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第二章 上海市内散策

一、徐家匯


1


峪口がカーテンを開けると天気は快晴、時刻も十時を少し回っていたので寒さも緩み、温かい日差しが部屋に射し込んでいた。

地理的にはかなり南に位置する上海だが、東京の気候とほとんど変わらず、時には雪が舞うこともある。

その日、遅い朝食を済ませ市内観光に向かった。

峪口は施川と邑中の訪問に合わせ、一日休暇を取っていた。

「今は暖かそうだけど、夕方は冷え込んでくるからな。防寒をしっかりとしておけよ」

「うん、わかった。東京とほとんど同じって聞いていたから、わしは襟巻きと手袋を持ってきた」

「それは正解だ」

「俺ぁ聞いてねぇどぉ。うんだから、コートも手袋もねぇ」

「えッ! 施川、邑中に伝えなかったのかあ?」

「あれ、わし言わなかったかぁ…」

「オメェ、あれだんべよぉ。上海はかなり南だから、沖縄みてぇに暖けぇってゆってたんべぇよぉ」

「わしがぁ~…、そんなことゆったかぁ~…」

「まーったく、いい加減なンだからよぉ~。オメェのを貸せ」

「へへへっ…、貸してやりてぇとこだが、生憎わしはスマートだからな。邑ちゃんには着られねぇよ」

「しゃあねぇ、買うべぇ。峪口ぃ、どっか店へ連れてってくんどぉ」

「いいよ、俺のを貸してやるよ」

峪口は洋服ダンスからダウンジャケットとマフラー、それに手袋を持って来て、邑中の前に置いた。

「悪りぃなぁ。なくさねぇようにすっからよぉ」

「気をつけろよ」

「あんだとぉ。オメェの所為だんべぇ」

マンションを出ると、隣の“港匯広場デパート”はすでにオープンしており、三人を喧騒の渦に包み込んだ。

「“味千ラーメン”か。平日のこんな時間帯なのに、ずいぶん客が入っているねえ」

「ああ、ここはいつも混んでいるよ。ほら、店先にもたくさんの椅子とテーブルが並べてあるだろう。昼飯時になると満席になって、一時間以上は待たされる」

「熊本って書いてあるけど、日本のチェーン店ってことだよね。じゃあ、味は豚骨ベースだな」

「うんめぇのかぁ?」

「熊本が本店ということだけど、実際には台湾に進出して、そっちから中国に入って来たみたいだよ」

中国で成功している日系企業を見ると、元々は日本で生まれたが台湾で成功した後、台湾人によって中国に進出というパターンが多い。

台湾と中国は一触即発状態にあるといいながら、事業の面では交流が盛んである。

台湾人は、言葉が同じということもあるが、実に商売上手が多い。


2


「まあ、こっちのレベルではうまい方かな」

「俺ぁ聞いたことねぇ」

「わしは仕事で熊本へ出張したときに、喰ったような気がする」

「へへへっ…、まーったく、調子いいンだかんなぁ、オメェはよぉ」

「バカもん、これは本当じゃ」

「ふん、じゃ、これ以外は全部ウソかぁ」

「じやぁ~かまし」

「上海では去年一号店が出て、ここは確か、二号店だったと思うよ。もう、十店舗ぐらいあるのかな。なにが受けたのか、大人気でね。いや、うらやましい」

「へーえ、後で食ってみんべぇか」

「いいけど。……せっかくだから、もっとうまいもの食おうよ」

「もっとうめぇもんかぁ。ふんでも、これも食ってみてぇなぁ」

「わしも食いてぇな。うまいものは昨日、梨田さんに食わせてもらったからなあ」

「いやいや、昨日の料理はお金さえ出せば、日本でもどこでも味わえる味だ。今日はこっちでしか味わえないものを食おう。辛いものはどう?」

「わしは大好きじゃ」

「俺ぁもでぇ好きだぁ」

「そうか。それじゃあ、今日は“洞泉楼”へ行こう。部下に連れてってもらったンだけど、いやいや、ビックリ金時だった」

「なんじゃ、そらあ」

「それゆうンならよぉ…、ビックリ金玉だんべぇ」

「けけけけっ…、出しやがったな、伝家の宝刀を」

「はっはははっ…、確かに負けた。君のはデッカイ、認める。この通りだ」

峪口と施川は邑中に頭をさげた。

「うんだぁ…、わかればエエべぇ」

男の勝負では、最後はなにのサイズが勝敗を分ける、こともある。

「まあまあ、後のお楽しみ。それにね、明日はもっと楽しみが待っているかも知れないよ。……ヘ~イ! タクシー!」

「峪口ぃ、タクシーはいいから、少し歩こうぜ」

“華山路”でタクシーを停めようとした峪口を、施川が遮った。

「うん、そうか。それじゃあ、港匯広場の下が地下街になっていて、いろいろなお店が出ているから、そこを冷やかしながら向こう側に渡ろう」

「うへぇ~、歩くのかぁ~。くたびれんなぁ」

邑中が不満の声をあげた。

「そうだ。せっかく上海へ来たンだから、上海の空気を肌で感じないとな」

「あんれぇ~。オメェでも、偶には気の利いたことゆうんだぁ」

「地元じゃ、歩く吟遊詩人とゆわれている」

「歩く赤っ恥じゃねぇのかぁ」

「じゃーまし」

「歩く顔面性器とも言われているな」

と、峪口が追い打ちをかける。

「だ、だだだ、誰が歩く顔面性器じゃ」

「なんだべぇ、顔面性器ってのはよぉ?」

「はっははは……、施川は、これからは顔にパンツを穿いて歩かないとな」

「お~お、むっつり助平の峪口にゆわれちゃった」

「エロ河童だんべぇ」


3


“徐家匯”は上海市の中心部から南西に位置し、その中心部に向かって、華山路、虹橋路、肇嘉浜路、漕渓路と五本の道路が集中している。

そんな一角に峪口のマンション“港匯花園”がある。

港匯花園は港匯広場と隣り合っている、経営は香港系財閥で同系列である。

港匯広場は地下で地下鉄一号線の徐家匯駅に繋がっていて、出口も五、六ヶ所あり壮大な地下街を形成していた。

二人は地下街をぐるりと一周してから、峪口のマンションとは華山路を挟んで反対側に位置する“太平洋百貨デパート”の店頭に出た。

「このデパートは香港系でとても人気が高い。中国の主な都市にはほとんど出店しているンじゃないかな。変に気取ってはいないンだけど、地場のデパートとは明らかに一味違う。俺なんかでも買い易いし、雰囲気がいいンだよ」

「どうもデパートっていやだよな。気取り過ぎていてさあ」

「俺ぁもデパートはでぇれぇだ。ふんでも、かあちゃんはでぇ好きなんだよなぁ。なんで女って、デパートがでぇ好きなんだべぇ。俺ぁいつも駐車場へ車停めて、パチンコ屋で待ってンだぁ」

「わしは絶対に一緒には行かん」

「俺も結婚したばかりは行ったけど、もう何十年も行ってないな。直ぐに頭が痛くなるンだよな。どうしてかなあ?」

「わしもどうしても行かなきゃなんねえときは、独りで行って、サッと買い物して帰って来るンだ。十分もあれば終わる」

「そうだろう、俺も同じさ。ほら、向こう側に“東方百貨”って書いてあるだろう。あれもデパートなンだけど、なにか買いにくいンだよね。もう二年も住んでいるけど、買い物に行ったのはたった一回だけだ」

峪口は太平洋百貨とは対角線上に位置するデパート、東方百貨を指差した。

「ふーん、それでよく潰れないなあ」

「客は峪口だけじゃあんめぇよぉ」

「おっ、邑ちゃん今日は冴えている。ところで、こっちの地球儀みたいな建物はなに?」


4


「あれか、あれは“美羅城”とゆってナ、携帯電話、眼鏡、アクセサリーショップなど、若者に受けるいろいろなテナントが入っているンだ。そう、レストランもいくつかあったな。五階には映画館が三つだったかな? まあ、ゆうなれば娯楽の殿堂だな。裏側の建物とも通路で繋がっていて、そこにはコンピューターやゲーム機器、デジカメなどのテナントばかり、上海の秋葉原といったところだ。いつも若者たちで溢れているよ」

「そうゆう場所に、店をだせばいいじゃん」

「わかっているンだけど、大阪方面の人たちがゴチャゴチャとうるさいンだ。“我々は大阪の田舎から始めて成功した。だから、上海でも同じようにしなければいけない”とかなんとかを錦の御旗にして、まったく勝手な連中さ」

「困ったもンだなあ。上海に住んでいる峪口が一番わかっているのにねえ」

「二つ潰されたよ。決まりかけていた物件をね。董事会(株主会)の段階では賛成しておいて、実際に始めようとすると反対だもの。まったく、参るよ」

その後数年して担当者が代わると、今度はまったく逆のことを言いだすのだから、峪口も匙を投げざるを得なかった。

“以前の会社とは違います。人も変わりました。その当時のことを私は知りません”というのが、新任者の言い分だが、峪口から見ればいずれも同じ穴の狢だ。

― 染み付いた体質がそう簡単に変わる筈もない。

中国進出を検討中の企業の方々には、もちろん中国側のパトーナー選びが大切なことは言うまでもないが、日本企業同士の軋轢は、それ以上のものがあり、許されるならば単独で進出することをお勧めしたい。

特に、東京と大阪の企業が一緒にやることは避けた方がよい、否、避けるべきだと思う。

このことは、作者自身の経験を通して身に凍みて感じたことである。



二、自分の身は自分で守れ


1


さて、話を太平洋百貨の前に立った三人に戻そう。

「デパートの中も抜けられるけど、そこを右に行けば“衡山路”に出られる、俺のお気に入りのコースさ」

「へーえ」

「おい、二人とも信号に気をつけろッ!」

と、峪口が言っているそばから、

「おおっと、危ねぇ。気をつけろ、馬鹿野郎ッ!」

慌てて立ち止まって、施川が怒鳴った。

「こっちは車優先だから、青でもうっかり出ると跳ね飛ばされるぞ」

「ふ、ふんとだ。歩道に人がいても、停まらねぇ」

「野生の熊に見えるンだろう。おまえ、前に出るな」

「ハゲが眩しいンだべぇ」

「はぁはははっ…」

実際、日本から着いたばかりの観光客が、タイミングの悪さと日本の感覚で安全を判断することから、横断歩道で事故に巻き込まれることが多々あると聴く。

この、日本ならば、さしずめ新宿に相当する繁華街のど真ん中の交差点に、信号ができたのは峪口が赴任する少し前、一九九七、八年のことである。

交差点のそれぞれの角にはデパートが鎮座しており、広い道路を横切ってデパートからデパートへと買い物客が移動、といった光景がよく見かけられたものだ。

地下道でそれぞれのデパートは結ばれているのだが、上海人には多少危険性を伴っても最短距離で移動する手段が好まれる。

車の混雑は東京並みで、事故の絶えることはない。

しかも車が優先の社会であるから、人身事故も多発することになる。

嘘か真か、当時は青信号で歩道を渡っている歩行者を撥ねても、車には責任がなかったようだ。

確かに、峪口も、救急車を呼ぶどころか、倒れて苦しむ被害者を罵倒し、悠々と立ち去る車を目撃したことがある。

二〇〇三年ごろに法が改正され、歩行者が優先されるようになるが、それでも横断歩道を渡っている歩行者を早く渡れとばかりに煽る運転手が後を絶たない。

信号ができても相変わらず交差点での事故が多いので、交通警察の他に監視員が何人も配置されている。

もちろん車だけが悪いのではなく、歩行者、特に大人たちの交通ルール遵守の意識は極めて低い。

親に交通ルールを守る意識が希薄なのだから、子供が守るはずもない。

また、権利ばかりを主張する国民性もあり、人身事故も交通渋滞も一向に減らない。

自分の身は自分で守るという強い意識が、中国で生き残るための最良の方法である。

「ふんとだぁ。青でも平気で横断歩道に車が突っ込んで来んだぁ。ああ、おっかねぇ」

「右折はいつでもオッケーだからね」

「えッ! そうだったの。どおりで……」

「な、なんだ、前にも言ったじゃないか。施川さん、あんた、上海じゃ長生きできないね」

「ふんとだぁ。オメェは慌てんぼうだかんなぁ」

「わしか、わしはいつも東京で鍛えられているから大丈夫じゃ。それより、熊、おまえこそ気をつけろよ。普段狸や狐と一緒に暮らしている野生動物には、上海の雑踏はきつかろう」

「バ~カこくでねぇ。トラクターや耕運機が引っ切りなしだぁ。狐は見ねぇけんど、狸や雉は跳ね飛ばされておっちンでるべぇ」

「それを拾ってきて狸汁か」

「うん、なかなかうめぇもんだぁ。って、なにゆわせるだぁ」


2


三人は“天平路”との交差点を無事に渡り、衡山路を東に向かって歩き始めた。

すると直ぐに、今にも壊れそうな古い工場がある。

間もなく解体されて大きな公園になるそうだ。

サミットを控え上海市内に公園を造りまくっている。お陰で最近は少し環境が良くなってきた気がする。

工場はおもちゃ工場でもあったのか、入口にウルトラマンの等身大の人形が置かれている。

「ありゃ、これウルトラマンだよ。ニセモノかな?」

施川が首を捻った。

「ウルトラマンはこっちでも人気がある。会社の連中も、子供のころによく視たって言ってたな」

「へーえ、日本の番組も放映されているンだ」

「ああ、随分昔っからやってイたみたいだな。アニメとかスポコン……、ほら、アタックなんとかってやつとか……」

「アタック・ナンバーワンか、わしも好きじゃった」

「ドスケベ」

「な、なんでやねん?」

「だってあれだんべぇ。女っ子がブルーマで股おっぴろげて、飛んだり跳ねたりするやつだんべぇ…」

「そらまあ、学園ものだからな。しかもバレーボールが主題だぜ」

「しかし邑ちゃん、ブルーマにはおでれぇたな」

「あんでぇ、あれブルーマじゃねぇのかぁ?」

「確かにそうだけど、俺、久しぶりに聞いたなあ」

「わしも……。でもよ、あれでスケベだなんてゆっているようじゃ、熊さんじゃ、女子の水泳とか体操なんかは見ないの?」

「ありゃスポーツだんべよぉ」

「バレーはスポーツじゃねぇのか?」

「スポーツのバレーはいいだ。んでも、テレビ番組はエロが目的だんべぇ」

「そりゃまあ、多少の色気はサービスだからな」

「視聴率のためだんべぇ。それが不純だ」

「けっ、なにが不純じゃ。不純異性交遊みてぇな面ぁ下げてよぉ…」

「どんな面だぁ。オメェは頭にパンツ穿け」

「くくくくっ…、あの主役をやってた娘、こっちじゃすげぇ人気だよ。なんて言ったかなあ、あの娘?」

「わしも大好きだった。確か、歌手の湯川なんとかと結婚したンじゃなかった?」

「あっ、そうそう、そんな名前」

「湯川秀樹だんべぇ…」

「アホ」

路の両側にはプラタナス、この路は歴史のある通りで太い老木が覇を競っている。

工場の対面には鄙びた映画館、これも相当古そうだ。

そして住宅が並び、“宛平路”と交差する十字路の角に幼稚園がある。

「あれは?」

施川が高い鉄柵に囲まれた建物を指差した。

「ああ、幼稚園。上海でも有名な名門らしいよ。月謝ももちろん高い。確か、一ヶ月、二千元とか三千元とか聞いたなあ。大卒の初任給並さ」

「三千元(約四万五千円)て聞くと、それほど高いとは思わないけど、大卒の初任給と同じ、ってゆわれるとものすごく高く感じるね」

「だいたいねぇ…、そう、八十倍にすれば、中国人の金銭感覚に近いと思うよ」

「ほーう、三千かける八十と、三、八、二十四、二、二十四万円。そりぁ、高いわ」

「うんだぁ」


3


交差点を過ぎると、歩道に沿って洒落たカフェバーやレストラン、美容院などが建ち並んでいる。

「お洒落な店が多いなあ」

「この辺は外国人がたくさん住んでいるからね。その所為だろうな」

「俺ぁ、ゲェ人は苦手だぁ」

「外人さんも邑ちゃんは苦手だと思うよ」

「あんでぇ?」

「家族総出で考えてみなさい」

衡山路の辺りは、昔はドイツ租界、その後は政府高官などの別荘が集まっていた場所で、現在は上海市民の誰もが憧れる高級住宅街である。

更に数百メートル進むと“吴興路”と交差し、右手に地下鉄一号線の衡山路駅へ下りる階段口が姿を現す。

そこから少し進むと、二階建ての瀟洒なバーがどっしりと構えていた。

このバーには何度か入ったことはあるが、夜になると白人系の外国人が押し寄せるので、峪口もなんとなく肩身が狭く、落ち着かなかった経験がある。

そのことを施川に話すと、

「うんうん、わかるよ。わしもそうだから、日本人はどうも白人に弱いな。中国人はどうなんだい?」

と言って、邑中の反応を見るように顔を覗きこむ。

「日本人ほどではないが、まあ苦手にはしているね。黄色人種の劣等感かな……」

「虐げられてきた長い歴史が、そうさせるのかも知れませんねぇ」

「げげッ! 誰かと思ったら、邑中ちゃん。アンタ、今のは標準語だよ」

「ふんとかぁ?」

「ふんとだぁ。いつ、人間の言葉、覚えた。ところで峪口ぃ~、あれはカラオケかい?」

施川が向かいの建物を見上げて訊いた。

その大厦ビルにはディスコとカラオケが入っていて、夜になると若者たちが集い、明け方まで賑わう。

「上海の若者も日本と変わらないンだ。峪口ぃ、夜になったら来てみようか?」

「場違い、場違い。おじさん連中の来るところでは、ごじゃりません」

「そうかぁ…。わしは、若いおねえちゃんにけっこうもてるンだけどなあ」

「銭っ子払えば誰だってもてるべぇよ」

「自慢じゃねぇが、銭はねぇ」

「俺ぁがよく行くスナック“カマトト”のねぇちゃん、紹介してやるべぇか?」

「スナック“動物園”の間違いじゃねぇのか。熊や狸にいくらもててもなぁ」

「あれれ、人畜無害を売りにしてるンじゃなかった。ほんとは、羊の皮を被った狼のくせによぉ」

「ふんとだぁ。このエロハゲは放し飼いにできねぇ」

「エロハゲ、そりゃひでぇな。こんな善良で純情な男を捕まえてよぉ。へぇへへへっ…」



三、ラピズ・ラズリ(群青色)


1


間もなく三人は、衡山路のメインストリートともいえる辺りにやって来た。

「この柵の中は国際礼拝堂。教会さ。土日はすごい人出になるンだ」

「へーえ、中国でもキリスト教は大丈夫なンだ」

「うん。宗教に関しては大らかだな、“法輪講”以外はね。宗教を弾圧すると、国が治まらなくなる。それは歴史が証明しているだろう」

「天草四郎の乱とか、か」

「うんだなぁ……、碌なことねぇ」

「ところで、法輪講ってなんなのよ? 以前ニュースでやっていたけど、わしにはよくわからなかった」

「あまり詳しく報道されないものな。どうも中国政府に批判的な宗教で、本部は台湾にあるらしい」

「台湾か、それならなんとなくわかる気がするな」

この教会のところで、衡山路は“ウルムチ路”と交差している。

ウルムチ路を渡ると右側に高層の超高級マンション、家賃は最上階のスペシャルルームが月に一万ドル以上と聞いているが、庶民には高嶺の花、敷居が高く確認する術もない。

「確かに高そうな造りだ。出入する車を見ていても、高級外車ばかりだものなあ」

施川が建物を見上げながら呟くように言った。

「俺もこんなところに住んでみたいよ。できれば税金とか会社の経費でね」

峪口が溜息をつく。

「自腹で住めるのは、よっぽど悪いことをして儲けている奴等だろうな」

施川が吐き捨てるように言った。

「儲けている連中に限って税金を払わないモンさ」

「グサッ……」

邑中が俯いた。

「くくくっ…、アンタのことじゃないよ」

左に目を転じると、これまた超高級ホテルリーガル・インターナショナルが姿を現す。

「まあ、ここも俺たちにはあまり、ではなくまったく縁のないホテルかな」

「俺ぁのガキッチョ(息子)は、今度“帝国ホテル”で結婚式だぁ」

「長男坊のか?」

「うんだ。嫁っ娘の家が派手だからよぉ。俺ぁ地味だから、そいの嫌なんだけんどぉよぉ」

「へっ、さいですか。そら、まあ、とにかく、おめ、で、とぉー」

「そうゆうわけでよぉ、オメェらは呼ばねぇかんな」

「そうゆうわけってナ、どうゆうわけじゃ? それにしても、呼ばれないのは嬉しい。なあ、峪口ぃ」

「うんだ。もう結婚式なんて行きたくねぇモンなぁ。それに、手ぶらってわけにもいかねえしな」

「まったくだぁ。まあ、一応訊いてやるけど、費用は一人いくらぐらいかかるンだ?」

「たいしたことねぇよぉ。五万ぐれぇのモンだぁ」

「ほ、ほんとか?」

「じゃあ、一万てわけにはいかねぇな」

「んだべぇ、だから呼ばねぇんだよぉ」

「あっ、こいつ、わしらを呼ぶと赤字になるってか」

「ふんなことねぇ。仕事忙しそうだから、悪りぃから呼ばねぇんだよぉ」

「おっ、舐められたものだねえ、峪口さん」

「ふんじゃ呼ぶかぁ?」

「あいや、わしはその日、ちいと都合が悪い」

「まだ、いつってゆってねぇべぇよ」

「いつでもいい、わしはその日都合が悪い」

「俺はその日、具合が悪くなる予定だ。まあ、みんなで楽しくやって頂戴」

三人は勝手なことを言い合いながら、のんびりと歩を進めた。


2


「なになに、ニチレイ。日本の?」

「そうだよ、施川くん。古い別荘を一戸買いしてリホームしたみたいだ。買ったのは六、七年前らしいから、いい買い物だったと思う。今じゃ、高くてとても買えないもの」

九十年代の前半なら、信じられない値段で高級別荘が手に入った。

上海の不動産価格は二十一世紀に入ると鰻のぼりで、租界時代の別荘などの希少物件や高級マンションは、十年ほどの間に十倍以上になった。

異常な投機熱は、普通のマンションも及び、庶民には高嶺の花になってしまった。

「先見の明があったンだね、……それにお金もね」

施川がおどけて言って、

「はっははは……。そのとおりだ。なにごとも、お金がなければ始まりません」

峪口が自嘲気味に言うと、

「んだぁ、銭っ子が一番でぇじ(大事)だぁ。なんだかんだゆっても、銭っ子がねぇければ、どうしようもあんめぇ。最後は銭だぁーッ!」

と、邑中は本気で言い放った。

「邑ちゃん、アンタが言うと迫力があるねえ。“最後は銭だぁーッ!”か、わしに少し貸してくれ」

「働けッ!」

「あらら、働けときたか。この隣の洋風の赤い建物、お洒落だねえ。これもバー……、ベロベロ、バァー、なんちって」

「ははははっ…、うん、そうだよ。一階がバーで二階はレストランだ。いつだったか、梨田総経理に連れて来られて、ばかデッカイ肉を食わされた。レストランはともかく、バーはなかなかの人気でね。客は白人が多いけど、俺たち黄色人種にも対応がいい。経営者は気さくなイギリス人だ」

「黄色人種か、久しぶりに聞く言葉だな」

「シャッ、・・サッ、サッシャー、シャッ、ズ?」

「邑ちゃん、アンタには無理よ」

「はっははは……、“SaSha`s”。ここを右折するとお洒落なお店が続くよ」

衡山路を右に折れ、交差する東平路を十メートルほど進むと、サッシャーズと軒を並べて、これもお洒落なレストラン“Lapis・Lazuli(瑠璃色)”がある。

「ラピ、ラプ、ラプズ、ラララ……」

「邑ちゃん、君には無理だよ。舌を噛むぞ。ラピズ・ラズリ、はい、ゆったんさい」

昨年日本の雑誌で紹介されて話題になったのは、同じ経営の“青龍工房”。

二階がレストランで、同じ建物の一階で焼き物や調度品を販売している。

ラピズ・ラズリは青金石から採る顔料のことで、紫色を帯びた紺色(瑠璃色)、群青のような鮮麗な藍青色をいう。

「去年、娘に焼き物を買ってきてくれって頼まれて、探し回ったよ。ちょっとわかりにくい立地だろう」

「娘か、親父としては娘に頼まれると弱いものなぁ。俺もそうだけど……」

「俺ぁもだ」

「だろう。あの時は必死に探し回った」

その隣もまた、お洒落な生活用品のお店で、値段も手ごろ、この辺りは旅行者にとって、知る人ぞ知る穴場となっている。


3


「峪口ぃ、上海音楽学院付属小中学校、と、あ、俺ぁにも読めた。小学校と中学が一緒って意味かぁ?」

「うんだ。もう少し行くと、系列の音楽大学もある」

「俺ぁ、別に興味はねぇ」

「熊、なら、黙っとれ。へーえ、ワイシャツの仕立屋さんだ、一枚作るか。なになに、次はタイ料理店かい、うまいのかいな。わしはタイへ行ったことあるけど、トムヤンクンだっけ、スープ。どうもあの酸っぱさが苦手なンだよな」

施川はブツブツと独りごちながら、次々と現れる店舗に興味を示し一言加えていく。

「俺ぁもダメだ。なんで、酸っぱいんだんべぇ?」

と言う邑中に、

「勝手だろ」

と冷たく応じて、施川はドンドン歩いて行く。

東平路には歴史を感じさせる古い建造物が軒を連ねているが、道路に面した立地の良い建物はほとんど改装されて、店舗やレストランに変わっている。

中華料理の“湘菜館”、アイリッシュパブ“The・Bcarneg Stone”などもそういった建物を改装して使っている。

続いて地元で評判の中華料理店、“席家花園酒店”である。

峪口も一年ほど前に食事をしたことがあり、サービスも良く、確かにうまかった記憶がある。

少し進むと分岐点、東平路を右折すると“岳陽路”、左折すると“桃江路”で、それぞれの路が“汾陽路”と交わっている。

三本の道路に囲まれた小空間がロータリー状になっていて、そこには公園が設けられていた。

公園では老人たちが肩を寄せ合って語り合っている。

峪口たちが桃江路へ入ると、右手にフジ・ゼロックスの建物が路に面してデンと軒を構えている。

「おお、さすがはフジさん。一戸建てだ」

そこから真っ直ぐ百メートルほど進むと、再び衡山路に出るはずだが、三人は左に折れた。

「あれーえ、さっきのところに戻っちゃった」

東平路である。

眼前にはサッシャーズの赤い建物がある。

「峪口ぃ。……戻って来ちゃったじゃないの。しっかりしてちょうだいよ」

「ふんとだぁ。オメェだけが頼りだかんな。施川じゃ屁のつっかえ棒にもなんめぇ」

「熊、ぜ~ったい、オマエさんが迷子になっても探してやんねえからな」

「あ、ダメ、ふんなことゆっちゃいやよ」

上海の道路は網の目のように入り組んでいて、幹線道路以外真っ直ぐな路がほとんどないので、ほんとうにわかりにくい。

ちょっと脇道に逸れて探索をなどと考え、気がつくととんでもない場所に出て、一時間以上も遠回りさせられる羽目になる。

そんなときは、迷わずタクシーを拾うことだ。

三人は慌てて、別に慌てる必要はないのだが、先ほどの公園のところまで戻った。

「そうそう。こっちへ行けばよかったンだ。汾陽路を東に進めばいいんだ」

「今度は大丈夫だろうねえ」

「ふんだ」

「思い出した。今度は間違いない」



四、不公平な不労所得


1


“太原路”との交差点では、上海芸術研究所の看板を掲げた古い建物が目にとまる。

左側に目を転じると、“復旦大学付属(急診)眼耳鼻喉科医院”がある。

年中無休、二十四時間営業だ。

そして真新しい“軽科大厦ビル”、最近できたらしいが、一階には定番の“スターバックス・コーヒー”が店を構えている。

まるでゴキブリだ、どこにでも姿を現す。

上海の家賃を高騰させている犯人のひとつで、同業者にとっては、まことに厄介な存在となっている。

隣は駐在者に有名なドイツバー“PAULANER・MUNCHEN”、各種ドイツビールとショーダンスが売りである。

料理もドイツ風のソーセージやポテトが主体だ。

「おっ、このパン屋さん。中々のレベルだと思うよ」

さすがに施川はパンの専門家だけあって、目の付けどころが違う。

入ってみたいという施川の要望に、峪口も同意した。

「喰いてぇだけだんべぇ」

「邑中は外で待ってなさい。衛生上良くないからね、野生動物は……。ふーん、上海のパンのレベルもずいぶん上がったな」

「そうだよ。外資系がどんどん入ってきてるからね。今、一番人気は“ブレッド・トーク”だな。店で焼くのを売り物にしているそれが受けてるみたいだよ」

「ああ、それ知ってる。峪口の会社の地下スーパーにあったじゃない。まあまあだけど、あれは全部焼いているわけじゃないよ」

「そうなの?」

「ムリよ、ムリ。あの設備じゃ無理だよ」

「人間なんか取柄があんな」

「熊、一度死んでみるか」

「そうか。さすがはプロだ」

「でも、この店は確かに焼いているよ。厨房を見せてもらいたいけど、無理だろうなあ」

「訊いてみるよ。……うん、やっぱりダメだって」

「まあ、当然だろうな。野生の熊が一緒じゃな」

「熊? どこどこ?」

施川は二、三種類のパンを買い求め、外に出ると早速かぶりついた。

やはりプロ魂が騒ぐのだろう。

「うんめぇかぁ?」

「ほれ、餌」

施川は一口齧って邑中に渡した。

「あっ、きったねぇ。手でおっかけよぉ」

「嫌なら喰うな」


2


復興路を横切ると間もなく右側に、高い鉄柵に囲まれた広大な敷地がある。

そこはレストラン“仙炙軒”と白亜の結婚式場で占めている。

「すごいねぇ、ここ。まるでヨーロッパのお屋敷だ」

「ふんとだぁ。でもオメェ、ヨーロッパへ行ったことあんのかぁ?」

「わしは二度行ったことがある」

「あんれぇ、嘘だんべぇ。ふんとかぁ、峪口ぃ?」

「うん……、そういえばお土産貰ったなあ、一度」

「おう、イタリアで買った鞄じゃ」

「俺ぁは貰ってねぇ」

「あれぇ~、そうだっけえ」

「峪口ぃ、オメェは行ったことあっか?」

「俺は残念ながら、まだない」

「うふっ、うふふふっ…、俺ぁ一回行った。ぐっふふふ……」

「勝ち誇ってやがる。この辺りは昔のドイツ租界だ。まだまだその当時の建物が残っているンだよ」

「なるほど、それを改築して使っているわけか」

「数年前までは中国人が住んでいたンだ……。ほら、例えばあの建物」

「うん。あの建物が?」

「どれだよ、どれぇ?」

「ほら、あれだよ、あの二階建ての建物……。そうだ。あれで十家族は住んでいるンじゃないかな」

「嘘だんべぇ。あんじゃ、何百人も入れねぇべぇ」

「そうだよ、トイレや台所だって、精々二つか三つだろう」

と、施川も同調する。

「ああ、もちろん、共同だよ。以前、うちの従業員の家を見たことある。大概は一部屋に一家族だ。まあ、何百人は居ないと思うけど。だからみんな、借り手があればここみたい貸したいと思っているわけよ」

「貸したら住むとこなくなっちゃうべぇ」

「場所が良ければ高く貸せるだろう。家賃を貰って、自分たちは郊外の安い家賃のところへ引っ越すのさ。それで差額を稼ぐンだ」

峪口は何度か従業員の家に招かれたことがあり、その狭さに驚かされた。

欧米諸国からウサギ小屋と揶揄された日本の住宅も、ここでなら超豪邸と胸を張れる。

部屋の広さは十五平米ほどで両親との三人住い、台所とトイレは隣家との共同使用であった。

更に驚いたのは隣家の家族構成だった。

従業員の家と同じ間取りながら、家族と親類を合わせた八人住いだったのだ。

“お陰で朝のトイレ待ちが大変”、と従業員の母親は笑った。

住環境に不満はあるものの、屈託もなく、また隣り同士で喧嘩することもなく、素直に受け入れているのが印象的であった。


3


「でも、これって国のものだろう」

「あんだぁ、国から借りてンのかぁ?」

「うんだ。まあ、土地は当然だ、中国では私有が認められていないからね。建物も基本的には国のものだ。僅かな家賃は払っているはずだけど……、月に五十元(七百五十円)とか」

「ご、五十元、たった。ええと……、十家族として、五百元か。まさか、この建物を五百元で貸してるわけじゃないよな。それならわしでも借りられる」

「当然さ。今なら、そうさなぁ…、この建物を借りるなら、月に五十万元以上は取られるだろう」

「ということは、五、五、二十五……七百五十万円!」

施川が驚きの声をあげると、邑中も嬌声をあげた。

「な、ななな、七百、五十万円。誰が貰うんだぁ?」

「当然、居住権のある人たちさ」

「あんだぁ!? 国じゃねぇのかぁ?」

「そうだよ。貸したくなるだろう。一ヶ月五十元で、五万元入ってくるンだからね」

「嘘だんべぇ。そんなうめぇ話がとおるわけねぇべ」

邑中の顔がマジになっている。

大通りを一歩脇道に入ると、道路に沿って小さな店舗がたくさん軒を連ねている。

しかし、それは本来のテナント用物件ではなく、住宅の横壁をぶち抜いたものがほとんどである。

国から借りている住居を又貸しすることで、大きな収入を得ているのだ。

淮海中路の近辺は、路地裏でも賃貸料が平米当り年間一万元(約十五万円)を超えているので、二十平米足らずの家わ貸せば、年間二十万元(約三百万円)を超える収入が入ることになる。

運良く住居が道路に面しているだけで、およそ四百倍の収入をもたらしてくれるのだ。

住人は当然の如くこれを又貸しして、自らは家賃の安い郊外に引っ越す。

こんなことが、今でも野放し状態で行なわれている。


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