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Babel (バベル)  作者: 匿名希望
第二章 下層
18/44

18.過去

「見たか、ベンの奴! 尻尾巻いて逃げやがった!」

「びっくりしたぜ、すげえな嬢ちゃん!」

「サルガド、この子に一杯奢らせてくれ!」

 完膚なきまでにベンを叩きのめしたことによって、アルマは一躍店中の注目を集めることとなった。先ほどまでベンに目を付けられないよう息を潜めていた酒場の客たちが、今や水を得た魚のように声を上げて笑い、店内はお祭り騒ぎになっている。 

「アルマ!」

 声と同時にぶつかってきた何かを、アルマが倒れないよう全身で受け止める。思っていた通り、胸に飛び込んできたのはリリアだった。

「あんな危ないことはもうやめて! 怪我をしたらどうするの!?」

 リリアの目には大粒の涙が浮かんでいた。

「でも、ああしなければサルガドの方が危なかった」

「だからって……!」

「大丈夫、私は強い。ミコもいるし」

 泣きじゃくるリリアを落ち着かせようと、アルマは前にマーサおばさんがしてくれたようにできる限り優しくリリアを抱きしめ、頭を撫でた。

『そう、あれが被害を軽微に抑える最善の方法でした。ああ、リリア。どうか泣かないで……』

 ミコも珍しく狼狽えるようにリリアの頭上を忙しなく飛び回っている。

「……リリア、もう泣き止め。アルマたちはあの荒野から自分の力でここまで来たんだ。俺たちの物差しじゃ測れないのは当然だ」

 サルガドがリリアを抱き上げ、義手でない方の手で小さな背中を撫でる。すると、あれほど興奮していたリリアがすぐに落ち着きを取り戻し、まるで電池が切れたように泣き止んだのだった。

「うん……」

「すまないな、アルマ。本当なら俺がどうにか収めなきゃならなかったんだが」

「問題ない。悪いのはあの男」

 心から申し訳なさそうに詫びるサルガドに、アルマはあっさりと告げる。実際、もしベンが本気で殴ってきたとしても、結果は変わらなかっただろう。

「だが、ベンがこのまま黙って引き下がるとは思えない。十分に気を付けてくれ」

「何回きてもアルマなら楽勝だ!」

「荒野から来たってのは伊達じゃねえな」

「闘技場でもいいとこまで行くんじゃねえか?」

 口々に騒ぎ立てる客たちの、ある単語にアルマが反応する。

「闘技場?」

 客の一人にアルマが詳しく訊ねようとするが、その前にサルガドの鋭い声が割り込んだ。

「やめろ。冗談でも滅多なこと言うんじゃねえ」

 一瞬にして騒いでいた男たちの声がトーンダウンする。ただ嗜められただけでこうはならない。だがその理由がアルマには分からなかった。

「そ、そうだな。よし、今日は飲むぞ!」

 にわかに店内が賑やかさを取り戻していく。しかしこの日、闘技場という単語が話題に上ることはもう二度となかった。


翌日、アルマはまだ昼間のうちに再びサルガドの店を訪ねていた。

「まだ開店前……アルマか。リリアに用なら呼んでこようか」

「ううん、サルガドに聞きたいことがあって来た……闘技場のことについて」

 昨日、闘技場という単語が出てから明らかにサルガドの雰囲気は一変した。彼は、闘技場に関して少なくとも他の人間より深く知っている。

「………………座ってくれ」

 長い沈黙の後、観念したようにサルガドがアルマを昨日と同じカウンター席へ招き入れた。自分でスツールを下げ、姿勢を落ち着けると、サルガドがゆったりとした口調で語り始める。

「アルマは、下層の闘技場についてどこまで知っている?」

「中層へ行くために闘技場でお金を稼ぐ必要がある、ということだけ」

「ああ、概ねその認識で間違いない。実は、俺もかつて中層を目指して闘技場で戦っていたうちの一人だった」

 サルガドの目は何かを思い出すように遠くのほうを見つめていた。「かつて」ということはつまり、「今はそうではない」ことを意味している。

「俺の妻……リリアの母親のカミラは、昔から身体が弱かった。専門的な治療が必要だったんだが、下層地帯じゃ十分な治療を受けられない。だから俺は、何としても大金を稼ぐ必要があった。腕をMI化したのも闘技場で勝つためだ。だがあるときの試合で、ベンにひどくやられちまってな。そのときの怪我で義手を操作するための腕の神経がいかれちまったんだ。リハビリを経て何とか日常生活に支障がない程度にはなったんだが、戦いは諦めるしかなかった。結局カミラも死んじまって、今はリリアに少しでも楽させてやるために、こうして店を開いて細々やってるというわけさ」

 サルガドの口から語られる壮絶な過去を、アルマは一言も漏らさず黙って耳を傾けていた。

「闘技場は、それほど危険な場所なの?」

「ああ。人間同士だけじゃなく、時にはMI兵や機械獣(マシンビースト)と戦わされることだってある。闘技場ってのはつまり、中層民の娯楽、見せ物なんだ。戦いが激しいほど奴らは熱狂し喜ぶ。結果、それが行き過ぎて死ぬ奴だって少なくない。腕一本程度で済んで、俺は運が良かったくらいだ」

 アルマは少しずつ、闘技場、そしてこの塔の仕組みを理解し始めていた。思っていた以上に、ウォルターが言っていた自身の位置する場所による階級の差というものは大きいようだ。

「闘技場に参加するつもりなのか?」

「うん」

 サルガドの問いかけに、アルマがきっぱりと答える。下層民の観戦は許されていないため、その内実を知るにためには、闘技場に参加する他に方法はない。

「俺に止める権利はないが……」

「そんなのダメ!!」

 叫び声とともに、店の奥からリリアがアルマの前に飛び出してきた。

「リリア! お前、今の話を聞いていたのか……」

 怒り、悲しみ、そして縋るような願いの込められたリリアの赤みがかった瞳が、アルマの青い瞳を鋭く射抜くように見つめている。その視線は、昨日不用意に通貨の入ったカードを取り出したアルマを咎めるときのサルガドにとてもよく似ていた。

「アルマ、お願いだから危ないことはしないって約束して。中層なんかに行かなくても、ここで私たちと一緒に暮らせばいいじゃない!」

 必死で訴えるリリアに対し、しばらくのあいだアルマは押し黙ることしかできないでいた。

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