三国志別伝~果てなき東国からの親書と虞翻の計略 蛇足
※感想にて、杜野秋人様より、ご指摘を頂きました。
『217年、蜀漢は、魏との漢中争奪戦に勝利した。』
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→魏の成立は220年、蜀漢の成立は221年なので、
これ正確には「劉備は、曹操との〜」が正解です。
まだこの時は
(漢の)魏王曹操と、(漢の)(自称)漢中王劉備の争いです。
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こちらが正解です。
杜野さん、どうもありがとうございます。
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書き換えようと思って、試行錯誤しましたが、
経過が多少複雑であるため、書き直せませんでした。
その言い訳を書きたいと思います。
蛇足1.漢中争奪戦と荊州の喪失
さて、問題の文章は、コレです。
>>217年、蜀漢は、魏との漢中争奪戦に勝利した。
安定した地盤(蜀)を得た劉備ですが、重要になるのは、建安24年(219年)です。
曹操から漢中を奪おうとその攻略を目標とし、漢中の夏侯淵・張郃を攻めた定軍山の戦い。
結果は、法正や黄権らの策で、劉備軍が曹操軍を撃破。
守将・夏侯淵らを殺害して、漢中の完全な占領に成功。
このタイミングで、劉備は、漢中王と大司馬を自称します。
(余談ですが、たぶんここが、劉備勢力の絶頂期です。)
それはさておき、「漢中完全制覇前」の段階で、劉備の肩書は、
「左将軍」「領司隷校尉」「豫・荊・益州牧」「宜城亭侯」です。
(この時期の豫州は、完全に曹操の領地ですし、荊州も、孫権と分け合っています。まぁ、実質的に喪失していたんですが、豫州牧の肩書に固執していたということですね。荊州牧の肩書は、劉表の息子・劉琦から劉備に譲られた形ということで。)
劉備の「漢中王」「大司馬」自称は、漢中完全制覇後になります。
→「宜城亭侯」から、自称「漢中王」にランクアップ。
→「左 将軍」から、自称「大司馬」にランクアップ。 ※大司馬(大尉):三公(三つの最高官職の兵権を司る)の中の一つ
ここから、イロイロ急展開しますが、重要事項だけ抜き出しましょう。
その直後、関羽が敗れ、劉備は荊州を失う。
その直後に、曹操が病死する。
曹操の子・曹丕が、後漢の献帝から禅譲を受け魏の初代皇帝となる。
これが、220年。魏帝国の成立です。
劉備勢力としては、禅譲ではマズいので、後漢の献帝が殺されたことにしました。
後漢の献帝が、弑されたため、劉備は、漢の後を継ぐ名目で皇帝を自称します。
(殺されたはずの献帝(劉協)は、長生きします。山陽公に封じられ厚遇を受けつつ、234年3月に54歳で死去。)
これが、221年で、蜀漢の成立年となります。
つまり、この過程で、「魏」は、漢帝国の魏王・曹操から、魏帝国・皇帝曹丕に移行。
劉備勢力は、「左将軍」「領司隷校尉」「豫荊益州牧」「宜城亭侯」に率いられた集団から、自称「漢中王」に率いられた集団にランクアップして、スグに「蜀漢」帝国へランクアップ。
これが、この1文の書き直しが出来なかった最大の理由です。
>>217年、蜀漢は、魏との漢中争奪戦に勝利した。
勢力の名前が、どんどん変わっていくので、どの陣営を示しているのか分からなくなる。
これを解決しようと、文章をこねくり回しましたが、ちょっと・・・。
難しすぎっ。
今の私では、簡潔に整理するのは、無理でした。
ごめんなさい。
蛇足2.関中争奪戦と漢中王
秦の始皇帝の死後の話です。
紀元前207年、倒秦に立ち上がった楚の懐王は、『関中』を初めに平定したものを『関中王』とすると諸将に約束します。
『関中』は、長安の都のある場所だと思ってください。
(後に漢の初代皇帝となる)劉邦は、表からではなく、裏の関所(巨大)にあたる武関から関中へ進軍し、表の関所・函谷関(超巨大)へ進軍する項羽らを出し抜きます。
『関中』を初めに平定した劉邦は、『関中王』となるはずでしたが、項羽の怒りを買います。
まぁ、出し抜かれた方は、怒りますよね。
そうして、兵力も勇猛さも圧倒的に上の項羽は、劉邦を謀反の罪に問い、その軍を撃滅させ、劉邦自身も殺してしまおうとします。
しかし、劉邦は、項羽の陣営へ 直接謝罪に赴くことで、その許しを得ます。
俗に言う「鴻門の会」ですね。
ただ、項羽も劉邦を許したとはいえ、中央に置いておくわけにはいけません。
ド田舎の、蜀巴の地へ左遷することにしました。
その地こそ『漢中』。
劉邦は、本来封じられるべき『関中』では無く、この『漢中』の王に封じられることとなります。
漢(中)王・劉邦の誕生です。
その後、項羽を討った漢王・劉邦が、初代皇帝となる国こそ、前後400年続く漢帝国なのでした。
さて、蛇足1で、漢中は、劉備の支配領域となりましたよね。
そうです。
劉備は、漢の高祖・劉邦に倣って『漢中王』に即位したのです。
ということで、野心家 劉備が、漢中王の次に狙うのは、当然 皇帝です。
直後に、後漢が魏への禅譲で名実ともに消滅すると、『漢』の皇帝として即位します。
(区別のため、蜀漢と呼ばれます。)
・・・と、こういう話を挟みつつ、文章をこねくり回して、挫折しました。
はぁ、疲れました。ここで、終わりたいと思います。お読みいただきありがとうございました。