-2-
「分からない……」
私は絞り出すように、吐き出した。苦しい。苦しい。死んでなお、魂が捕われるほど強力な鎖が、私の中にあったなんて。その事実が、心を締め付ける。
「多恵さん。想いは、後悔や怨憎だけではないのよ」
「――えっ」
顔を歪めて俯く私の腕に、ポウと暖かな心地好さが滲んだ。雪乃さんの右手が触れられている。
「雪乃、さん……」
悔しさが縛りつけていると言うのに、彼女の心は清らかだった。労りの気持ちが、迷いに濁りかけた私をサァ……ッと浄化した。
「混乱させて、ごめんなさいね」
驚いて顔を上げた私に、彼女は困ったように眉尻を下げた。
「あたしね、ここから動けないけれど、それは自分で望むことでもあるのよ」
望んで、地縛霊になっているというの?
訳が分からない。言葉にしなくとも表情に出たのか、彼女はクスリと口元を綻ばせた。
「去年、徳治郎さんがしゃぶしゃぶを喉に詰まらせたことがあったでしょう?」
「は? あ、ええ、あったわねぇ、そんなこと」
昨年の夏の――いつだったか、冷麺と胡麻ダレのしゃぶしゃぶが夕食だった。小さく切った豚肉だったのに、美味いと頬張った徳治郎さんはお肉を喉に詰まらせて、真っ青になった。すぐに介助職員が気が付いたが、その前に彼が椅子から転げ落ちて――その拍子にお肉をゴボッと吐き出し、事なきを得たのだった。
「あれねぇ、あたしが彼を突き飛ばしたの」
「ええ?」
「背中をドンと叩くと、詰まった食べ物が出るって言うじゃない? 実践したのだけれど、まさかあんなに派手に転がるなんて思わなかったわぁ」
雪乃さんは、悪びれない様子で可笑しそうに笑った。
窒息死を免れた代わりに、徳治郎さんは左腕を骨折した。あれに懲りて、彼は少量ずつ、落ち着いて食べるようになったっけ……。
「あたし、この食堂で、誰もあたしの二の舞になんてさせないわ。あんな悔しい死に方は、あたしだけで十分。あれが最後よ」
突如、彼女の瞳の光が強くなった気がした。
「ね、多恵さん。あたしはここに居続けることに、意味があるの。可哀想なんて思わないでね」
ドキリとした。成仏できない憐れさを感じていたのは、事実だ。見透かされていたのだろうか。
「私……」
「ふふ。いいのよ。元々、あたしは身寄りがないでしょ。ここが終の住処。まさか死んだ後まで住み続けることになるとは、思わなかったけどねぇ」
納得して地縛霊でいることは、必ずしも不幸ではないのかも知れない。
少なくとも、雪乃さんは不幸には見えない。
「私達、あなたに守られていたのね……」
「あら、嬉しい」
にっこり微笑む彼女は、福々とした雰囲気に包まれた。
「さぁ、多恵さん。次は、あなたの番。あなたが行くべき場所を思い出して」
「そう言われても」
「きっと、怨みや憎しみではないわ。最後に会いたい人や、行きたかった場所はない? 目を閉じて――思い浮かべて」
戸惑いながらも、彼女の言葉に従った。頭の中を空っぽにして、私は私の想いを探す。
まず現れたのは、先立たれた夫――でも、彼には、多分あちらの世界で会えるはず。彼との思い出の場所は――毎年、結婚記念日に訪れた高原のペンション。懐かしい甘さが胸に溶け出したけれど、何故か違うと感じた。
それから、子どもや孫達の顔を次々に思い浮かべるも、彼らは死の瞬間まで私の傍にいてくれた。会い損なった親族はいない。
――カチリ
耳の奥で、鍵の開く音がした。
呼応するかのように、記憶の深淵から、ゆっくりと浮かび上がってくる小さな光を感じる。
ユラリ……ユラリと、水面を目指して浮上する光。期待に騒ぐ心を澄ませ、じっと凝らしていると――。
『多恵は、縫い物が丁寧だなあ。ほら、トマトだ』
『わぁ……ありがとう。清太郎にぃちゃん』
真っ黒に日焼けして背の高い坊主頭の青年が、白い歯を見せてカラカラと笑う。
「あ――」
水上にたどり着いた途端、光はパアッと弾けた。そして、懐かしい面影が鮮やかに甦っていく。
清太郎兄さん。
どうして忘れていたのだろう。私には、果たせなかった約束があった。
「あら……思い出したのね、多恵さん」
「え?」
嬉しそうな雪乃さんの声に目を開けると、彼女も食堂もユラユラ滲んでいる。
「ほら、立って。行くべき場所が見つかったのでしょう?」
「雪乃さん……」
不安を抱えつつ、しかし促されるまま、私は椅子から立ち上がっていた。周囲は、噴水越しの風景のようだ。揺らめく水に物体の輪郭が溶け出して、全てが境界を持たない光の幕に包み込まれていくみたい。
「良かったわねぇ」
明るい光の向こうから、彼女の声が響いてくる。眩しくて、もう姿は見えないが、多分彼女は穏やかに微笑んでいる。
「最後に会えて……嬉しかったわ……」
声が遠くなる。その一方で、私をグイと引き寄せる、確かな力を感じる。行くべき場所が呼んでいるのか――。
「雪乃さん!」
「さよなら、多恵さん。お幸せに――」
彼女がいる食堂ごと、空間を満たした目映い光がグングンと遠ざかって行く。もう遥か彼方のトンネルの入り口のようだ。
「雪乃さん! ありがとう! ありがとう、雪乃さん――!」
精一杯叫んだが、彼女に届いただろうか。
もう目視も叶わないほどに朧気な光の粒に向けて、私は感謝を込めて合掌した。




