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『誰のための戦争だ』  作者: Yukiya


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第3章 戦場の本当の犠牲者 3-1:連れて行くしかない

3-1:連れて行くしかない


男はしばらく、少年を見つめたまま動かなかった。


沈黙のあいだにも、遠くでは砲声が絶えず響いている。

どこかで何かが崩れる鈍い音がして、灰が風に乗って流れてきた。

この場所に長く留まるのは危険だった。

それは誰の目にも明らかだったし、何より男自身が一番よく分かっていた。

立ち止まる時間が長くなるほど、死角は増える。

偶然生きているだけの時間は、戦場ではすぐに尽きる。


男はようやく視線を外し、周囲を素早く確認した。


通りの奥は開けすぎていて危険だ。

左手の路地は狭いが、崩れた壁が多く遮蔽物には困らない。

二ブロック先に、半地下の商業施設があったことを先ほど高所から確認している。

完全な安全など、この街のどこにもない。

だが、それでも今この場よりはましな場所ならある。

少なくとも、次の砲撃が来るまでに身を潜められる程度の場所なら。


彼は小さく息を吐いた。


「ついてこい」


それだけ言って、男は背を向けた。


守ると決めたわけではない。

助けると誓ったわけでもない。

ただ、この場に置いていけば少年は高い確率で死ぬ。

それを理解した上で見捨てることが、なぜか今の自分にはできなかった。

だからせめて、すぐには死なない場所まで連れていく。

それだけだ。

一時的な判断。

任務の妨げにならない範囲での処理。

男は自分の中で、そう言い聞かせた。


背後で、小さな足音がした。


少年は何も言わず、ただ男のあとをついてきた。

怯えはまだ消えていないのだろう。

靴を引きずるような不安定な歩き方から、それが分かる。

それでも逃げようとはしなかった。

男が唯一の安全かもしれないと、本能で理解しているのかもしれなかった。

あるいは、安全かどうかさえ分からなくても、もう一人で残されることだけは避けたかったのかもしれない。


狭い路地へ入ると、空気はさらに重くなった。


両側の建物は半ば崩れ、空を見上げても煙に遮られて色が分からない。

ひび割れた壁の隙間から、焼けた室内の臭いが流れてくる。

どこかで火がまだくすぶっているらしく、乾いた熱が路地の奥に滞っていた。

足元の瓦礫を踏み外せば、思わぬ音が響く。

思わぬ音は、時に弾丸より早く死を呼ぶ。


男は足を止めず、前方の角をひとつひとつ確認しながら進んだ。

そのたびに少年も立ち止まり、また小走りで距離を詰める。

角を曲がるたびに、男は半歩だけ速度を緩めていた。

自分でも意識しないほどの、ほんのわずかな減速。

だが、それは確かに少年の歩幅を計算に入れた速度だった。


奇妙な同行だった。


片方は、多くの戦場を生き延びてきた兵士。

もう片方は、名前も知らない戦災孤児のような少年。

本来、同じ道を歩くはずのない二人だった。

交わるとしても一瞬だ。

銃口の先と、その先に立つものとして。

少なくとも、彼がこれまで生きてきた戦場ではそうだった。


男は振り返らない。


だが、背後の気配が消えていないことだけは常に把握していた。

もし少年が転べば分かる。

もし息が乱れれば分かる。

もし恐怖で足を止めれば、それも分かる。

その存在を意識の隅に置きながら進むことが、思いのほか自分の中に入り込んでいることに、男はわずかな違和感を覚えていた。


今までは、誰か一人の歩幅に自分を合わせる必要などなかった。

前に進むことだけを考えればよかった。

遅れる者は置いていく。

倒れる者は振り返らない。

それが戦場の理屈だった。

そうしなければ、自分が死ぬ。

そうしなければ、自分の中の何かが保てない。

だから切り捨てることに慣れてきたはずだった。


だが今は、無意識のうちに歩調をわずかに落としている。

少年がついてこられる程度に。

置き去りにしない程度に。

その調整が、自分の身体にすでに入り込んでいることが、奇妙だった。


「……名前は」


背後から、かすかな声がした。


男はすぐにそれを遮る。


「喋るな。音を立てるな」


声音は冷たかった。

だがその冷たさは拒絶ではなく、長く染みついた習慣のようなものだった。

戦場では、余計な言葉は位置を教える。

名前を交わせば距離が縮まる。

距離が縮まれば、切り捨てるときに鈍る。

そのすべてを、彼は無意識に避けていた。


少年はすぐに口を閉ざし、黙って頷いた。


男は再び前を向く。


言葉を交わす必要はない。

この同行は一時的なものだ。

安全な場所に着けば終わる。

そうだ、終わるはずだ。

自分は任務の途中で、余計な荷物を背負うつもりなどない。

ここで情を挟めば、その先が面倒になる。

守る理由も、責任も、何も持つつもりはない。


それでも、足音が後ろからついてくるたびに、男はなぜか少しだけ安堵していた。


まだ生きている。


そう確認してしまう自分がいた。


曲がり角を越えるたび。

瓦礫の段差を上るたび。

短く息を呑む音が背後から届くたび。

その小さな存在がまだそこにいることに、理由のない安堵が混じる。

それは彼が長いあいだ切り離してきた感覚に近かった。

誰かの生存を、自分の外のこととして処理しきれない感覚。


そのことを、彼はまだ認めたくなかった。


だから男は前だけを見る。

煙に塞がれた路地の先。

次の遮蔽物。

次の角。

次の生存ルート。

考えるべきはそれだけだと、自分に言い聞かせながら進む。


だがその背後では、名前も知らない少年の足音が、確かに彼の歩幅に重なり始めていた。


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