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産まれたばかりの赤子で歯も生え揃っていないのに、どうしてはっきり言葉を発することができたのか、とか、なぜ頭の中で吐き散らした前世の悪態がそのまま口から出てきたのか、といった疑問を感じる余裕もなかった。
冗談半分で「遊戯的設定」が本当に実在したらどうなるのかと考えていたら、いきなり瞼の裏に「個別記録一覧」なるものが現れたのだ。
とはいえ、若者向けの小説でよく見受けられるような、戦闘力とか魔力とか技能などの要素が数値化されて並んだものではなかった。
私が毒づいたのは、最初に「寿命」の文字が視野に飛び込んできたせいだった。
名前:セイジ
性別:男
最長寿命:120歳
最短寿命:0歳
以前と同じ響きの名であったことは単なる偶然で片づけられるが、その下に表示された内容には、筋金入りの擦れっ枯らしを自認する私も愕然としてしまった。
この「個別記録一覧」とやらは、本来ならば、神とか超自然的存在と呼ばれる者だけが扱えるような代物ではないのか?
物語の冒頭の場面で見かけるような、異世界転生という摩訶不思議を体験した私一人に与えられた特典なのか?
あるいは、他の連中も「一覧」を持っていて、いつでも好きなときに覗くことができるのだろうか?
今の時点では事実を確かめる手段がないから、あれこれと思案したところで推測の域を出ないのだが、ろくでもないことが起きそうな予感がした。
何よりも胸糞悪いのは、私の「最短寿命」が出ていやがることだった。
どこかに捨てられて野垂れ死にする、という結末は避けることができたが、この一年のうちに何らかの病に感染したり事故に遭ったりして死んでしまう、もしくは私のことを目障りだと感じている者に殺されてしまう可能性がある、というわけだ。
ついでに「最長寿命」も表示されていたが、その程度で喜んでやるほど私はおめでたい人間ではない。
要するに、よほど運に恵まれれば百二十歳まで生きられるかもしれない、という希望を伝えられたにすぎないのだ。
だが、臍の尾が切れて間もない赤子の身体に宿ってしまった状態で、そいつが何の役に立つというのか?
偉そうに「個別記録一覧」などと名乗るなら、もっとましなものを寄越しやがれ。
胸の内で飛ばした罵声が届いたのか、苛立たしく溜め息をついたときには、別の数字が瞼の裏に表示されていた。
生命力:5
精神力:60
総合判断力:50
知識習得力:40
経験応用力:70
実践行動力:40
肉体耐久力:3
精神耐久力:50
感情制御力:20
幸福度:8
最初の二つの項目を見て、こいつは「遊戯的設定」そのものではないか、と思わず眉を顰めたが、続いて出てきた数値に安堵の息をついた。
世間知らずな十代の若者ならば、戦闘力や魔力や技能といった名前が一つもなくて肩を落としたかもしれないが、生憎と私は普通の人間とは違った擦れっ枯らしなので、異世界を舞台にした小説のような事態にならなくてよかった、と心から思った。
もし本当に「遊戯的設定」が存在するとしたら、果たしてどういう状況になるのか、と考えると、正直言ってぞっとする。
例えば、一人で何百もの敵を薙ぎ倒してしまう剣士や魔術師が、周囲から救世の英雄と呼ばれて礼讚されるならば、その根底に隠されているのは「強大な暴力を行使できる人間は尊敬されるべし」だ。
逆に言えば「暴力を振るえない人間は侮蔑されるべし」ということになる。
また、漫画の台詞で出てくるような「可愛いは正義」があるとしたら、同時に「醜いは悪」も存在する、というわけだ。
おまけに、これは「設定」つまり「世界の法則」として成り立っているから、どんなに理不尽だと感じても、別のものと取り替えることができないのだ。
さらにつけ加えるなら、そいつにどんな適性があって、どういう風に利用するのが最も効率的なのか、といった個人的な機密がおおっぴらにされてしまう仕組みは、権力者の側にとっては、涎が溢れて止まらなくなるくらい都合のいい道具になり得る。
当然ながら、国王や貴族や宗教組織といった欲が深くて面の皮が厚い連中が、これほど便利な代物を野放しにしておくはずがなく、支配下にある庶民に対しては身分差や裕福度を名目にして使用を禁じながら、ごく一部の人間だけが旨い汁を吸い続けられるように、公平性のかけらもない法や制度を作ってがっちり固めてしまう。
行き着く先は、革命なんて甘っちょろいものは鼻で笑い飛ばしてしまう、隕石の雨でも落として根こそぎ破壊しなければ覆すことのできない管理社会──前世の作家が寓話の形で書き記したような、すべての民衆が奴隷化されて家畜同然に扱われる牢獄だ。
こうなったら、もはや前世よりも救いがない。
まったく、反吐が出る。
どんなに頑張っても自分ではどうすることもできない弱い者は、いくら助けを求めても誰にも相手にしてもらえず、いつ酷い目に遭ってもおかしくない日々を余儀なくされ、力ある連中に虐げられる立場にいつまでも甘んじるしかない。
架空の話で取り上げられることは滅多にないが、せいぜい情景描写の一部くらいにしか扱われない名もなき人々は、絶望と貧困を背負わされたまま、そこから抜け出す機会を与えられることもなく、もがき苦しみながら死んでいくのだ。
若者向けの小説で、神の恩寵を授かった主人公が最強で、金銭的にまったく苦労せずに思うままに振る舞う、という内容のものがあるが、そのような作品に対して、年配の読者が嫌そうに顔を背けたりこき下ろしたりするのは、この不愉快きわまりない現実──人生を物語に喩えるなら、華々しい表舞台に立つことは一度もなく、確かに生きているのに自分の存在すら誰にも気付いてもらえない、という何よりも胸糞悪い現実──を否応なく見せつけられて、長年にわたって心の奥底に溜め込んだどす黒い感情が噴き出してしまい、どこにもぶつけることができない怒りを抑えられなくなるからだ。
少なくとも、かつての私はそうだった。
どういうわけか転生を果たしたこの異世界も、胸糞悪い部分については前世と比べても大して変わらないだろうが、終わりのない拷問のような忌々しい事態だけは、辛うじて避けることができたのではないかと思う。
「くぅ?」
憂鬱な気分を振り払おうとして息を吐いたとき、枕元で丸くなっていた薄緑色の謎兎が目を開けて、何か訊きたそうな顔で鳴き声を上げた。
首を傾げる仕草は、すっかり私に懐いてしまった仔犬そのものだった。
すでに自分の一部と化してしまっているどす黒い感情が、気付かないうちに外に漏れて伝わっていたのだろうか?
どうやら、飼い主でもなのに私のことを心配してくれたらしい。
「くぅん」
謎兎は鼻を鳴らして、まだ短い産毛しか生えていない私の頭にぬいぐるみのような顔を擦りつけてきた。
前世では──おそらく今も同じだと思うが──根っからの人間嫌いな私だったが、犬や猫のような動物を相手にするのは割と好きだった。
とはいえ、世話なんて面倒臭くてやっていられないと思っていたから、実際に飼ったことはなかったが。
それでも、利害関係を考えなくてもいい相手が傍にいてくれるのはありがたい。
どこにも行き場のない鬱憤を溜めすぎて荒みきった心が、僅かながら澄んでいくような気がした。
まあ、自分の力ではどうしようもないことに愚痴をこぼしたり、思いつく限りの悪態を吐き散らしたりしても、何かが変わるわけでもないのだから、他のことを考えるとしよう。
いつの間にか強張っていた肩の力を抜いて、瞼の裏に映し出された「個別記録一覧」に意識を向けた。
相変わらず空腹も眠気も感じないので、暇潰しを兼ねて、このどうすることもできない退屈を紛らわせる必要もあった。
本当に産まれてから半日くらいしか経っていない赤子なのか、と思いながら、ずらりと並んだ数値の列を眺めていった。
だが、すぐに興味を失ってしまった。
一見すると「遊戯的設定」と勘違いしてしまいそうな項目が表示されているが、ここに出ている数値が高いのか低いのか、一般的な人間の平均値はどのくらいなのか、他の赤子と比べてどんな状態を意味しているのか、といった部分がさっぱりわからないからだ。
今の時点では、評価も判断も下しようがない。
私の「精神力」とやらは「60」となっているが、仮に「最低値が1で最高値100」という範囲で決められているならば、その場合は「真ん中より少し上」になるだろう。
ところが、これが「最低値が1で最高値が1000」だったら、一変して「ほとんど底辺と同じ」という位置づけになってしまうし、逆に「最低値が1で最高値が10」ならば「末恐ろしい化け物」と呼ばれる羽目になる。
つまり、この「個別記録一覧」についてあれこれと考えてみても、単なる時間と労力の無駄にしかならない、というわけだ。
権力者にとってこの上なく都合のいい道具になってしまう点を別にすれば、かなり役に立ちそうだと思えたのだが、蓋を開けてみれば期待外れな代物だったな、と苛立たしく溜め息をついたとき、いきなり目の前が暗転して意識が途絶えた。
自分の身に何が起きたのか、まったくわからなかった。
気付いたときには、私が寝かされている部屋の中が仄かに明るくなっていた。
錯覚ではなかった。
換気用に造られたと思われる、天井近くにある通風孔のような小窓から、朝の陽射しが差し込んでいた。
枕元で寛いでいた薄緑色の謎兎は、腹を空かせてどこかに出かけているのか、小部屋の中には見当たらなかった。
どうやら、知らないうちに眠ってしまったらしい。
だが、目覚めたときの気分はいいものではなかった。
さすがに赤子だった頃の記憶まではないから何とも言えないが、今回のような寝落ちの仕方は普通なのだろうか?
それとも、新生児の中に放り込まれた私の魂が、まだ幼い身体に馴染んでいないということなのか?
何度も欠伸が出る、とか、瞼が重くなって自然に目を瞑ってしまう、といった明らかな徴候がまったくなかったのに、急に睡眠状態に入ってしまったのだ。
こいつは冗談抜きで気をつけなければならない。
風呂に浸かっているときだったら溺死してしまうかもしれないし、汲み取り式の便所で用を足している最中だったら転落死もあり得るのだ。
要検討の案件が一つ増えてしまったが、自分の命に関わることだから、しっかりと心に留めておく必要がある。
さて、最初の一日はどうにか生き抜くことができたわけだが、これから何をすべきだろうか?
真っ先に感じたのは、腹が空いていることだった。
ちゃんと声が出せるのは確かめたが、誰かに来てもらうためには、前世の赤子のように泣き叫ばないといけないのか?
こちらで「普通」とか「常識的」と呼ばれるのがどんな状態がわからないので、迂闊な真似をしてありもしない疑いを持たれるわけにはいかないが、だからといって黙って見過ごすこともできない。
「くぅん?」
思うように動かない赤子の身体に悪態をついているうちに、どこかに行っていた謎兎が枕元に戻ってきた。
いかにも鈍重そうな見た目に反して、まったく気配を感じさせなかった。
薄緑色の謎兎は何かを伝えようとして私の顔を鼻先で突いてから、垂れた耳をぴくぴく揺らして小部屋の扉のほうを向いた。
しばらく経って、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
勢いよく開け放たれた扉から駆け込んできたのは、頭から足の先まで覆い隠す黒灰色の僧衣という修道女の格好をした人物──霊安室らしき場所に寝かされていた私のことを見つけた若い娘だった。
「──、──!」
根っからの子供好きなのか、あるいは何か感激するようなことでもあったのか、鳶色の瞳を輝かせて私を抱き上げた。
柑橘類の芳香が混じった石鹸の匂いに包まれると、妙な安心感に襲われた。
個人的には、会ったばかりの人間を信用することなどあり得ないのだが、赤子の身体が自分を庇護してくれる相手だと本能的に感じているのだろう。
いずれにしても、さっさとこの空きっ腹を満たさなければならない。
昨夜はまったく飢餓感などなかったのだが、今は修道女の娘が手に持っている哺乳瓶に視線が釘付けになっていた。
何かの皮を加工したと思われる吸い口がついた容器の中身は、生まれて間もない子供がいる女に分けてもらった母乳でもなければ、家畜として飼っている牛や山羊の乳でもなかった。
林檎と葡萄を混ぜ合わせたような匂いのする果物を搾ったものらしい。
密かに私を始末するために用意した毒ではないか、と疑っていた部分もあったが、目の前にいる娘には敵対する意思はないとわかって、小さく安堵の息をついた。
前世では、他人に対する警戒心が強すぎると揶揄されたものだが、私にとってはこれが物心ついた頃から当たり前な感覚だった。
それはそうと、搾りたての果汁を嬰児に与えるというのは、こちらの世界では一般的な育て方なのだろうか?
赤子に母乳を飲ませるのは、親の体液を通じて直に免疫力を与えるためであって、単に栄養面だけを考えるならば他の飲み物でも代用はできるから、哺乳瓶の中身については驚くほどのことではない。
とはいえ、前世の記憶がある者としては強く興味を引かれる事実だ。
なぜなら、長らく人間が主食としていたのは果物だからだ。
こう言うと、必ず「ちょっと待て、米や小麦を育ててきたじゃないか」といった反論が出てくるが、穀物を栽培するようになったのは、大量に収穫できて数箇月にわたって保存が利くからだ。
同時に、権力者にとって「税」として徴収するのに好都合だったから、という政治的な理由もある。
前世の故国でも、遠い昔の「租庸調」の頃から数えて、千年以上もの間「税」の主役を譲らなかった超優良品なのだ。
実のところ、野垂れ死にを避けるのに手一杯で、その日暮らしの生活と変わりなかった庶民が、普通に白いご飯を食えるようになったのは、せいぜい五、六十年前のことにすぎない。
そういうわけで、米は「社会的地位の象徴」でもあった。
要するに「俺様は白いご飯が食えるんだぞ! どうだ、羨ましいだろう!」と、周囲の者に自慢できる贅沢品だったのだ。
だいたい、穀物は「きちんと熱を通した上で塩や香草などで味つけする」という処理を済ませなければ、まともに口にできる代物ではない。
土器のような道具の作り方と火の熾し方を知らなかった時代の人類が、主食として米や小麦を選んでいたら、おそらく十年も経たずに絶滅したか、あるいは今の自分たちとは似て非なる生き物に進化していただろう。
「くぅ?」
私が寝かされていた石造りの台の上に居座った謎兎が、首を傾げて「飲まないの?」と訊くような感じで小さく鳴いた。
気付いたときには、木製の哺乳瓶の吸い口が私の唇にそっと押し当てられていた。
そのまま飲んでも大丈夫だろうか、と自問したが、昨日の夜から何も口に入れていない赤子の身体が勝手に反応して、甘い匂いがする哺乳瓶の中身に飛びついていた。
長いこと空腹を我慢していたせいか、勢いよく喉を通り過ぎていく果汁は、思わず歓喜の声を上げたくなるほど美味かった。
どうやら何の問題もなさそうだ。
胃袋が倍に膨れたのではないかと感じた頃にようやく気付いたが、信用できるかどうかわからない人間の前で警戒を緩めてしまったのは、本来の私の性格からは考えられない迂闊な行為だった。
餌をぶら下げて近づいてくる相手はたいてい何か企んでいるものだ、ということは嫌と言うほど身に染みていたのに、あっさり誘惑に負けてしまったのは反省すべきだ、と自分を戒めたが、さすがに生き物として最も基本的な本能が相手では敵わないのだな、とも思った。
「──、──?」
黒灰色の僧衣を着た若い娘は、中身が空になった哺乳瓶を持ったまま、空いたほうの腕で器用に私を抱いて尻と下腹部を撫でた。
お漏らしがないかどうか確かめるためだろう。
今のところ粗相はしていないが、当分の間は排泄するのも他人の手を借りなければならないのか、と考えると、さすがに気が滅入った。
どうしても避けられない以上は仕方がない。
前世で急病を患って入院したときを思い出しながら、ここは余計なことは考えずに割り切るしかない、と自分に言い聞かせた。
「──、──」
修道女の格好をした娘は、おそらく「また来るからね、いい子にしてるんだよ」という感じの言葉を告げて、寝床の代わりにしていた石造りの台の上に私を横たえてから、本当はもっと相手をしていたいのにという心の声が伝わってくるような表情で去っていった。
すっかり私の枕元をお気に入りの場所にしやがった薄緑色の謎兎は、どこかで餌を手に入れて満腹になったのか、垂れた耳を立てて外敵を警戒する様子もなく、丸々とした身体をだらしなく伸ばした格好で眠ってしまった。
さて、再び暇を持て余す身になった。
十分に頭は冴えているのに首から下は不自由を強いられている状態で、何かできることがあるだろうか?
せいぜい考えごとをするくらいしか思いつかなかった。
もっとも、自分の生死に直に繋がる事柄については、私としては絶対に検証を欠かすことはできないから、費やした時間と労力が無駄になることはないはずだ。
腹一杯になってひと息つけたし、飲み食いする機能に目を向けるとしよう。
産まれたばかりでもはっきりと周囲を把握できる視力があったり、起きている間ずっと眠気や空腹を感じなかったりする、といった、前世の赤子と比べて異常と呼んでも差し支えない身体なのだから、かつての常識とどの程度かけ離れているのか、またどれくらい共通しているのか、という点について、時間の許す限り調べておく必要がある。
となると、真っ先に確かめる必要があるのは、下顎を横に動かせるかどうか──奥歯を使って、口の中に入れたものをすり潰せる仕様になっているかどうかだ。
まったく問題なくできた。
歯が生え揃っていないので、今の時点では断言できないし、何らかの形で前世の意識が影響しているかもしれないが、この赤子の身体は少なくとも肉食ではない、と考えて間違いないだろう。
初めて謎兎に遭遇したときに「こいつは美味そうだ」と思わなかったのも、本能が腹を満たすための食糧と感じていない証拠だと言える。
目だけ動かして、すでに我が物顔で枕元に居座ってしまっている相手を見たが、やはり人懐っこい愛玩動物という印象しかない。
毛皮を剥いで生肉にかぶりつく自分の姿を脳裏に思い浮かべても、唾液が溢れたり腹が鳴ったりすることはなく、逆に嫌悪感が湧き上がってくるだけだった。
とりあえず、この身体が飲み食いするものは前世と同じだ、としておこう。
できれば──刃物で切り刻むのが好きだから、という理由ではないが──人間の死体を解剖して、内臓の配置や小腸の長さなどをきっちりと把握しておきたいところだが、残念ながら、これは実現できるかどうかわからない話だ。
「くぅん」
薄緑色の謎兎が目を覚まして、大口を開けて欠伸をした。
わざと嫌がらせしやがったわけではないだろうが、何とも表現しようのない臭いのする息がまともに顔にかかった。
ずいぶんなご挨拶だな、おい。喧嘩でも売っているのか? だったら、動けないように縄で縛って火炙りにしてやるぞ?
「く、くぅん!」
声に出さない恫喝が効いたのか、謎兎はすっかり怯えた様子で、平謝りするように鼻を鳴らしてすり寄ってきた。
前世で見知った草食動物とは違って、目が顔の正面についているせいか、どう考えても人間に慣れた仔犬としか思えないのだが、可愛らしいというよりもふてぶてしい感が強かった。
おまけに、何やら特殊な能力でも持っているのか、私が胸の内で思っていることを読み取って理解しているのだ。
まさに謎の生き物と呼ぶのが相応しい。
ということは、前世の兎とは違って、こいつは見境なく牧草や野菜を食べたり、性欲を丸出しにして繁殖行為に励んだりしないのか?
「くぅ!」
私の疑問に機嫌を損ねたらしく、甲高い声を上げて首を横に振った。
何となくだが「あいつらと一緒にしないで!」と言われたように感じた。
声には出していないが、普通に会話ができている気分だった。
いや、待てよ。
訳のわからない「個別記録一覧」なる代物が現にあるくらいなのだから、漫画や小説に出てくる「念話」のような能力が存在していても、まったく不思議ではないと考えておくべきだ。
むしろ、ごく限られた者だけに伝わる秘術ではなく、数千人とか数万人といった単位の集団に広まっていて、誰でも当たり前のように使える日常的な道具になっているかもしれない。
反対に、神の恩寵と呼ぶべき「異能」を与えられなかった人間が、犯罪者と同じような扱いをされて監獄に放り込まれたり、宗教的な異端者として住んでいる場所から強引に追い出されたりする、という事態が起きている可能性もある。
まあ、捨てられたも同然の身だから、あまり心配はないと思うが。
異世界の赤子に宿った瞬間の記憶を呼び起こしてみたところ、どうやら母親の胎内から出てきた時点で息をしておらず、蘇生術を施されることもなかったようだ。
身を清められて、今までただの毛布だと思い込んでいた死装束を着せられてから、この建物──教会なのか修道院なのかわからないが、何らかの宗教的施設──に遺体として預けられたらしい。
肉親の者にとっては、すでに「忘れ去られた子供」というわけだ。
だが、目玉が飛び出るような金額の遺産相続が絡んでいるのでなければ、向こうが私のことを完全に無視して放置してくれるのは、むしろ都合がいい。
言い換えれば、こちらが産みの親に向けて「血が繋がっていても、家族など赤の他人と同じだ。どこで何をしていようが知ったことではないし、顔も見たくない」という無関心な態度をおおっぴらにしておけば、一族を脅かす人物として命を狙われる事態は避けることができる、というわけだ。
もっとも、そいつらが裏で何かろくでもないことを企んでいないかどうか、抜かりなく調べておく必要はあるが。
急に頭に思い浮かんだ懸念材料も一応は片づいたな、と胸の内で呟きながら、深く吸い込んだ息を吐き出した。
未発達な新生児の脳を酷使したせいなのか、徹夜したときのような熱っぽさと疲労感があった。
異変が起きたのは、ちょっと休憩しようと思って目を瞑ったときだった。
瞼の裏に眩い光を感じた瞬間、意識の隅に追いやっていた「個別記録一覧」が、自分の意思とは関係なく現れていた。
何かあったのだろうか、と疑問を感じる間もなく、適当にやり過ごすわけにはいかない内容が表示されていた。
天賦の異能:念動力
幻覚ではなかった。
何度か瞬きを繰り返したが、瞼の裏に映し出された文字が消えることはなかった。
だが、どういうことなのかわかるようにしやがれ、と思いながら睨み続けても、詳しい説明が出てくることもなく、いつまでも「天賦の異能:念動力」という言葉が浮かんでいるだけだった。
相変わらず、この「個別記録一覧」は肝心なところで役に立たない代物だ。
異世界転生ものの小説が好きな十代の青少年ならば、このような特殊な能力が使えると知って大喜びするかもしれないが、旨い話には必ず落とし穴があることを身をもって経験している者としては、何やら面倒臭いことになりそうだ、という嫌な予感しかしなかった。
毛布に包まれて寝かされている赤子の格好でやるのは実に似合わないが、苛立たしく舌打ちして、慣れ親しんだ悪態を吐き散らした。




