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Babel (バベル)  作者: 匿名希望
第四章 上層
44/44

44.前日

 アルマが長官に就任してちょうど一ヶ月、バベルと対面する報告会の日程はいよいよ明日に迫っていた。

「こちらがバベルへの報告と要望の内容をまとめた資料です」

 エミリーがファイリングされた資料をアルマに手渡す。

「ありがとう」

 パラパラとページをめくりながらアルマが礼を述べる。ただアルマはこの分厚い冊子の内容を全て記憶しているため本来は必要ない。なぜならMIは記憶容量の限り一度見聞きしたことを決して忘れないからだ。

「それじゃあ、リーダー会議に出席してくる。今日は長官室には戻らないから、エミリーも帰宅して構わない」

「わかりました。それでは雑務を済ませたらお休みをいただきます」

 そう言いながら彼女が本当に帰宅したことは結局一度もなかった。おそらく今日も。

「……エミリーはいま、幸せ?」

 唐突な問いかけにエミリーは一瞬驚いたが、すぐに表情を引き戻し至って真面目に答えた。

「はい、もちろん。塔の人々の豊かな暮らしのために働くことは私の喜びであり、誇りです」

 上層民に相応しい模範的な回答。彼女はこれを誰かに言わされているわけではなく、本当にそう思っている。人間を突き動かす原動力にはいろいろな種類があり、誇りもそのうちのひとつだということを、アルマは上層に来てから学習した。

 もしかしたら私は明日、あなたから誇りを奪うことになるかもしれない。脳裏をよぎったその言葉を、アルマは口にはしなかった。

「素晴らしい心がけ。でも無理はしないように。塔の人々の中には、あなたも当然含まれている」

 代わりにそれだけ伝えると、アルマは長官室を後にした。


 会議室に入ると、すでに技術省のリーダー四名は部屋の左右に設えられた各々の席についていた。中央の長官席にアルマも着席する。この会議はあくまで形式的なもので、目的は報告内容の確認に過ぎない。資料を開くと、アルマから向かって左側の席にいるウォルターが苦笑した。

「資料の準備は必要ないと伝えたんだけれど、彼女(エミリー)は相変わらず真面目だなぁ」

「アルマがMIであることを知らないのだから、無理はないさ」

 ウォルターの正面の席からエミリーの父、バーネット博士が応える。アルマの脳にMIが埋め込まれていることを知っているのは上層移動選出投票の権利を持つ各省のリーダー以上の人間、つまり技術省ではここにいる四人だけだ。

「羨ましいな。私の脳にもMIが入っていたら、もっと作業効率が上がるのに」

 ウォルターの隣の席に座るケビンが呟く。ミコやウォルターとも相談のうえ、彼にはアルマが塔へ来た経緯と目的を伝えた。「自分にできることがあれば何でも協力する」と申し出てくれたため、ケビンにはあることをお願いしている。

「僕のチームで、脳の拡張領域としてMIを使う研究を進めているから、いつかそれに近いことが実現できるはずだよ。なにせアルマという成功例がすでに目の前にいるからね」

「本当ですか? では、最初の被験者はぜひ私にやらせてください」

「君も大概怖いもの知らずだね……」

 和気藹々と技術者同士の会話に花が咲きかけた次の瞬間、テーブルを叩く鈍い音によって強制的に中断される。

「時間の無駄だ。さっさと会議を始めてくれ」

 音の主はバーネット博士の隣に座るサエグサ教授だった。バーネット博士から渡されたピンバッジの効果も手伝い、突然長官になったアルマに対して不満を示す職員はいなかったが、彼だけは強硬な姿勢を崩さず、今日に至るまで必要最低限の会話を除きほぼ交流がない。

 彼のほかにもアルマは何名かの日本人とこの塔で出会っていたが、そのほとんどは真面目で穏やかな人柄だった。国籍で一括りにできないことは当然分かっているが、バーネット博士と同じかそれ以上に年齢を重ねていながら筋骨隆々で、技術者というより建築や鍛治の職人といった方がしっくりくるサエグサ教授のアルマに対する態度は、本人の性格以上に別の要因があると思われた。

 おそらく彼は、MIそのものに嫌悪感を抱いている。MIを搭載したものが主流になる以前からロボット工学を専門にしていたと聞いているから、色々と思うところがあるのかもしれない。だとしたら、私がこれからやろうとしていることを知ったら、彼は喜ぶだろうか。

 会議は滞りなく進み、何の問題もなく終了した。

「ありがとう。皆のおかげで、バベルと対面する準備を整えることができた」

「そう気負うこともないさ。君が思っていることをそのまま伝えればいい」

 ウォルターにも、バベルと話す内容については何も伝えていない。知ったら止めようとするだろうか。いや、彼の性格なら面白がるだけかもしれない。

「うん。それじゃあ、行こうか、ミコ……ミコ?」

 テーブルの上に乗っているミコに呼びかけるが、反応がない。そういえば、最近はプロペラを回して浮遊しているよりこうしてじっとその場に止まっている時間がずいぶん増えたように思う。

『ああ……すみません。行きましょう、アルマ』

 少し間が空いて応答し、同時に動き始める。その異変をウォルターは見逃さなかった。

「機体の調子が悪そうだな……サエグサ教授」

 ウォルターが呼びかけると、ちょうど机を片付けて立ち上がりかけていたサエグサ教授がこちらへ顔を向ける。相変わらず不機嫌そうだ。

「ミコのことを診ていただけませんか? 古いパーツが多くて、僕じゃちょっと難しそうなんです」

「ああ、構わんぞ」

 断られるか、そうでなくても嫌な顔はするだろうという予想は大きく外れ、サエグサ教授は申し出をあっさりと了承した。

「明日、報告会の後に私の研究室へ来なさい」

 そう言い残すと、サエグサ教授は足早に会議室のドアへ向かっていく。

「あ、ありがとう」

 アルマが慌てて言うと、サエグサ教授は微かに頷き、会議室を後にした。

「ウォルターも、ありがとう。ミコ、今日は私が運んであげる」

『いいえ。大丈夫ですよ』

「いいから。ほら、行こう」

『……ありがとうございます』

 ウォルターたちに別れを告げ、ミコを両手の上に乗せたままアルマは自室へ戻った。充電ポッドの上にミコを乗せてあげると、ミコは何も言わずスリープモードに入る。やはり調子が悪いようだ。何か異常があるなら早いうちに修理してもらったほうが良い。

 食事と入浴を済ませ、ミコへの心配とバベルに会う高揚の混ざり合う複雑な感情を抱えたまま、アルマもベッドに入る。なかなか眠りにつけないのは車で荒野を旅しているとき以来で、どこか懐かしく思えた。

 そして、ついにバベルと対面するその日を迎えた。

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