34 壁を超えて
「誰!?」
少年が立っていた。
私より少し背が低い。目付きが鋭くて子供っぽさはない。軽装鎧を身に着けているが、首元には冒険者の証であるチョーカーがなかった。
鎧には随所にクリスタルがはめ込まれており、軽装鎧とはいえそれなりの値段がしそうだった。白銀の魔法石までが何個も使われている。これはもっとも高価な魔法石だと組合長が言っていた。
彼は汚いものでも見つけてしまったように見下ろしてきた。
私を足でぐりぐりと踏みつけながら、低く声を出す。
「ふうん、たしかそれってさ。七級とかいうやつだっけ?」
少年は私の首元に視線を向けていた。
チョーカーには小さく赤いルビーがひとつ。
「なんで七級が生きている? まあ、死にかけだけどさ」
いきなり私の腹を蹴る。
軽く蹴られただけでうずくまってしまい、そのまま地面に崩れ落ちた。
「……ぐぅぅぅぅ……」
嗚咽が漏れた。とてつもなく苦しい。
「君はなかなかいいところに目をつけた。人間なんて罠にはめて、なぶり殺したほうがいいよね」
――人間……なんて……?
「そもそも人間の分際で、超絶級なんて許されると思う?」
顔がどろりと溶けた。髪も顔もそこにはない。ただ黒い粘体が、顔だった部分にまとわりついている。
「魔物!?」
私は目を見開く。
「かわいいもんだね。人間は。でも死にかけだというのに、その目は何だ。気に食わないよね」
「こいつも、やつらが連れてきたの……。あのカエルみたいに……?」
「おいおい、僕をあんな爬虫類もどきといっしょにしないでくれ」
もう動くことなんてできない。ただ、睨みつけることしかできないでいた。
「ほら、僕が君を六級にしてあげようか。壁を超えるんだよ。僕たちの種族なら、君たちの言うところの特級なんて簡単だ。けれど、君たちは壁ってやつがあるんだろ?」
また私を蹴った。ごろごろと無様に転がる。
「動け。動くんだよ。そんなんで壁を超えられるか? 高みに登れるか?」
動けない。もう無理だ……。無理だよ……。
私はとっくに限界を迎えていた。
ここでこいつに殺されるのか?
「早くしないと死んじゃうよ。つまんないじゃないか。約束の時間まで暇つぶしさせてよ。まだ、十三階層に行くまでには時間はあるんだ。蟻を潰しながら行かないと暇でしょうがない」
こいつは……。
こいつは!
こいつを行かせたら……。
無理矢理にでも膝を立てて体を起こす。
ボルザが。
エミルが……。
二人が殺されるかもしれない。
蟻のように潰す?
ふざけるな……。
行かせちゃ駄目だ!
こいつを行かせたりなんかしない!
「う、うわぁぁぁぁ」
苦悶の声を上げながら、なんとか腕を動かす。
かちり、と音がした。
肘に着けていた訓練用の装備が外れる。服の上から外したから、そのまま服の中に残っている。
「ふ、ふははは。やっぱりあった。この期に及んでまだ隠し玉があったとは。君はただの七級じゃないと思った」
目の前の魔物は、軽装鎧の上にどろどろと溶けた球体が乗っている。まるで真っ黒な泥のようだ。口もないのにどこから声を出しているのか。
かちり、ともうひとつを外す。
私はゆらりと立ち上がった。
「お兄ちゃんから外すなと言われていた……」
袖を破り、ずしん、と音を立てて装備が落ちた。私から離れればただの拳大の黒い塊だ。
白銀の魔法石を三つ使って作った、私の能力を制限するもの。
(――使っちゃ駄目だと言われていたのに。ごめん、お兄ちゃん……。あれを使う……)
私が生まれ持った体質。魔法が使えない要因。
ああ、腕が軽い。
体は重いが、なんとか腕だけなら動かせそうだ。
だが、軽く意識が飛ぶ。
――時間が飛んだ……?
私は何をした?
「お、おい。やめろ。ふざけるな!!」
魔物が叫んでいる。
なんだ?
体が勝手に動いていた。
一瞬で相手との間を詰め、右手は魔物の頭をつかんでいた。
痛みも疲労も全て飛んでいる。何も感じない。
そうか――。
これが壁を超える感覚。
今まで感じたことがなかった。
私でない私がそこにいる。
薄暗かった周囲が少し明るくなる。
自分でもわかるくらいに、私の体からは光のオーラが放たれていた。
『――夢幻魔素吸収』
「ふざけるな! それは神魔級領域……!?」
魔物は頭をつかまれたままでまったく動けない。搾り取るように魔素を吸い上げていく。
魔素が体内に流れ込む感覚があった。
体の感覚はないのに、内側で光の粒子がうごめくような感覚だけがある。
「……まさか……、まさかオマエは…………!?」
「ゼンブ、モラウ!」
「よせ、魔素が、僕の魔素が………………」
「――コレハ、ゼンブ、ワタシノモノダ……!!」
顔のない魔物。ただ、その恐怖だけは伝わってきた。
怯えている。
なぶられ、蹂躙され、踏みつけにされる。弱者の恐怖だ。
「ヨワイ……ヨワスギルヨ………………」
体を動かす別の私。
それを俯瞰的に眺めるもうひとりの私。
どちらが本当の自分だ?
そういえばメルダさんが言っていたな。
『――特級を超える神や悪魔の領域、神魔級なんて夢がありますよね』と……。
夢?
これは夢なんかじゃない。
悪夢だ……。
ただ、弱いものをいたぶる行為だ。
そうか。
だからお兄ちゃんは言ったのか。使っちゃいけないと。
ごめん、お兄ちゃん…………………………。
これは踏み越えちゃいけない領域だ……………………。
………………………………。
ぐちゅっ、と気色の悪い音がした。
手には黒い粘着質の何かがまとわりつく。
魔物がどさりと音を立てて倒れる。
見ると、そこには頭のない鎧姿の魔物が横たわっている。
なんだ?
私は何をした……?
いったい、何を……?
……………………………………………………。
意識がぷつりと途切れた。
***
体が軽い。力に満ち溢れている。
腕が動く。足も動く。
魔物はどこに行った?
どうなった?
周りを見回す。
鎧が落ちている。
黒い粘体がまとわりついた軽装鎧がそこに残されていた。




