王都編16話 分水嶺Ⅱ
「……なあ、アロエ。起きてるんだろ」
私の声掛けにマイシィはハッと振り返る。
やや遅れて、アロエはその上体を起こした。
半分ハッタリだったのだけど、やはり起きていたか。
同じ室内で、大声でケンカしていたらそりゃあ目が覚めるよな。
「おはよう、アロエ。起こしてごめん」
「カンナ、おはよう。……私もごめん、気付いてたけどどうしていいかわからなくて」
「いや、良いんだ」
アロエは眠たそうに目を擦る。
おそらくその時に自分が目を腫らしている事に気が付いたようで、ハッとした表情になった。
「やだ、ウチ、もしかして酷い顔してる?」
私はマイシィの横を素通りして、アロエのベッドの縁に腰を下ろすと、自分のローブの袖口で涙の跡を拭ってやった。
「はは、本当に、酷い顔だな」
「もうっ! 誰のせいだし!」
私はアロエのカフェラテみたいな色の髪を優しく撫でた。
少し癖のある感じだが、撫で心地は本当に良いんだよな。
ああ、涙を拭うのも、髪を撫でるのも、そういえば全部昨日私がロキにしてもらった事だな。
私は彼から貰った暖かな気持ちを、彼女に返しているのだ。
「昨日は、ごめんな。全部俺のせいだ」
「あはは、なんかカンナが男の子みたいになってる」
「俺は男の子なんだぜ、知らなかったろ」
そう言ってニッと白い歯を見せてやると、アロエも同じ表情を返してくれた。
思った通り、アロエは冷静に、自分の感情を整理できたんだ。
だから大丈夫。私達は、これからもやっていける。
視界の端には、ポカンと立ち尽くしているマイシィとリリカが見える。
だが私達は彼女らにはお構いなしで、自分達の世界に没入していた。
「決めたことがあるんだ。聞いてくれるか、アロエ」
「うん。なに」
私は目を瞑り、いつもより深めの呼吸をした。
心臓の鼓動は落ち着いている。
でも私の心はこれからの未来を思い描き、飛び出していきそうなほど高まっていた。
「私はやっぱり、二人のことが好きだ。ううん、愛している」
ここまでは、昨夜の焼き直し。
ただし今回は、嘘偽りのない魂からの台詞だ。
「私は卒業したら王都に行く。でも必ず、アロエのことを迎えに行くよ。最悪使用人でもなんでもいいから雇い入れてもらえるよう、私は動く。中央貴族の使用人だ。良家の出じゃないと何か言われるかもしれない。ただ、文句を言ってくるような輩を黙らせられるくらい凄いやつに私はなる。だから……その時は、付いてきてほしい、アロエに」
すると彼女は、少し困ったように指を弄りながら、それでも微笑みを返してくれた。
続いての一言に、私は救われることになる。
「なぁんだ。ウチはとっくに、下女にでも何でもなってやる覚悟はできてたのにさ。カンナがそこまで言うなら仕方ないよね」
待っててやるか、と彼女は笑う。
ついでに私の、多分マイシィのビンタで真っ赤になっている両頬を、掌でぐりぐりと弄り始めた。
むい、と私がタコみたいな顔になった時に、アロエは堪らずに噴き出していた。
ウケる、といつものアロエ節で、昨日の事など無かったかのように大笑いを続けるのであった。
私はアロエの精神状態が完全に落ち着いた頃合いを見計らって、マイシィやリリカの方へと顔を向けた。
困惑しているマイシィと、何故か当事者以上に泣きじゃくっているリリカがいた。
おいおい、どうしてお前が泣くんだ。
それを見て、今度は私とアロエが当惑するのだった。
「あ、あのさ、マイシィ。そういう感じだから」
私はとりあえずリリカを無視してマイシィに声をかけた。
しかし彼女は納得しかねると言った具合で、無表情の仮面を外さない。
無理もない。昨日はあれだけ大泣きしていた奴が、私との変な絡みで一瞬で立ち直ったのだから。
違う、違うんだよマイシィ。
私がアロエを立ち直らせたんじゃないんだ。アロエが勝手に立ち直ったんだ。
そもそも、今回の揉め事の原因は私であれど、結局はアロエ本人が結論を出さなければならない問題だった。
そして彼女は、それができる人だ。
彼女は、割とすぐに怒る子だ。
その代わりに、一度冷静になれるタイミングを与えると、すっと温度が冷めていくようになって、ちゃんとした結論を出してくれる。
──だからこそ私は今まで、彼女を“騙しやすい”と評していたわけだけど。
しかし言い換えればそれは彼女の強みでもある。
一晩考えて、眠って起きたら結論が見えている。そういう人間なんだ。
もちろんそこに、優しく寄り添ってあげる人物がいた方が良いのは間違いない。
ただし、今回に限ってはその役目は私には不適。
それをやってくれたのは、他でもなく、マイシィやリリカだった。
最初から、私じゃ駄目だったんだよ。それをマイシィにもわかってもらいたい。
「マイシィ。君がアロエに寄り添ってくれたから、アロエは元気になれたんだよ。お前がアロエに付いていてくれると確信していたから、昨日は部屋に帰らなかった……っていうのは言い訳かな」
「うん、カンナちゃん、嘘ついてる時の顔してる」
んん? 私に嘘をつくときの癖なんかあったのか。
なるべくそう言うのは出さないようにしていたのだけどな。
やはり、ここは見栄を張らずに本心でぶつかるべきだったか。
マイシィって、そういう子だったな。
「本当は私も、ロキの部屋でずっと泣いていたんだ。アロエが帰っちゃって、心の中にぽっかり穴が開いたみたいになって。……それで、再確認したんだよ。やっぱり好きなんだってさ。その後、ロキにちょっと心の穴を埋めてもらうことにはなったんだけど、それくらいは許してほしい」
「ううん、許さないよ。私にとってはロキ先輩よりもアロエちゃんの方が何百倍も大事だし、そういう話はもういいよ」
口ではものすごくきついことを言うマイシィだが、徐々にクールダウンしてきているのが分かる。
さっきは聞く耳持たずって感じだったけど、今は話し合いができているからな。
「そうか、ごめん。でも、私はアロエを見捨てた訳じゃないって言うのは分かってくれよ。昨日の時点では、私はきっとアロエを救うことなんて、どのみちできなかったんだから」
「……ッ」
マイシィが何かを言いかけて、ぐっと堪えたのがわかった。
彼女の中ではおそらく私に対して無限に文句を言いたい気持ちが溢れ出しそうになっているんだ。
でも、マイシィは賢い娘だから、いつまでもケンカ腰では利益にならないことも分かっている。
だから、一度言葉を飲み込んだんだろう。
私は、ここぞとばかりに想いをマイシィにぶつける。
「不甲斐ない私でごめん、今まで隠してたのも、相談しなかったのも謝る。だけど、先にこれだけは言わせてくれ。昨日は、マイシィがいてくれて本当に助かった。アロエの側にいてくれて、本当にありがとう」
「……そんなの言われなくても、当たり前だよ」
マイシィは仏頂面のまま、でも力むのはやめて、自分のベッドのところに腰掛けた。
納得はできていないだろうが、とりあえずの溜飲は下げてくれた、というより拳を振り上げるのをやめたってところだろうな。
「リリカもありがとう。なんで泣いてるのかわからないけど」
リリカは、嗚咽混じりに返事を返す。
「だ、だっで、感動じたんだもん」
さっきのやりとりの中の、どこに感動要素があったんだ?
「あだし、二人が付き合ってるってじらなぐて、でもそれはっ、ぐす、やっぱり女の子どう、し、だから言い出せなかったんだろうなって、思って、でもでも、さっぎのカンナちゃんがプロポーズみだいなこというから、すごいなって、感動して」
泣きながら喋るものだから凄く聴き取りづらいが、そっか、プロポーズか。
これは将来を誓うのだから、確かにプロポーズだろうな。
「銀の腕輪、買ってあげなきゃな」
前世の世界では結婚を誓った相手に指輪を贈るのが常だったが、こちらは腕輪が婚姻の証になる。
アロエが今後男性との婚姻関係を結ばないのだとすれば、誰が彼女に腕輪を贈るのか。
私しかいないじゃないか。
「アロエ」
「うん?」
私は愛する恋人の手を取って、彼女をじっと見つめて、言った。
「結婚しよう」
アロエはいつも通りの笑顔で、
「なにそれ、女同士でウケるんだけど。でも、まあ、お願いします! 旦那様!」
そう言ってくれたんだ。
そんな私たちを見てリリカは再び大号泣、マイシィも顔を赤くしながら、少し笑ってくれていた。
良かった、マイシィが再び笑ってくれて、安心した。
──
─
そろそろ朝食の時間だ。
皆と一緒に身支度を整える。
今日はストレプト家の令嬢のご一行と気付かれないようにフェニコール家を出るというミッションがあるから、私は再び給仕服へと着替えた。
アロエとリリカはやはり昨日と同じく貴族のドレスに悪戦苦闘している。
マイシィがコルセットを絞めるのを一生懸命に手伝っていた。
行きはストレプトのお手伝いさんもいたから良かったが、今は完全にアウェー。
その辺の使用人に声をかければ手伝ってくれるのだろうが、なんとなく気まずい。
ドンドンドンドン!
急に大きな物音がして、全員がビクついた。
扉が激しくノックされたのだ。
この感じは、無機質なフェニコール家の使用人ではないな。一体誰が……。
「みんな、大変なんだ! 扉を開けて!」
ドア越しにくぐもった声が聞こえてきた。
声の主は、エメダスティだ。
皆、完璧ではないとはいえ人に見られても平気なくらいには支度が出来ていたから、私は皆に目配せした後、扉に手を掛けた。
──この瞬間。
──この瞬間に私の人生は大きく狂うことになる。
転生し、仲間や友人を得て、恋人を二人抱えて、愛を知った。
カンナ・ノイドとして第二の人生を歩んでいけると思ったその時に、運命は動き出してしまった。
ああ、そうだった。
黒の魔女に言われていたっけ。
私は、魔女の家族を皆殺しにする存在だと。
だから、普通に幸せになることを運命が許してはくれないのだ。
──扉が開く。汗だくになっているエメダスティと目が合う。
息を切らせたエメダスティが発した台詞に、全員の心臓が凍り付いた。
「か、かか家長様が、奥様も……亡くなってるって……!」
脳裏に、黒き魔女の笑顔が浮かんだ。




