表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/11

第三章 淮海中路(ワイ・ハイ・ジョン・ルー)

一、公園は憩いの場所


1


そのまま“汾陽路”を真っ直ぐに進むと、左側には楽器店が軒を連ねていた。

「へーえ、楽器屋さんが多いンだね、この辺りは」

「ああ、ちょい先に行くと、ほら、さっきの音楽院系列の大学があるのさ」

「なんだ、そんで楽器屋が多いのかぁ」

「それにしても工事の音がうるさいな。これじゃあ、勉強ができないだろう」

「隣が工事中だからね」

音楽院の隣は再開発現場で、動き回るクレーンとともに掘削機のコンクリートを砕く音がけたたましく鳴り響いていた。

道路の右側には“東華師範大学”がある。

「こっちにも大学か、さぞや学業に影響するだろうな」

「さて、お二人さん、そこの道路が淮海中路だ。上海の銀座通りだ」

「へーえ、この道路が。あれ、あそこは公園だな」

「そう、公園、“襄陽公園”だ」

さみぃのに、いっぺぇ人がいンな。爺さんと婆さんばっかだけんど」

「朝方はもっとすごいよ」

公園は一年を通して、早朝から人で埋め尽くされる。

老人ばかりでなく、会社をリタイヤしたばかりの中年層もたくさんいる。

中国の国営企業は定年年齢も早く、女性は大概の場合五十歳で退く。

また男性も企業の民営化により、四、五十歳代の人たちが僅かな退職金で職を失っている。

次の職場が見つかる人はほんの一握りで、大半は無職となる。

まだ日本ほどではないにしても、中国も急速に長寿化が進んでおり、その後の長い人生を如何に過ごすかが大きな課題となっている。

住宅事情もあるが、結婚をすると子供たちは家を離れ独立するので、おのずと老夫婦の二人暮らしということになる。

その結果、当然の如く暇を持て余すことになり、朝の早い老人たちは仲間を求めて公園を目指す。

庶民の住居は狭い上に、ほとんどが長屋方式で台所とトイレは共用なので、快適な住環境とは言い難い。

それで雨の日はともかく、天気の良い日は公園に集うことになる。

公園でなにをするかというと、ただボーっとベンチに座っている者は僅かで、それぞれが思い思いに運動や麻雀やトランプ、将棋などのゲームをして過ごす。

襄陽公園でまず目に入るのが太極拳に興じる大集団、毎朝百名以上がリーダーの指揮のもと、音楽に合わせて一糸乱れず踊っている。

この集団が公園広場の中央を占め、その周りに大きな扇を手に舞う集団や剣を持って踊る集団、他にも様々な集団がいる。

土日ともなると、ここに家族や友人とバトミントンや麻雀、トランプや将棋などに興ずる人々が加わる。

中には曲芸紛いの技を披露する者、石畳に水を使って筆で漢詩を書く者などが現れ、昼間の公園は立錐の余地もなくなる。

「公園の隣に日本の有名なドーナツ屋さんがあるよ」

「なになに、ドーナツ。俺ぁでぇ好きだぁ。食うべぇ食うべぇ」

「へーえ。出てるンだ。人気はあるのかい?」

「朝晩と土日はけっこう入ってるみたいだけど。どうなのかなぁ…」

峪口は責任者をよく知っており、“商売の難しさよりも、合作相手の日本企業が問題ばかり起こしており、むしろ邪魔な存在となっている”と、嘆いていたのを思い出した。

「コーヒーでも飲む?」

「うん、行くべぇ、行くべぇ」

「いらねぇよ。わし甘いものは好きじゃねぇし……。それに、もう直ぐ昼飯だろう。なんか、美味いものを食おうよ」

「昼飯は昼飯だんべぇ。少しドーナツを食うべよぉ」

「あんなモンは男の食いものじゃねえ。邑ちゃんデブになるぞ。今でも十分デブだけどぉ」

「そうするか、昼飯になにか美味いものを食おう」

と峪口が施川に同意したので、邑中はブツブツ言いながらも不承不承同意した。


2


三人は淮海中路を東に向かって歩き出した。

すると、交差する“襄陽北路”の交差点で、怪しげな男女数名が近づいて来た。

「しゃちょう、しゃちょう。とけいほしいか、バックいらないか、ローレックスあるよ。ヴィトンもあるよ。やすいよ、やすい。だいじょうぶ、だいじょうぶ」

「不要、不要いらない

「しゃちょう、しゃちょう……」

「うっせぇーッ! 俺は社長じゃねえッ!」

と強く拒絶しながら、峪口が施川と邑中に注意を促がした。

「えへへへっ…、俺ぁは社長じゃねぇどぉ」

「こらこら邑ちゃん。社長と呼ばれて脂下がってるンじゃねぇよ。ここじゃ誰でも社長なンじゃ。喩え相手が熊でも、金持ってれば社長じゃ」

「ハゲでもかぁ?」

「あんだと、わしに喧嘩を売ってるのかぁ」

「ううん。オラァ、バカは相手にしねぇ」

「はっはははっ…、そこが“襄陽市場”だ。全部偽物ばかりの店だよ。その門から向こうの通りまでの一角がすべてそうさ。四、五百店舗あるンじゃないかな。お陰でこんな具合に、この辺りは客引きが多くて困っているンだ」

「そんなのが、こんな街の中心にあっていいのかよ。それにしてもほんとにしつこい連中だ。シッシッ!」

施川が手で追い払った。

それでも、“しゃちょうさん、しゃちょうさん”と食い下がってくる。

「俺ぁ、社長じゃねえってばぁ」

「馬鹿、構うな」

「旅行雑誌にも紹介されているし、半ば政府公認だ。区に税金が落ちるからな」

「この連中が税金なんて払うかね?」

税金は店舗単位で決められていて、売上には関係なく徴収される仕組みになっている。

「権利を持っているのはこの連中じゃないよ。利に敏い連中がしっかり握っているンだ。あんがい役人連中も絡んでいるンじゃないのかなあ」

偽物市場は、二〇〇一年に“華山路”からこの場所に移転してきたのだが、最初の権利金は月額三万元(四十五万円)だったと聞いている。

それが又貸し、又貸しの又貸しによって、十平米ほどの面積が今では十万元を超えているとのことだ。

「どうせ領収書なんてないンだろう。どうやって売り上げを確認するンだよ」

「ないない。レジなんかあっても意味ないしね。打たなきゃいいンだから。デパートにはレジ専任の人がいるンだけど、売場の連中と組んで適当に売上金を誤魔化しているもの」

「どうしようもないな。見張りにまた見張りをつけて、そのまた見張り。制限なしだな」

呆れたとばかりに施川が言った。

「ははははっ…、そうゆうこと。この国では誤魔化さない人を探す方が難しい。デパートもその分を見込んで価格に転化しているってことだよ」

そんな話をしていると、絶えず客引きが群がり、しゃべらなくとも日本人とわかるらしく、日本語で話しかけてくる。



二、堂々たる偽物市場


1


上海のど真ん中に襄陽市場があり、襄陽公園とは淮海中路を挟んで真向かいに立地しており、五、六千平米の敷地に四百軒以上の店舗が軒を連ねている。

ここの商品は全て偽物で、世界中のブランド品のしかも最新デザインのものが売られている。

観光名所になっていて、毎日数万人の買い物客でごった返していた。

欧米人や日本人などの観光客もたくさん訪れ、どう使うのか山のように商品を買い込んでいく。

上海に旅をしてこの近辺にさしかかると、

「ともだち、ともだち、とけいはどう? ローレックスあるよ。かばんもあるよ。みるだけ、だいじょうぶ」

と日本語で声を掛けられて、パッチワークされたパンフレットを突きつけられる。

でも、いかがわしい、信用できないと思わないでいただきたい。

なぜなら、彼らは必ずこう付け加える、“にせもの、にせもの、ぜんぶにせもの”と……。

彼らは堂々と偽物を偽物として売っているのだ。

驚くのは客引きたちのプロ根性、日本人には日本語、韓国人には韓国語、白人には英語となるが、これらの言葉を見事に使い分ける。

この偽物の品質について、こんな話が実しやかに囁かれている。

上海にある米国系有名ホテルのブティックで売られていたブランド品の三割が偽物であった。

この話には落ちがあり、ヨーロッパの本店から調査員が来た際に、“これでは仕方がない。本当に良くできている”と、言ったとか言わなかったとか……。

もしも欲しい商品があったなら、次の点に注意するとよい。

外国人と中国人では価格の提示が最初から違うので、半額になったといって喜んではいけない。

外国人は最初から二、三倍は吹っかけられているからである。

しかし、価格は本物と比べれば数十分の一といったところ、騙されたと目くじら立てずに、決して日本で味わうことのできない駆け引きの妙を楽しみたい。

商品は大雑把にいうと、品質によってABCの三ランクに分けられている。

店頭に並べられているのは、運悪く没収されてもあまり痛手を蒙らないBかCランクの商品ばかりだ。

品質の良い? Aランクの商品は、普通は店舗に置いてなくて、もっと質の良いものをと客が要求すると、店主はサッと携帯電話を取り出す。

五分も待つと大きな荷物を抱えた男、或は女が現れて店の奥に入るように促され、あなたの前に煌びやかなブランド品がご開帳される仕組みである。

そこまでさせたら買わないと悪いかな、と思う必要はまったくない。

また彼らも、あなたが買わないからといって腹を立てることもない。


2


これらの商品の品質が本当に良いのかどうかは、自身の目と勘が頼りとなることは言うまでもない。

また、帰国の折に税関で没収されたとしても、これは自己責任の範疇と諦めていただくほかはない。

仮に無事税関を通り抜けたとしても、家に帰ると大きな難関が待ち構えている。

それは、女性たちの嫉妬に絡んだ疑惑の目である。

「まぁ~、お高かったンでしょう?」

「ええ、まあ、おほほほほ……」

「でもおかしいですわねえ。そのタイプは、まだ日本には入ってきていないはずですけれどぉ…。どちらでお買い求めになられたのかしら? 私も欲しいわぁ」

さぁて、困った。

上海でとは言えず、フランスへ旅行に行った友達に、或は個人貿易でなどと、なんとかその場を取り繕っても、翌日には“奥様奥様。ほら、○○さんのヴィトンのバック、どうやら偽物みたいですわよぉ”といった噂話が、ご近所中に広がっているはずである。

こういった追及に、あなたが一体どこまで耐えられるか、度胸のある方はお試しあれ。

恐らく、普通の神経の持ち主であるあなたによって、そのバックは数日でタンスの奥く深く仕舞い込まれ、二度と日の目を見ることはないであろう。

なお、この偽物市場は二〇〇六年六月末をもって閉鎖されたことになっているが、実は国際的な批判をかわすために数ヶ所に分けて移転されただけである。

今でも淮海中路を襄陽公園に向かって歩くと、以前にも増して、客引きに出くわすこと請け合いである。

偽物の販売で甘い汁を吸っていた残党が、近くに部屋を借り商売を続けているからです。

そのしつこさは以前の比ではなく、いきなり腕や肩を掴んでくる輩もいる。

それだけ必死ということなのであろうが、このときは遠慮なくその腕を振り解き、怒りを露わにしなければならない。

そうしないと、どこまでも付き纏われることになる。

中国では何事においてもあやふやにせず、意思表示をはっきりすることが肝要である。



三、怖い体験


1


「ほらほら、不要、不要。……触るなッ! なにが友だちだ、ふざけんじゃねえっ!」

峪口の剣幕に恐れをなしたのか、客引きは二人のもとを離れて行った。

「あんまり怒んなよぉ、峪口ぃ~。喧嘩んなんべぇよぉ」

「ほんとに珍しいなあ、峪口がそんなに怒るなんて。わしならともかく」

「いやいや、あやふやに対応していると、いつまでもくっついてくるしね。それに、身体に触られたら本気で怒らないと、下手すると財布を抜かれるからな」

「なにッ! ほんとうかよ。そりゃあ、ヤバイ」

と同時に発して、施川と邑中はバックを抑えた。

「肩に掛けないで、首から前に提げた方がいいぞ」

峪口は赴任当初、肩から後ろに下げた鞄を何度か狙われたことがある。

一度目の時は、鞄に違和感を感じ振り向くと誰もいない、少し離れて女の子がついてくるだけ……。

不審に思いながらも、そのまま歩いていると、前から来た女性がアッと言うような驚きの表情をした。

峪口がとっさに振り向くと、後をついて来ていた女の子が、まさに鞄から物をつかみ出したところだ。

「なにするんだッ!」

反射的に峪口は怒声をあげていた。

するとその少女は、つかみ出した物をサッと植え込みに投げ捨て、アッという間に道路を横切って反対側に逃げ去った。

植え込みに目をやると、見覚えのあるキーホルダーが目に入った。

紛れもなく、それは峪口のものであった。

拾い上げ、注意を促してくれた女性に礼を言って振り返ると、すでにその少女の姿は消えていた。

「へーえ、そんなことがあったンだ。そんな小さな子がねえ」

「でもね、会社で従業員に言われたけど、追いかけちゃダメだって」

「諦めろってこと……。なんでやねん?」

「近くに必ず仲間がいて、よくて袋叩き、場合によっちゃ刺されるってさ。それは公安(警察)が言ってることらしいよ」

っかねぇ国だな」

邑中が首を竦める。

「二度目はもっと恐かった……」

「なぬっ…」


2


「ふんにゃッ! まだあんのかぁ。ど、どんなだ?」

「鞄を切られた」

「あんだとぉ…、トバ(ナイフ)でかぁ?」

「うんだ。こっちも油断してね。鞄をこう後ろに回して、肩から下げていたンだ」

峪口は二人に、バックの紐を持ち、背中に背負う格好をして見せた。

「恐っかねぇ…」

邑中が恐怖に顔を引き攣らせ、辺りをキョロキョロと窺った。

「それで?」

施川が先を促す。

「あれは“新疆ウイグル系”だな。顔つきが漢民族とは明らかに違ったからね。トルコ系っていうのかな、彫りの深い、目鼻立ちのはっきりとした。……こっちは若い男だった」

「確かにトルコ系は、目鼻立ちのはっきりした可愛い顔をしているよな」

「エ、エゾキチックだんべぇ」

「偉い偉い、よく言えた。はい、角砂糖。でも、エキゾチックだろう」

「うんだ。俺ぁでぇ好きだ」

「なにが、男がか?」

「馬鹿か、オメェは。女に決まってンべぇよ」

「君の場合は“雌”だろう。それでどうした?」

「うん、背中に殺気を感じたわけよ。で、俺がパッと振り返ると、ここ、この辺りに、そいつの無表情な面があって。いやぁー、びっくりしたよ」

そのとき峪口は、咄嗟に鞄を胸元に抱え込み、その男を睨みつけた。

するとその男は、なにやら言葉を発してクルリと踵を返すと、悠然と立ち去った。

“その連中こそ本当に恐い連中です。夜でなくてよかったですねぇ”と、後で従業員から聞かされ、背筋を冷たい汗が伝った。

彼らは子供でもナイフを持っていて、中には口の中に小さな刃物を潜ませている、まるで奇術師のような輩もいるとか……。

施川の顔から笑いが、邑中の口から言葉が消えた。

「避ける方法はただひとつ。油断や隙を見せないこと、これしかないそうだ」

邑中がしっかりとバックを抱え込んだ。



四、大都市の戸籍と地方の戸籍


1


「ふーう。やっと客引きがいなくなった」

三人は“陜西南路”を渡って、ようやく一息ついた。

陜西南路で区が分けられていて、偽物市場があるのは“徐匯区”、陜西南路を跨ぐと“慮湾区”になる。

慮湾区は、上海市政府のお膝元いうこともあってか、物売りや客引きなどに対する取り締りがとても厳しいのだ。

それで慮湾区に入ると急に静かになる。

偽物市場の外にも、道端で敷物の上や自転車、リヤカーの荷台などに品物を広げた物売りがたくさんいる。

大概は、偽ブランド品や偽のDVDなどであるが、近年のペットブームを反映してか、中には子犬や子猫を売っている者もいる。

DVDは、米国製映画なら米国での封切りとほぼ同時に店頭に並ぶ。当然品質は劣るが、十元(百五十円)前後と安いのと、とにかく早く見られるのが魅力で、店頭はいつも賑わっている。

この国では、レンタルショップはまず成り立たない。

この物売り連中が、公安や鼠(鼠色の制服)と呼ばれる風紀を取り締まる見回りが来ると、蜘蛛の子を散らすように、アッという間に消えてしまう。

しかし彼らは強かだ。

区の境を越えれば取り締まりの権限が及ばないことを知っているので、道を隔てた別の区に移動して商品を広げる。

陜西南路と“長楽路”も徐匯区と盧湾区を分ける境で、毎日そんなイタチゴッコが繰り広げられている。

では、両方の区で一斉に取り締まりをすれば、とお考えになる方もいらっしゃるでしょう。

しかしそこは中国人、窮鼠猫を噛むに至らぬように、徹底的に追い詰めることをしない。

なぜならば、彼らのほとんどが農村からの出稼ぎで、上海の戸籍は持っておらず、定職につくことができない連中だからである。

もし取り締まりを徹底して、完全に収入源を奪ってしまうと、彼らが悪の道に走ることを上海市政府はよく知っている。


2


中国人にとって、戸籍がどこにあるのかは極めて大切なことである。上海の戸籍がないと、能力があっても上海でまともな職業につくことはできない。

それはどこの都市も同じで、その都市の戸籍を持たないと、中々良い仕事にありつくことができない仕組みになっている。

しかも、地方の人間が大都市の戸籍を取ることはかなり難しいことである。

但し、例外的に戸籍を取得する三つの方法が認められている。

一つ目は、重点大学といわれる一流大学を優秀な成績で卒業することである。

二つ目は、企業に与えられた枠(資本金の額により異なる)を使って戸籍を取得してもらう方法である。

国営企業では、この枠が悪用されることが間々にあるらしい。

三つ目は、紅衛兵の嵐が吹き荒れた当時の改革開放政策によって、地方に追いやられた人たちの子供だけに与えられた特権である。

その人たちの出身地の戸籍が子供に与えられるというものだが、この方法は、逆に社会に大きな歪みをもたらしている。

なぜならば、子供だけに与えられる権利であるから、親はその地に留まることになり、祖父母や親戚を頼って幼い子供を都市に送り出すことになる。

まあ、そのくらい都市生活に魅力を感じているということだが……。

その結果、幼いときに親元を離れ、両親の愛情を知らない子供たちが大都市にたくさん誕生してしまった。

こんな境遇の子供たちが、大都市にはたくさんいる。



五、刺激的なポスター


1


「さあ、ここからが慮湾区、物売りはいなくなるよ」

「ふんとだぁ、なんでぇ?」

「こちら側は上海市政府のある区ということで、取り締まりがとても厳しいンだよ」

「へーえ、そうなンだ。面白いね、道路一本でね」

「結構区側に権限が与えられているからな。まあ、出来合いだろうけど」

「ふーん……」

「これ、この建物が巴黎春天デパート、お洒落だろう。あっち側が百盛広場デパートで、その隣の建物の二十階にうちの会社のオフィスがあるンだけど。どお、寄ってみる?」

「マックの上かぁ」

「おっ、邑ちゃん、生意気にマックときたか」

「いいよぉ、行かなくていいよぉ。今日はみんな仕事中だんべぇ。なあ、施川ぁ……」

「うん、わしも同じ」

「そうだな。止めておこう。ほら、向こう側を見てみな。その広場の後ろの方、森みたいにこんもりしているだろう」

「うん。わしみたいにモッコリしている。邑ちゃんには負けるけど」

「なんじゃそりゃ。バ~カ、スケベ」

「そこが花園飯店の庭で、市民の憩いの場にもなっているンだ。昨日の晩、梨田総経理に御馳走してもらったのがこのホテルさ」

「なぁんだ。そうだったのか」

「日本の野村證券と隣の錦江飯店(地元資本の五つ星ホテル)との合弁で、運営は日本のホテルオオクラ」

「へーえ、どおりで……」

「俺ぁの結婚式は帝国ホテル……」

「わかったわかった」

「そう、だからサービスは最高だし、チップを渡しても受け取らないよ。それは、中国ではとても珍しいことなンだ」

「わしの泊まるホテルとはだいぶ違うなあ。チップを渡すまで部屋を出て行かねぇ…」

「とは言っても、時々受け取る者もいるけどね。そこが難しいところなンだよな」

「わし、チップ制は別にいいと思うなぁ。日本人には抵抗があるけど、世界では当たり前だろう」

「俺もそう思う。ただ、習慣や社会の仕組みの違いとわかっていても、米国みたいに料金の何パーセントを必ずっていわれると、抵抗がある。気持ちなンだよ」

「俺ぁ宿屋へ行くと、ていげぇ三千円渡す」

「へいへい、おまえだろう、モーテルで心付を渡したのは」

「あんれ、施川、オメェはなんで知ってるンだ?」

「好きにしてくれ」

「最近、女中がコロコロ代わっからしょうがねぇな。こねぇだは三人に渡したる。ふんなとき、オメェらはどうすんだぁ?」

「わしか、わしは最初から渡さねぇな。サービス料に含まれているンだから、渡す必要はねぇだろう」

「米国みたいに、額が少ないって、露骨に嫌な顔されるのも頭にくるな」

「そうよ、気持ちよ、気持ち。それで世の中、丸く収まる。熊みてぇに、やたらと銭を渡したがる奴がいるから困るンだ」

「勝手だんべぇ」

「邪魔なら、わしにくれ」

「そんくれぇなら、ドブへうっちゃる」

「そうか、じゃあそこのドブへうっちゃれ。わしが拾ってやる。ほれ、早くしろ」


2


「聞いたところによると、この花園飯店の合弁期間は二十年間、その後一ドルだか二ドルだかで、中国側へ譲り渡す契約なンだそうだ」

「この三十三階建てのホテルが二ドルッ! ああっ、おろろいた。おろろいた。十倍出すから、わしに売ってくれないかな。なんなら百倍出してもいい」

「俺ぁなら、ひゃ、百万倍でも出す」

「おっ、思い切ったな。日本円でいくらだかわかっているのか?」

「二、三百万円だんべぇ…」

「二億じゃ、ボケーッ!」

「ちっくら土地動かせば、問題ねぇ」

「ちっくらか……」

などと馬鹿な話をしながら歩いているうちに、三人は“茂名南路”の交差点に到達した。

「おっ、おおおお、おっ……。あれ?」

施川の目が一点に集中、目はまさに点になっている。

人差し指が反対側の『古今』という看板の掲げられた店を指し示した。

「な、なななな、なんだぁ?」

女性下着の老舗で、中国中に支店を持っている。

「大胆だなぁ、あのディスプレイ。人形とはわかっていても赤面する。ああ、純情なぼくにはとてもまともに見られない。だから向こう側に行ってもう少しよく見ようか」

と施川がおどけて言った。

「ほれ、邑ちゃん行くぞ」

「いんねぇよぉ…、俺ぁ、恥ずかしいべよぉ」

と言いつつも、足は既にそっちへ向いている。

上海の女性下着の店舗は、規制が緩いのか、どこも際どいディスプレイがショーウィンドーを飾っている。

マネキンも如何にも人形然としたものではなく、より人間に近いリアルなものを使っているので、突然目に飛び込んで来ると思わずドキッとさせられる。

ポスターもそうで、中には男性誌のグラビアに載せた方が、と思われるものもある。

「すっ、すっごいなあ。場末のストリップを見るより興奮するよ」

施川は声を潜めて言った。

「うんだぁ。ストリップよりもすんげぇ…」

「なんだ、邑ちゃんも行くのかストリップ?」

「あっ、ふん」

「どすけべ」

ショーケースにジッと見入る施川、チラチラと目線を送る邑中、峪口も思わず際どい部分に目がいく。

男には少々目の毒である。

「なんだか、下半身がムズムズしてくるな。あれッ! 熊、アンタ起ってない」

施川が邑中の下腹部に目線を投げる。

「ね、ねぇよ。俺ぁこの程度じゃでっかくなんねぇ。それより施川、オメェだんべぇ、チンポおっ起ってンのは」

峪口は半立ち状態の下腹部に、落ち着けと命じた。

そういえば単身赴任の所為で、暫くすることをしていないと思った。

下世話で恐縮だが、上海では、薬局の店頭で若い女性がコンドームを堂々と品定めしている、そんな姿をよく見かける。

まあ、必要なものだから、当然といえば当然のことだが、男にはなかなかできない。


3


茂名路を横切ると淮海路は一気に華やぎ、高級ブティックや高級ブランド店が建ち並んでいる。

「一気に高級になるな、この辺りは。日本の銀座といった感じかな」

「銀座とゆうより銅座ぐれぇのもんだべぇ」

「はははっ…、銅座ときたか。上海の六本木と言われていて、この辺りは家賃も高くて、並の飲食業じゃ借りられないンだ。粗利の高い商売ばかりだろう、貴金属店とか」

「六本木ねえ……。そんなに高いんだ家賃は?」

「精々四本木だんべぇ」

「おっ、邑ちゃん今日は冴えているねえ。高い、高い。うちなんか手も足もでない」

この辺りの家賃は、一平米、一日当たり八ドルとか十ドル(例えば、百平米で月の家賃は四百万円ぐらい)が相場だが、なかなか空きが出ないのが現状である。

「“全聚徳”……、どこかで聞いたことがある名前だな、はて?」

と、施川が呟いて首を捻った。

「“北京ダック”で有名な店だ。本店は北京の天安門近くにあるンだ。機会があったら北京へも行こうよ」

「ああ、ぜひ行ってみたいね」

「俺ぁも誘ってくんど。んでも農閑期な、農閑期」

「よし、三人で行こう。上海は見所が少ないモンなぁ。周りには“杭州”とか“蘇州”とか、いろいろな観光地があるンだけど……」

「行こう、明日行こう」

「うんだぁ、行くべぇ。峪口、オメェ手配しろ」

「明日!? まあ、今回は上海観光で我慢してくれよ。次に来るときはセットするよ。それに明日は、こっちの友だちと一緒に食事をすることになっているから」

「友だち? お、女か?」

「ああ、女性だよ」

「お・ん・な……」

邑中が眉根を寄せた。

「熊にカツラを被せたようなんじゃねえの?」

「おえーッ!」

「おっ、自分でも気持ち悪りぃか。うん、わかる」

「ははははっ…、邑ちゃんは面白いねぇ。れっきとした女性だよ」

「ほんとか。嘘じゃねえだろうな」

「嘘じゃないよ、施川。周麗さんといって、以前世話になった人なンだ」

「なっ、なんの世話になったンだよ。ははーん、現地妻だな」

「チンポ触ってもらったのかぁ。なんだよぉ、峪口も施川と同じスケベかぁ」

「アホ。仕舞いにゃ怒るぞ。彼女は復旦大学という、上海一の名門大学出身の才媛だ。その上日本語もペラペラ。本当は会わせたくなかったンだけどね」

「よし、今回は上海で許してやる」

「なにが、許してやるじゃ」

女性と聞くとコロリと変わる、実に現金な男である。

「めんどくせぇなぁ…、女はいんねぇよぉ」

「なんとゆうことを、もったいない。なあ、助平口」

「すけべぐちだと、施川、おまえにだけには言われたくねぇな。ところで、そろそろ昼飯にしない」

「そうすべぇ」



六、焼肉の“神田”


1


「どう、直ぐそこに焼肉屋があるンだけど」

「ふんとだぁ。助平川」

「なんだとぉ、デカチンのムッツリど助平ぇがぁ」

ちっちゃいよりはよかんべぇ」

「悪ぅござんした。どうせ、わしのは小さい。早い、小さい、不味いって、女房にいつもゆわれてる。ゆわれてねぇよッ!」

「へぇへへへ……」

「おっ、また勝ち誇りやがった。焼いて食うぞ、その無駄にデッカイちんぽこ」

「峪口、止めてくれ。考えただけで食欲がなくなる」「その焼肉屋ってのは、うんめぇのかよぉ?」

「邑ちゃん、結構うんめぇよ。ほら、その路地を入ったところだ」

「俺ぁ、うんめくねぇと駄目だぁ」

「峪口ぃ、邑ちゃん用に豚の頭でも用意してくれ」

「生でいいか?」

「十分、十分。なんなら、客の食い残しでもいいぞ。なになに、焼肉、“神田”、か?」

「そう、そこ。駐在員の間で人気の店だよ。友だちの張さんに教えてもらったンだ。元気のいいママさんがオーナーでね」

「ママさん、美人?」

「うーん……美人、とは言わないけど……」

「なんだ、つまんねぇな」

「オメェはそんだけだなぁ。だから“エロハゲ”ってゆわれるンだ」

「じゃかまし、誰がゆうンじゃ」

「俺ぁ…」

「ははははっ…、とても気風のいい女性で、なんでも神田に住んでいたことがあるらしいよ」

「そうなの、それで神田か。じゃあ、うちの会社とはお隣さんだ」

施川の会社は、東京の神田に本社を構えている。

「そンなら入ってやるか、峪口の顔を立てて。でも、奢りなっ」

「はいはい、わかりましたよ。御馳走致しましょう。その代わり明日は頼むぞ」

「うん? ……失敗だったかな」

「いいよぉ。俺ぁが銭っ子出すからよぉ」

「おっ、そいつはありがてぇ」

「峪口の分だけだけんどよぉ」

「あららぁ…」

焼肉神田は、日本帰りの中国人姉妹が経営している。

峪口が友人の張威に紹介を受けたころは、あまり知られていないこともあって閑散としていたる

だが、近ごろは味とママの気風が評判となり、日本人だけでなく中国人の常連客も多い。

夜ともなると、予約なしでは入れなかった。

メニューを見ながら施川は、

「写真を見る限りはうまそうだ。それに値段も安い」

「けっこう良い肉を使っているよ。なによりも従業員がよく教育されていて、実に気持ちがいいンだ。会社の連中にも見習って欲しいものだ」

「うん。確かにみんなニコニコと対応がいいね。わしがウダウダ言っても、嫌な顔をしないもンな」

「なんだ、わかってンじゃねぇか。まんざら馬鹿ってわけでもねぇな。うん」

「熊、オメェのその無駄ッ腹、焼いて食うぞ」

「はっははは……、それも人気の秘密だな。それに、ここはオープンから従業員がまったく変わらない」


2


「へーえ、よっぽど待遇がいいってことかな?」

「待遇は特別いいとゆうわけじゃないみたいだけど、ママさんだろうな。彼女の力だと思うよ」

峪口の会社では、設立以来、僅か二年の間にいったい何人の者が去って行ったことか、両手の指を折ってもまだ足りない。

基本的に労働契約の期間が一年ということもあるが、大きな理由として、上海には外資系企業の参入が相次いでおり、外国語(英語、日本語)ができて、外資系企業での就労経験を持つ者は引っ張りだこという状況があげられる。

会社を移ることで収入が五割増、或は二倍などといったことも珍しいことではない。

従業員から退職したいと意思表示があったときには、すでに次の行き先を決めているのが普通で、引き留めようとするなら、転職先の給与を凌ぐ条件を出さなければならない。

しかし企業には、給与規定がありできるはずもない。

また、本人が考えているほど能力的に優れているわけでもなく、規定を崩してまで無理に引き留める必要もない。

結局、引き抜いた側も一、二年後には同じ悩みに直面することになる。

日系企業同士がお互いに首を絞め合っている。

上海人の職業に対する考え方は極めて欧米的で、個人主義が如何なく発揮される。

それは徹底されていて、会社のため、同僚のためなどといった意識や愛社精神を培うのはとても難しいことである。

「いゃあ、食った、食った。満足、満足。値段を聞いてもっと満足」

焼肉をたっぷり食って、酒をしこたま飲んで、料金が五百元(7500円)と聞いて、施川は悦にいっている。

「オメェが払ったンじゃあんめぇよぉ」

「邑ちゃん、ご馳走様でした」

腰を九十度に折って礼を言った。

「こんなときだけ愛想がいいなぁ、オメェはよぉ」

三人が神田を出て淮海中路に戻ると、時刻は午後二時を指していた。

「飲んだら歩くのが億劫になったな」

と、酒で顔を真っ赤にした施川が愚痴った。

「“豫園”にでも行ってみるか」

峪口の頭に、突然“豫園”の文字が浮かんだ。

「よえん、……わしは十分酔った」

施川は駄洒落で応じた。

アルコールが入ると、軽口がポンポン飛び出す。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ