王都編22話 似たもの同士
「ちょっと、やめてくれよォ。いきなりミルクを吹くなんて汚いじゃァないか」
スルガはローブの内側からハンカチを取り出すと、サッとミルクの滴を拭き取った。
「この私の唾液入りですよ。普通の男なら喜ぶのに」
特に下僕の会の連中は悦んで舐めとるだろうな。気持ち悪い。
「男なら全員喜ぶと思っているのがァ、キミの悪いところだよねェ」
「私の事をわかっているような口振りじゃないですか」
スルガはニヤリと笑う。
ニヤリと、の部分は私の主観が入っているからそう見えるだけで、第三者目線で見るとかなり爽やかな笑みを浮かべているのかもしれない。
ただし、彼の心理については私の見立ての方が正しいと言う自信がある。
コイツは、私と同じ匂いがする。
「少なくともォ? 王都に来てからのキミのことはずゥっと見ていたからァ、それなりにわかるつもりだよ」
“ずっと見ていた”だと?
すると、昨日の夜の私の行動も知られているのか?
「まさか、他人の情事まで覗いていませんよね」
「ひょっとしてェ、昨日の夜の事かい?」
ぐ。やはり、昨日の夜に娼婦の格好で出歩いていたことは知られている。
まさか部屋の中も見られていないよな。
私は法律で禁じられた魔法を行使して初対面の男性を廃人寸前にまで追い込んでいる。
万が一そのことが知られていたとしたら、マズイ。
私の心臓がワンテンポ早くなる。
最悪の事態を想定しろ。
いざという時、コイツをどうやって殺す──?
「別にィ、キミが行きずりの男とお楽しみだった事はァ、誰にも言うつもりはないよ」
「うッ──。見られてたのか。あれはその、本番まではしてないというか、だ、抱き合って寝ただけですし。ちょっと、触り合ったりはしたけど」
私は必死で誤魔化すかのように“何もなかったアピール”をしてみた。
本番行為をしていないのは事実だが、あとは嘘。
真実と虚構を織り交ぜて、事実をボカすのだ。
「抱き合って寝ただけェ? ふふ、まァ、そう言うことにしておいてあげるさ」
むう。この返しではどこまで知られているかは読み取れない。
向こうもどこまで監視していたのかを知らせる気はないのだろうな。
「……ロキには、言わないでくださいよ」
私は拗ねたような表情で、目の前の相手に訴えた。
あえてロキの名前を出す。
きっと私とロキが恋人同士であることは既知の情報だと思うが、念のため、受け答え方を見ておきたい。
「ロキト・プロヴェニアかァ……キミの、恋人だったかな。うん、彼は厄介だよねェ」
「厄介って──もしかして、敵対する気ですか」
敵対の意志をダイレクトに聞いてみる。
変化球からのドストレートだ。
スルガの瞳孔が一瞬大きくなってすぐ戻った。
続いて彼は、嬉しそうに笑顔を見せる。
まるで“へぇ、聞いちゃうんだ”とでも言いたげな表情だ。
「既に敵対しているよォ? キミだって現場にいたんだからァ、当然知っているだろう?」
「それは、暗殺事件の事を指しているのでしょうか」
「──さァね」
スルガは優しく微笑んだ。
しかし私には、先程と同様に厭らしい笑みに見えるのだ。
人を小馬鹿にしているというか、小動物を玩具にして遊んでいる子供が時折見せる、うっとりとした表情……あれに近い。
「性格が悪いですね」
「そうだともォ、キミと同じでね?」
性格が悪いのは確かにその通りだから認めよう。
ただし私はこの男とは違って人を小馬鹿にして悦ぶ趣味はない。
私は自分の目的遂行に容赦がないだけさ。
人を利用したり陥れるのは副次的なものに過ぎない。
軽く視線が交差し、お互いが心根の探り合いを始めたとき、ちょうど店員の若い女性によって私の料理が運ばれてきた。
「お待たせいたしました、ご注文のクリムでございます」
「ありがとうございます」
「あら……?」
店員がスルガの方を訝しむように見る。
私が店に入ったときには一人だったのを覚えているのだろう。
私がナンパされているように見えたのかもしれない。
「あのぅ、お連れ様、でしょうか」
スルガはフードを手で引っ張り、顔を隠すようにしながら応対する。
「あァ、この店は注文してから席に着くんだったねェ。すまない」
お連れ様かどうかには微妙に答えていないんだよな。
コイツは、こういう物言いが好きなのだろう。
言い方をぼかしてぼかして薄い膜のように情報を広げれば、相手が勝手に都合の良い解釈をしてくれる。
その事を、彼はよく知っているのだ。
まるっきり私と同じじゃあないか。
「良ければ今ご注文を伺って、テーブル会計もできますけど」
「それじゃァ、カッファを頼むよ」
スルガの微笑み。
今度は、なにか含むようなところは見られない、実にシンプルな笑顔だ。
「あ、か、かしこまりましたっ」
店員は頭を下げると、そそくさと奥へ引っ込んでいった。
急に慌て出したようにも見えたが、どうしたのだろう。
「ボクの顔を見るとォ、多くの女性はああなってしまうんだよォ。困ったものだ」
「……美形にあてられたってことですか」
「キミも経験があるだろう?」
「まあ、そうですね」
それでフードを目深に被っているということだろうか。
要は、彼は顔が美しすぎるのだ。
甘い蜜で虫を誘う食虫植物のような、ねっとりと絡みつく話し方や性格に反し、見た目だけは男女共に魅了できそうなくらい整っている。
そしてどうやら彼自身はそのことを疎ましく思っているようだ。
自分の生まれ持った性を受け入れているか拒絶しているかの差異はあれど、私とスルガはよく似ている。
人を惹きつけ、絡めとって栄養を吸い尽くす。
同じ呪いがかけられているのかもしれない。
「さて。いただきます、と」
スルガのことを気にしすぎてクリムが冷めてしまっては勿体無いので、私は彼に構うことなく食事をすることにした。
うん、この表面上のサクッとした感じと、生地のもちっとした感じと、中から溢れる肉汁と野菜の旨味が堪らない。
この国のジャンクフードの中では一番じゃなかろうか。
「ほえで、わらひになんか用でふか」
「──キミはァ、ボクが四大貴族だっていうのに平気でそういう態度をとるんだねェ。美術館の時はもっとしおらしかったと思うんだけど」
私は口の中で咀嚼していたクリムを飲み込んで答える。
「こんな街中で顔を隠している相手に恭しく接していたら、それこそ目立つし、あなたも困るんじゃないですか?」
「まあ、貴族が暗殺されるような世の中だしねェ。ボクなんかと密会してると思われたらまずいよねェ」
こいつは私がフランクな態度をとっているのはあくまで私の都合だと思い込みたいようだ。
まあいいさ、どう捉えられようと、私にはどうでもいいことだ。
「で、用は?」
「うふふ、じゃあ単刀直入に言うけどぉ……その前に」
スルガの下にカッファという飲み物が運ばれてくる。
彼は店員に定価よりも少し多めの金額を手渡した。
驚いた店員が差額分を返そうとするが、スルガはやんわりと断っていた。
チップの文化は無いはずだが、小遣いでも渡したつもりなのだろう。
カッファとは、カッファ豆を炒って粉にし、湯を注いで抽出した上澄み液。
つまりコーヒーのようなものだ。
この国ではそこにハチミツを加えて甘苦くして飲むのが普通だが、彼は特に手を加えるでもなく飲み物に口をつけた。
一瞬会話が途切れたため、私はクリムに再びかぶりついた。
ゆっくり味わおうにもそんな余裕はなさそうなので、ある程度咀嚼した後ミルクで流し込むと、ほっと一息ついた。
数秒、間があった。
「キミさ、帝国派に来ないかい」
「嫌です」
即答だ。考えるまでもない。
「どォしてだい? 復権派はトップを失って結束力が薄れているしィ、国王派、穏健派みたいな事なかれ主義な連中には未来はないよ」
「まるで帝国派には未来があるような言い方ですね」
スルガは目を細める。
私がこういう挑発的な言動をする時、この男は笑っていなすと予想していたが、意外にも彼は真顔である。
ああ、今までのは腹の探り合い、いわばジャブであり、ここからが本題なんだ。
そのままジャブを当ててくるのか、それともフック、ストレートと変えてくるのか。
楽しい言葉の殴り合いの始まりだ。
「ボクとキミが一つになれば、未来は確実だ」
「は?」
予想外の答え。口調も、今まで見たいな絡みつく感じがしない。
これは、ストレートだ。
真っ直ぐに飛んできた言葉の拳を、私は鳩尾に食らってしまった気分。
一つになるってどういうことだ。
手を組むという意味か、あるいは。
「貴族とは血脈の生き物だよ。言っている意味が、わかるかい?」
「げ、やっぱりそっちか」
要は私にスルガの子を孕めということだろう。
優秀な血脈に優秀な遺伝子を加えて、さらに優秀な子孫へと繋ごうとしているのだ。
「安心したまえ。ボクがキミを抱くことはない。わざわざ性行為をしなくても子を成す方法はいくらでもあるのだからね」
精液さえ採取してしまえば、後で女に種をつけることは容易だろうね。
彼の言わんとしているのは、そういうことだ。
なるほど、最初からこの男は私を苗床としか見ていない。
それは気に食わないことではあるのだけど、同時に私の生き方を縛ることはないとも受け取れる。
スルガの子を孕むという目的さえ果たせるのであれば、他の誰と愛し合おうが関係ないという、──ああ、つまりこれはメリットを提示されているのか。
「だとしても、復権派の切り札がいるでしょう。私と一緒になるだけでは、帝国派は盤石とは言えないんじゃないですか」
復権派の切り札と言えば、ロキとイブ、プロヴェニア家の双子だ。
彼らが敵に回るとなると、それは自動的に敗北を意味する。
私は彼ら以上の強者を見たことがない。万が一戦闘になることがあれば、終わりだ。
彼らへの対処が出来なければ、私如きを帝国派に取り込んだところで復権派の優位は変わらない。
今は内部に火種を抱えている復権派だが、力づくでねじ伏せるには強大過ぎる相手だ。
──というふうに帝国派としては考えるはずだが。
「大丈夫。彼らなら問題ないよ」
スルガは言い切った。
「何故ですか。あなたの言い方では、プロヴェニア家はあまり眼中に無いみたいだ」
「うふふ、その通りさァ。眼中にないんだよねェ、彼らの事は」
「……」
まただ。スルガはまた、あの粘っこい話し方に戻る。
さも愉快そうに笑顔を浮かべながら。
絵文字のような、わかりやすいニコニコ顔。
ただし彼の場合、その奥底に隠れている感情を見通さないと真意はつかめない。
彼は、プロヴェニア家に対して何を思うのか。
そもそも、優秀な苗床が欲しいのであれば、イブを引き入れたほうがよっぽど良い。
言い方は悪いかもしれないが、イブにだって子宮はある。
子を作るのに優秀すぎるくらいの逸材ではないか。
イブではなく、私を選ぶ理由があるのか。
いや、この場合私は単に唾を付けられているだけかもしれない。
イブを選択肢に入れなかったことにこそ意図が隠れているような気がする。
──さあ考えろ、私。これは、スルガが私に見せているヒントじゃないのか。
彼は直接的な言葉で情報は与えてくれない。
だから、薄く薄く広がった彼の言葉の網を手繰り寄せて、自分の解釈を得るよりほかはない。
たとえそれが間違った解釈だったとしても、とりあえず納得して飲み込んでしまうしかないんだ。
「パターンその一」
「……うん?」
私はスルガの前で、あえて思考を言葉にする。
「プロヴェニアの姉弟は、既に消す算段がついている。死んでしまうのだから、仲間として引き入れる交渉はする必要もなく、過剰に敵視することもない」
私の考察を、スルガはニコニコ顔で聞いている。
「うん、うん。それで?」
「パターンそのニ。彼らを仲間に引き込む算段がついている、あるいは既に仲間である」
「お、良いねェ。その発想をパターンにちゃんと組み込んでしまうのがキミらしいよォ」
スルガは手を叩いて喜んだ。
どうやらお気に召したらしい。
まあ、普通は仲間が既に裏切っているなんて、思い付いても口には出せないだろうから、その点をスルガは気に入ったのだろう。
ケラケラと笑うスルガに、私は既視感を覚えた。
彼の雰囲気、言動、特に人の情事まで覗き見ようとする所。
なんだかアイツにそっくりだ。
「スルガ様? ひとつ、お尋ねしても良いでしょうか」
「うん、何だい?」
私は奴の姿を思い浮かべる。
整然と混沌との狭間に浮かぶ、黒い女の白い裸体。
私の人生を観察し続ける、超越者。
「“黒の魔女”という存在を、知っていますか」
瞬間。
そう、ほんの一瞬だった。
スルガが真顔になる。
顔にいつまでも張り付いていた仮初の笑顔が消失する。
明から暗へ、──否、暗から闇へとスルガの纏う空気が一変した。
「その名前を、どこで聞いたんだい」
私は、しばし呼吸を忘れていた。
怒らせてはいけない存在を怒らせてしまった、そんな感覚。
実際に帝国派の子息なわけで、彼の機嫌を損なうことはこちらにも不利益なのは間違いない。
──なんか知らんが、やっちまった。
私が何かの琴線に触れたのは間違いない。
だが、何がまずかったのかが全く分からないので、スルガの質問にいかに答えるかの結論が出せないでいた。
「“黒の魔女”は、聖アーケオ様の蔑称だよ。その事実は我がニクスオット家くらいしか把握していないと思っていたが……いや、まさかねェ」
うっわ、よりにもよって宗教絡みの地雷を踏みぬいてしまったらしい。
聖アーケオ様とはこの国の主要宗教の始祖たる巫女の名前だが、黒の魔女がアーケオ様の蔑称だなんて聞いたこともない。
こんな地雷、避けようがないじゃないか。
だが、どういう事だ。
黒の魔女と私は、これから先の未来で出会うのではなかったのか。
戸惑っている私を見たスルガは私が何も知らないことに感づいたのか、すっと怒りの波を引いた。
カッファのカップを手に取ると、口をつけるでもなく液面を揺らす。
まるでそこに反射する景色を眺めているようだった。
私は口が乾いて仕方がなかったので、ミルクで口内をほんの少し浸した。
「我がニクスオット家はねェ、聖アーケオ様の末裔と伝わっているんだよォ。今でこそ崇められる存在のアーケオ様だけどォ、大昔は魔女だと蔑まれていたのさ。その屈辱は今でもニクスオットの中に深く刻まれているんだ」
「そう、なんですね……」
はは、と私は自嘲的に笑った。
「気分を害した。ボクは帰る」
スルガは、残りのカッファには手をつけずに席を立った。
ああ、やっと解放されると安堵したのも束の間、スルガは私の方に向き直ると衝撃的な一言を発するのだった。
「行くよ、シアノ」
「はい、あにうえ」
私のすぐ背後から、美しい鳥のさえずりのような声がした。
驚いて振り返ってみれば、そこにはこの世の中で最も美しい人間が立っていた。
深い光沢のある青い髪を風になびかせ、私を虚ろな目で見下ろす黒いドレスの少女。
彼女と視線が交錯する。
何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、それすらも判別不能な紫の瞳。
彼女は私の体の動きを目で追うように、徐々に下を向いていく。
下へ下へ、やがて、私を完全に見下ろすまで。
「──え?」
気が付けば、私は地面に転がっていた。
体、が、動かない。
「言い忘れていたけどォ」
スルガは、言う。
「君のミルクの最後の一口ィ? あれ、毒入っているからねェ」
く……そ、油断、し──。
猛烈に、眠い。
手足が、動かない。
抗えない睡魔に私は身を任せ、やがて意識は闇に堕ちた。




