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メニュー001 帝国の冷たいスープ①

 ルークベル帝国の王宮の地下深くには、決して陽の光が届かない場所が存在する。



 【王宮地下牢】



 国家への反逆者や重罪人が収監されるその場所は、帝国で最も暗く冷たい場所として知られていた。


 石造りの通路には湿気がまとわりつき、壁の隙間には黒ずんだ苔が広がっている。


 天井からは、時折水滴が、ポタリ、ポタリと不気味な音を響かせていた。


 空気は淀み、鼻を突く汚水の臭い。


 そして、長年蓄積された人間の血の臭い。


 そんな地下牢に、一人の少女が座っていた。



 【フィリア・アンダルシア】



 長いブロンドヘアは腰近くまで伸びており、薄暗い牢内でも、微かに黄金色の輝きを放っている。


 透き通るような白い肌、深い蒼色の瞳、整った顔立ちは北方の貴族令嬢を思わせるほど美しい。


 彼女の年齢は、24歳。


 しかしその顔には幼さが色濃く残っており、街を歩けば10代の少女と間違われることも珍しくなかった。


 そして彼女は、帝国最高の【薬師】だった。


 フィリアは、静かに膝を抱えたまま鉄格子の向こうを眺めている。


 怒りや恨みはない。


 ただ静かに座っていた。


 昔からそうだ。


 感情を表に出すことが苦手だった。


 平民として生まれたフィリアは、魔法が使えなかった。


 貴族が支配するルークベル帝国において、それは大きな欠陥だった。


 魔法が使えない平民。


 その肩書きだけで見下されることも少なくなかった。


 しかしフィリアには才能があった。



 【薬学】



 それだけは誰にも負けなかった。


 薬草の選別、成分の抽出、調合と精製。


 その技術は常識を超えていた。


 やがてフィリアは、従来の回復薬を遥かに超える新薬の開発に成功した。


 傷を癒やし、病を治し、瀕死の重傷者さえ救う奇跡の薬。


 人々は、その新薬をこう呼んだ。



 【ポーション】と。



 その新薬の名は、瞬く間に帝国全土へ広がった。


 辺境の村、そしてここ王都、さらには戦場でも人々はポーションを求めた。


 騎士達の生還率は劇的に向上し、多くの命が救われた。


 本来ならば、フィリアは英雄として称えられるはずだった。


 しかし現実は違った。


 フィリアは、優秀過ぎたのだ。


 ポーションという高品質な新薬の登場を、疎ましく感じていた人物が、ただ一人。



 それは【聖女】であった。



 これまで治療を独占していた存在。


 神の奇跡を扱う絶対的権威。


 人々は、聖女の治療を求めて教会へ通い、多額の寄付を捧げていた。


 だが、ポーションが登場したことで状況は一変した。


 高額な寄付は必要ない。


 教会へ行く必要もない。


 ただ薬を飲むだけで傷が治る。


 当然、人々はポーションを選んだ。


 その結果、聖女はフィリアを憎むようになった。


 こうしてフィリアは、身に覚えのない罪を着せられ、地下牢へ放り込まれて今に至る。


 フィリアは、小さく白い息を吐いた。


 寒い。


 地下牢の空気は骨の奥まで冷やしてくる。


 それでも何も言わない。


 どうせ誰も聞いてくれない。


 その時、重い足音が近付いてきた。


 ガシャリと鎧が鳴る。


 現れたのは牢番の騎士だった。


 騎士は、フィリアを見るなり露骨に顔をしかめている。


 かつて帝国中から称賛された天才薬師が、今では罪人として地下牢に座っている。


 騎士は鼻で笑うと、手に持っていた木の器を、乱暴に牢内へ投げ入れた。


 ガタンッという音と共に、木の器が床を滑る。


 中身の大半が、こぼれてしまった。


 しかし騎士は、悪びれる様子もなく「ヘヘッ、ほらよ飯だ」と吐き捨てるように言った。


 フィリアは、両手でゆっくりと木の器を持ち上げる。


 中には、少量のスープが入っていた。


 冷えている。


 湯気は一切立っていない。


 表面には薄い油膜が浮き、その油は白く固まり始めている。


 具材は、ほとんど見当たらず、わずかに野菜らしき欠片が沈んでいるだけだった。


 ここルークベル帝国は、様々な食材が豊富に採れる国として有名で、近隣諸国との取引に食材が使われる程、豊かな国だ。


 しかし目の前のスープは、貧相であった。


 スープの色も灰色に近い。


 煮込み過ぎたのか、それとも最初から傷んでいたのか判別できないほど変色していた。


 鼻を近付ける。


 生臭い。


 腐敗臭とまではいかないが、食欲を刺激する香りとは程遠い。


 湿った雑巾を長期間放置したような臭いが混じっている。


 フィリアは木匙を入れた。


 ドロリと不自然な粘り気がある。


 溶けた野菜の感触ではない。


 濁った水に小麦粉を溶かし入れたような重たい感触がする。


 フィリアは、静かに木匙を口に入れた。


 口の中に広がったのは味気なさだった。


 塩気がなく旨味もない、そして香りもない。


 驚くほど薄い。


 だが後味だけは酷かった。


 酸味とも苦味とも違う不快な雑味が、舌の奥に残り続ける。


 温かければ、まだ誤魔化せたかもしれない。


 だがスープは冷たく、完全に冷え切っている。


 油は固まり、具材は崩れ、臭みだけが際立っている。


 それでもフィリアは食べ続けた。


 一口、また一口。


 ゆっくりと、静かに。


 生きるためだった。


 美味しいから食べるのではない。


 空腹を誤魔化すためでもない。


 ただ生き延びるために食べる。


 それだけだった。


 やがて最後の一口を飲み込む。


 口の中には、嫌な苦味だけが残った。


 フィリアは、空になった木の器を見つめている。


 そして小さく呟いた。




 「……おいしいご飯、食べたいな」




 その願いは、“ここでは”誰にも届かない。




 そう、“ここでは”―――。 




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