらの捜索ができるようになったのです」
エドヴァルは「そうか」と頷いて、アルノの横に並び、ステンドグラスへ目をやった。
改めて、と前置きし、エドヴァルは任務についての礼を述べる。
少しの沈黙の後、アルノは口を開いた。
「……あの任務のことを、私は覚えていて構わないのですか?」
あの夜。アルノは遺体となったフラウィアを運びこの大聖堂へと帰還した。
それからしばらくして、フラウィアという聖女が降臨の儀を果たした後、偉大な力をその身に宿して帰ってきた、と大聖堂の発表があった。
遺体となって戻った者をそのように表現するのかとアルノは思ったが、大聖堂の言葉では、聖女は今後生きた聖人として聖務につくという。
これは全く辻褄の合わぬ、おかしなことだった。
聖人としての初の聖務で、フラウィアは人々の前に姿を現した。
アルノもその場で見ていた。
それはよく知る──あの頃より血色が良く、身なりも美しく整えられてはいたが──フラウィアの形をしていた。
大聖堂が人々に伝える言葉は、アルノの知る事実とは異なるものであった。
その事実が隠しておきたいことであるなら、その当事者の一人であるアルノは、大聖堂にとって不都合な者とならないか。
つまりは、その確認であった。
ここは人払いの済んだ礼拝堂である。
「人の記憶を操ることはできん」
エドヴァルはわずかに目を細めて微笑んだ。
それから何かに気づいたように、付け加える。
「ああ、口封じをするとか、そういうことはしない。きみ、ミレイア山の道中で、《山喰らい》を討伐したそうじゃないか。彼女の日記を読んだよ。そんな人物を敵に回したくはないものだ」
「彼女はそんなことを書いていたのですか」
「知らなかったのかね?」
「ひとの日記を無断で読むのは、気が引けます」
「それはそうだ。きみが正しい。まあ、中身を検める必要があったのだ。こちらも」
エドヴァルは自らのこめかみを指で撫でながら言った。
「ただ、きみの問いに改めて答えると、我々は何もしないし、する必要もない。仮にきみが何を語ろうと、究極的にはそれを証明することはできないからだ」
「ええ、それは、そうでしょうが……」
「きみ以外にも真相を知っている者はいる。だがそれらも含め、なんら問題はないのだよ。……じきに、そうなる」
エドヴァルはあっさりと、言葉を放った。
その様子に、アルノはそれ以上問いただしても答えは得られないと判断した。代わりに。
「彼女は、生き返ったのですか?」
「そうかもしれないな」
エドヴァルは静かに言った。
アルノは諦めて別の質問をする。
「今日はなんのために私を呼んだのです?私に何か用があったのでは」
アルノが問うと、エドヴァルは肩をすくめた。
「私?私は君に用などないよ」
アルノは眉を寄せ、エドヴァルを見た。
「私は代理人に過ぎない。君に用があるという御方は、別の場所にいる」
「いったい、それは」
誰か。
その問いに、エドヴァルはステンドグラスへ視線を戻し、息を一つ、吸って吐いた。
「実のところ、わたしにもよくわからんのだよ」
そう小さく呟くと、エドヴァルは歩き出した。
ステンドグラスの真下、目立たない位置にある小さな扉へ向かう。
アルノもそれを追った。
エドヴァルは鍵を解いて扉を開くと、中へ進むよう手で促す。
「この先で、君を待つ方がいる」
アルノは薄暗い扉の先を一度見つめてから、足を踏み入れた。
◾️
薄暗い通路を進むと、小部屋があった。
色とりどりの花と植物に満ちている。
香りが幾重にも混じり合い、外界と隔絶された場所のように思わせた。
小部屋の奥、机に腰掛けるようにして、少女がこちらを見ている。
フラウィアの姿をした、何かが。
少女は口を開く。
「こんにちは。──はじめまして」
顔も、髪も、声の質感さえもフラウィアのものだった。
それなのに、まったく違う何かが、そこにいる。
「あなたは」
短く問うアルノに、目の前の少女は微笑んだ。
この時、アルノの脳裏に浮かんだのは、大聖堂の者たちがその信仰を向ける、偉大な存在の姿絵。降臨の儀によってその身に神の力の一端を迎え入れるという、言い伝え。
「今は、フラウィアと名乗っているよ」
穏やかな声音を受けて、アルノは目を閉じ、一つ息をついた。
それから何かを飲み込み、ややあって口を開く。
「他の呼び名はありませんか。知り合いと同じ名は、少し呼びにくくて」
ふむ、とフラウィアは何かを思い出すように視線を宙へ向けた。
「色々あるよ。──『ことつもの』『よにあらぬもの』、昔は『ミレイア』なんて呼ばれていたこともある。まあ、好きに呼べばいい。どうせこの場には、君と私だけ。呼び名などなんだっていい。『おい』でも、『やあ』でも」
「……そういうものなのですか。神…というものを、軽んじるべきではないと思っていますが」
フラウィアは答えなかった。
ただ、面白がるように目を細めただけだった。 仕方なく、アルノはまた尋ねる。
「あなたが私を呼んだと聞きました。私に、何かご用ですか」
その問いに答えるように、フラウィアは手を差し出した。
ゆっくりと開かれる手のひらから、小さな花片が覗く。
フラウィアの遺体を大聖堂に運び入れた際、彼女の手の内から見つかった、あの花片だった。
「それは……」
呟くアルノの声を覆うように、フラウィアは話し始める。
「やがてフラウィアの存在は、わたしによって塗り潰される」
淡々と。
「……あなたがフラウィアを名乗り、振る舞うように?」
アルノが返すと、フラウィアは首を横に振った。
「そのように歴史が語られるのではない。この世界がそのように、在り方を変えるのだ。降臨の儀に挑み、神の力をその身に降ろした少女は、初めからいなかったことになる」
吸い込まれるような瞳が、アルノを射抜いている。
「聖女が降臨の儀に挑み、生還した事実だけが残る。大聖堂の者たちも、元のこの体の主を、認識できなくなるだろう。記憶も変わる。たとえ書き記された文字であっても、変わる。私はそういうものなのだ」
フラウィアは自らの胸に手を当てて静かに言う。
それからアルノを見つめた。
彼女は悠然とした様子でアルノの反応を待つ。
アルノは、何も返すことができずにいた。
その内では、何もかもをめちゃくちゃにしたい衝動が込み上げていた。
気づかぬうちに拳を握り、爪が掌に食い込んだ。
共に旅をし、最期を見届けた少女の存在が無かったことになる。
そんなことがあり得るのか。
「じきにそうなる」と言ったエドヴァルの顔が、アルノの脳裏に一瞬よぎった。
日々朧げになる記憶や、あの任務について思い出そうとする度に襲う頭痛が、嫌でも自らを納得させてしまう。
到底、許容できることではなかった。
フラウィアを名乗るものは、こちらを静かに見つめていた。
アルノは自らの胸中を見透かされるような気分になった。
不意に。
「──この花片は、フラウィアの残滓だ」
アルノの耳に静かな声が届く。
「降臨の儀によって、わたしが彼女の中へ入り込み、押し出した欠片だ。これだけは、世界が塗り潰すことができない。これを持つ限り、おまえはあの子を忘れない」
フラウィアはわずかに目を伏せる。
「その代わり、おまえだけが、世界とのずれを抱えて生きることになるがな」
アルノは花片を見つめた。 白く、わずかに青みを帯びた、小さな欠片。
「どうして」
短く問う。
「どうして、これを私に」
フラウィアは静かに答えた。
「降臨の儀によって顕現したモノは、実行者の願いに応える。そういうものなのだ」
部屋に、花の香りだけが漂う。
「強い娘だった。ほとんど己の性根だけで最期まで立っていた。だが、ひとかけら、別のものも支えにしていた。自分がどうなろうと、アルノ・カリエルは覚えていてくれる。そんな期待に。だから、降臨の儀を果たした時、あの娘は戦の終わりと共に、もうひとつ願っていた。覚えていてほしいと」
少しだけ目を伏せる。
「最後の最後に漏れ出た願いだった。あの娘自身、願いとして差し出したつもりはなかっただろう。けれど、願いは願いだ。ならば、わたしは応えなければならない」
花片が、アルノへ差し出される。
「これは、あの娘の残滓。世界から切り離された、たった一つの欠片。──これがあれば、あの娘を忘れない」
フラウィアの目が、じっとアルノを見据える。
それから少し間をおいて、ふ、と笑った。
「だが、あの娘の意識はもう無い。おまえが覚えていようと、忘れようと、あの娘自身がそれを知ることはない」
フラウィアは差し出した花片へ目を落とした。
「そして、おまえがこれを受け取れば、世界とのずれを抱えて生きることになる。たった一人、異なる記憶を持ち続ける孤独を。フラウィアが別人として語られ続ける世界で」
フラウィアは淡々と言葉を続ける。
「これから、あの娘の物語は形を変えて語り継がれるだろう。例えば毎年の祭で『生還した聖女』の劇が演じられる。おまえはその度に真実との隔たりを感じるだろう。だが、この世界にとって間違えているのはおまえなのだ」
再び、アルノを見る。
「受け取るかどうかは、おまえに任せる」
「構いません」
アルノは即座に答えて、花片を受け取った。
その瞬間。
霧が晴れるようだった。
雪原。
巡礼の坑道。
温かな茶。
虫に驚く声。
戦友。
旅の記憶が、一つ、また一つと、輪郭を取り戻していく。
久しぶりに頭の奥まで澄み渡るような感覚があった。
アルノは深く息を吸った。
フラウィアはその様子をじっと見ていた。
「なんと、思い切りの良いこと」
「悩む必要を感じなかっただけです。ただそうしたいと思っただけ、ですから」
アルノは続ける。
「きっとあなたも、そうでしょう?」
「ほう?」
フラウィアは首を傾げつつ、何か面白がるような目でアルノを見た。
アルノは構わず、また口を開く。
「あなたの行動には、あなた自身の意志を感じます。魔物が畏怖し、逃げ去るほどの存在が、人の願いに応える。降臨の儀などというもので、本当に御せられる存在なのでしょうか」
フラウィアは答えない。
アルノは小さく息を吐いた。
「あなたは、フラウィアの願いを知ってしまった。だから、応えないという選択をしなかった。そう思います」
長い沈黙。
やがて、フラウィアは小さく笑った。
『聖女は山へ向かう』はこれにて完結となります。
ありがとうございました。




