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平凡夫ですが、天才小説家の妻に愛されています  作者: 小田原 純


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20/20

仏のような父と、鬼だった過去

玄関へ向かう道すがら、皐月が言った。


「お父さんね、仏みたいに優しい人だから安心して」


「仏……」


一馬は少しだけ遠い目をした。


「昔見た時代劇でさ、死ぬ直前だけ仏みたいな顔になる人いたんだよな……」


「どんな記憶引っ張り出してんの」


「いや、妙に印象残ってて」


皐月は呆れたようにため息をつく。


「お前の思考回路、澪みたいだな」


「それ褒めてる?」


「全然」


その軽口のまま、玄関の前に立つ。


一馬は一度だけ深呼吸をした。


(落ち着け俺。営業の電話千本ノックより簡単だろ)


チャイムを押す。


心臓の音がやけに大きい。


やがて、扉が開いた。


「いらっしゃい、一馬くんだね」


現れたのは、花柄のエプロンをつけた柔和な中年男性だった。

頬はゆるやかに緩み、目尻には深い笑い皺。まるで仏像がそのまま人間になったような穏やかさだ。


「は、はい! 本日はお時間いただきありがとうございます!」


勢いよく頭を下げる一馬に、父はくすりと笑う。


「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。ほら、上がって。スコーン焼いてみたんだ」


「スコーン!?」


思わず素で聞き返してしまった。


リビングに通されると、テーブルの上には焼きたてのスコーンと紅茶が並んでいた。ほんの少しだけ焼き色が濃い。


「ちょっと焦げちゃったかな。まだ練習中でね」


「い、いえ!めちゃくちゃ美味しそうです!」


一口食べると、外はさくっと、中はほろりと崩れた。ほんのり甘い。


「……美味しいです」


「よかった」


父は心底ほっとしたように微笑んだ。


(なんだこの人……優しさの塊か……?)


警戒していた自分が、少しだけほどける。


そこへ皐月がアルバムを抱えて戻ってきた。


「昔の写真、見たいって言ってたよね」


「え、いいの?」


「うん、お父さんが出してくれたの」


ぱらりとページをめくる。


小さな皐月が笑っている。転んで泣いている。泥だらけで笑っている。


「……かわいいですね」


「でしょ?」


皐月が少し得意げに言う。


さらにページをめくる。


その時だった。


「……ん?」


一馬の指が止まる。


そこに写っていたのは、リーゼントにサングラス、特攻服姿の男だった。しかも竹刀を肩に担いでいる。


(え、これ誰……いや待て待て待て)


視線をそっと横に動かす。


同じ顔だった。


(いやいやいやいやいや)


喉がひゅっと鳴る。


「昔のお父さんだよ」


皐月があっけらかんと言った。


「へ、へぇ……」


(情報量が多すぎる)


そのとき、父が立ち上がった。


「ちょっとお茶のおかわり持ってくるね」


「あ、ありがとうございます」


父がキッチンへ消える。


一馬はもう一度写真を見る。


(完全に“そっち側”の人じゃないか……)


ページをめくろうとした、その瞬間。


――気配がした。


背後。


ゆっくりと、振り返る。


いつの間にか、父が立っていた。


音もなく。


にこりと、笑っている。


「……見ちゃったよね?」


「ひっ」


情けない声が出た。


「ごめんね、驚かせて」


その声は、さっきと同じ穏やかさのままだった。

でも、どこか温度が違う。


「昔はね、ああいう感じだったんだ」


父はアルバムをそっと閉じた。


「でも、皐月のお母さんが亡くなってね」


静かに言葉を続ける。


「この子を一人で育てるって決めた時、思ったんだ。――このままじゃいけないって」


一馬は黙って聞いていた。


「最初はうまくいかなかったよ。保育園に迎えに行ったら、他の子に泣かれてね」


父は苦笑する。


「怖い顔してたんだろうね。無理もない」


一度、言葉を切る。


「でも、皐月が言ったんだ。“優しいお父さんがいい”って」


その一言が、静かに落ちる。


「それで、変わろうって思った」


父の目は、今は柔らかい。


でも、その奥に確かな芯がある。


一馬は、深く息を吸った。


そして、姿勢を正す。


「……素敵です、お父さん」


自分でも驚くほど、言葉はまっすぐに出てきた。


「正直、さっきまでめちゃくちゃ緊張してました。でも今は――尊敬してます」


父は黙って聞いている。


一馬は続ける。


「皐月さんを幸せにします、って言おうと思ってました」


一瞬、視線を落とす。


「でも、それじゃ足りない気がしてます」


顔を上げる。


「皐月さんといる自分が、もう十分に幸せなんです」


言葉を噛みしめるように。


「その幸せを、ちゃんと二人で増やしていきたいです」


沈黙。


やがて。


父が、ふっと微笑んだ。


「皐月」


「うん?」


「いい人を見つけたね」


その一言に、皐月の表情がやわらぐ。


一馬の胸の奥が、じんわりと熱くなる。


(よかった……)


その瞬間。


父が、少しだけ顔を近づけた。


「でもね」


声が、ほんの少し低くなる。


「もし皐月ちゃんを泣かせるようなことがあったら――」


にこりと笑う。


その目だけが、笑っていない。


「昔の血が騒ぐかもしれないね」


背筋が凍る。


「……は、はい!」


反射的に背筋を伸ばした。


次の瞬間。


父はいつもの穏やかな顔に戻っていた。


「冗談だよ」


(絶対違う)


帰り際。


「これ、持っていきなさい」


紙袋を渡される。


中にはスコーンがいくつか入っていた。


「またおいで」


差し出された手を握る。


――硬い。


思った以上に。


「……はい、また来ます」


そう答えながら、一馬はなぜか少しだけ、楽しみになっている自分に気づいた。


玄関を出ると、夜風が心地よかった。


「……いいお父さんだね」


ぽつりと呟く。


皐月が笑う。


「でしょ?」


一馬はうなずいた。


(……でもたぶん、怒らせたら死ぬな)


そう確信しながら。


それでも、握った手の温もりは、不思議と優しかった。

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