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 かつて若者向けの小説でよく見かけた異世界転生に遭ったのだと気付いたのは、死産に近い状態で胎内から取り上げられた赤子の中で、前世の自我と記憶を持ったまま目覚めたときだった。


 筋金入りの擦れっ枯らしだと自認する私もさすがに混乱したが、すぐに何があったのか思い出すことができた。


 物語の冒頭部の場面のように、勇者や英雄として召喚されたのではなく、どこかの神が超自然的な力を振るって奇跡を起こしたわけでもなかった。


 本来この赤子の身体に宿るはずだった魂が、何をとち狂ったのか姿を消してしまったせいで、急いで代わりを見つけなければならなくなり、都合よく選ばれたのが脳出血で死んだばかりの私だったのだ。


 西条誠司、享年四十二歳。


 ちょうど男の厄年で、期待していたよりも五十年早く人生が終わってしまったことには不満だったが、仮に寿命を全うできたとしても、今と同じように行き場のない鬱憤を抱えたまま苦々しい最期を迎えただろう、とも思っていた。


 物心ついた頃から嬉しいとか楽しいと感じたことは一度もなかったし、成人してからは日銭を稼ぐためだけの目的で、やりたくもない雇われ仕事を嫌々ながらこなして、くたくたになって家に帰ってきては着替えもせずに布団の上に倒れ込む、といった胸糞悪い毎日だったのだ。


 我ながら、正気を失わずにいられたのが不思議なくらいだ。


 とはいえ、人としての心をなくした生ける屍のような状態だったし、仮にあのまま年を取っていたら、長い間にわたって溜め込んだどす黒い感情が爆発して、ろくでもない犯罪をしでかしていたかもしれない。


 いずれにしても、誰にも惜しまれることなく孤独死するのは間違いなかったし、あまり苦しまずに逝けたのは儲けものだったと考えるべきだな──と、何の愛着もなかった生涯を振り返る暇すらなかった。


 はっきり言って、若い女の裸を見たくらいでは興奮もしないし、目の前に人間の死体が転がっていても何とも思わないし、億を越える額の金が手に入ってもせいぜい三十年で使いきってしまう程度だとしか感じない、という擦れっ枯らしな私だったが、いつの間にか赤子に生まれ変わっていたことには十分驚いた。


 といっても、予想外の事態による新鮮味はすぐになくなったが。


 もう一度人生をやり直す機会を与えられた、と言えば聞こえはいいが、結局のところは土壇場になって逃げ出した奴のせいで要らぬとばっちりを受けただけで、私にとっては望んでもいないものを強引に押しつけられたも同然だったからだ。


 待ち受けているのが、ただ食いものと寝る場所と着るものを得るためだけに、刑務所の強制労働と変わらぬ忌まわしい仕事をしなければならない日々だ、と知っていながら、喜んで飛びつく奴がどこにいるというのか。


 とはいえ、いくら騒いだところで、すでに起きてしまったことなのだから、生きている限りは必ず見舞われる理不尽の一つだと割り切って、妄想の類だと鼻で笑いたくなる現実を受け入れるしかなかった。


 後戻りができないとなれば、考えるべきことは今後どうするかだ。


 この赤子がどういう状況に置かれているのか、周囲の者からどんな扱いを受けるのかに関係なく、先のことを見据えておかなければならなかった。


 少なくとも、気に食わない奴に頭を下げたり不愉快な思いをしたりせずに、自分の身を賄えるだけの金を手に入れる方法と、この世界や私が生まれた国がどのような仕組みで動いているのか、そして悪どい権力者どもに利用されずに生き抜くためにはどうすればいいのかという知識と、何らかの形で己に敵対した連中の息の根を確実に止める技術──この三つについては、できるだけ早いうちに身に着けておく必要があった。


 愛や友情といったものはなくても構わないし、別に困りもしないが、働かなくても済むだけの富と、煩わしい輩と関わりを持たずに平穏に過ごせる日常と、害意ある人間をいつでも独力で排除できるという安心感は、絶対に欠かせないものだった。


 生きてさえいればいつでもやり直せる、とか、どん底からでも這い上がれる、といった口当たりのいい台詞は、今まで送ってきた四十二年を通じて、とんだ嘘っぱちだと身に染みていたからだ。


 もっとも、首を回すだけでも全力を振り絞らなければならない赤子の身では、眼球だけ動かして周囲の様子を探るくらいしかできなかったが。


 明かりがなくて真っ暗だからか、あるいは産まれたばかりで視力が弱いせいか、いくら目を凝らしても何も見えず、耳を澄ませても雨風の音や人の話し声は聞こえなかった。


 辛うじて把握できたのは、小さな身体をくるんでいる毛布の柔らかな感触と、柑橘類の芳香が混じった微かな石鹸の匂いだけだった。


 そもそも、ここはどこなのだろうか。


 懸命に両腕を上に伸ばしたり左右に広げたりしても、重い蓋らしきものに触れることはなかったし、狭い場所に閉じ込められている息苦しさや圧迫感もなかった。


 樹木や土壌の匂いはしなかったし、何となく室内にいるような感覚があったから、棺に入れられて墓の下に埋められてしまった、とか、肉食の獣が徘徊する森の中にひっそり捨てられていた、という最悪の事態だけは避けられたようだが、どこかの家族の元に身を寄せていたとしても、警戒を緩めるわけにはいかなかった。


 誰でも──三歳くらいの幼児でさえ──簡単に私を殺すことができるのだから、周囲の者に対しては、人見知りしない子供だと思わせるように愛想笑いをくれてやって、庇護欲を感じさせて世話を焼きたくなるように仕向けなければならなかった。


 どこかの赤子として生まれ変わったというのに、身の安全と衣食住を確保するためには前世と同じことをしなければならないのか、と思うと、嫌になるほど慣れ親しんだどす黒い感情が胸の奥から湧き上がってきたが、今はきっぱりと割り切ることが必要なのだと自分に言い聞かせた。


 暗闇の中に明かりが差し込んできたのはそのときだった。


 まったく物音がしなかったし、気配すら感じなかった。


 ここが建物の中にある部屋だとわかったことに意識を向ける余裕もなかった。


 どこかの殺し屋が私を始末するために来たのだろうかと思って、慌てて眩い光のほうに目をやったが、私が反応するよりも相手のほうが素早かった。


 いつの間にか枕元に鎮座して、興味深そうに私を見つめていたのは、おそらく中型犬と同じくらいの体格がある、薄緑色の毛皮の兎だった。


 いや、どこから見ても兎としか思えないが、ある箇所が決定的に違っている未知の生き物だった。


 二つの目が顔の側面ではなく、肉食の獣のように正面についていたのだ。


「くぅ?」


 謎の生き物は何か訊きたそうに首を傾げて短い鳴き声を上げた。


 こいつの正体はわからないが、私の記憶にある兎ではないのは確かだった。


 幸運だったのは、腹を空かせて牙を剥いた獣のような獰猛さが感じられず、むしろ飼い主に構ってほしいと尻尾を振る仔犬にそっくりなことだった。


 兎めいた生き物は、鼻を近づけて私の匂いを嗅いでは、人懐っこい猫がやるように顔を擦りつけてきた。


「くぅん」


 赤子の私が身動きできなくて苛立っているのも気に留めず、何やら満足したような声が漏れた。


 外見が顔の正面に目がついた薄緑色の兎で、鳴き声が甘えたがりの仔犬っぽくて、振る舞いは飼い猫、という珍妙な生き物は、まるで私の枕元を自分の縄張りだと決めたように座り込んで、眠たそうに欠伸をして目を瞑ってしまった。


 ひとまず身の危険はなさそうだと安堵の息をついたが、今の状況をどう判断すればいいのだろうか。


 いや、確かに予想外ではあったが、慌てるほどではなないな、と思い直した。


 この身体に宿ったときに、前世と異なる世界に転生したことは感づいていたが、動かぬ証拠がいきなり目の前に現れた、というだけだ。


 私の傍ですっかり寛いでしまったなんちゃって兎が、柔らかい赤子の肉を好んで食べる害獣の類ではなく、ここで飼われていて人間に慣れ親しんでいると考えれば、わが身に起きていることは不思議でも何でもないのだ。


 少しの間瞼を閉じて深呼吸を繰り返すうちに、予期せぬ事態に混乱していた感情も落ち着いてきた。


 肉食なのか草食なのか判別できない大柄な薄緑色の兎──いちいち形容詞をつけるのも面倒なので、ひとまず謎兎と呼ぶことにした──が、この部屋に入ってきたときに扉を開けっ放しにしたおかげで、僅かながら外の明かりが差し込んできて、身の回りの様子を探ることができるようになっていた。


 気のせいではなかった。


 産まれてから一日も経っていないというのに、はっきりと色や形や距離感を識別できる視力を得ていたのだ。


 言語の習得や二足歩行まで含めると、少なくとも三年間は不自由な状態を強いられると覚悟していたが、これは思いもしない幸運だった。


 だが、警戒すべき事柄が一つ増えたということでもあった。


 生まれながらにして大人と変わらぬ視力がある、というのが、私だけが授かった特殊な能力ではなく、他の者にも当てはまるのだとしたら、たとえ見た目が人間であっても実態はまったく別個の生き物だ、と考えておかなければならないからだ。


 否応なく成長が促されているのだとしたら、その分だけ身の危険に晒されているという現実があるのかもしれないし、こちらを捕食する大型の獣や鳥などが近場に生息している可能性もあるのだ。


 先に抱いた決意──その中でも、害意ある者を独力で排除できる手段を持つこと──が絶対に必要になるのだ、と改めて心に刻んでおくとしよう。


「くぅん?」


 私の枕元で背中を丸めて眠っていた謎兎が急に目を見開いて、垂れた耳をぴくぴく動かしながら扉のほうに視線を向けた。


 しばらく経って、慌てた様子で近づいてくる足音が聞こえてきた。


 この謎兎を探し回っていた飼い主が探しに来たのか、それとも鍵がかかっている部屋の扉が開いているのを見て、空き巣が入ったと思ったのだろうか。


 まあ、普段は誰もいないのが当たり前な場所だから、何かあったのかと不安になるのも無理はない。


 ここは前世で言う霊安室だったのだ。


 棺を載せる台座の上に置かれた、葦のような植物の茎で編んだ赤子用の籠が、死産扱いされた私の寝台だった。


 この世界にも葬儀という慣習があると考えれば、今いるのは教会や寺院のような建物の中になるはずだ。


 やはり思った通りだった。


 息を切らして駆け込んできたのは、黒灰色の僧衣を着た修道女だった。


「──、──!」


 さすがに何を叫んでいるのかはわからなかったが、いきなり言葉を理解できるといったご都合主義は期待していなかった。


 はだけた頭巾から覗いた顔は、せいぜい二十歳くらいの若い娘のものだったが、奇跡の瞬間にでも遭ったかのように感極まって、両腕を広げて天を仰いでいた。


 実際のところ、ほとんど死産と変わらない状態だった赤子の中に私の魂が放り込まれたせいで、傍目には息を吹き返したように見えただけなのだが。


 いずれにしても、うっすらと涙を浮かべて肩を震わせている修道女が、生まれ変わった世界で初めて遭遇した人間となったわけだ。


 やっと世話をしてくれる相手が来た、と安堵したのではなかった。


 こちらの人間──少なくとも見た目は前世の同族と変わらないから、中身がまったくの別物だとしても、違う名前を考えるのも面倒なので、そう呼んでおく──がどういう生態をしているのか、どのような日常を過ごしているのか、どういった道徳観や倫理観に基づいて善悪の判断をしているのか、といった事柄について探りを入れるための貴重な観察対象なのだ。


「くぅ」


 薄緑色の謎兎は、修道女が私を抱き上げたのに合わせて、眠たげで鈍そうな見た目とは裏腹に、棺を載せる台座から軽やかに跳ねて地面に降り立った。


 警戒はしていないが懐いている様子もないから、黒灰色の僧衣を着た娘が飼い主というわけではなさそうだが、どうやら一緒に来るつもりらしい。


 私が寝かされていた霊安室の外は、仄かな角灯の明かりに照らされた、灰褐色の石畳が敷かれた長い通廊だった。


 建物の造りについては、今の状態では調べるのが難しいから後回しにして、まずは私を腕に抱いている修道女を観察することにしよう。


 ここで目を向けるべき点は体臭だ。


 入浴して身体を清潔にしているのか、数日に一度は着ている衣服を洗濯するのか、身の回りのものを熱湯などで消毒してから使っているのか、汗や垢の臭いをごまかすのに香水を振りかけているのか、といった習慣を掴むことができれば、この世界の人間がどういう生活水準で日常を送っているのか、また庶民の暮らしに密着した物品がどれくらい普及しているのか、さらに商業や産業がどのくらい発達しているのか、といったことについて、およその見当がつけられるのだ。


 目の前の修道女からは、私の身体を包んでいる毛布と同じく、柑橘類の芳香が混じった石鹸の匂いが仄かに感じられた。


 異世界を舞台にした物語でよく見られる「中世の西欧諸国の文明度」という忌まわしい事態は、運よく避けることができたようだった。


 かつての私は、潔癖というわけではなかったが、身体を洗うのと肌着を取り替えるのは毎日やらないと気が済まなかった。


 前世の衛生観念を持ったまま生まれ変わった者としては、糞尿や汚物にまみれた状態で伝染病が蔓延するのが当たり前という環境を強いられたら、ほんの数秒で我慢の限界を越えて怒り狂っていただろう。


 安堵の息をついて、今度は若い娘の横顔に視線を向けた。


 亜麻色の髪と薄青色の瞳という組み合わせも、小ぶりな鼻の周囲にあるそばかすや日に焼けた跡が窺える肌も、特に珍しいものではなかったが、首に下げた青銅製の装身具や着ている僧衣の胸元に描かれた紋様は、私の記憶にあるどの宗教にも当てはまらなかった。


 赤子の身体になったせいで断続的に襲ってくる眠気に抗っているうちに、目指していた場所に着いたようだった。


「──、──!」


 やはり何を言っているのかは理解できなかったが、まだ大人になりきっていない様子が見て取れる修道女から察するに、上役の者に報告に来たのだろう。


 淑女らしからぬ勢いで押し開けられた扉の向こうは、執務室のような部屋だった。


 せいぜい蝋燭を灯しているだけで、辛うじて書きものができる程度だろうという予想に反して、四隅に置かれた観葉植物のような存在──生き物なのか、人工的に造られた物体なのかはわからなかった──が謎めいた光を発して、内部を明るく照らしていた。


 分厚い木の扉と向き合うように構えている大型の机には、白髪混じりの顎鬚を生やした初老の男が腰を下ろして、忙しそうに右手を動かして何かを書き綴っていた。


「──、──?」


 挨拶もせずに喋り出した修道女に向けられたのは、世話のかかる孫娘を見つめるような顔だった。


「──、──」


 言語はわからなくても、会話の流れを追うことはどうにかできたから、私に関する話が出てくる気配だけを見逃さないようにした。


 初老の男と修道女のやり取りをじっと窺っているうちに、自分が今後どのような扱いを受けるのか何となく想像がついた。


 どうやら、大急ぎで私の生家に書簡を送って、死産だと思われて霊安室に安置していた赤子が息を吹き返したことを伝えると同時に、きちんと育てる気があるかどうか問い質すつもりのようだ。


 ここが教会なのか修道院なのか今の時点では判別がつかないが、目に見える形で宗教が存在しているならば、私の身に起きたことは何らかの禁忌に触れているのかもしれない。


 あるいは、奇跡的に死の淵から蘇った赤子として、聖職者を名乗っている連中にとって都合のいい象徴に祭り上げられる、とか、死神にも毛嫌いされた忌み子として、鬱憤を溜め込んだ庶民の憂さ晴らしを兼ねて殺されてしまう、といったことも考えられる。


 宗教的な事情を別にしても、私の産みの親が金銭的に余裕がなく、毎日の糧を得るのに手一杯だとしたら、死んだものと思っていた赤子を引き取って育てろと言われても、単なる穀潰しの厄介者としか感じないだろうし、人気のない森の中に置き去りにして野犬の餌にしようと企んでも不思議はない。


 もっとも、個人的には、血の繋がった家族がいようがいまいがどうでもいいのだが。


 他の誰かに衣食住を頼らなければ簡単に野垂れ死にしてしまう身としては、ある程度の年齢に達するまで世話をしてくれる人間がいるかどうかが何よりも重要であって、その相手が肉親の者である必要はないのだ。


 深刻そうな顔で修道女を諭している初老の男の雰囲気から、しばらくの間はこの場所で育てられることになりそうだ。


「くぅん?」


 いつの間にか近くに来ていた薄緑色の毛皮の謎兎が、短い鳴き声を上げて私の胸に顔を擦りつけた。


 そう言えば、こいつを忘れていた。


 私の傍にいるのが当たり前のように懐いているが、どういうわけか初老の男も修道女の娘も、謎兎の存在を気にしている様子がないのだ。


 柔らかくて艶やかな毛皮の感触や、石鹸の匂いに混じった獣っぽい臭いは、紛れもなく本物だったから、他の者には見えていないという事態は考えにくい。


 赤子である私のお目付け役として、一緒にいるのが当たり前、と目の前の二人には受け止められているのだろうか。


 この謎兎の飼い主が産みの親で、葬儀が行われるまでは離れずに傍についているように言いつけた、といった美談めいた話が頭に浮かんだが、あまりにも安っぽい妄想だなと退けた。


 ただ、今のところ私の生家との唯一の繋がりかもしれないから、仔犬みたいにまとわりついて多少うざったいのだが、邪険に扱うのは人目につかないようにやることにしよう。


「くぅ!」


 急に泣き出しそうな顔になって、駄々をこねる子供のようにしがみついてきた。


 何だ? こいつは人間の心が読めるのか?


 まあ、そのあたりは後で調べればいいとして、重たいからどけ。


 今は赤子の身体なんだから、下手すれば窒息死しちまう。甘えてまとわりつくくらいは大目に見てやるよ。


「くぅん」


 声には出さなかったが、私の言葉はちゃんと伝わったようだ。


 どこから見ても人懐っこいだけの愛玩動物にしか思えないのだが、ぬいぐるみのような顔に反して、中身は意外に優秀なのかもしれない。


 謎兎の鳴き声に気付いた初老の男と修道女の娘は、互いに顔を見合わせながら、揃って口元に微笑を浮かべていた。


 何となく遠慮がちのような二人の様子から、この得体の知れぬ動物は、どういうわけか私の傍から離れようとせず、勝手に居座ってしまったのだろうか。


 赤子の身体に宿って目覚めてから数刻も経っていないのに、疑問に感じたことが山ほど出てきたな、と考えているうちに、何やら深刻そうな雰囲気の中で長く続いていた話し合いが終わったようだ。


 修道女の腕に抱かれたまま連れて行かれたのは、大人の男が辛うじて横になれる程度の粗末な寝床が置かれた、監獄の独房のような狭苦しい石造りの部屋だった。


 いや、下手をすれば屋外で野垂れ死にしていたかもしれないのだから、きちんと雨風を凌げる場所で眠れることをありがたいと思っておくべきだろう。


 金銭的に追い詰められて出て行かなければならなくなったり、地震や洪水、土砂崩れや火事といった自然災害に見舞われたりして、今まで住んでいた家を失ってしまうのは、生きていく気力をなくして自殺したくなるくらいの仕打ちになり得るのだ。


 前世で味わった胸糞悪い記憶が恐怖とともに蘇ってきたが、もう二度とあんな目になど遭ってたまるかと自分に言い聞かせて、当面の寝床として与えられた部屋を調べることにした。


 薄緑色の謎兎に抱きつかれて窒息しそうになったせいか、瞼を開けているのも辛いほどだった眠気は、いつの間にか感じなくなっていた。


 腹も空いていないし、生まれたばかりの身だというのに、実に赤子らしくない。


 見た目が前世と同じ人間であっても、身体の造りや精神の仕組みはまったくの別物だと考えておいたほうがよさそうだ。


 放っておくと次々と湧いてくる思案を切り上げて、眼球だけを動かして狭苦しい部屋の内部を見渡した。


 葦のような植物の茎で編んだ籠に寝かされているのに加えて、首を回すこともできない状態だったから、視野に捉えられる範囲は範囲はごく限られていたが、初老の男に会ったときに目にした観葉植物めいた明かりが一つ置かれていたおかげで、無事に調べることができた。


 ここは、監獄の独房というよりも物置と呼ぶのが相応しい小部屋だった。


 埃が溜まっていたり汚れたりしてはいなかったが、長らく使われていないとわかる木の卓や脚が欠けている椅子、蝶番が外れていたり蓋がなかったりしている櫃が隅のほうに積まれていた。


 物語の中では、単なる風景として描写されるだけで見向きもされないものだが、今の私にとっては、自分が置かれた状況や周囲の文明度を知るための格好の手がかりだった。


 まずは、ずっと気になっていた得体の知れない観葉植物から見ていこうか。


 前世で使っていたのと変わらない人工的な照明ではないか、と思っていたが、どうやら蝋燭を何本か灯したときと同じくらいの光を自然に発する生き物らしかった。


 黒い土を入れた方形の容器に植えられていたから、おそらく世話の仕方は前世の樹木と似ているのだろうが、ここは異世界なのだと改めて突きつけられた気分だった。


 まったくの未知である観葉植物についてあれこれ考えても、結局のところは想像の域を出ないから、脚が欠けた椅子や古びた木の卓に目を向けることにした。


 中でも私の気を引いたのは、蝶番の一つが外れている櫃だった。


 この小部屋の扉にも使われていたが、蝶番が存在するならば、金属加工の知識や技術が庶民の間に伝わるくらい発達していると思っていいだろう。


 となれば、鉄や銅などの鉱石の採掘と精錬を行う産業が存在しており、その土台となる街道はある程度は整備されているはずだし、車両や船舶などの輸送手段も普及しているだろう、と想像できる。


 私の予測が的外れでなければ、多少の不便は感じても、たまに愚痴をこぼす程度で済む生活水準が見込めるのだ。


 もっとも、前世の文明度と比べるには、観察する対象の数が少なすぎるから、引き続き要検討の案件として心に留めておくことにしよう。


 全力を振り絞っても首を回すこともできない赤子の身体だしな、と苛立たしく溜め息をついて、この不自由な状態でも何かできることがあるかどうか考えてみた。


 周囲を調べるのに無理があるなら、自分の内側を探ることしか残っていないな、という答えに辿り着いた。


 かつての私ならば妄想の類だと切り捨てたことを検討してみる気になったのは、なぜか眠気を感じないせいで、暇を持て余したからだろう。


 若者向けの小説では、能力値や技能といったものを本人が認識できる「遊戯的設定」が割と見受けられるが、仮にそんな便利な代物が実在するとしたら、私の今生はどんな風に様変わりするのだろうか。


 生まれ持った才能や職業の適性から、病気や怪我の具合に至るまで、前もって具体的な数値として知ることができてしまうのだ。


 将来のことで思い悩むのが馬鹿らしくなるくらい、自分にとって最も楽で効率的な生き方を簡単に選べるのだから、やらなくてもいい仕事をしたり切り捨てるべき人間とつき合ったりするといった、不要で不愉快な経験をせずに過ごせるようになるはずだ。


 その結果として、私が幸せを感じられるかどうかは別の話だが。


 所詮は暇潰しなのだと思いながら、試しに頭の中で念じてみた。


「げっ」


 異世界の赤子に生まれ変わってから初めて口にした言葉は、嫌というほど慣れ親しんだ悪態だった。






 


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