13 たくさん泣いて、しっかりお食べ side-Noxion
「パイもあるし、焼けば肉でも魚でもあるけれど、とりあえず冷める前に煮込みを食べちまいな」
目の前に置かれた大きな塊肉の煮込みに、夕飯を済ませたはずの腹が鳴る気がした。
トマティーヌといくつかのスパイスの香り、カチャカチャと食器を取り出したり調理をする音。それらを感じながらあたたかなダイニングの椅子に腰掛けると、本当に帰ってきたのだという実感にホッと息をつく。
ノルテリアの町に帰り着いたのは夜も更けた時刻だった。
馬の背で、腕の中におさまるミワは相変わらずぼんやりと遠くを見るばかりだ。
時折口から零れる言葉は異国の言葉で、こちらの言っていることがまったく理解できていないらしいということがわかったのは、王城を離れた翌日のことだった。
始めこそほんの短い言葉を少しは話していたミワは、諦めたように何も伝えてこようとはしなくなっていた。
彼女が諦めたのはそれだけではない。まるでもう生きていることすらも諦めたのか、ろくに食べ物を摂らなくなっており、食べろ、と念じるように見つめ続けることで、ようやく少しばかり咀嚼して飲み下し、すぐにもう無理だというように緩く首を振ることを繰り返してきた。おかげで、彼女の指先は骨が浮いたようになり、皮膚もどこかかさついていた。どうにか何かを食べさせなければ本当に彼女が死んでしまいそうで、気が気ではなかった。
追っ手がいるのか判断もつかず、とにかく急いで国境を目指したものの、それでも弱ったミワを連れての移動は思うようには進まず、ここまで一週間以上の時間を要した。
問題は国境を越える際の通行証がひとり分しかなかったことだ。
いざとなれば最寄りのギルドにでも行って偽造してもらうことも算段していたが、報償と一緒に渡されていた通行証を提示すると国境の兵士はやけに丁重な態度で、人数はおろか持ち物のチェックもなしに通ることが許された。これもまた魔王討伐の報償のひとつなのかもしれない。
同時に、誰よりも重要な役割を果たしたはずの彼女が、その恩恵をひとつも得られていない状況がただただ腹立たしかった。
日が陰り始めた段階で、もう一泊して、明るい時間に着くように調整することもできたが、一刻も早く移動の日々を終わらせ、彼女を休ませてやりたくて、ひと息にノルテリアまで行ってしまうことにしたのだ。
「名前は? なんていうんだい? あたしはリゼッタ。リゼッタ・シエル」
「……」
「……ミワだ。ミワは……言葉がわからない」
「……ミア? っていうのね」
「ミ、ワ、だ」
「……ミ? まあいいわ。とにかくなにかお腹にいれてあったまりなさいな。言葉なんて通じなくたって、おいしいものはおいしい、それでいいのよ」
かつて、旅の間、初めて会う人間にも快活に挨拶をしていたミワ。
けれど今は足元に視線を落とし、母とろくに目を合わせることもしない。
ここに来るまでに、怪我の治療をし、淡い若草色のワンピースを買い与えて、宿では風呂にも入った。身なりだけはどうにか整えてはいたものの、様々な客を目にしてきた母からすれば、ミワが今まともな状態ではないことはすぐにわかっただろう。
それなのに、カラリと笑った母はミワの手をとり、ダイニングのテーブルへと座らせた。
およそ一年ぶりの自宅だ。トレジャーハンター時代は何ヶ月も家に帰らないことはよくあったが、それをやめて食堂を手伝うようになってからは、これほど長いこと家を空けることはなかった。
それなのに、急に見知らぬ他人であるはずの女を連れ帰ったことについて問い質すでなく、まるで昨日もそうしていたように出迎えておいしい食事を作ろうとする。その背に、まだまだ自分は母にはかなわないと思えた。
「軽いものにしてやってくれ。半月はろくに食べていない」
「半月!? なんてことっ、それでもあんた食堂の息子かい! ああ、ああ、それじゃあ煮込みは重たいね。リゾット……いや、ポタージュだね。待ってな」
言いながらせわしくあれこれ取り出して、調理を始める。おそらくは特製の野菜ポタージュを作るつもりだろう。めったになかったが、たまに病気で寝込んだ日には、必ずそれを作ってくれた。今でも客が病み上がりだとか食欲がないなどと聞くと、あのポタージュを張り切って作り出す。
あの優しい味がするポタージュならば、少しはミワも食べてくれるかもしれない。
「ミワ、もう移動はしなくていい。これからはここでゆっくり過ごせる」
言ったところで彼女にはわからない。それでもゆっくりと語りかける。
「旅の間はたいしたものが作れなかったが、ここでならいくらでもあんたの好きそうなものを作ってやれる」
ミワはテーブルに視線を落としたまま、こちらを見るどころか身じろぐこともない。人形のように、ただじっと座っているだけだ。
「食べてみたいと言っていたランシュアのパイも、いくらでも焼いてやる」
だから元気になってくれ、と、その先の言葉は胸の内だけで呟いた。
「女の子の前で、辛気くさい顔してんじゃないわよ」
顔をしかめながらやってきた母は、ミワの前に小振りの皿を置いた。
「これが、スプーンよ、わかる? こう持ってね」
母は幼い子どもにするように手を添えてやり、スプーンの使い方を教えてやる。
言葉がわからないだけで、それはミワでも知っている。けれど、知っているはずのことも、できるはずのこともすべて、今の彼女にはそうした手助けが必要だろうとも思えた。
「ボーっと見てないで、あんたは自分でそっちを食べなさいな。冷めてるじゃないか」
顎でさされた煮込みを、自分の皿に取り分ける。
柔らかい肉はそれだけで形がほろりと崩れた。
「ああ、お水……いやランシュアのシロップでジュースでもだそうかね」
そう言いながら背を向けた母から、ミワに視線を戻すと、スプーンを皿につけて、白くのぼる湯気を見るともなしに見つめている。
ふと、彼女が食事の時にやっていたことを思い出し、手にしたナイフを置いた。
指を揃え、両手をあわせて。
いただきますって言うの。食材になった命や、作ってくれた人への感謝を表す言葉なんだよ。
かつてニコニコと笑ってそう教えてくれた姿が瞼に浮かぶ。
「"イタ、ダキ、マス"」
ふっと彼女の視線があがり、こちらをじっと見つめてくる。
「"イタ、ダキ、マス"、だろう?」
見開かれた目にみるみる水の膜がはる。わななく唇からは言葉にならない声が漏れ、まばたきと同時にほろりと涙がこぼれ落ちる。あとは堰を切ったように嗚咽を漏らして泣き出した。
「ミワ? どうした? 気に障ったのならあやまるっ、すまなかった」
「ちょ、ちょいとっ、なに泣かせてるんだいっ、この馬鹿息子がっ」
戻ってきた母が慌てたように俺の頭をはたいてくる。ベシッと結構な音が響いたが、痛みよりもミワの涙のほうが問題だ。
「ああ、ああ、こんなに泣いて。よしよし」
母は立ったままミワの頭を抱き寄せて、小さな子どもをあやすように撫で始めた。
「っ……ふぅ、っ……」
震える小さな肩を労るように、優しく背を撫でて声をかける。
「たくさん泣いて、しっかりお食べ。ね? そうしたら元気が出てくるってもんだよ」
言葉は通じていないはずだ。それなのに、声をあげて泣くミワは幾度も頷いていた。
そうして改めて気付く。
再会してからミワが泣いたのを見たのは、これが最初のことだった。
小さな子どものような泣き声が胸に刺さる。
城でも、城を出た後にもどれほどの目にあったのか。それを訴える手段が、今の彼女にはない。言葉が通じないということは、どれほど悔しく、不安だっただろう。
泣くことすらもできなかった彼女が、この日、ようやく泣くことができた。それは本当にささやかで、けれど確かな一歩だった。
◇ ◇ ◇
「「"いただきます"」」
手を合わせて声を揃える。
今朝のメニューは、塩漬け肉の薄切りと卵を焼いたものだ。向かいに座るノクスに作ってくれてありがとうと伝える。
このベーコンエッグもどきをナンのような薄いパンの上に載せて食べる、ここ最近の朝ご飯定番メニューだ。
添えられていたのはポタージュ。
昨日最後に来たお客さんが病み上がりで食欲がないと言うや、リゼさんは手早くこのポタージュを作り始めた。
「多めに作っておいたから、朝にでも食べな」
そう言って食堂から帰っていったリゼさんにも、心の中でありがとうと伝える。
懐かしい味だ。優しくて、懐かしくて、ちょっとだけ寂しい気持ちを思い出しそうになる。
「どうした?」
向かいに座るノクスの気遣わしげな声に、ううんとかぶりをふって応える。
寂しい気持ちを思い出しても、少なくとも今はもうひとりではない。
「今日も、お客さん、いっぱいがいいね」
「……ほどほどでいい」
昨日の忙しさを思い出したようにげんなりとした表情のノクスに、思わず声をあげて笑ってしまった。




