侯爵家三男の初恋
◇
「――アステル。お前、わかっているだろうな?」
フリューゲルへ発つ日、父親が確認してきた。
突き刺すような眼差しに、念押しする口調だった。
「わかってますって、何度確認するんですか。父上」
へらっと答えれば、「本当にお前は」と呆れたように父は言う。
「フリューゲルに着いたら、まず聖女候補の上位陣に取り入るんだ。今からでも聖女候補と繋がりを持っておけば、将来のためになる。なんの取り柄がなくとも、そのぐらいはできるだろ」
神経質そうに告げる父の眉間に寄るしわを見る。いつも顔を顰めているが、そんなんだから人相が悪く見えるんだと常々思う。
「バラム家の公爵令嬢には特に近づいておくんだ。もしも繋がりを持つことができれば、我が家にもたらす恩恵は計り知れないからな」
ストーム家の三男。優秀な兄たちには到底及ばない平凡な末っ子。しかし処世術だけは身について、どうにかのらりくらりと生きてきた。
なんの取り柄もないだって?
どの口が言っているんだ。
ストーム家が穏健派だと言われている理由は、誰かを後ろ盾にしないと生きていけないせいで、波風立たせず長い物に巻かれてきたからだ。偉い人に引っ付いているただの腰巾着でしかないくせに。
……とは言わず、俺は今日も笑って受け流す。
「任せてください、父上。俺、人と仲良くなるのは得意ですから」
この言葉を、人生で何度口にしたかわからない。
俺の人生など家のことを抜きにすれば、取り立てて何もない平凡なものだった。
「セレーナ様~! 今日もお美しい……!」
「さっき挨拶を返してくださったのよ~!」
あれが父の言っていた、セレーナ・バラムか。
聖女候補として一番に名前が上がる公爵令嬢サマ。
見た目は綺麗だが……そこはかとなく人を見下したような態度を感じて、どうにもいけ好かない。
あれが聖女候補の上位陣だと思うと、ヘスティア様のような聖女が出るのはまだまだ先のように思えた。
そうだ、ヘスティア様。
ヘスティア・アプロディーテ様。
一度、お見かけしたことがある。
その昔、大人たちが一番身分の高い貴族に媚びへつらいながら、一番身分の低い貴族を貶している姿を見かけたとき。
「――まあ、汚らしい。あのような者が、どうしてこのような場所へ来たのでしょう」
「身分不相応だと理解していないのかしら。もしもわかっていてこの場にいるのであれば、どれほど面の皮が厚いことか……」
本人が目の前にいるのに、わざわざ聞こえるように嫌味を言う。そんなことをして何がしたいのだろう、俺はその時は純粋に疑問だった。
相手が傷つくことを楽しんでいるだろうか。
それとも、自分よりも下の者を見下して、自身が優越感に浸りたいのだろうか。
上流階級の人間が考えていることは理解ができない。いや、理解したくもない。
……だけど、自分の家は、あのような人たちに媚び諂わなければ生きていけない。
馬鹿馬鹿しいと思うのに、何もできない。そんな自分は、あの大人たちよりももっと惨めだと思った。
先ほどから馬鹿にされ続けている眼鏡をかけた男性が、肩を押される。
持っていたグラスから水滴が飛び、別の貴婦人のドレスの裾へかかった。
それほどの被害でもないのに、周りは大袈裟に非難した。
「まあ! なんてことを……モリス夫人のドレスにかかったわ!」
「あの者、首が飛ぶだけじゃ許されないわよ!」
「っ、も、申し訳ございません! すぐに拭くものを……っ」
頭を下げた男へ向けて、モリス夫人と呼ばれた女性は持っていた扇子で思いっきりそのこめかみを叩いた。瞬間、額に角が掠めたのか。ぽたぽた、と血が床に落ち始める。
「……お前! よくもわたくしのドレスを穢してくれたわね」
「っ、も、申し訳ございま……っ」
ぱんっ、と勢いよく反対側のこめかみも叩かれて、その人がよろめくようにして顔を押さえた。眼鏡が惨めな音を立てて床に落ちる。
男性は視力が相当悪いのか。急いで眼鏡をとろうとしゃがみ込んだが、夫人に手のひらごと眼鏡を踏みつけられていた。
「っぃ……っ」
「この落とし前、どうつけてくれるのかしら?」
「……っも、申し訳ございません……」
「ただ謝って許されると? この手を切り落とし、売ったところで、このドレスの値段にも値しないのに?」
夫人は恥をかかされたとでも思っているのだろうか。にしたって過剰だ。行き過ぎている。
割れた眼鏡の破片が、男性の手のひらに突き刺さっていることは、血が滴っている様子を見れば一目瞭然だ。
何故、誰も止めないのだろう。
大人たちはどうして、ただ見つめているのだろう。
いや、違う。
嘲り笑う者、酒を飲む者。
余興のように楽しみ、ただ眺めているんだ。
彼らにとってほんの些細な光景に過ぎないから。
……なんなんだよ。同じ人間のくせして。
そこにただ、金持ちだの、身分だの、人間が決めた付加価値に則って、
己を過信しているだけのくせして。
馬鹿馬鹿しい。くだらない、辟易する。
こんなにも腹が立つのに、何もできない自分が一番。
くだらなくて、嫌になる。
「……確かに、人間の手は布切れに値しないだろうな」
静かな声だった。それなのに、ずしりと重みがあって、胸の奥に響く。
もしも啓示を受けるとするならば、そのお告げはきっとこんな響きをしているのかもしれないと。
思わず、推測の域を越えない想像をしてしまった。
それほど特別で、尊く。
「お前の着用するそのドレスの布も糸も装飾された宝石たちも、人の手がなければ生み出すことはできない。それをわかっていながら、どう対等に扱える」
「……っあなたは!」
「今の言葉はそういう意味であろう、モリス公爵夫人」
この声の主にこそ、あるべきものだと思った。
「そ、それは……っ」
「他の者は? お前たちが飲むそのワイン、その食事、こうして身を置いている床や壁、天井までも。すべて、人の手をなくしては何も成り立たないとは思わないか?」
びく、としながら顔を逸らす貴族たちに視線を配り、そうして再び夫人へ目を向けた。
「金も身分も、人がいて初めてその効果を発揮する。人手にまさる贅沢品はないと、お前たち貴族は、当然知っているものだと思っていたが……」
「っお言葉ですがヘスティア様。この者が汚したわたくしのドレスは、職人が丹精込めて仕上げたものでございます。それを軽々しく汚されてしまえば、その職人に申し訳が立たないとは思いませんか? 人手を語るのであれば、尚更。それ相応の謝罪が必要であるとその者に教えていただけにすぎません。それなのに、わざわざ大聖女であるあなた様が……このような……」
「そうか。それはすまないことをしたな」
素直に頷くその人は、そのまま軽く手ひらを夫人へと向けた。
「詫びに、そのドレスを私が綺麗にしよう」
「え……」
ふわ、とドレスの表面が波打つ。すると、水気が散ったように濡れていた部分が蒸発した。
なんてすごい。
虹を作りながら、光が散っていく。
とても美しい魔法を使う人だと思った。
「お前、大丈夫か」
自分に向かって躊躇いなく地面に膝をつくその姿に、怪我をしている男の人は驚いたように目を見開く。
「……血が滲んでいるな、治療はあとできちんとしてもらえよ」
「は、はい……っ」
手のひらに刺さったガラスを指先で払い、そうしてその人は夫人を振り返るようにして立ち上がる。
「では、モリス夫人。この者へ謝罪を」
「え……」
「私からは、この者は何者かに身体を押され、その拍子にあなたのドレスの裾にこの飲み物をかけてしまったように見えた。不可抗力であったが、この者は謝罪をしたというのに、眼鏡を踏みつけられ、血を流すほどの痛みを受けた。しかしそれは、些か行き過ぎのようにも思うが」
「そ、それはっ……」
「発端となったお前のドレスはこの私が元の状態に戻した。してお前は? 〝行き過ぎた詫び〟に、何を返してくれるのだろう」
「っ……」
「モリス夫人。私は別に、お前を辱めたいわけでもなく、ただ単純に誠心誠意のお返しを求めているだけだ」
静かに目を向けているその人に、夫人は足元に視線を落としながらただただ震えていた。
「……」
「……沈黙が答えか」
「残念だな」と言いながら、その人が顔を背けた瞬間、「もっ」と夫人がわなわなと頭を下げていた。
「申し訳、ありません、でした……っ」
「それは何の謝罪だ」
「! 過剰に罰してしまい、その者に怪我をさせてしまった、ことに対して、です」
「……」
ふとその人が、「だそうだが」と男の人に声をかけると、彼は「えっ、あ」と戸惑ったように夫人とその人を交互に見た。
「そ、その……」
「満足か? 不足なら、高額で眼鏡代でも請求するか?」
「い、いえっ、だ、大丈夫です……っ」
「そうか。謙虚な奴だな」
その人は、理解できないと言うような口調で、壊れた眼鏡を拾い上げると。
「そういう姿勢は嫌いじゃないが、損をしやすいことも忘れるなよ」
手のひらを光らせて、魔法で眼鏡をあっという間に元に戻していた。
あれは、物に対する時戻しの魔法だ。
とても高度な魔法だと聞く。
それなのに、あれほど簡単に使えてしまう人がいるだなんて、信じられなかった。
「……すごい……」
思わず見惚れてしまう。
あの人から漏れ出る魔力が温かくて、優しくて、どうにも目が離せなかった。
その人が男の人に眼鏡を返し、踵を返そうとした瞬間。
ふと、視線がぶつかってしまう。
惚けていた俺は、恥ずかしくなって、かあっと頬が熱くなった。
瞬間、その人は目を細め、優しく微笑んでくれた。
恥ずかしさなんて、感じる必要などないと言わんばかりに。
何故だか力が抜けていく。
立ち尽くしてしまう俺を捨て置くように、そのままその人は歩いて行ってしまった。
心臓がどきどきしていた。
あれほど、強く、優しく、美しい人が、この国一番の大聖女様だと思うと。
嬉しくて、誇らしくて、心が鷲掴まれた気分だった。




