30 しばしの休息
馬車の揺れが心地いい。ライラさんは私の肩を抱いてくれている。
もうこれ以上は涙が出ないと思われるほどに、泣いてしまった。泣き疲れてしまって、馬車の揺れに身を任せていた。
「いい友達だったんだな」
「はい、学校っていいところですね」
「そうだな」
ペンダントはずっと握ったままだった。ライラさんは私の胸元に目を向けた。
「それにしても白銀の魔石は聖金貨一枚相当だぞ。それをあげてしまって本当によかったのか?」
私はライラさんを見上げた。
「そんなに金貨とは大事なものなのでしょうか?」
ライラさんは、はっとしたように動きを止めて私の目を見てきた。だが、すぐに顔を崩しながら優しい笑みを浮かべた。
「まあ、フィルらしくていいか。フィルは魔石も金貨もそれほど価値を感じていないんだな」
「そんなことないですよ。この装備、すごいんです。見てください。剣も小手も脛当ても、赤の魔石が使われているんです」
「お、本当だ。もしかしてあの学園の生徒は相当なお金持ちなのか?」
「一人は家が裕福らしいです」
ライラさんの問いかけには曖昧に答えておいた。乗客の耳があるので、ノルちゃんが王女だということは話せない。
「そういえば、フィルは魔石について知っているのかな? 魔素が凝縮して固まったものだと言われているんだ」
「はい、そのくらいは知っています。今回の授業でも教わりました」
「そうか。そして、この世界には満遍なく魔素が充満しているわけだが、どういうわけだか魔素が少ない場所ってのがある」
「それも聞いたことがありますね。具体的な場所までは知りませんが」
すると、ライラさんは意味ありげに微笑んだ。
「ところでちょっと寄り道していかないか?」
「どこへ行くんですか?」
「まあ、着いてからのお楽しみだ。エルムンタルとリドルタの街境なんだが、峠を越えて行くだろ? そこから少し歩いたところなんだ」
馬車は山道を登っていった。下りに差し掛かる直前に停留所があって、ライラさんと馬車を降りた。
「ここから歩いていくんだ」
ライラさんのあとについて、細い山道へ入り、薄暗い木々の間を歩いていく。
「誰もいませんね」
「穴場だからな。あまり知られていないし、男子禁制の場所なんだ」
「女性しか入れないんですか?」
「ああ、なんでも炉の女神ヘスティアが降臨する地だという伝説があってな」
「炉の女神……。魔素が薄いから神が降りられるというわけですね」
イフリートも言っていた。魔素があることで、精霊や神がこの世界に降りられないのだと。
「さすがに神の姿を見た者はいないけどな。でも、どうだ? 何を目的にここに来たか、察しがついたか?」
「いいえ、全くわかりません」
「ほら、周りを見てみろ。珍しい花が咲いているだろ? あれは魔素が多いところでは咲かないんだ」
確かに、リドルタでは見ない植物が多かった。私が住んでいた山の植生に似ている気がする。
「なんだか、懐かしい空気を感じます」
「山の空気だな。フィルもこんな場所に住んでいたのか?」
「少し違いますね。私が住んでいたところは、森の中を光のオーブが飛び回っていました」
「それは精霊かもな」
「そうなんですか?」
「魔素が薄い場所にはそうした光のオーブが見られると聞いたことがある。ほら、見えてきたぞ。湯気がのぼっている。ここが目的地、温泉だ」
「温泉ですか」
「一説によると、神が奇跡を生み出して、この場所ができたと言われている」
木々が開けた先に、泉のようなものがあり、湯気が立ちのぼっていた。おそらくあれが温泉なのだ。そしてその温泉に足を浸けている全裸の女性の姿があった。
「誰かいるようです」
「本当だ。先客だな」
私たちが近づくと向こうから声をかけてきた。
「あら? 人間かしら?」
私たちが近づいても体を隠そうとせず、全裸のままで足だけを湯に浸けていた。
金色がかった緑の髪が、ほのかに膨らんだ胸にかかっている。くびれた腰からは長い脚が伸び、身体も腕も無駄な贅肉が一切ない。
整った顔立ちをしており、端正で美しかった。特徴的なのは鋭く尖った長い耳だった。
ライラさんが彼女に話しかけた。
「エルフか。珍しいな」
「魔素が多い下界に長くいると疲れてしまって。人間と違って、エルフは敏感なのよ」
「私たちもお邪魔していいかな?」
「もちろんよ。ここはみんなの場所だから」
優しく微笑みながら、彼女は立ち上がって、私たちのために場所を開けてくれた。
「私はファンティル」
「私はライラだ。そしてこっちはフィル」
ファンティルは私の顔をまっすぐ見てきた。
「あなた、フィルというお名前なの……」
「あ、えっと。フィルです」
私はぺこりと頭を下げた。
「もしかして、私が探していた人かもしれないわね。フィル」
ファンティルは軽く微笑んで、温泉から足を踏み出しながらこちらに背を向けた。
湯から上がって帰ろうとしている。
小声で呪文を唱えると、体の水が霧散していた。魔法で体を乾かしたようだ。
彼女は独り言のように呟いた。
「世界を清浄化するために、その身に魔素を満たす者ね……」
温泉から出てからは、私たちに背中を向けたままだった。最後まで、こちらに顔を向けることはなかった。
「フィル、また会いましょう……」
そのまま、シルクのように薄い服をさっと羽織って、ファンティルは立ち去ってしまった。
「さあ、私たちも入ろうか」
ライラさんは恥ずかしげもなく、服を脱いで全裸になる。脱いで初めてわかったが、豊満な胸はかなり締め付けられていたのだ。本物は想像よりも一回り大きかった。ライラさんが温泉に入ると、大きな胸は浮力で浮いていた。
「ほら、フィルも来いよ。誰も見ていないから大丈夫だ。探知魔法にも引っかからないしな」
確かに、私の感覚でも何も検知されない。ファンティルが立ち去ったことで、ここは私とライラさん二人だけの場所だった。
「ちょっと待ってください。すぐに私も」
服を脱ぎ始めるが、胸が小さいものだからつい隠してしまう。
脱ぎ終わると、足先から探るように湯に入れた。適温だとわかると安心して身体を沈めた。ふうーと息を吐きながら体の中の空気を絞り出す。
湯に浸かると、まるで魔素が私の体内に吸収されていくようだった。芯からぽかぽかと暖かくなっていく。
「なんだかさっきより魔素が薄くなっているのかもな。ほら、見てみろ」
ライラさんがお湯から手を出して、手のひらを上に向けた。その手にはぼんやりとした光の球体がのっていた。
周りを見ると温泉の湯気に紛れて、光のオーブが立ち上がっていた。
ぽつり、ぽつりと丸い光が現れては上空へと昇っていく。
下界とは違う、美しい光景だった。
私たちはいつまでも、幻想的な光景と温泉の気持ちよさに酔いしれていた。
― 第二章 終わり ―




