仏のような父と、鬼だった過去
玄関へ向かう道すがら、皐月が言った。
「お父さんね、仏みたいに優しい人だから安心して」
「仏……」
一馬は少しだけ遠い目をした。
「昔見た時代劇でさ、死ぬ直前だけ仏みたいな顔になる人いたんだよな……」
「どんな記憶引っ張り出してんの」
「いや、妙に印象残ってて」
皐月は呆れたようにため息をつく。
「お前の思考回路、澪みたいだな」
「それ褒めてる?」
「全然」
その軽口のまま、玄関の前に立つ。
一馬は一度だけ深呼吸をした。
(落ち着け俺。営業の電話千本ノックより簡単だろ)
チャイムを押す。
心臓の音がやけに大きい。
やがて、扉が開いた。
「いらっしゃい、一馬くんだね」
現れたのは、花柄のエプロンをつけた柔和な中年男性だった。
頬はゆるやかに緩み、目尻には深い笑い皺。まるで仏像がそのまま人間になったような穏やかさだ。
「は、はい! 本日はお時間いただきありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる一馬に、父はくすりと笑う。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。ほら、上がって。スコーン焼いてみたんだ」
「スコーン!?」
思わず素で聞き返してしまった。
リビングに通されると、テーブルの上には焼きたてのスコーンと紅茶が並んでいた。ほんの少しだけ焼き色が濃い。
「ちょっと焦げちゃったかな。まだ練習中でね」
「い、いえ!めちゃくちゃ美味しそうです!」
一口食べると、外はさくっと、中はほろりと崩れた。ほんのり甘い。
「……美味しいです」
「よかった」
父は心底ほっとしたように微笑んだ。
(なんだこの人……優しさの塊か……?)
警戒していた自分が、少しだけほどける。
そこへ皐月がアルバムを抱えて戻ってきた。
「昔の写真、見たいって言ってたよね」
「え、いいの?」
「うん、お父さんが出してくれたの」
ぱらりとページをめくる。
小さな皐月が笑っている。転んで泣いている。泥だらけで笑っている。
「……かわいいですね」
「でしょ?」
皐月が少し得意げに言う。
さらにページをめくる。
その時だった。
「……ん?」
一馬の指が止まる。
そこに写っていたのは、リーゼントにサングラス、特攻服姿の男だった。しかも竹刀を肩に担いでいる。
(え、これ誰……いや待て待て待て)
視線をそっと横に動かす。
同じ顔だった。
(いやいやいやいやいや)
喉がひゅっと鳴る。
「昔のお父さんだよ」
皐月があっけらかんと言った。
「へ、へぇ……」
(情報量が多すぎる)
そのとき、父が立ち上がった。
「ちょっとお茶のおかわり持ってくるね」
「あ、ありがとうございます」
父がキッチンへ消える。
一馬はもう一度写真を見る。
(完全に“そっち側”の人じゃないか……)
ページをめくろうとした、その瞬間。
――気配がした。
背後。
ゆっくりと、振り返る。
いつの間にか、父が立っていた。
音もなく。
にこりと、笑っている。
「……見ちゃったよね?」
「ひっ」
情けない声が出た。
「ごめんね、驚かせて」
その声は、さっきと同じ穏やかさのままだった。
でも、どこか温度が違う。
「昔はね、ああいう感じだったんだ」
父はアルバムをそっと閉じた。
「でも、皐月のお母さんが亡くなってね」
静かに言葉を続ける。
「この子を一人で育てるって決めた時、思ったんだ。――このままじゃいけないって」
一馬は黙って聞いていた。
「最初はうまくいかなかったよ。保育園に迎えに行ったら、他の子に泣かれてね」
父は苦笑する。
「怖い顔してたんだろうね。無理もない」
一度、言葉を切る。
「でも、皐月が言ったんだ。“優しいお父さんがいい”って」
その一言が、静かに落ちる。
「それで、変わろうって思った」
父の目は、今は柔らかい。
でも、その奥に確かな芯がある。
一馬は、深く息を吸った。
そして、姿勢を正す。
「……素敵です、お父さん」
自分でも驚くほど、言葉はまっすぐに出てきた。
「正直、さっきまでめちゃくちゃ緊張してました。でも今は――尊敬してます」
父は黙って聞いている。
一馬は続ける。
「皐月さんを幸せにします、って言おうと思ってました」
一瞬、視線を落とす。
「でも、それじゃ足りない気がしてます」
顔を上げる。
「皐月さんといる自分が、もう十分に幸せなんです」
言葉を噛みしめるように。
「その幸せを、ちゃんと二人で増やしていきたいです」
沈黙。
やがて。
父が、ふっと微笑んだ。
「皐月」
「うん?」
「いい人を見つけたね」
その一言に、皐月の表情がやわらぐ。
一馬の胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(よかった……)
その瞬間。
父が、少しだけ顔を近づけた。
「でもね」
声が、ほんの少し低くなる。
「もし皐月ちゃんを泣かせるようなことがあったら――」
にこりと笑う。
その目だけが、笑っていない。
「昔の血が騒ぐかもしれないね」
背筋が凍る。
「……は、はい!」
反射的に背筋を伸ばした。
次の瞬間。
父はいつもの穏やかな顔に戻っていた。
「冗談だよ」
(絶対違う)
帰り際。
「これ、持っていきなさい」
紙袋を渡される。
中にはスコーンがいくつか入っていた。
「またおいで」
差し出された手を握る。
――硬い。
思った以上に。
「……はい、また来ます」
そう答えながら、一馬はなぜか少しだけ、楽しみになっている自分に気づいた。
玄関を出ると、夜風が心地よかった。
「……いいお父さんだね」
ぽつりと呟く。
皐月が笑う。
「でしょ?」
一馬はうなずいた。
(……でもたぶん、怒らせたら死ぬな)
そう確信しながら。
それでも、握った手の温もりは、不思議と優しかった。




