16.Bar Salgado
玄関のドアを開けて部屋の外へ出ると、空はすっかり暗くなっていて、4階から見下ろす家々の窓のほとんどに明かりが灯っているのがよく見えた。この光の数だけ人が暮らしているのだと思うと、何だか自分の存在がとてもちっぽけなもののように感じる。
階段を降りて、サルガドが経営している酒場に向かって歩き出す。お店の場所はミコが事前に調べてくれていた。どうやら家から歩いて行ける距離にあるらしい。下層地帯で最初に出会った人物が彼だったのは、とても幸運なことだったと思う。
出掛ける前にシャワーを浴びて火照った身体を、涼しい夜風が撫でていく。ここが塔の中だということが、いまだに信じられない。だが、街の賑わいに近づくにつれ増えていく明かりや建物の中から聞こえる楽しげな話し声が、間違いなくここがあの荒野でもないことを物語っていた。なぜなら塔の外壁によって守られたこの人々は、音や動きに反応して襲いかかってくる機械獣に怯えながら息を潜めて暮らす必要がないからだ。
10分ほど歩いて辿り着いた「Bar Salgado」は、東地区で最もよく賑わっている繁華街の喧騒からは少し外れた静かな場所に佇んでいた。
『なかなか雰囲気の良い店構えですね』
ミコが店の外観を見上げながら賞賛する。確かに、木で造られた建物の外観は同じ素材でも他の建物とはどこか違って見えるような気もしたが、雰囲気の良し悪しまではアルマには分からない。
扉の濃いダークブラウンによく映える金色の取手を押して入口のドアを開けると、カランカランとベルが鳴り、店の奥にいたサルガドがこちらに顔を向けた。
「いらっしゃい……おお、早速来てくれたのか!」
アルマの姿に気付いたサルガドが声を上げ、カウンターのほうへ手招きする。子供が一人で酒場に現れるという奇妙な光景に店中の注目が集まる中、アルマはそれらの視線を意にも介さず、サルガドに促されるままカウンター席に腰を落ち着けた。カウンターの奥の壁に備え付けられた木の棚の上には、多種多様なラベルが貼られた酒瓶がずらりと並べられている。
物珍しそうに店内を見回していたアルマの視線が不意に低くなる。背の高いスツールのせいで足が地面に届いていなかったため、サルガドが少し位置を下げたからだった。すると、すでに宴会が始まっていたテーブル席の方からどっと笑い声が巻き起こった。
「おいサルガド、いったいどこから拐ってきやがったんだ?」
「ここはお嬢ちゃんみたいな子が来るような上等な店じゃないぜ!」
「やめろお前ら! ……すまねえな。今日は特にうるさい客が多くて」
酔っ払いたちを嗜め、詫びるサルガドにアルマが首を横に振る。
「構わない。前に私がいたところもこんな感じだったから、慣れている」
アルマはコロニーで暮らしていた頃の、ダイナーでの食事風景を思い出していた。コックのエドガーが作ってくれた料理を皆で食べて、酒を飲んで騒ぎ出す男たちを奥さんのハナが嗜めて、叱られて肩を落とす男たちの姿に皆が笑い転げて……アルマにはいったい何がそんなに面白いのか理解できなかったが、少なくともあの空間は嫌いではなかった。
「そうか……」
サルガドはそう呟いたきり、それ以上深く聞いてはこなかった。長く荒野にいたアルマがどんな過去を経てたった一人でここへ来たのか、なんとなく想像はついている。
「さあ、注文は? 今日は新たな住人の歓迎祝いだ。お代は気にせずなんでも好きなだけ食べてくれ」
「それは悪い。お金ならある」
アルマが通貨の入ったカードを取り出して見せると、サルガドは慌ててそれを下げさせた。
「アルマ。そういうことはあまり大きな声で言わないほうがいい」
「どうして?」
「悲しいことだが、下層には通貨を手に入れるためなら何でもするような奴が少なからず存在している。アルマみたいな子供が金を持ってると知ったら、どんな危険に巻き込まれるかも分からない」
サルガドの口調は優しいものだったが、その表情は真剣だった。
「……わかった。気を付ける」
『ご忠告感謝します、サルガド』
「まあうちの店の客にそんな不届者はいないはずだ。その点は安心してくれ」
「でも、道案内のお礼をしたくて来たのに、これではお礼にならない」
その言葉にサルガドが一瞬驚いたかと思うと、険しかった表情が一気に破顔した。アルマの頑なな律儀さは時に人の心を鷲掴みにする。そのことに当の本人はまったく気付いてはいないが。
「うーん……それなら、代わりと言っちゃあ何だが……」
しばらく考え込んでから、何かを思いついたようにサルガドがカウンターの奥に顔を向ける。
「リリア、リリア! ちょっとこっちに来い!」
何度か声をあげて手招きすると、その呼びかけに応じて一人の女の子が店の奥から姿を現した。
「なに、お父さん……?」
駆け寄ってきた子供をサルガドが太い腕で包み込むように抱き上げると、カウンターの外側に出てアルマの隣の席に座らせた。スツールを下げると、アルマと女の子の目線の高さがぴたりと一致する。
「この子は俺の娘で、リリアって言うんだが……アルマ、よければこの子と友達になってやってくれないか?」
サルガドの声を遠くに聞きながら、アルマは生まれて初めて出会う同じ年頃の少女が自分をじっと見つめているその瞳に、すっかり釘付けとなっていた。




