27 バジットの後始末
廊下をこちらに向かって、這いつくばるようにロゼッタ先生がやってきた。顔は涙目だった。呼吸を止めていたのか私のもとにたどり着くなり、ぷはーと息を吐いた。
そして私に抱きつくようにしがみついて腕に力を込めた。
「フィルさんーーーー」
先生は今にも泣き出しそうだった。
何があったのかは、だいたい想像ができる。
バジットにポーションを渡しておけばよかったと後悔してももう遅かった。
時間は巻き戻ることはないのだ。すべては後の祭りだった。
教室は廊下の先、視線のずっと向こう側にある。
今は教室の扉が閉じられているが、あれを解放したらどんな匂いが放たれるのか。想像するだけで恐ろしい。
それに、バジットは教室で一人、どんな思いでいるのか。
彼のことは可哀想だとは思うのだが、あそこに向かうのには勇気がいる。
いや、どんなに勇気があっても無理そうに思えた。
とりあえず、ロゼッタ先生とすぐそばの部屋に避難した。教師が待機するような小部屋のようだ。雑貨類がたくさん置いてある。ここで先生が落ち着くのを待った。
しばらくすると、落ち着きを取り戻した先生が口を開いた。
「やはり、教師としては教室に戻らないとですよね」
先生の表情からは、まだ教室に戻る決心がついていないことは明らかだった。
このまま一人で行かせられるような状態ではない。
きっと私も一緒に行かなければならないのだ。
駄目元で先生に尋ねてみる。
「なにか、この状況を打開できるような魔法はないでしょうか……」
「ありませんよ……。そんな都合のいい魔法なんて……」
「たとえば、時間を巻き戻す魔法なんて」
私は魔法を使えない。それでもそんな魔法がないことくらい知っている。
ただ、現実逃避したかっただけかもしれない。
「あるわけありませんよ……。そんなの……」
「精霊を召喚して、片付けてもらうとか」
「できるわけありませんよ……。そんなこと……」
「いっそのこと、遠くへ逃げてしまうとか……」
本当に逃げ出してしまいたい気分だった。たぶん、先生も同じ気持ちだっただろう。
「逃げたいわよ、私も。でも、教師として許されませんよね……。そんなこと……。逃げちゃだめですよね……」
自分に言い聞かせるように言っていた。助けを求めるようにこちらを見上げてくるが、何も力になれないことは明らかだった。
できるのは先生に寄り添い、多少の手伝いをすることくらいだろう。
最後は諦めて、二人して教室に突入するしか道は残ってないと思っていた。
すべてを諦めようとしていたその時、廊下に面した小窓に見覚えのある顔が横切った。
「ユニス……」
私は扉を開けた。
部屋の前を通り過ぎていたユニスが、こちらを振り向いた。
「あ、フィルさん。こんなところにいらしたんですか」
ユニスは教室へ向かおうとしているところだった。
「どうしたの?」
「フィルさんを呼びにきたんですよ。試験はどうなりましたか?」
「試験なら、なんとかユニスのおかげで……」
「僕のおかげ?」
ユニスは首をかしげる。私は慌てて口を押さえた。
「ああ、えっと、なんとか突破できたよ。おかげさまで」
「そうですか。では一緒に講堂へ来てもらってもいいでしょうか。フィルさんの送別会の準備が整いました。ところでバジットはどうしました?」
バジットの名前が出たことで、思わずユニスから目を逸らしてしまう。部屋出てきたロゼッタ先生が代わりに説明をしようとした。
「それなんですけど……」
「ロゼッタ先生、何かあったんですか?」
先生の悲痛そうな表情から、ユニスは何かを感じ取ったようだった。
「あのね、ユニスさん。本当にここだけの話にしておいていただきたいのですが、実は……」
ロゼッタ先生はこれまでの経緯をユニスに話した。
すべてを聞き終わると、ユニスは強く頷いた。
「それなら僕に任せてください」
そう言って必要なものを口にし始めた。
「まず、布巾と手袋はありますか?」
ロゼッタ先生が部屋を探して、出してくる。
ユニスは手袋をはめ、布巾で口を覆った。
「あと、バケツと雑巾、替えのズボンがあれば大丈夫でしょう」
バケツと雑巾もここで見つかった。替えのズボンは医務室に取りに行った。
「じゃあ、いってきますね」
軽い調子で言って、ユニスは教室へ向かっていった。
彼はまだ十二歳だ。
それなのにその後ろ姿は歴戦の勇者のようだった。私やロゼッタ先生が二の足を踏むような、過酷な環境へと身をおこうとしている。
今この時ほどユニスがたくましく思えた時はなかった。
教室の扉を開けるとユニスは「う」と一言唸ったが、そのまま物おじもせず教室に入って扉を閉めた。
とても長い時間が経過したように思えた。
教室の扉が再び開いた。
バジットの肩を支えながらユニスが廊下に出てきた。バジットはこちらに顔向けできないのか俯いている。
「教室の窓は開け放っておきました。あとで消毒をしてもらいましょう」
ユニスとバジットは医務室へと向かった。
私とロゼッタ先生は手を取り合って、心の中で彼にお礼を言った。
ユニス、ありがとう――
大きな恩が彼にできた。
金額に換算できないほどの行為をユニスはしてくれたのだ。




