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 ファラール王国の第三の都市で、かつてこの地がルビオン王国と呼ばれていた時代には首都であったサラザード。


 私にとっては、聖ルヴァレン修道院に所蔵されていた書物を読んで名前だけ知っていた場所でしかなかったのだが、その印象は実際に足を踏み入れた今も変わらなかった。


 というのも、サイディアル家の馬車が着いたときには日没を過ぎていて、すでに周囲が真っ暗だったからだ。


 市門の近くで篝火が焚かれているのに加えて、大通りだと思われる街路──はっきりと自分の目で確かめたわけではなかったが、敷き詰められた石畳に蹄鉄が当たる響きからそう判断した──には、すでに見慣れたものになった発光性の観葉植物が一定の間隔で植えられていたとはいえ、生憎と十分に観察できる明るさはなかったのだ。


 度の強い眼鏡が欠かせなかった前世の視力を引き継いだわけではない。


 冗談抜きで、夜の都市の内部は、ほとんど何も見通すことができない暗闇だった。


 護衛を兼ねている壮年の御者が、硝子張りの角灯を手に持った木の棒の先に吊り下げて掲げていたが、せいぜい腕を伸ばした程度の範囲しか照らされていない。


 おかげで、短槍を持った二人の衛兵が見張りに立つ市門を抜けてから、どこをどういう風に通ってサイディアル家の屋敷まで辿り着いたのか──私の記憶違いでなければ、数回しか曲がり角を折れた様子はなかったから、それほど複雑な道順ではなかったはずだが──さっぱりわからなかった。


「夜になったら明かりが灯るのが当然」という前世の感覚が残っていたせいか、これには失望を隠せなかった。


 市街地の造りや佇まいを外から見て、自分が生活するのに適した場所かどうか、そして身の安全と公衆衛生と利便性の三つについて確かめるのは、もう少し信用を得て自由に外を出歩くのを認めてもらうまで待つしかないな、と諦めた。


 いずれにしても、今は目の前にいる集団に意識を向けなければならない。


 サイディアル家の屋敷の正門から大広間に招き入れられて、結構な量の荷物を馬車から運んでひと息つけたのは、おそらく深夜に近かったのではないかと思うが、そこには一族の面々が──当主と同じくらいの年齢の男女から、私よりも何歳か上の子供まで──二十人も揃っていたのだ。


 おかげで、建物の外観や内装の仕方や家具の様式について調べるのは、別の機会にせざるを得なくなった。


 これほどの頭数が一列に並んで待ち構えているとは思っていなかった。


「当主の気まぐれで運よく拾われた孤児」という身分でしかないから、こっそり裏口から中に入れられて、ごく少数の人物にしか存在を知らされない隠し子のような扱いをされるのだろう、と信じて疑わなかったのだ。


 得体の知れない者を警戒するような視線を浴びせられるのは予想していたので、こちらは驚きではなかったが。


「こんな夜遅くに集まってもらって、皆の者には感謝する。こそ泥の小僧と勘違いされて騒ぎになるのは面倒なのでな、顔合わせだけは済ませておきたかったのだ。早速だが、亡き末息子セルディの忘れ形見であるセイジを紹介しよう」


 サイディアル家の当主であるゼクスに背中を押されて、前に歩み出た。


 いきなり本性を出すのは得策ではないと考えて、一族の面々に「セイジです」と告げて頭を下げた。


 年齢の割には図体が大きいが中身は普通の子供と変わらない、と周囲の連中に錯覚させるために、恥ずかしがり屋で人見知りの幼児の振りをしてみたのだが、うまく欺くことができただろうか?


 血縁上の祖母である老婦人の陰に隠れるように──サナには「今頃になって子供っぽく振る舞うの? 手遅れではないかしら?」と言われそうな顔をされたが──して、煉瓦造りの暖炉の脇で固まっている連中の顔を素早く脳裏に刻み込んでいった。


「くぅ!」


 どういうわけか、雑食兎が嬉しそうに私の真似をして、前脚で服の裾を掴んで丸くなる格好をしたせいで、何やら微笑ましい場面になってしまったが。


 とりあえず、私を歓迎しているような雰囲気が感じられる人物は「好意的」という枠に入れて、特に目につく反応を示さない者は「中立的」と分類していった。


 冷ややかに見下すような態度を隠そうともしない小太りの中年男と、こちらを威嚇するように睨みつけている肉感的な身体つきの女、忌まわしい生き物を見るように嫌悪感をあらわにしている青年と、甘やかされて育った感じがする生意気そうな少女の四人は、しっかりと面構えを記憶して「敵対的」かつ「要注意」と警戒する。


 親族が何人いるかについては、血縁上の祖父母であるゼクスとサナから大雑把に聞いてはいたが、さすがに名前と顔が一致していないので、誰が誰だかさっぱりわからない。


 まあ、いきなり全員を紹介されても覚えきれないので、最初の顔合わせの時点ではこの程度で十分だろう。


 そもそも、筋金入りの擦れっ枯らしを自認している私にとって、人間関係というものは複雑なものではなく、きわめて単純な代物だ。


「親しくなる」とか「友人になる」といった選択肢は、最初から存在しない。


「敵」と「味方」と「どちらでもない」の三つに、互いに利用し合う相手として「使える者」か「使えない奴」という要素をかけ合わせた六種類に分けるだけだ。


 難しく考える必要がないから、ある意味では気楽なものだ。


 こういうやり方には眉を顰める者もいるかもしれないが、まったく問題はない。


「他人と無理に仲よくしなくてもいい」そして「上っ面だけ取り繕う必要もない」という割り切った態度を貫くのは大変そうに見えるかもしれないが、実のところ「自分にとって取るに足らない人間は『本心からどうでもいいもの』として切り捨てる」のは、生きていく上ではきわめて重要ではないかと思う。


 他の連中の場合はどうなのかわからないが、私に言わせれば「死ぬまでの間ずっとつき合える相手など一人もいないのが普通で、運よくいたとしても、せいぜい一人か二人に限られる」からだ。


「見ての通り、セルディの面影があるとわかるだろう。もうすぐ三歳になる。年の割には育ちがよすぎるのが目につくが、驚くほど賢い子供だ。皆のほうから歩み寄って親交を深めてもらえると助かる。もっとも、セイジも馬車に揺られっぱなしで眠たいだろうし、正直言って儂もくたびれておるのでな。今日のところはゆっくり休んでくれ。詳しい事情については、すでに聞き及んでいる者もいるだろうが、明日の昼食のときに改めて集まってもらって話そうと思う」


 サイディアル家の当主であるゼクスの言葉を受けて、広間にいた面々は軽く黙礼をして足早に立ち去った。


 文字通り、私の顔を見せるだけで終わったようだ。


 この日の夜は、客間として使われている部屋で過ごすことになった。


 ようやく一人になれたな、と胸の内で呟きながら、豪奢ではないが頑丈な造りだと見て取れる寝台に腰を下ろして、深い溜め息をついた。


 頭が重たくて働かない。


 どうやら思っていたよりも疲れていたらしい。


 実年齢に比べて図体が大きいとはいえ、こういうときには間もなく三歳を迎える幼児にすぎないのだな、と現実を突きつけられる。


 誰にも邪魔されずに済む状況になったから、客間の中だけでも観察しておこうと考えていたが、こんな体たらくでは後回しにするしかない。


 いざというときの逃走経路くらいは、今夜のうちに確かめておきたかったのだが。


「くぅん」


「私がいるのを忘れないでね」といった感じの鳴き声とともに、雑食兎が毛布の上に飛び乗った。


 聖ルヴァレン修道院で使っていた小部屋と比べて、少なくとも五倍の広さがある客間は何となく落ち着かなかった。


 ここも所詮は仮住まいでしかなく、個人的な思い入れなどまったくがないから、というのと、生まれ変わっても前世の貧乏性がなくならなかったからだろう、と自分に言い聞かせた。


 いずれにしても、一人部屋を貸し与えられたのは幸運だった。


 近くに他者の気配があるだけで緊張を強いられて、警戒を緩めることができなくなって夜通し眠れなくなる、という癖が以前からあるのだ。


 これは、どんなに頑張ってみてもなくならなかった。


 枕元に平然と居座り続けることができる雑食兎は、ある意味では、とてつもなく貴重な存在だと言えるだろう。


「くぅ!」


 触り心地のいい毛布に包まれて、眠気に身を任せている中で、何やら上機嫌そうな鳴き声が聞こえた気がしたが、すぐに意識が遠のいていった。


 そして、目が覚めたときには朝を迎えていた。


 小説や漫画などの娯楽作品では、いきなり敵対する人間に命を狙われたり、強盗に押し入られたりする場面が珍しくないのだが、現実はこんなものだ。


 自分から好んで首を突っ込むのでなければ、そういった「劇的な厄介事」に巻き込まれるのはごく稀でしかない。


 むしろ、日常が波瀾万丈だったら大迷惑だろう。


 念のため、何かあったら起こしてくれ、と雑食兎には頼んでおいたし、皮の袋に小石や砂利を詰めて作った棍棒は枕元に置いてあったのだが、幸運にもこちらの用意は無駄に終わってくれた。


 実のところ、悪意を持った者が手出しをしてきても不思議はなかったのだ。


「きわめて警戒心が強くて、産まれてからすぐに親を亡くしたといった特殊な事情がない限り、人間に懐くことはない」と動物図鑑で断言されていた雑食兎が、飼われている仔犬のように振る舞って、すっかり私に懐いていたのだから。


 こちらには目立ってやろうという意図など微塵もなかったが、他の連中の興味を引いてしまったのは間違いない。


 金銭や名声に換算できるならば、私が連れている雑食兎は、好事家が涎を垂らすくらい価値があるのだ。


 周囲の者に自慢したがる見栄っ張りな連中は真っ先に手を伸ばしてくるだろうし、今も詳しい生態がわかっていない野生の動物という意味では、学術的な研究を行っている人間にとっても貴重な存在だ。


 かく言う私自身も、こいつがどういう生き物なのか未だに理解していないし、どうして自分のような擦れっ枯らしにだけ懐いて、他の人間にはまったく寄りつかないのか不思議でならない。


 赤子だったときから二年のつき合いがあっても、正直言って「よくわからない」という感想しか出てこないのだ。


 前世の兎は犬や猫と同じくらいの早さで成長して、十歳程度で寿命を迎える、と何かの本で読んだことがあるが、こいつの身体つきは依然として「仔兎」と呼ぶのが相応しい大きさだ。


 成長の速さは人間と同じくらいなのだろうか?


 目が顔の正面についているから、私の記憶にある草食動物とは違っている、というのは確かだと思うが、生態については謎のままだ。


 さらに、人間の言葉がある程度わかるくらいの知性も持っている。


 いや、傍らにいる者の感情を嗅ぎ取っている、と表現したほうがいいだろうか。


 何らかの害意を持って近づいてきた連中に対しては、真っ先に警戒音と思われる奇声を上げて、全身の毛を逆立てて威嚇をする。


 残念ながら、凄味や迫力はまったくないのだが。


「くぅ!」


 おまけに、こんな風に私の心を読んでいるかのような様子を見せることがある。


 思案を巡らせたところで答えが見つかるわけではないから、こいつに関して考えるのはやめよう。


 頭を切り替えて、サイディアル家の人間として迎える最初の日だ、という事実に意識を向けた。


 どういう感じで過ごすことになるのか、今の時点では想像がつかないが、聖ルヴァレン修道院にいたときのように、朝から晩まで好き勝手なことをやり続けるのは無理だろう。


 放任してもらえるような雰囲気はあったが、多少は当主夫妻の意向に沿った行動を強いられる、と考えておくほうがいい。


 商会には関わらないと決まっていても、何らかの教育を受けさせられたり、親族の者が営んでいる店に奉公に出るように言い渡されたりするかもしれないのだ。


 血縁上の祖父母がサイディアル家の当主として健在でいる間は、余所者同然である私が目に見える形で冷遇されることはなさそうだが、二人の身に何かあって、財産や利権を巡って骨肉の争いが起きるような事態になったら、果たして無事でいられるだろうか?


 こちらを目障りだと思っている連中が、憂さ晴らしのために暴力を振るったり、誰かを雇って始末させようと企んだりしてもおかしくない。


 時間に余裕がある今のうちに、最悪の場合を想定して対応策を練っておくべきだな、と自分に言い聞かせた。


 サイディアル家から追い出されて浮浪者にされる、あるいは人身売買に手を染めている犯罪者の集団に売り飛ばされる、といった事態が真っ先に考えられるだろうか。


 また、私の命を狙ってきた輩に襲われた場合、きちんと返り討ちにできるように諸々の準備をしておく必要がある。


 殴ったり蹴ったりする動作をしただけで体勢が崩れてしまう幼児の身体だし、荒事には大して役に立ちそうもない手作りの武器で対処するのは、能天気な死にたがりの所業だ。


 となると、まだ誰にも存在を知られていない「天賦の異能」を頼るしかない。


 相手が一人だったら「異能:念動力」でどうにかなるかもしれないが、まとめて複数の敵を始末しなければならない場合を考えると、残る選択肢は一つだけだ。


「異能:傀儡作成」を最大限に使って、自分の代わりに作業させられる人形を何体も生み出し、一度にまとめて扱える水準──欲を言えば、数十人規模の集団を相手にしても気軽に殲滅できる域──に達しておかなければならない。


 ひとまず、いざというときに慌てないで済むように警戒しておくのを忘れずに、そして周囲の者に対しては人好きのする子供だと思われる振る舞いをして、できるだけ不要な敵を作らないように心がけよう。


 考えごとをしているうちに、完全に目が冴えてしまった。


 今から二度寝する気にはなれないし、屋敷で雇われている者が呼びに来るまでこのまま待っていなければならないのだろうか?


 半透明の硝子を嵌め込んだ明かり採りの窓を見て、日の出の刻は過ぎているが、よほど早起きの者でなければ動き出さない時間帯らしい、とわかった。


 ならば、ここは見た目が五歳の幼児であることを利用するとしよう。


 いきなり寝床が変わって不安に駆られた子供が、与えられた部屋を抜け出して見知らぬ屋敷の中を歩いていても、帰り道がわからなくなって迷子になっている、といった風にしか他者の目には映らないはずだ。


 すでに起き出して仕事を始めている使用人に見つかったとしても、躾がなっていないと叱られたり、行儀が悪いと拳骨を食らったりする程度のことはあるかもしれないが、秘密裏に脱出するために逃走経路を調べて回っている、とは思われないだろう。


「くぅ!」


 私と同じように手持ち無沙汰だった雑食兎が、上機嫌そうに鳴き声を上げた。


 いや、一緒に来るのは構わないが、遊びに行くわけではないからな。


 何があっても絶対に騒ぐなよ、と厳しく言って、一晩の寝床として借りていた客間から出た。


 石造りの通廊が、私から見て左側に伸びていた。


 振り向いた先にあるのは分厚い壁だ。


 周囲を見回しても上や下に通じる階段はなく、そのまま行き止まりになっている。


 前世の建造物にあった「非常口」に相当する扉はない。


 この客間をあてがわれたのは、空いている部屋が他になかったからか、あるいは屋敷の者が監視するのに都合がいいから、という理由だろうか。


 まあ、自分の家に他人を泊める立場だったら、私も同じような扱いをするから、文句は言えないが。


「くぅん」


 突っ立ってないで早く行こうよ、と催促する感じの鳴き声がした。


 確かに、悠長に構えていられる余裕はないので、とりあえず建物の構造を掴んで、外に出られる戸口を見つけることを目的にしよう、と胸の内で呟いて歩き出した。


 サイディアル家の歴史については詳しく知らないが、名のある商会を数世代にわたって続けているのは確かだから、この屋敷もできてから何十年も経っていると思われる。


 大勢の使用人によって毎日欠かさず手入れがされているせいか、あるいは建物の劣化を防ぐための特殊な方法があるのか、床板や石壁には、欠けたり罅が入ったりしている箇所は一つもなく、新築だと言われても納得してしまうくらいだ。


 古い家に特有の臭い──どう表現すればいいかわからないが、長らく誰も住むことなく放置されていた住居に漂う澱んだ空気──は感じられない。


 内部の温度を保つためか、外から覗き見されるのを妨げるためか、通廊には硝子を嵌め込んだ窓が数えるほどしかなく、僅かに差している陽の光がなければ真っ暗で、こっそり歩き回るのを諦めなければならなかったくらいの明るさだ。


 誰の目があるかわからないので、できるだけ陰になるところを選んで、音を立てないように慎重に足を進めていく。


 部屋をいくつか過ぎたとき、通廊が途切れて幅の広い階段が現れた。


 下に降りるほうだけで、昇りはない。


 私が貸し与えられた客間は、屋敷の最上階に位置していたわけだ。


 前世にあった建物と設計の仕方が同じだとすれば、厨房や洗濯室といった仕事場や住み込みで働いている使用人の部屋は、まとめて地下に用意されている、ということになるのだろう。


 毛織りの絨毯が敷いてある階段を通り過ぎて、そのまま突き当たりまで進んだ。


 こちら側にも扉はなく、ただの行き止まりになっている。


 隠し通路のようなものがあってもおかしくはないと思ったが、今は詳しく調べる余裕はなかったので、何もせずに雑食兎を連れて下の階に降りた。


 踊り場から、昨日の夜に一族の面々が集まって迎えてくれた広間と、一階の正面にある両開きの扉が見えた。


 広間と隣り合った場所に食堂と遊戯室がある──この二つは戸口が開いていて隙間から中を覗くことができた──のを別にすれば、部屋割りは上の階と同じだとわかった。


 地下に通じている階段の先から、おそらく厨房で朝食の用意に追われていると思われる使用人の話し声が聞こえてきたので、これ以上調べて回るのは諦めて急いで引き返した。


 二階に上がって誰もいないはずの通廊に出た瞬間、何者かがいる気配を感じて反射的に身構えた。


「くぅん?」


 雑食兎が不思議そうに首を傾げたが、このときは私も同じ心情だった。


 扉の前で、一頭の犬──どういう理由かはわからないが、地球にいたのとほとんど同じ生態であることは、動物図鑑で確認してある──が伏せの姿勢で居座っていたのだ。


 見知らぬ人間である私の存在に気付いても警戒して吠えることはなく、こちらが近づくのを黙って眺めている。


 前世で、どこかの家で飼われていた中型犬が、何らかの都合で捨てられたか、それとも主が事故か病気で亡くなったのか、確か似たような反応をしていたな、と思い出した。


「もしかして、お前も独りぼっちの身なのか?」


 犬の前にしゃがんで、目を合わせて話しかけると、嫌がったり怖がったりする素振りを見せることなく、頭を起こしてこちらの臭いを嗅いできた。


 試しに手を伸ばして耳の裏を撫でてやったら、嬉しそうに尻尾を振って私のほうに身を寄せてきた。


 ちょっと人懐っこいにも程があるのではないか、と呆れたが、病気で亡くなったという血縁上の父親が飼い主だったのかもしれない、と思い当たった。


 痩せ細っているわけでもないし、鼻をつく臭いもなく毛並みも整っているから、誰かが欠かさず餌の用意をして、三日おきくらいの頻度で身体を洗ってやっているのだろう。


 ただ、何となくだが、親身になって相手をしてやる者が屋敷の中に一人もいないという様子が感じられる。


「ふむ」


 用があって呼ばれるまでは何もすることはないし、暇潰しをしようとしても、手元にはぬいぐるみのような玩具もない──残念ながら、一晩の寝床として貸し与えられた客間には、聖ルヴァレン修道院から持ち込んだ私の荷物は運ばれていない──から、今は「異能:傀儡作成」の鍛練をすることもできない。


 それに、常に気を緩めることが許されない人間と違って、警戒して身構えなくても済む犬の相手ならば、いい気晴らしにもなる。


「よし。おいで」


 客間の扉の前で腰を下ろして、胡座をかいて手招きした。


 前世で見た牧羊犬のような顔つきをした犬は、どこか不安そうにしながらも嬉しそうな様子で歩み寄って、私の足元に横向きに寝そべった。


 ちなみに、膝の上には、我が物顔をした雑食兎が居座っている。


 私に背中を向けたまま、ゆったり寛いだ感じで尻尾を揺らしているから、おそらくこの犬は雌なのだろう。


 少なくとも、人の手で撫でられるのが好きで、誰かの傍にいると安心していられるのは間違いない。


 どれくらい経ったのか、紺色の服を着た使用人の女が階段を早足で上がって私を呼びに来た。


「セイジ様?」


 名前を呼ばれたので、雑食兎を腕に抱えて立ち上がり、頭を下げて挨拶をした。


 一応はサイディアル家の人間となった私だが、住み込みで働いている連中と変わらない立場だと思って行動したほうがいいだろう。


 何かあったときに味方になってくれると期待してはいないが、いろいろな噂話の出所となる使用人からの好感度は上げておいて損はない。


「まあ、小さいのにちゃんと礼儀を心得ていらっしゃるのですね──あら?」


 上品さはないが厚かましさも感じさせない、薄く化粧をした三十代くらいの女が、私の背後に隠れるような格好になっていた犬に気付いた。


「セルディ様が飼われていたファムじゃありませんか。どうされたのですか?」


 嘘をつく必要もないので、独りぼっちみたいだったから一緒にいた、と答えた。


 私の言葉が心の琴線にでも触れたのか、使用人の女は感極まったような様子でうっすら涙ぐんでしまった。


 事実をありのまま告げただけなのだが。


 亡くなった血縁上の父親に対して、密かに想いを寄せていたのだろうか?


「やはり、お優しいところを受け継いでいらっしゃるのですね。このジーネ、セイジ様のお世話ができて嬉しゅうございます」


 何やら感激されてしまったが、現在の私がもう少しで三歳になる幼児──外見だけなら五歳くらいの子供──の姿をしているから、目の前の相手からこういう反応が返ってきたのだろう、と気にしないことにした。


 ジーネと名乗った使用人の女に案内されて、貸し与えられた客間の隣にあった更衣室に入り、その片隅に設けられていた洗面所で手と顔を綺麗にして、髪や首回りを石鹸水に浸した布で丁寧に拭って汚れを落としてから、いつの間にか用意されていた衣服に着替えさせられた。


 どこに私を住まわせるか決まっていないからここに来ているだけで、一族の面々の前で正式に紹介されてサイディアル家の者と認められてから、専用の部屋をもらえるはずだ、と説明された。


 この屋敷の中でどういう過ごし方をするのか、と尋ねたところ、当面の間は年齢の若い使用人が教育係を兼ねた世話役として側仕えするのではないか、と詳しく話してくれた。


 こちらから訊いたことに対して、実にわかりやすく答えてくれる。


 ジーネは女中頭のような責任のある役職に就いているのだろう、と思った。


「お腹が空いていらっしゃいますよね? 朝食をご用意してありますから、たっぷり召し上がってくださいね」


 通されたのは、昨日の晩にサイディアル家の一族が勢揃いした広間の隣にある、さっき下見をした場所だった。


 私が早起きしたら腹ごしらえさせてやってくれ、と前もって言われていたらしい。


 また、食堂に犬を連れて行くのはどうかと訝ったが、おとなしくしているように躾をしてあるから構わないそうだ。


 ひとまず壁際に置いてあった椅子に腰を下ろしたが、気分が落ち着くことはなかった。


 平穏という言葉とは程遠い生活が始まる予感がしていた。






 



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