19 読まずにサインするべからず
ガルさんに呼ばれたのは、野外学習の翌々日、午前中のこと。
ノクスについて行ったそこは、役所というより少し大きめの民家だった。
「適当に座ってくれ」
ガルさんに促されて立ち尽くす。
二十畳ほどの広さの書斎は、壁一面が天井まで続く書棚で、本や書類がぎっしり詰め込まれている。その前に大きな執務机があり、部屋の中央には四人ずつが向かい合って座れるソファーとテーブルがあった。普通ならばソファーに腰を下ろすところだろうけれど、いたるところに地図や書類が出しっぱなしになっていて、はいと頷いて座るのを躊躇してしまう。
「少しは片せ」
「どこに何があるかはわかってるぜ?」
「そういう問題じゃない」
ノクスがソファーやテーブル周りにあるものを手早く集めて執務机に積み上げると、「ついでに茶を頼めるか?」と悪びれもなく言ったガルさんに溜め息をつきながら部屋を出て行った。
やがて三人分のお茶をトレイに載せて戻ってきたノクスが私の隣に、ガルさんがその向かいに腰を下ろした。
これまで毎日のように食堂を訪れていたガルさんだったけれど、この二日間姿を見せることはなかった。
あの日、硬い声音でこちらを見据えていた冷たい眼差しが思い起こされる。
いったい何を訊かれるんだろう。それを考えると、お茶に手を伸ばす気にもなれなかった。
「まず、ミアはこれだ」
そう言ってガルさんは文字で埋め尽くされた一枚の書類をテーブルに広げた。
「ここに名前を書いてくれ」
指で指し示しながら、ペンを差し出してくる。
名前ならもう迷わず書ける。受け取ったペンで署名しようとしたその時。
「おいっ」
ノクスが「読まずにサインするな」と私の手首を掴む。不機嫌そうに眉を寄せた彼は、書類を取りあげて目を走らせる。
そんなノクスに苦笑したガルは「ミアに不利益になることを、お前の目の前でするわけないだろ」と肩を竦めた。
「目の前でなくてもするな。……問題ない。フェルディリアの民としての登録だ」
「これからもここに住むなら必要だろ」
サインするともう一枚差し出され、同じようにノクスが書類のチェックをする。
「同じ書類だ。こっちはきみの母国語で頼む」
「母国、語?」
「ニホン語だ」
この国では誰も使っていない文字で書く意味があるんだろうか。訝しむようにガルさんを見つめると、「ま、保険ってところさ」と笑った。
よくわからないままに頷いて漢字でサインすると「ニホン語の文字は難解だな」と興味深そうに見つめた後に執務机に書類を置きに行ったガルさんは、戻ってくるとどかりとソファに座って天井を仰いだ。
「はあ、どこから聞いたもんかねぇ……単刀直入にいくか。まず、ミアは聖女だな?」
どきりと鼓動が跳ねる。射貫くような視線は少しの嘘も許さないというように、ひたとこちらに向けられていた。
聖女は、いる。私ではない聖女が、ヤフェエールに。それなのに今ここで、私が肯定していいんだろうか。
ノクスを窺い見ると、大丈夫だ、とでも言うようにゆっくりと頷いた。
私はひとつ呼吸を整えて口を開く。
「はい」
「だよなぁ」
一世一代の告白をしたつもりだったのに、ガルさんは予想通りだと言わんばかりに頷いた。
「ならあの時、リーナ野にその剣を呼んだのはきみか?」
ノクスが持参した剣を顎で指し示す。あの旅でノクスが振るい続けた剣だ。
ノクスは普段剣を持ち歩かない。今日はガルさんに持ってくるように言われたから持ってきただけで、無造作にソファーの隣に立てかけてあった。
「呼んだって……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。あの日ノクスは剣を持って行かなかった。違うかい?」
言われてようやく思い至る。
あれは本当に瘴気だったんだろうかとか、なぜ魔王封印と共に消失したはずのものが存在していたのかとか、そんなことで頭がいっぱいだったから、剣のことまで考えが及ばなかった。
「私はなにも。そもそも私はもう聖女の力なんてないですし」
「ない? 聖女の力が?」
「はい」
「……なんでそう思う?
「なんでって……瘴気を祓うための力が出ないから。あの時だって瘴気を祓おうとしたのにやっぱりなにもできなくて」
「ノクスはどう思う?」
「なくなっては、いないだろうな」
予想外のことを言われ、え?と思わず声が漏れる。
「誰かがきみに聖女の力がなくなったとでも言ったかい?」
「それは……でも、子どもたちを守ろうとした時もできなくて」
「瘴気がお前たちに襲いかかった瞬間、壁にでもぶつかったように弾かれた。蒼く光って……あれがなければ間に合わなかった。お前の力だ」
掌を見る。本当だろうか。でもノクスが嘘をつくはずがない。
「実のところ、ミアが聖女だってことは可能性の一つとして考えていたから、そこまで驚いちゃいないんだ。問題はノクス、お前のほうだ」
ガルさんは尋ねるように、けれど確信をもった声音で「それは聖剣だろう? そしてお前が聖剣使い、そうだな?」とノクスに告げた。
「そんなっ、聖剣使いはリエルです」
「"リエル"?」
ガルさんがぴたりと動きを止めて、確認するように繰り返す。
もう二度とこの名を口にすることはないと思っていたのに。はっとして膝上に視線を落とし、両手をぐっと握りしめる。
「聖剣使いはリュミリエルだ。俺じゃない」
「本気で言ってるのか?」
しばし無言で視線をかわしたあと、「オーケー。状況を整理しよう」とガルさんが口を開いた。
「最初から話せ。全部だ」
沈黙が落ちる。
ノクスにフォローしてもらいながら、初めてこの世界に来た時のことや、魔王討伐までのことをかいつまんで話した。
ガルさんは顎を撫でて何事か考えこんだあと、「王はなんと?」と問うた。
「ヤフェエールの王はミアを聖女として扱ったか?」
「王って……リエ……お、王太子のことではないです、よね?」
答えると、訝しげに眉を寄せたガルさんは、少し考えるようにしてから「訊き方を変えようか」と私をじっと見つめてくる。
「王城で、王太子以外の王族や貴族たちと顔を合わせたことは?」
「ないです。毎日魔法塔で聖女修行してたから……」
「毎日? ミアは魔法塔で寝起きしてたのか?」
「まさか! お城に部屋をいただいてました」
「城から魔法塔に毎日通うなんざ、時間がもったいなくないか?」
ガルさんが不思議そうに首を傾げて「敢えてそうする必要があったってことか?」などと自問している。
「散歩がてら歩くのにちょうどよかったです」
「歩き?……ってことは、魔法塔は近かったってことか?」
「同じ敷地にあったので」
ガルがスッと目を細めて「なるほどね」と呟いた。
「よし、ならさっきの剣の話しに戻そうか。ノクス、それ、抜いてみてくれないか?」
「ここでか?」
「ああ」
立ち上がったノクスは、私に半身背を向けると、鞘から剣を引き抜く。
窓からの光を受けて、銀色の刃が鈍く光った。
「戻してこちらに渡してくれ」
ノクスは言われるままに鞘に納めると、剣をガルさんに差し出す。それに触れた途端顔を顰めたガルさんは、それでもそのまま受け取った。
「おいおい、そう嫌がるなよ」
誰に言うでなく呟くと、ガルさんは立ち上がり、先ほどのノクスのように剣を抜こうと柄に手を掛ける。
「くっ!」
渾身の力をこめているように見えるのに、刃はちらりとも姿を現さない。しばらくそんなことを続けているガルさんに、「……ふざけているのか?」と困惑した声でノクスが声をかけた。
「いいや? いたって真剣だ。ミア、きみもやってみてくれるかい?」
「危ないからやめておけ」
「ならノクスが背後につけばいい。ただし、ミアにも剣にも触れるなよ?」
促されて立ち上がり、剣を受け取る。
まず、見た目よりも軽いことに驚いた。そうしてノクスに教えて貰いながら柄と鞘とを持って抜こうとするがビクともしない。
「ノクス、これ、どこかにロックがかかってるとかなの? 本当にただ引くだけ?」
「ああ。……貸してみろ」
ノクスが剣を手にすると、刃はなんなく姿を現した。
「ミア、剣を持ってみてどうだった?」
「見た目よりは軽かったです」
「聖女は特別枠ってことかな。オレはやたらと重く感じた。しかも剣に触れている場所は小さな棘で刺されているようだったぜ?」
ガルさんが自身の掌を見つめて苦笑した。傷ができているようには見えないけれど、そうなっていても不思議はないという痛みだったのかもしれない。
「その剣、リュミリエルが抜いたことは?」
「……ない」
「聖剣を知る者なら皆知っている。聖剣は使い手以外には抜けない剣だ。だいたい"普通の剣"は家から勝手に追いかけてきたりしない。……ノクス、お前が聖剣使いだ」
たった今、実際に抜くことすら出来なかったことを思えば、ガルさんの言葉を違うと否定することなど出来るはずもなかった。
「ったく、聖女も偽物なら聖剣使いも偽物ときた。ヤフェエールはどうするつもりなんだか」
ガルさんはすっかり冷めたお茶を喉を鳴らして飲み干した。
「ガルさん、泉からでてきたあれは、瘴気、ですよね」
「……そっちは調査中だ。ただ、泉の中からこんなものが見つかった」
手に納まるほどの筒状のものだ。竹のように中は空洞で、底が閉じられている。
小さな水筒と言われればそんな気もするし、火薬でも詰めたら武器になったりするのかもしれない。ただ、それと瘴気とはまったく結びつくものではなさそうだ。
「ノクス、お前……」
ガルさんの呼びかけにふと隣のノクスのほうを向いてみたけれど、ノクスもお茶を飲み干していたところだった。
「……? これが何か関係ありそうなんですか?」
「いや、……まだ、調査中なんだ。何かわかれば連絡するし、状況によっちゃ協力願うかもしれない。いいかい?」
「それは、もちろん。私にできることがあれば、ですけど」
「心強いな。頼むぜ、"フェルディリアの聖女サマ"」
茶化すように言うガルさんに、小さく笑みを返す。
神様が選んだと言われた時のような戸惑いも、有無を言わせぬ強制もない"聖女"という響きに、できることがあれば協力したいと、不思議と心から思えた。