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学園売店店員の穏やかではない日々  作者: 夢幻


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 ドーミエ商店の正式な刻印が押された異議申立書が公爵邸に届いたとき、フリッツ様は一体どんな顔をしただろう。

 一方的な契約白紙は我が商店の仕入れ計画、および信用に関わる重大な規約違反であること。公爵家の高潔なる名誉のためにも、締結したフリッツ様ご本人からの直接の対面説明を要求すること。

 平民の小娘から届いたとはいえ、公爵家のメンツにかけて無視するわけにもいかなかったのだろう。

 再び、あのメレル公爵邸へと呼び戻された。


 カツン、と硬い足音を響かせて部屋に入ってきたフリッツ様は、あの日とは違っていた。

 テーブルの上にはレモンティーもナッツのタルトもない。ただ、氷のように冷酷な貴族らしい表情だけがそこにあった。


「驚いたよ。平民の分際で、公爵家にこのような書面を送りつけてくるとはね。金が望みならいくらでも上乗せしよう。端金を惜しむつもりはない。だから──これ以上、私の時間を奪わないでくれないか」


 開口一番、蔑むような冷たい視線。

 普通なら足が震えて逃げ出したくなるような威圧感。だけど。まっすぐにその瞳を見つめ返した。


「フリッツ様との契約は白紙に、ということでしたね」


「そう言ってるだろう。これ以上、君たち平民と関わるつもりはない」


「結構です。不当な契約破棄による損害賠償、および違約金は、こちらの異議申立書の通りきっちり請求させていただきます。……ですが、それとは別件で、本日私は新たな契約の商談に参りました」


 フリッツ様の美しい眉が、ピクリと不快そうに跳ね上がった。構わず、鞄からもう一通の、青いリボンで結ばれた上等な書面を取り出し、テーブルの上へ滑らせる。


「新しく、契約をしなおしたいと思います」


「断る。言ったはずだ、ドーミエ商店との取引は──」


「フリッツ様。契約の主体を勘違いしないでいただきたいです」


 一歩前へと踏み出し、不敵に微笑んでみせる。


「我が商店が新たに契約を結ぶのは、あなた様ではありません。──カトリーヌ様です」


「……なっ!?」


「カトリーヌ様と、我々が新たな契約を結びます」


「話が違う! 規約違反の抗議にきたのではないのか! カトリーヌは関係ない、勝手な真似を──!」


 珍しく、声を荒げて焦った様子を見せるフリッツ様。無表情が崩れて明らかな動揺が走る。

 こちらが引き下がるつもりは、勿論ない。


「いいえ。カトリーヌ様は関係あります」


「なに─」


「規約違反を犯したのは、メレル公爵家ではなくフリッツ様個人、ですね。王国貴族法および商会法第309条──『同じ貴族家の、他の構成員が当該商店との取引継続を強く望んでいる場合、前権限者の一存による破棄を不当とし、新たに取引を締結できる』」


 トン、と書面の末尾を指で叩く。そこには、公爵家の令嬢であり、第三王子の婚約者でもあるカトリーヌ様の、正式なサインが筆致鮮やかに記されている。


「王族の婚約者たるカトリーヌ様からの専属指名買いの要望書です。いかに次期公爵のフリッツ様といえど、正当な理由なく、この買い付けを妨害すると、いささか王家との軋轢を産む可能性がありますが……いかがなさいますか?」


「っ!?」


 カトリーヌ様から聞いて調べあげた資料。それを突きつけた瞬間、フリッツ様の端正な顔が驚愕に染まった。いつも微笑みを絶やさない唇が、カタカタと小さく震えて言葉を失っている。

 怒りからではない、はずだ。少し不安になる気持ちを隠し、にこやかに微笑んでみせる。女は度胸と愛嬌、それがあれば最強。


(さあ、ここからどうするのかしら? 黒王子様)


 フリッツ様は絞り出すように言う。


「……カトリーヌを巻き込むな」


「巻き込んでおりません。ご本人の希望です」


「君は何も分かっていない」


「そうかもしれません。それでしたら説明を求めます」


「説明できるものか……!」


 フリッツ様は退路を断たれ、言い訳の余地を失くしたはずだ。しばらく呆然と私と書面を見比べていたが──やがて、深く、深く絶望したように顔を覆った。


「……君を、守りたいんだ」


 泣き出しそうな声だった。少し心が動きそうになるけど、毅然と言う。


「商人を舐めないでください」


「……っ、そう言われても!」


 フリッツ様は、前髪を乱暴にかきむしりながら、大きな声を出した。ギラギラとして、でも悲痛な瞳がこちらを射抜く。いつにない、激情にかられたような姿。


「俺は君を利用するつもりだった、我が家の没落を防ぐためだけにね。なのに、君が俺の計算を全部飛び越えて、あんなに一生懸命に生きて、俺に笑いかけてくるから……気がついた時には、もうダメだったんだ」


 また一人称が俺になっている。きっと、これは外面を取っ払ったフリッツ様。

 彼は私の肩を掴もうとして──先日、怯えてビクッとしたことを思い出したのだろう、血がにじむほど強く拳を握りしめて、その手を自ら引き戻した。


「君を近くに置けば、また先日のような目に遭う。家のせいで、君の命が、尊厳が奪われるかもしれないんだ。俺にはそれが耐えられない。頼むから俺から離れてくれ。クラリッサ……!」


 自分を悪者にしてでも、私を安全な平民の世界へ帰そうとする、馬鹿みたいに優しくて不器用な人の本音。ようやく聞けたそれに、フッと不敵に笑ってみせた。

 フリッツ様が引き戻そうとしたその大きな右手を、両手で、逃がさないようにぎゅっと強く掴み取る。


「嫌です」


「クラリッサ……!?」


「私を巻き込むのが怖いなら、二度と誰も私に手出しできないくらい、私を高く買い取ってくださいな。私は平民の商人です。懸念点も織り込み済みで、あなたに全財産を張ろうと思ってます。……好きなので。今さら引き下がるわけないでしょう?」


 フリッツ様は完全に言葉を失った。信じられないものを見るように目を見開き、私の手を、今度は向こうから骨が軋むほどの強い力で握り返してきた。


「平民の分際で、公爵家に嫁ぐことになるんだよ。これから先、どんなドロドロした貴族の闘争に巻き込まれても、俺から逃げられると思わないでほしい」


 フリッツ様は、切なげに、けれど最高に意地の悪い、愛おしさに満ちた笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。


「──もう、諦めてあげられないよ」


 溢れそうになる涙をグッと堪え、満面の、商人としての最高の笑顔を見せる。


「望むところです、フリッツ様。私は商人、強欲なんです。欲しいものは何でも手に入れます」


 目を丸くしたあと、フリッツ様は堪えきれずに吹き出した。肩を震わせ、珍しく大きな声で笑う。


「君はうちの妹よりよっぽど我が儘だな」


「ご存知ありませんでした?」


 胸を張って、意地悪く笑ってみせた。フリッツ様は笑いながら、腰を引き寄せて額をくっつけてくる。熱い吐息が頰にかかった。


「ああ、知らなかった………最高だ!」


 そう言って笑ったフリッツ様の瞳には、商談の始めに見せていた冷酷さなんて微塵も残っていなかった。ただ熱くて、溺れるような愛おしさだけ。

 額を合わせたまま、彼の大きな手が、今度は躊躇わずに頬を優しく包み込む。親指でそっと唇をなぞり、低く、甘く囁いた。


「全財産を張ると言ったね。なら、君の人生はすべて俺が買い取らせてもらうよ。これから毎日、一秒だって君を離さない」


「……っ、それは、ちょっと過保護がすぎるのでは……」


「嫌だと言ってももう遅い。商人なら、一度交わした契約は最後まで全うしてもらわないとね」


 そう言って、彼は私の返事を聞く前に、今度こそ深く、深く私を抱きしめた。


「逃がさない」


 耳元で囁かれた声に、思わず顔が熱くなる。


「望むところです」


 そう答えた瞬間、抱き締める腕の力がさらに強くなった。




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