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人生の真昼時は、青春時代だという。そして、黄昏時は、仕事や子育てから解放された老後だとも。
だったら、人生の真夜中時とは、どんな時なのだろう――。
私は、薄暗い廊下に立っていた。
リノリウム張りのミントグリーンの床材には、見覚えがある。いや、見覚えも何も、私が20年近く生活している介護施設の床だ。
夜間徘徊する入居者のために、施設内は廊下もトイレも食堂さえも、真っ暗にしない決まりになっている。暗闇を作らないと同時に、明る過ぎない環境にすることも重要だ。寝起き直後の高齢者は、強い光に晒されると、脳が混乱して暴れる危険があるからだ。
私は――何故、廊下に立っているのだろう。まさか徘徊していたのか。
足元の灰色のスリッパに目を落とす。裸足の足首を覆うのは、いつも就寝時に着ている青い寝間着。やはり、徘徊中なのか。疑惑が一層強まる。
――ペタン
温度感のない床に、スリッパが乾いた音を立てる。
――ペタン
夜勤の職員が巡回するのは、何時だったろう。
漠然と考えながら、行く当てもなく足が動いた。施設の中は良く知っているはずなのに、まるで初めて訪れた迷路の中みたいだ。どうも私の記憶は頼りない。
ぼんやり歩き続けると、階段に着く。手すりを掴みながら、一段一段、ゆっくり降りていく。ペタン……ペタン、不規則なのは、私の右膝の骨が変形し始めているから。今更、必需品の杖を持っていないことに気付く。それでも不安ではないのが、不思議だ。
階下に着いて、一息吐く。顔を上げると、少し進んだ先にフワリと仄かな明かりが見える。
食堂だ。
私と同じように、誰かが起き出しているのかしら。
明かりに導かれるように、スリッパを運ぶ。
入居者が誤って衝突しないよう、食堂の出入口には扉がない。車椅子がすれ違えるくらいの幅もある。
「――あら、いらっしゃい。お久しぶりね」
食堂の奥、カーテンが閉じた窓際の円卓席で、上品な老婦人が微笑みを向けている。あの女性は――。
「雪乃さん……」
入り口で立ち止まった私を見て、彼女は笑みを深めた。
「どうぞ。こちらに、いらっしゃいな」
混じりけのない白髪に緩いパーマを当てたショートヘア。私のように寝間着ではなく、淡いピンクの花柄のチュニックに水色のカーディガン姿だ。
「雪乃さん……あなた、どうして?」
テーブルの前で再び足を止めた私を見上げると、彼女は笑みを消した。
「多恵さん。あなた、今夜亡くなったのよ」
何もかも分かったような穏やかな眼差しに、悲しみの影が差した。
「そう――そういうことなの……」
突然、頭の中にかかっていた霞がスッと晴れていく感覚に捕らわれる。
私は、彼女の向かいの椅子を引き、腰を降ろした。
「あなたは……幽霊? 私も、そうなったのかしら」
城村雪乃は、3年前に亡くなっている。
施設では、年末年始を長期帰宅せずに過ごす入居者のために、特別メニューが供される。彼女は、雑煮の餅を喉に詰まらせて、命を落としてしまったのだ。享年79歳、傘寿の祝いを2日後に控えての悲報だった。
「幽霊といえば、そうなのかも知れないわね」
あの年、息子達が迎えに来てくれて、私は長男のマンションで年末年始を過ごした。お嫁さんがネット通販で取り寄せてくれた絹のショールを、雪乃さんのお祝いに持ち帰ったのだが――結局渡せないまま、棺に納めて貰ったっけ。
「このショール、ありがとう。嬉しかったわ。お礼が遅くなってごめんなさいね」
いつの間にか、彼女は私が贈った若草色のショールを手にしている。良かった、彼女の元に届いていたんだ。
私は小さく首を振った。
「あたし、行く所がないでしょう? いいのよ、気を遣わないで。だからかしらね、最期の場所から何処へも行けないのよ」
彼女は、可笑しそうに微笑んだ。
「……あれから、ずっとここに?」
何故、笑うことができるのだろう。成仏できずに、自分が死んだ場所に縛られることは、辛くないのだろうか。
正面の彼女は懐かし気に瞳を細めると、食堂を、誰もいない広い空間を暫く眺めた。
「あたしね、あんな死に方をしたでしょ? 恥ずかしいし……悔しかったのよねぇ」
「そんなこと……」
事故だったのだから、と言いかけた私を笑顔で制する。
「いいのよ、多恵さん」
彼女は不意に立ち上がる。そして、奇妙なほど滑らかな動きで円卓の横に佇んだ。
あっ、と声を上げてしまった。どうやって立っているのか分からないのだが、白いパンツの膝から下が薄くなり、足首より先が完全に消えて、無い。
「ね? ある夜、気が付いたら、ここに座っていたのだけれど、最初から、こうだったわ。あたし、動けるのは――食堂の中だけなの」
「そんな……」
『地縛霊』という言葉が、一瞬浮かび、掻き消そうと首を振る。
「あなたには、足があるでしょ? きっとまだ、何処か――行かなければならない所があるのね」
「え?」
意外な言葉に戸惑った。今夜亡くなった私には、何も分からない。今更、何処へ行けというのか。
「あたしの悔しさのように、きっとあなたの中にも強い想いがあるのよ。だから、留まっているのだわ」
私は、この世に想いを残して死んだのだろうか。
元々、丈夫な方ではなく、家族には苦労をかけた。夫に22年前に先立たれ、彼の3回忌を終えた所で自宅を売却し、この施設に移り住んだ。子ども達に、介護だ何だと世話をかけたくなかったからだ。
「……分からないわ」
半月前に風邪をこじらせて、私は入院した。死因は恐らく肺炎だったはずだ。子どもや孫達に看取られ、朦朧とした意識の中でも幸せな一生だったと、万感の想いで息を引き取った――はずなのに。
「亡くなったばかりだもの。じきに思い出すのではないかしら」
雪乃さんは小首を傾げ、優しく微笑む。それでも胸の中に生まれた微かな疑念は、小さな炎となって私を包み込み、ジリジリと焦燥感に炙られる。
私の人生は幸せ、だった――のでは、なかったの?




