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『――多恵』


 背後から名前を呼ばれ、合掌した姿勢のまま目を開けた。

 ああ、この声は。


「清太郎、兄さん……」


 胸の奥が痛い。余りにも長い時間ときが経っている。懐かしくて堪らないのに、振り返るのが怖い。


「……こっちを向いてくれないのかい?」


 青年の声が、悪戯っぽく笑いを含んでいる。


「だって……私、すっかりおばあさんになってしまったわ」


 カラカラと爽やかな笑いが返る。兄さんの笑い方だ。


「僕は、そんなこと気にしないけど。多恵が気になるのなら、目を閉じて――深呼吸してごらん」


「え……?」


 疑心暗鬼のまま、言われた通りに目を閉じて、フウッと大きく息を吐いた。


「ほら、目を開けて」


 恐々と開くと、正面にカーキ色の国民服を着た人影がある。随分と背が高く、見上げなければ、容貌が分からない。


 私の中で清太郎兄さんは16歳で止まっている。

 いくら老婆とはいえ、真正面で向き合えば、彼は私の背丈より低いはず――。


「どうして……?」


 戸惑う視界の端に、自分の足元が見えた。紺色のかすりのもんぺに、底の薄い運動靴。驚いて確認した自分の手も、細く柔らかな若い――いや、幼さの残る子どもの手。シワだらけで筋ばった、見慣れた老婆のものではない。


 当時、私は10歳の少女だった。74年の歳月を遡り、あの頃の姿に戻っている。


「会いに来てくれたんだね、多恵」


 日焼けした肌に坊主頭。彼は白い歯を見せて満面の笑顔を広げた。


「私――ごめんなさいっ! すぐに思い出さなくちゃならなかったのに」


「いいんだよ、いいんだ。泣かないで」


 ふわりと優しい温もりが触れる。清太郎兄さんは、泣き出した私の頭をポンポンと撫でている。


「私、間に合わなかった……約束、したのに……!」


 昭和19年――太平洋戦争末期。

 我が家は、2年前に父が出征し、母が1人で4人の子どもを育てていた。

 当時住んでいた大田区蒲田地域は軍需工場が多く、戦況の悪化と共に空襲が頻発した。4月、私と弟は縁故疎開が決まっていた。だが15日の空襲で焼き出されると、母は東京を離れることを決意した。

 兄さんだけは、来春海軍予科練への進学が決まっていたため、上野の叔母一家に預けられた。


『空襲から守ってくれるように、僕に丈夫な防空頭巾を縫ってくれるかい?』


 4月末、旅立ちの日――汽車の中までグズって泣いていた私の頭を、兄さんは窓外から手を伸ばして、ポンポンと撫でた。


『……うんっ! 必ず、縫うわ! 出来たら、届けるから!』


『待ってるよ。身体を大事にな、多恵』


 今思うと、私を聞き分けさせるための方便だったのだろう。約束を貰って、幼い私は酷く安心した。


 汽車は、上野駅のホームに、兄さんと叔母夫婦を残した。


 それが、彼らの生きた姿を見た最後だった――。


「……熱かったでしょ? 苦しかったわよね?」


 込み上げる涙が止まらず俯いていると、スッと目の前の影が低くなった。兄さんは片膝を付いて、目線を私に合わせた。潤んだ視界に映る、彼は真顔だ。


「あの夜は、地獄だった」


 昭和20年3月10日。

 深夜に突如始まったB29による焼夷弾投下と機銃掃射は、一夜にして約10万人の命を奪った。負傷者約11万人、罹災者は110万人超――世に言う『東京大空襲』である。


 強風に炎が舞い、火の玉が町を容赦なく灰にした。防空壕は機能せず、むしろその中で多くの人々が落命した。

 清太郎兄さんは、叔母一家と共に隅田川に向かったそうだ。だがそこも地獄絵図だった。強風に煽られた炎は、逃げ惑う人々で犇めく橋の上に舌を伸ばし、人間と荷物の別なく一様に燃やした。更に川面を舐め尽くし、イカダや川に飛び込んだ人々をも焼いた。それでもパニックになっている群衆は、橋や川へと押し寄せ、押し寄せて――。


「多恵の防空頭巾があっても、あの猛火は防げなかった。だから、もう自分を責めないで」


 胸が詰まり――しゃがみこんで、わんわん泣いた。

 あの時、兄さんはまだ16歳だった。しかも、敵兵と一戦交えるでも、家族の盾になるでもなく、只逃げ惑う中での死だ。それが戦時下で育った日本男児に取って、どれ程屈辱的で無念だったことだろう。


 それなのに、私の後悔を払拭せんと思い遣ってくれる。彼が生きられなかった時代を、散々自由に、74年間も謳歌した挙げ句――今夜、死後のオマケのような時間になって会いに来た、こんな薄情な私に、恨み言1つ溢しもせず――。


「ごめんなさい……兄さん、ごめんなさいっ……」


 彼は、ギュッと私を腕の中に閉じ込めた。それでも私は祈りのように「ごめんなさい」と呟き続ける。許されてはいけない気がした。


「泣かないで、多恵。誰も悪くない。悪いのは、あの戦争だ」


「……兄さん」


 ドキリとした。

 軍国教育を受けた青年では、決して口にしないはずの国家批判。戦時下に生を終えた霊魂もまた、戦後を迎えることができたのか。


「ここは何処? ……兄さんは、ずっとここに1人でいたの?」


 私は着物の袖で涙を拭き、改めて辺りを見回した。目を凝らしても、ひたすら無機質な薄闇が広がっているばかりだ。


 あの夜生み出された膨大な骸は、多くが身元不明のまま、近隣の公園に仮埋葬された。終戦後、掘り出して荼毘に付し、東京都慰霊堂に安置している。恐らく兄さん達もそこに眠っているに違いない。


「さあ……何処なんだろう。父さんと母さんは来てくれたけど、随分昔のことのようにも、最近のことのようにも思えるんだ」


 彼自身も戸惑っているようだった。霊魂に時間という概念が意味を為すのか分からない。生者が過ごしてきた74年の歳月は、ここでは一瞬なのかも知れないし、あるいは永遠と同義語なのかも知れない。


「兄さんにも、足があるのね」


「えっ? あれ――いつの間に」


 彼は酷く驚いて立ち上がり、ゲートルを履いた自分の両足をまじまじと眺めた。指摘されて、初めて気が付いたとでもいうように。


「足がある幽霊は、行くべき所があるんだって。友達に教えて貰ったわ」


「じゃあ……僕達、何処かに行くんだろうか」


 不安な表情を覗かせた兄さんは、急に年相応の10代半ばの若者の顔になった。


 ――た……え……

 ――せぇー……たろぉ……


「兄さんっ」


「ああ、今の!」


 咄嗟に見つめ合う。遠くから呼ぶのは、母さんだ。記憶の彼方の懐かしい、決して忘れ難い声。


 ――2人とも、いらっしゃい……みんな、待ってたのよ……


 まるで天上から降り注ぐように、優しい声が私達を包む。


「……多恵、明かりが見える」


 兄さんが指差した先には、小さな光の粒が揺れている。あれは、次に行くべき場所なのだろうか――トンネルの出口のように淡い光が差し込んでいる。


「行こう、兄さん」


 私は立ち上がり、彼の手を取った。

 そうか――私は兄さんを家族の元に連れて行くために、ここに来たんだ。


 握り返す彼の掌は、大きくて温かい。私達は笑顔で歩き出し――いつしか駆け出していた。

 光が、出口が近付く。真夜中を疾うに過ぎ、夜明けの気配を背後に感じる。早く……早く、明ける前に辿り着くんだ――。


-*-*-*-


「……ママ、おばあちゃん泣いてる」


 お通夜の後、葬儀場の控え室で『寝ずの番』をしていたら、高校生の次女が奇妙なことを言ってきた。


「泣いてるって、あんた棺の中、覗いたの?」


「……うん」


 制服から着替え、黒いプリーツスカートにブラウス姿の娘は、気まずそうに俯いた。


「何で?!」


「トイレの帰りに式場の前を通ったら、祭壇からカタンって音がして」


 叱られると思ったのか、こちらの様子を伺うように上目遣いで答える。しかし、あたしはそれどころではない。怪談話は滅法弱いのだ。


「や、あんた怖いこと言わないで」


「それで、お姉ちゃんと中を見たの」


 この度胸の良さは若さ故か。呆れながら、先を促す。


「お通夜の前に、家でお化粧したよね、おばあちゃん」


 枕経の後、葬儀屋さんが手配した納棺師が、それは可愛らしく母の顔を整えてくれた。元々、どこか少女のような面影を持つ母は、肺炎で逝ったというのに柔らかい表情で、死化粧が似合っていた。


「……ええ」


「泣いてたの。涙の痕の通りにファンデが流れてて。目尻に涙が溜まってるの」


 そこまで言われると、妙な好奇心に駆られてしまった。身内だし、祟られることもあるまい。娘と共に通夜の式場に行けば、長女がまだ棺の側に立っていた。


「ママ、恵実香えみか。おばあちゃん、嬉し泣きなんじゃないかな」


 神妙な様子の長女を見て、母娘おやこ3人して棺の小窓から故人・多恵の顔を覗き合うと――確かに目尻に水滴が溜まっている。だが、ふっくらと膨らんだ桜色の頬に、口角の上がった朱色の唇。今にも笑い声が零れそうな面相は、至福と呼ぶに相応しい。


「……こんな顔で、私も死ねたらいいな」


 長女の不謹慎な呟きを咎める気にはなれなかった。同感だった。

 あたし達は合掌して、小窓を閉じた。



【了】


拙作をご高覧いただき、ありがとうございました。


人生を、1日の時間や1年の季節に喩えることがありますよね。


例えば、働き盛りの時期は『真昼』だったり『夏』だったり。


夕方の『黄昏時』として、中年以降の老後を指すことがありますが、じゃあ日が沈んだ後の『夜』って、どんな時を指すのでしょうか?

更に、夜も夜、『真夜中』って、どんな時なんだろう……?


そんな疑問から生まれた、お話です。



この世に未練も恨みも残さずに、逝くことができれば――多分、それは幸せなことなのでしょう。


作中で雪乃さんが言ってますが、「強い想い」がこの世に霊魂を縛り付けるとしても、その「想い」は必ずしもネガティブなものばかりではないはずです。

人や物、場所に縛られて、この世に留まる霊魂の中には、雪乃さんのような理由のものもあると嬉しいなあと……希望を込めてみました。



多恵さんを留めた理由と、その背景は、雪乃さんほど呑気なものではありません。

少々重くもありますが、救いがあればと願って止みません。


折しも帰省など、遠く離れた家族や故人、友人などと顔を合わせる機会がある時期です。

この時期にご高覧いただけると、特に嬉しく思います。


あとがきまでお付き合いいただき、ありがとうございました。



2018.8.12.

砂たこ 拝



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